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2017年12月25日 (月)

私の本棚 長野正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-2/3

卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16

      私の見立て★☆☆☆☆   2017/12/25

*河水河口迷路
 遡行可能な支流と言っても、単なる支流に違いないから、よそものには判別しがたいものに違いない。まして、氾濫の度に水路が変わり、地元のものでなければ、遡行可能な支流の選択は困難を極めたはずである。
 かくして、中原人の「海」は、何より河水河口部の泥水であり、還らずの魔界であったようなのである。

*海路考古学事始め
 復習すると、古代中国語で「海路」なる熟語があり得ないのは、「路」は、元々、人里を離れた魑魅魍魎の住み処を通り抜けねばならないので、様々の手法で「除霊」したような特別なものであり、海は、陸上の「路」と異なり、「除霊」などできないので「路」とできないのである。
 言うまでもないが、以上は、中原の内陸部に閉じ込められていた古代中国人の世界観の中の海洋観であり、海をわが家の外庭程度に考えていた東夷の海洋種族の海洋観とは異なるのである。

*福州海洋観
 例えば今日の広州、福州辺り、南シナ海岸地域に住んでいた人々の海洋観は、全然違っていたものと思う。
 福州附近は、峨々たる山地が背後に迫っているので、その分、目前の海に親しんでいたはずである。
 古代、こうした人々は、中原の人から、南蛮と思われていたから、意見を聞いてもらえなかったのである。偶然だが、福州は当時東冶県と言われていたようである。

*東莱海洋観
 また、もっと身近な山東東莱は、対岸に朝鮮半島が控えているので、住民の海洋観は倭国人と近いものと思う。
 ここは、戦国七雄の中でも大勢力であった斉の領域なのだが、結局、西方内陸地の奥深くにいた秦が天下を取って、斉は滅ぼされてしまった。
 一時、遼東の公孫氏が渡海侵攻したようである。

*中原井蛙の海洋観
 秦の後、漢に政権が移っても、依然、中原、それも、長安付近の世界観が支配していた。そとて、漢都が落陽に移っても、依然、中原と言う名の巨大な井戸の底、大海を知らない井蛙の世界であった。

未完

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