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2017年12月24日 (日)

新・私の本棚 番外 NHK BS 「盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリス」 祢軍墓誌挿話批判 改訂・総括

        私の見立て   ★☆☆☆☆            2017/12/24 修正 2018/03/05
         この部分以外 ★★★☆☆

*NHK番組「盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリス」について
 本番組は、東都長安周辺の皇妃墓陵の盗掘、石棺掠奪の摘発と原状復原のドキュメンタリーであるが、ここに批判しているのは、番組の挿入部分で番組紹介には出てこない。

 そこでは、これまで、「祢軍墓誌」として知られていた古史料の現物が紹介されたのである。

 当記事は、既公開記事で、番組内容に関する重大な取り違え(誤解)があったので、その部分を取り下げ、要点に絞ったものである。 

*本番組の価値
 既公開記事では、当番組の意義を見落としていたので、改めて書き足すと、それまで、「祢軍墓誌」は、出所の不確かなものであり、碑文の拓本の複製のようなもので知られていたのが、石碑の実物をテレビ画面で、碑の実在が確認できたのは、まことに画期的であった。

 ただし、それまで「祢軍墓誌」に対して提示されていた諸論考が見過ごされていたのは、残念であった。

*祢軍墓誌挿話の不思議
 本題の長安盗掘談と特に関係無く、唐突に、博物館秘蔵品の紹介として、祢軍墓碑の実物が出て来て、唐突に、国号「日本」の初出例と解説されているが、場違いの場所で奇説(褒めているのではない。為念)を持ち出す制作意図に、若干、いや、大いに疑問を感じる。

 因みに、この墓誌史料は、とうに古代史関係者の知るところとなっていて、「日本」国号の初出例と見る見解が出回って、種々の批判を浴びているから、この点に関して言えば、二番煎じ以下の出がらしである。

 それにしても、当挿話は、番組紹介に出てこず、タイトルと無関係なので、間違って出くわす以外見ることはないのである。唐代貴族墓跡の盗掘という事で、偶々、録画していたから、後日見ることができたが、そうでなければ知らないままに過ごしていたものである。

*墓誌概要
 この文書は、本藩(百済)に代々勤めた高官が、官軍によって本藩が平定された際に、官軍に降伏、臣従し、官員として重用されたことを記している。つまり、墓誌は、唐朝官員としての視点で書かれているものである。内容については、何れかの場で紹介されているのだろうが、咄嗟に見つからなかったので、ご勘弁いただきたい。

*構文解析への疑問
 それにしても、番組の言うように、本墓誌の中に現れる「于時日夲餘噍」は、本当に「于時」「日夲」「餘噍」なのだろうか。
 もちろん、刻字が崩れて無理読みしているという話ではないのは、見たとおりである。

 当墓誌に関して、ネット上で先行する諸兄の意見を検索したが、皆さんが揃って「于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅」の字面が「日夲」と読めるのを良いことに、そこから意見を開始されていると見た。その意見に見過ごしがあれば申し訳ない。

 そのように、すでに定説化した感のある「日本餘噍」と解釈するには、墓誌に、官軍が「日本」なる存在をも平らげたことが記されていなければならない。あるいは、墓誌策定当時、「日本」が何者であるか、唐朝首脳陣に既知であった証拠が必要である。

 先ずは、官軍によって本藩が平らげられた際に、官軍が「日本」なる半島外の援兵を平らげたとする形跡はない。つまり、以下では省略するが、墓誌内にそのような記述がなく、内外諸史料にもない。

*「于時日」「夲餘噍」の由来
 文書テキストの解析は、先ずは、実物、現物を論議の基本とする。このたび、石碑自体が、広く公開されたので、拓本の複製は、ほぼ正確であったと知れたのである。

 字句解読の糸口として、この12文字は、[3+3]+[3+3]の連鎖と見て取り組むのが常道であり、第一歩と思える。碑文であるから、文字数の揃い具合が、ほぼ「最優先」なので、文書資料の用字、用語と異なることが考えられるのである。

 「于時日」とは、通常、「于時」と書くのに決まっているところを、三文字の体裁にするために「于時日」としたものと考える。

 「夲餘噍」とは、碑文の他の部分で、百済のことを「本藩」と書いているのと軌を一にするのであって、百済の残党というものであるが、すでに百済は反乱勢力として打倒され亡国していたので、国名を出せなかったのである。

 取りあえずは、そのような三文字句の連鎖ではないと、確実に否定する論拠が、素人には思い当たらないので、ここに公開して、諸兄のもの知らずとの非難は想定内とする。ただし、その際、この読み方を否定する根拠を提示するのをお忘れないようにしていただきたい。

 私見では、『書かれているのは「于時日」「夲餘噍」でない』という論証どころか、そのような当然の選択肢には、言及もされていないように見えるのが、まことに不審なのである。

 資料写真を見るなり、いきなり、これは「日夲」に決まっていると、ご自分にとって心地よい結論に、千尋の谷を越えて飛びついたのでなければ幸いである。(「夲」は、「本」の異体字であるが、現代中国で、むしろ常用されている感じである

*残党の正体?
 中国側視点では、白村江の戦いは、すでに亡国していた者達が反抗したものでしかなく、戦いの相手は「敵」(対等の敵対国、具体的には「匈奴」、ひょっとして「突厥」)ではないのから、墓誌に国名が書かれないはずである。

 仮に、白村江で撃破した反乱勢力の一部として混じっていた海南東夷(倭国)軍を語るのであれば、その本拠が半島にないことを知っていたから、残党が海渡逃亡したとは言わないはずである。

*国号の起こり
 また、白村江海戦の敗戦の結果、前非を悔いて「日本」に改名したのであれば、海戦時点はまだ日本ではないのである。筋としてそれくらいの書き分けはあるはずである。

 それとも、百済亡国後、半島派兵前に改名したのだろうか。確かに「危機意識」が無かったと断定できないが、それ故に事前改名とは、煮え切らない態度ではないか。

 また、そのような経緯で改名したのでは、改悛の情を示したと受け取られないのではないか。

 敗戦の事後処理であれば、国王退位は当然として、皇太子や重臣は重罪を免れないはずである。また、唐の占領軍の受け入れ、唐官僚の高官受け入れ、人質の提出、そして、独自元号の廃止、女帝の禁止など唐制への従属が要求されたはずである。国号変更などで済むものではない。

 物々しい現代語を言い立てても、元々の議論に筋が通っていなければ、何の突っ張りにもならないのではないか。

*国号考察珍説二題
 辻褄の合いそうなのは、「派兵したのは「日本」を国号とする半島在住集団だった」なる珍説である。半島在住集団なら海渡逃亡することが考えられる。

 次は、碑文に「日本」はなく、「日」「本」が偶然連なっていただけであるという珍説である。百済残党は、海渡逃亡することが考えられる。こちらは、愚考の産物である。

 どちらの珍説も、一考に値すると愚考するものである。

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