« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

2017年12月

2017年12月31日 (日)

今日の躓き石 NHK BSの迷言 同級生

                      2017/12/31
 今回の題材は、番組告知に現れたタイトルである。

 NHKは「同級生」と言う低俗語を廃語にしたはずであるが、忘れた頃にぽんと飛び出す。

 当の二選手が、早稲田大学時代野球部の同窓・同期生であっても、大学には何年何組というクラスはないので、同級生というのはバカな言い方をしたものと思う。紛らわしいだけ罪が重い。
 これでは、NHKが、「同級生」と言う低俗語を応援していると見られてしまうのである。
 それだけで、受信料の一部返還を謳い上げたいくらいのダメな番組になってしまった。

 当の選手二人に大変な気の毒である。

以上

2017年12月28日 (木)

今日の躓き石 のぞみ亀裂-なかった「復誦」?

                            2017/12/28
 今回の題材は、新幹線て発生した「ニアミス」、台車亀裂が早期対応できなかった事件の経緯である。毎日新聞大阪第13版第一面記事である。

 信じられないというか、弁護しがたいのは、重大事態で相互に連絡した際、「床下点検」すべきという示唆して相手が聞いていないのに気付かなかったという不祥事である。このようなときは、連絡に対して、都度復誦確認が必須と思う。世間話でも、相槌がなければ、聞いてないのかと叱責するものである。

 イロハのイの字程度の初歩的事項と思うので、あえてこのような閑散ブログの場で指摘させていただく。JRはISOのシステムを採り入れて業務をマニュアル化していないのだろうか。

 JR西日本が、安全確保と言う最優先事項での手落ちについて、責任ある報告をせずに言い逃れずくめの果てに「価値観」、「共有」などと、独りよがりで意味の通らない子供だましの言葉遊びで逃げているのに、適確な突っ込みもなく、淡々と報道する全国紙の報道姿勢にも大いに失望するのである。
 
いや、全国紙としては、25面で詳報していると言いたいのだろうが、そこでも、明確な問題点指摘はない。いや、それより、安全確保手順の欠陥という根本的な問題点は、一面記事で指摘するべきではないか。鸚鵡返しは、無能な報道者の逃げ口上である。

 仕方ない成り行きと言う無責任な感じで、適確な問題点指摘もなければ、有効な是正策もないので、同様の手落ちが再発しそうで怖いのである。

 それとも、JR西日本の会社方針には、安全確保より定時運行、それによる収益確保が優先すると書かれているのであろうか。

以上

2017年12月26日 (火)

私の本棚 史話 日本の古代 二 その3 気候変動からみた「邪馬臺国」

 謎に包まれた邪馬台国 直木孝次郎編
 気候変動からみた「邪馬臺国」 山本武夫

  私の見立て★★★☆☆ 妥当堅実な古代史解釈         2017/12/26

*卓見と時代錯誤
 (三国史記新羅本紀)一九三年の条には、「倭人大飢来求レ食千余人」とある。この倭人は、おそらく朝鮮半島にコロニーをつくって在住していた倭種の人々を言うのであろう。倭国から飢餓の人々が千人程度も対馬海峡を渡って、確実な援助の当てもない隣国を訪ねるということは到底考えられないことだからである。[以下略]


 倭人が陸続きの半島南部から来たという推定は客観的に妥当なものてある。ただし、古代史で場違いな「コロニー」は時代錯誤の極みで、無用である。単に居住していたで良いのではないのか。古代史について素養がないのを暴露していて、痛々しいのである。

 以下、ついていくのが辛くなったので締めとする。

*卓見と時代錯誤
 「三国志」の編者である陳寿は当代一流の学者である。その一流の学者がこれらの相当豊富な資料に基いて編んだのが「魏志東夷伝の倭人の条」なのである。例えば「邪馬壹国」と「邪馬臺国」の如く、伝写の間に生じた謬りならいざ知らず、内容上のことを疑うのは余程の根拠があってのことでなけれぱならない。


 史料批判、つまり、史料の信頼性評価に始まる閲読において、肝心な大筋を見通しているのは尊敬に値するのだが、そのような見識の持ち主が、「「邪馬壹国」と「邪馬臺国」の如く、伝写の間に生じた謬りならいざ知らず」と安直な受け売りをするのは、もったいない話である。

 深読み過多から来る曲解は、その人の持ち味だが、安直な態度は、感心しない。

 以上のように、時代事情の中で、気象に関する事項は、データを元に堅実に考察されているのだが、文献引用と解釈では、迷走、勘違いの連発で、ずいぶん損していると思うのである。それにしても、どこかで文筆の基礎について良い助言者を得ていれば、ここまで恥の上塗りはしなかったと思うのである。

 ここだけではないが、善意の読者なのに、低次元の書き損ないを読まされてはたまらないのである。

 史学界では寄稿論文の閲読校正はしないのだろうか。
                                                           完

私の本棚 史話 日本の古代 二 その2 気候変動からみた「邪馬臺国」

 謎に包まれた邪馬台国 直木孝次郎編
 気候変動からみた「邪馬臺国」 山本武夫

       私の見立て★★★☆☆           2017/12/26

⑶新羅から邪馬臺を見る
 漸く、それらしい記事が始まるのだが、すさまじい清濁混合である。

*時代錯誤
 女王卑弥呼の活躍した時代はおよそ西暦一五〇年頃から二五〇年頃に当る。中国で言えば、魏・蜀・呉三国鼎立時代である。[中略]

 軽率な勘違いである。ちょっと調べればわかるが、卑弥呼の一世紀にわる活躍などあり得ない。精々210年から40年間と思う。三国鼎立は220年から60年間である。好い加減な聞きかじりを見ると延々と無改段の長口説を読む気がしない。

*時代錯誤 2
 後漢の末期、中国全土に「黄巾の乱」(一八四〜一九二年)という大規模な農民の叛乱が起った。


 広大無辺の「中国全土」に大規模な反乱を起こすなど不可能である。「黄巾の乱」を農民反乱と決めつける根拠もわからない。

*時代錯誤+地理錯誤
 日本も、漢の霊帝光和年中(一七八〜一八三年。『梁書』)、「倭国大乱相攻伐、歴年無主」(「後漢」) の内乱状態であった。[中略]曹丕(文帝)が「淮水」で海軍の閲兵を行い、呉に対して威武を示さんとした。ところが河水が忽然と凍って、その実行を延期せざるを得なかった。[中略]


 同時代史書倭人伝に書かれていない迷文句を、後世史書の梁書と後漢(書)で造作するお粗末である。
 また、川で「海軍の閲兵」はしないであろう。川戦用の水軍の間違いだろう。河水(黄河)の凍結と淮水の水軍検閲とがどう関連するのか。まことに不可解である。素人のうろ覚えは、ご勘弁いただきたい。

*状況錯誤
 おなじ二二五年、諸葛孔明は瀘水を渡って雲南省を征した。このことは有名な「出師表」 にも出て来る。北方の魏の討滅を国是とした蜀が何故南方の蛮夷を征伐したかというと、討魏の準備としてまず温暖な雲南地方に食糧基地を確保する必要があったためである。このことは筆者の想像ではなく「蜀志」に明記してある。人心を懐柔するために「七縦七擒」の策戦もとられたのである。


 蜀志のどの記事か知らないが、蜀は、古来天府、豊饒の地であって、北伐については、三年程度出兵せず食糧備蓄していたが、温暖どころか瘴癘の南方の僅かな食糧の徴発など無意味である。宰相諸葛亮は、雲南を征伐(反乱鎮圧)せず承服させたのであり、以後も自治に委ね、無理な食糧徴発などしなかったと聞いている。史料を読んだという夢でも見ていたのだろうか。
                                                未完

私の本棚 史話 日本の古代 二 その1 気候変動からみた「邪馬臺国」

 謎に包まれた邪馬台国 直木孝次郎編

              私の見立て★★★☆☆       2017/12/26

 本書は、諸氏の論文集であり、冒頭に編者の巻頭言が付されている。
 近来見かける無秩序・無編集の闇鍋ではないが、かといって、編者が論文内容に干渉したものでもない。あくまで、当分野で参照に値するとみたレベルの高い論文集となっている。

 巻頭言は、固定した「定説」にとらわれたものではなく、考古学分野を主に紹介を進め、古代史で論理の要で選択肢となるべき異説も取り上げられていて、東方が編者に深い敬意を表する由縁である。

卑弥呼「以て死す」   岡本健一

 初出 邪馬台国論争 講談社1995年

 私の見立て ☆☆☆☆☆☆ 迷走の極み

 本書は、既に書評しているが、ここに抜粋された論考は、著者の「私見」に沿って文献解釈が曲げられていて、本書が暗黙の内に標榜している諸論概観の趣旨を曲げている。

 と言うことで、書評として蒸し返しはしない。

気候変動からみた「邪馬臺国」 山本武夫

 初出 「史話 日本の歴史 第二巻 謎の女王卑弥呼」 作品社 1991.4 
 私の見立て ★★★☆☆ 本論は堅実、余談は暴走

 本論考に関して感じるのは、著者の専攻である自然科学気候学については、豊富なデータを元にした健全、かつ賢明な思考が感じ取れるのだが、論考に利用している専攻外の事項で、浅慮の曲解や不用意な受け売りが目立つのである。

 もっと良い友達を持っていれば良かったのにと思わざるを得ない。もったいない話である。

 「⑴義経とナポレオンと」のように明らかに本筋を外し、勝手な妄想を吐露している議論はともかく「⑵小氷期と農耕社会」も語られているのは、18,19世紀の気候と社会変動の関連であって、全20ページの論考の前半10ページが、三世紀古代史と直接関係のない議論で埋まっているのは何とも困ったものである。引用元も、同様に3世紀の史話集であるから、著者の感覚が、的を外れているのだろう。何とも、もったいない話である。

 と言って10ページの硬い枕の後、漸く開幕する、⑶で本題に迫った後も、時に敬服し、時に呆れる大波の乱調なのである。

                     未完

2017年12月24日 (日)

今日の躓き石 家庭の邪魔者「ダンボール」とは情けない

                         2,017/12/24
 今回の題材は、とあるニュースサイトの

 「邪魔者を利用して一攫千金? ダンボールで財布を作り販売する男性にネットでは賛否

 なる報道で、家庭の邪魔者「ダンボール」とけなされている段ボールである。同サイトは、単にネット住民の声を取り次いでいるのだが、ちょっと配慮不足である。多分、発言者の大半は、段ボールを捨てているのだろうが、知らない人の方がネット上で声が大きいのは、困ったものである。

 当ブログ筆者は、製紙工場の集まった愛媛県東部の旧伊予三島市、現四国中央市で生まれ育ったから、こんなぼうげんを吐く人は、「ゴミ」(の値打ちを知らない人)だと思うのである。

 凡そ、紙製品の中で、段ボールはリサイクルしやすくて、段ポール工場は、大鍋で段ボールをグズグズに煮て新品同然のパルプにリサイクルして、新たに段ボールを作っているのである。
 再生しやすいように、段ボールの印刷は、鍋で煮たら、直ぐ剥がれるものにしている。

 と言うことで、新聞紙と並んで、廃品回収の優等生である。つまり、ゴミでなく結構良い値段(廃品として)で売れるので、ホームレスの生活資金源になるほどである。

 当方の町内会は、月一回の廃品回収で段ボールを回収して、他の廃品と併せて売却し町内会活動の副収入にして役に立てている。ひどい悪口を言う前に、一度、よく調べていただきたいものである。

 ついでながら、段ボールに印刷されているロゴは、著作権の対象でなく、商標権の対象である。
 各商標の権利者は、これまでも、自社商標を張った段ボール箱が、二次利用というか、本来の用途以外に細々と転用されているのにわざわざ文句を言っていないから、今回も何も言わないであろう。
 もちろん、「**」商標付きと銘打って、商標を売り物にして大金を儲けたら話は別かも知れないが、普通は、自社商標入りの段ボールの二次以降の自然な、私的な流用には文句は言わないはずである。

以上

新・私の本棚 番外 NHK BS 「盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリス」 祢軍墓誌挿話批判 改訂・総括

        私の見立て   ★☆☆☆☆            2017/12/24 修正 2018/03/05
         この部分以外 ★★★☆☆

*NHK番組「盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリス」について
 本番組は、東都長安周辺の皇妃墓陵の盗掘、石棺掠奪の摘発と原状復原のドキュメンタリーであるが、ここに批判しているのは、番組の挿入部分で番組紹介には出てこない。

 そこでは、これまで、「祢軍墓誌」として知られていた古史料の現物が紹介されたのである。

 当記事は、既公開記事で、番組内容に関する重大な取り違え(誤解)があったので、その部分を取り下げ、要点に絞ったものである。 

*本番組の価値
 既公開記事では、当番組の意義を見落としていたので、改めて書き足すと、それまで、「祢軍墓誌」は、出所の不確かなものであり、碑文の拓本の複製のようなもので知られていたのが、石碑の実物をテレビ画面で、碑の実在が確認できたのは、まことに画期的であった。
 ただし、それまで「祢軍墓誌」に対して提示されていた諸論考が見過ごされていたのは、残念であった。

*祢軍墓誌挿話の不思議
 当番組では、大半の時間が費やされている本題の長安盗掘談と特に関係は無く、全く唐突に、博物館秘蔵品の紹介として、祢軍墓碑の実物が出て来て、唐突に、国号「日本」の初出例と解説されているが、場違いの場所で奇説(褒めているのではない。為念)を持ち出す制作意図に、若干、いや、大いに疑問を感じる。
 因みに、この墓誌史料は、とうに古代史関係者の知るところとなっていて、「日本」国号の初出例と見る見解が出回って、種々の批判を浴びているから、この点に関して言えば、二番煎じ以下の出がらしである。

 それにしても、当挿話は、番組紹介に出てこず、タイトルと無関係なので、間違って出くわす以外見ることはないのである。唐代貴族墓跡の盗掘という事で、偶々、録画していたから、後日見ることができたが、そうでなければ知らないままに過ごしていたものである。

*墓誌概要
 この文書は、本藩(百済)に代々勤めた高官が、官軍によって本藩が平定された際に、官軍に降伏、臣従し、官員として重用されたことを記している。つまり、墓誌は、唐朝官員としての視点で書かれているものである。内容については、何れかの場で紹介されているのだろうが、咄嗟に見つからなかったので、ご勘弁いただきたい。

*構文解析への疑問
 それにしても、番組の言うように、本墓誌の中に現れる「于時日夲餘噍」は、本当に「于時」「日夲」「餘噍」なのだろうか。
 もちろん、刻字が崩れて無理読みしているという話ではないのは、見たとおりである。

 当墓誌に関して、ネット上で先行する諸兄の意見を検索したが、皆さんが揃って「于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅」の字面が「日夲」と読めるのを良いことに、そこから意見を開始されていると見た。その意見に見過ごしがあれば申し訳ない。
 そのように、すでに定説化した感のある「日本餘噍」と解釈するには、墓誌に、官軍が「日本」なる存在をも平らげたことが記されていなければならない。あるいは、墓誌策定当時、「日本」が何者であるか、唐朝首脳陣に既知であった証拠が必要である。

 先ずは、官軍によって本藩が平らげられた際に、官軍が「日本」なる半島外の援兵を平らげたとする形跡はない。つまり、以下では省略するが、墓誌内にそのような記述がなく、内外諸史料にもない。

*「于時日」「夲餘噍」の由来
 文書テキストの解析は、先ずは、実物、現物を論議の基本とする。このたび、石碑自体が、広く公開されたので、拓本の複製は、ほぼ正確であったと知れたのである。
 字句解読の糸口として、この12文字は、[3+3]+[3+3]の連鎖と見て取り組むのが常道であり、第一歩と思える。碑文であるから、文字数の揃い具合が、ほぼ「最優先」なので、文書資料の用字、用語と異なることが考えられるのである。
 「于時日」とは、通常、「于時」と書くのに決まっているところを、三文字の体裁にするために「于時日」としたものと考える。
 「夲餘噍」とは、碑文の他の部分で、百済のことを「本藩」と書いているのと軌を一にするのであって、百済の残党というものであるが、すでに百済は反乱勢力として打倒され亡国していたので、国名を出せなかったのである。

 取りあえずは、そのような三文字句の連鎖ではないと、確実に否定する論拠が、素人には思い当たらないので、ここに公開して、諸兄のもの知らずとの非難は想定内とする。ただし、その際、この読み方を否定する根拠を提示するのをお忘れないようにしていただきたい。
 私見では、『書かれているのは「于時日」「夲餘噍」でない』という論証どころか、そのような当然の選択肢には、言及もされていないように見えるのが、まことに不審なのである。

 資料写真を見るなり、いきなり、これは「日夲」に決まっていると、ご自分にとって心地よい結論に、千尋の谷を越えて飛びついたのでなければ幸いである。(「夲」は、「本」の異体字であるが、現代に至るまで、中国ではむしろ常用されている感じである

*残党の正体?
 中国側視点では、白村江の戦いは、すでに亡国していた者達が反抗したものでしかなく、戦いの相手は「敵」(対等の敵対国、具体的には「匈奴」、ひょっとして「突厥」)ではないのから、墓誌に国名が書かれないはずである。

 仮に、白村江で撃破した反乱勢力の一部として混じっていた海南東夷(倭国)軍を語るのであれば、その本拠が半島にないことを知っていたから、残党が海渡逃亡したとは言わないはずである。

*国号の起こり
 また、白村江海戦の敗戦の結果、前非を悔いて「日本」に改名したのであれば、海戦時点はまだ日本ではないのである。筋としてそれくらいの書き分けはあるはずである。

 それとも、百済亡国後、半島派兵前に改名したのだろうか。確かに「危機意識」が無かったと断定できないが、それ故に事前改名とは、煮え切らない態度ではないか。

 また、そのような経緯で改名したのでは、改悛の情を示したと受け取られないのではないか。

 敗戦の事後処理であれば、国王退位は当然として、皇太子や重臣は重罪を免れないはずである。また、唐の占領軍の受け入れ、唐官僚の高官受け入れ、人質の提出、そして、独自元号の廃止、女帝の禁止など唐制への従属が要求されたはずである。国号変更などで済むものではない。

 物々しい現代語を言い立てても、元々の議論に筋が通っていなければ、何の突っ張りにもならないのではないか。

*国号考察珍説二題
 辻褄の合いそうなのは、「派兵したのは「日本」を国号とする半島在住集団だった」なる珍説である。半島在住集団なら海渡逃亡することが考えられる。

 次は、碑文に「日本」はなく、「日」「本」が偶然連なっていただけであるという珍説である。百済残党は、海渡逃亡することが考えられる。こちらは、愚考の産物である。

 どちらの珍説も、一考に値すると愚考するものである。

2017年12月21日 (木)

「今どきの歴史」 第四回を巡って 上野三碑の紹介に拍手

          私の見立て★★★★☆             2017/12/21

 世界の記憶「上野三碑」(群馬県高崎市) 東アジアの文化交流

 今回の題材、毎日新聞夕刊文化面の月一(とは書いていないが)読み物「今どきの歴史」第四回(とは書いていないが、参照に不便なので、勝手に付けた)は、上野三碑(こうずけさんぴ)に関する講演会の紹介であり、各講演者は穏当な発言であり、妥当な紹介報道になっている。

 と言うことで。拍手、拍手で終わりそうだが、それではこの記事の価値がないので、チクリと指摘する。

 講演者のなかで、前沢氏の意見として、多胡郡に置かれた多胡碑が、過去から続いていた渡来人と現地人の融和の証しと見ているが、それなら、なぜ、多胡郡が、平城京を遠く離れた東国に置かれたのか、よくわからない。
 多民族、と言うか、新羅との二民族交流、と言うか、新羅文化の受容が望まれたのであれば、他ならぬ半島統一国家の新羅から渡来した指導者は、堂々と高官として招くものではないだろうか。(史書に、招聘記録はないのだろうか)
 これでは、まるで亡命者を奥地にかくまっているように見える。

 いや、些細な突っ込みである。折角、見事な報道をして頂いてるのに、講演者に突っ込みを入れろというのは、無理難題とは承知している。折角町おこししているのに、細かい点でヤジを入れるのは、無風流だろう。

以上

 

  

 

2017年12月18日 (月)

私の本棚 季刊「邪馬台国」 131号 私の古代史論 6/6

 塩田泰弘 魏志が辿った邪馬台国への径と国々

         私の見立て★★★★☆      2017/12/18

*通じない指示
 倭国内には、中国の刺史のごとく、言葉が通じ、文字があり、読み書き計算できる巡回指導者を派遣し、情報収集、報告と経営指導に当てたが、文書行政ではないので、伝令で数字を要求しても、数字の概念の欠けている相手には、伝わらないのである。

*提出資料の不足
 実際、魏使に求められたのは、帯方郡から女王国への道里

と所要日数、そして、戸口であるが、戸籍未整備だから、戸数は不正確、口数は欠けている。
 本来、道里

上にない諸国への里数、所要日数は要らないはずである。

*部分総和と総計の不一致

 おおざっぱ極まりない数値の足し算では、桁の少ない、小さい数は、少々足しこんでも総計に現れない。人によっては、部分総和と総計の不一致を重欠点視するから、時に、些細な部分数値を消して照合できなくするのである。(伊都国・女王国道里など)

*榎一雄氏所説の復興に期待
 と言うことで、懸案とした榎一雄氏の放射道里説と魏使王都不達説であるが、本論著者ほどの見識の人が、紹介・短評を漏らすのはもったいない。

*また一つの異説

 女王国戸数七万餘戸も、著者ほどの見識の人にしては、軽率な予断に過ぎると思うが、ここでは論じない。
 それぞれ些細なようだが、それぞれの選択肢を採用すれば、ここに例示されている諸氏の議論が根拠を失うので、公正の見地から言及を避けるべきではないと思うのである。(古田武彦氏の韓国内陸行提言は言及されている)

*最後に

 とかく、感情的な保身・排他の強弁が横行する世界で、本論著者は、冷静な視点を保っているようなので、今一息の考え直しを期待するものである。

私の本棚 季刊「邪馬台国」 131号 私の古代史論 5/6

 塩田泰弘 魏志が辿った邪馬台国への径と国々

         私の見立て★★★★☆      2017/12/18

*地方里制宣言
 史官は、帯方・狗邪間が七千餘里と基準が明示されているので、定義として十分と判断したのである。
 大局として、魏、呉、蜀三志は、それぞれの権力の度量衡と暦制で書かれ、統一されてないのである。

*倭人伝里制
 魏志における東夷伝・倭人伝の位置付けを見ると、公孫氏政権の支配下で、中央政権である後漢朝や魏朝と異なった度量衡と暦制を採用したかも知れない帯方郡が記述した東夷伝は、わざわざ序文を付して魏志本文と区分し、一種、独立した著作として編纂し、過度の統一はしなかったのである。
 まさか、当ブログの読者諸氏は、陳寿が、現地調査しないで誤記を見逃してけしからんとか言わないと思うが、世間には陳寿が海上移動に無知だとか、勝手に里数を換算したと罵倒する人もいるようである。
 いやはや、どんな人であろうと思い至らないことはあり、それを冷静に指摘する人がいなければ、その人は進歩の機会を奪われたことになるのである。

*魏使の本分
 ちなみに、当方の見る限り、「魏使」の実態は、帯方郡役人だったことは念頭に置いて頂きたい。初見のように書いても、訪問済みの可能性がある。
 三度の渡海を一律一千餘里と書いたのも、書記役の実務として記録をすっきりさせたものであり、上陸後行程も、「魏使」に自明の点は簡略化されて、よそ目に判じがたくなっている可能性がある。

*書かれざる数字
 その中には、伊都国すら把握できていない諸小国への道里があり、これは、あえて、里数を要求しなかったとも考えられるのである。
 案ずるに、数字の報告を強要しても、その意図のわからないままに、出任せの数字が来る可能性が高いと見たかも知れない。

未完

私の本棚 季刊「邪馬台国」 131号 私の古代史論 4/6

 塩田泰弘 魏志が辿った邪馬台国への径と国々

         私の見立て★★★★☆      2017/12/18

*無視と省略
 いや、倭人伝里数は、百里代の数字は無視して、千里代の一桁計算で進め、桁上がりしたら一萬里あり程度で良いかもしれないのである。当時、算用数字が無く、漢数字による多桁計算も無く、桁ごとに算木で計算したのである。(当時算盤はなかったと思う)

*算木計算の極致
 倭人伝では、概数はほぼ一桁であり、筆算もできそうであるが、官命で郡戸数・口数を集計するとなると、郡内隈無く一戸毎に戸籍調査し、以下、百万戸代まで、全七桁の計算を行う必要がある。
 常に一の位の正確さが求められる会計計算も同様である。太古に億兆京を定義し、計算した文明の偉大さである。読み書きより算木優先であった。

*第二の欠点
 本論文の論法は、倭人伝の概数の、倭人伝に相応しいおおざっぱさを無視しているので、却って、不正確になっているのである。
 本論文の失敗と思われる第二の点である。

*史官の努め
 この部分の最後で、本論筆者は、陳寿が、韓伝と倭人伝でほぼ同じ長さの地方里を使用して、魏の官里を使用していないと、不満気味に指摘しているが、史官の務めについて誤解があるようである。

 陳寿は、編纂者として極力諸史料を統合するが、その統合に度量衡統一は含まれていないのである。

 原史料に末羅國から伊都国まで五百里と書かれた記事と六百里と書かれた記事があれば、不統一を修正できるが、このような地の果ての土地二点間の道のりが、実際にどれだけなのか、史官には知りようがなく校閲できないのである。

 編纂にあたって史官が、行程記事を校閲するとすれば、帯方郡が、管内の諸地点間の道のりを一定基準で書いているということの確認である。
 それ以外は、検証のすべがないし、史官に、そのような現場検証を求めるべきではない。

未完

私の本棚 季刊「邪馬台国」 131号 私の古代史論 3/6

 塩田泰弘 魏志が辿った邪馬台国への径と国々

         私の見立て★★★★☆      2017/12/18

*韓国内里数の根拠
 遡って、帯方郡は、韓国内主要道路を管理し、後漢朝、魏朝の指示に従い、例えば、百里ごとに里標、一里塚のようなものを設けて、順次、狗邪韓国のような地の果てまで計測したと思うのである。
 よって、狗邪韓国まで十里単位程度の正確さで里数があったかも知れない。ただし、陸上である。

*西岸沖廻遊の怪
 図1に示された半島西岸沖の廻遊経路に七千餘里と書いているのは、何とも、困った迷解釈である。
 海上を船舶で移動する「浮海」の際、移動「経路」は、不定、かつ、不明であり、里数の測りようがないから、責任を持てる里数は書けないのである。所要日数も同断である。
 実務上、船で行くことがあったとしても、表示里数と所要日数は、あくまで内陸通行のものである。
 つまり、図1の七千餘里表記は、経路の図示も含めて、ナンセンスである。
 公式経路、官道であれば、公式文書送達のために、寄港地、宿名、所要日数が定まっているはずである。

*概数の調子合わせ
 韓国内の里数をあえて七千餘里と概数に止めているのは、以後の里数と調子を合わせるものである。例えば、六千八百五十四里と里まで書かれると、以後の計算の邪魔になるからである。
 対して、狗邪・末羅間の三度渡海は、茫洋たる「浮海」と異なり。対岸が見え、日数も予想できるから、川の渡し舟と同じ感覚で里数を書いたはずである。

*算木計算の威力
 先に「以後の計算」と書いた意味は、当時行われていた算木による桁別計算である。
 例えば、上が千里代止まりであれば、千里代と百里代の二桁だけ、1から9の整数の足し算計算、十里代以下は無視、と簡単になる。足し算で桁上がりが出た時は、上の桁に足していくという、確実な計算ができるのである。

未完

 

 

私の本棚 季刊「邪馬台国」 131号 私の古代史論 2/6

 塩田泰弘 魏志が辿った邪馬台国への径と国々

         私の見立て★★★★☆      2017/12/18 2019/01/29

*適切なおおざっぱさの認定
 論文著者は、冒頭で、倭人伝道里が、一里八十九㍍という精密な数値を提唱しているが、倭人伝記事は、有効数字が一個あるかどうかと言うおおざっぱな里数、戸数の概数ばかりであるから、そのようなおおざっぱな数字を㍍単位に換算して二桁精度の数字が確認できるとは思えない。
 對海国の方四百余里(約四百里。以下同じ)に相当する㍍系表示は、同様のおおざっぱさで言うと四十㌖角であり、一大国の方三百余里は、三十㌖角となる。(約を省略)

*全部実測ではなかった
 現代になって当時なかった実寸測定して㌖単位で論じても無意味である。現代人の目で、境界がはっきりしていても、当時測量しなかったので、判断に利用できないと見るべきである。
 韓伝記事をもとに韓地は方四千余里としても、当時、海岸から海岸などの四角形の辺を測量したわけではない。先の二件より高い精度が期待できたとしても、実測値でないので、三百五十㌖角程度と三百㌖角程度のどちらが近いのか、知るすべはないのである。
 一覧表右端の計算値に差異があるのは、大抵の場合、表示された里数が、どの程度の確かさを持っているかの見極めを怠っているからである。
 つまり、帯方郡の測量技術に拘わらず、測量したものと目測に頼ったものと、そして、良い意味で好い加減の概算をしたものと、各種各様の数字が混在しているのを、機械的に比較、平均したからである。
 どんなに高度な光学機器があろうとも、測定しなければ、その機能を発揮できないのである。

*倭国内は実測不在
 結論を言ってしまうと、更に進行した九州島内では、韓国内より測量が遅れていて、末羅国と伊都国間のように、頻繁に利用した比較的短い経路は測量されたかも知れないが、それ以外は、実務に関係ないから、やまかんでしかないのである。

未完

私の本棚 季刊「邪馬台国」 131号 私の古代史論 1/6

塩田泰弘 魏志が辿った邪馬台国への径と国々

        私の見立て★★★★☆      2017/12/18

*はじめに
 本誌の本号は、諸氏の懸賞応募論文が掲載されていて、本来、もっと早く批評すべきだったのだが、敢闘賞論文が、毎ページ炎上という希有な題材だったので、批判、是正策提言で、膨大な労力を費やし、しばらく同誌同号を見る気がしなくなったものである。遅くなって申し訳ないが、漸く押し入れから本誌を取り出し、できるだけ公平に批判する努めに戻りたい。

*讃辞
 本論文の著者は、在野の論客として比較的著名であり、当誌の権威ある優秀賞論文であり、大きな陥穽は無いとして安心して、先ずは読んだのである。
 期待に違わず、全般に堅実な論考であり、当方が突っ込みを入れる程度の事項はご承知と思うのだが、逆に遠慮せずに、無い物ねだりできるのである。

*見落とされた序奏 
 本論文の目的が、諸説の異同を確認して、正解を見出そうとするものであるとすると、冒頭の①から⑩の箇条書き項目は、既に、原文から出発した考察と言うには、かなり重要な選択肢をふるい落としているが、その点についての注釈はない。

 例えば、①では、「韓国を歴る」という内陸行程の可能性が、断りなく消えている。いや、言及はされているのだが、検討から除外する力はないと感じる。

*見落とされた放射行程説
 後出するように、伊都国以降の道里検討では、榎一雄氏が提唱した伊都国中心の放射状行程道里記事であるという選択肢が消えている。
 また、榎氏の見解では、魏の使節は、伊都国から先の諸国には、女王国を含めて実際に行ってはいないという「魏使不達説」であるから、本論文は、タイトルからしてこの選択肢を評価する手順を逸している。
 折角の慎重な論考が、出発点を誤っているように見えるのである。
 当論文の失敗と思われる第一の点である。

未完

今日の躓き石 「危機感」にみる日本語の崩壊

                                2017/12/18
 今回の題材は、何処かのメディアの失言、暴言を指摘するものではない。流行語の風潮を示したものである。

 この記事を書いたきっかけは、流通大手のトップが公の場所で、ネット通販大手の台頭に「危機感」を示したという報道である。自社の緊迫した経営環境を、トップがどのように認識しているかを、あえて表明したのであるが、それが、「..感」とお上品に表現されていて、何とも、忌々しいものと感じた。いや、誰が言ったと言うことでなく、当世風に表現されたものであろうから、個人攻撃や特定のメディアの攻撃ではない。「当世風」に対する反発である。

 同社は、眼前に立ち塞がる「危機」に直面しているのであり、これは物理的(フィジカル)な実体はないとしても、経営のプロにとっては、観念(メンタル)の産物などてはなく、情感(エモーション)の切迫でもなく、間違いなく現実の問題なので、公の場で「危機感」(怖いんです)などと澄ましていられるものではないと思うのである。
 泣きを入れて、救済を求めているのではなく、自身の闘志を示したはずである。

 メディアの常用する接尾語乱用で、語彙をぼやけさせる言葉遊びが、日本語を崩壊させ、当然、それが日本語による報道を崩壊させているのを見ている気がする。

 心ある報道者は、「感」、「的」、「意識」による粉飾を避け、実報道に徹してもらいたいものである。

 いや、訳のわからない演説をぶって、申し訳ないと思うが、これが、当方の芸風なのである。

以上

 

2017年12月14日 (木)

今日の躓き石 アメフット界+毎日新聞「リベンジ」汚染報道続く

                     2017/12/14
 今回の題材は、引き続き毎日新聞大阪朝刊第十三版スポーツ面の甲子園ボウル下馬評記事である。今回気づいたのだが、「キーマン紹介 下 守備」と書かれている。今度は、日大が関学に対して「リベンジ」の舞台に、と書かれているが、そのあとに対応する結尾がなくて、重ねて、情けない報道だと思うのである。

 言いたくないことを言い換えるのは、面倒なので、以下、再録する。
--
 全国誌の紙面に、このような忌まわしい言葉で語られるとは、紙面に大きく名前を出された選手が気の毒である。
 仮に、記者の取材に対して、選手がつまらない暴言を吐いたとしても、負けた相手に、恨みを持って血祭りに上げて快哉を叫んだ、などと書立てるのは、報道の正しい姿とは思えない。報道の自由は、厳正な報道を行うものにのみ与えられるものだと、個人的に思うのである。トランプの「巨砲」で無いにしても、不適切極まりない、と感じる。

 ひょっとしたら、アメフット界には、試合で負けたら、次は、必ず仕返ししろ、相手をぶち殺せと指導する風習があるのかも知れない。
 それでも、全国紙記者は、関学の選手がそのような暴言を吐いたとしても、それは、自分たちの力不足を棚に上げて、相手に悔しさや恨みを押しつけて「復讐」、「報復」を正当化する、スポーツマンシップに反する言動だから、そのままの報道はせず、併せて、発言者に対して、以後慎むように教えてあげるべきでは無いのだろうか。言論のプロの勤めでは無いだろうか。

 当のQBは、これからも、マスコミの質問に対応する機会があるだろうから、全国紙記者は、こんなつまらない失言は、二度としないように、丁寧に教えて上げるべきである。

 以上は、一購読者の勝手な意見であるから、毎日新聞の担当記者に対して強制力を持つものではないのは、言うまでも無い。
--
 担当記者は、日大、関学、両大学に対して、不明を謝すべきものと考える。

 書き足すと、この記事の「リベンジ」は、報復、復讐という意味と見られるのだが、いくら三年前に「大敗した悔しさを忘れてはいない」とは言え、そんな蛮行を「舞台」で、観衆の面前で展開すると全国紙の紙面で宣言するのは、重ねて不穏である。

 選手、記者のどちらの病気なのかわからないが、会社ぐるみ、大学ぐるみの暴言は、早いうちに治療すべきである。

以上

2017年12月13日 (水)

今日の躓き石 アメフット界「リベンジ」汚染の無残な報道

                     2017/12/13
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第十三版スポーツ面の甲子園ボウル下馬評記事である。関学が立命に「リベンジ」したと書いていて、情けない報道だと思うのである。

 全国誌の紙面に、このような忌まわしい言葉で語られるとは、紙面に大きく名前を出された選手が気の毒である。
 仮に、記者の取材に対して、選手がつまらない暴言を吐いたとしても、負けた相手に、恨みを持って血祭りに上げて快哉を叫んだ、などと書立てるのは、報道の正しい姿とは思えない。報道の自由は、厳正な報道を行うものにのみ与えられるものだと、個人的に思うのである。トランプの「巨砲」で無いにしても、不適切極まりない、と感じる。

 ひょっとしたら、アメフット界には、試合で負けたら、次は、必ず仕返ししろ、相手をぶち殺せと指導する風習があるのかも知れない
 それでも、全国紙記者は、関学の選手がそのような暴言を吐いたとしても、それは、自分たちの力不足を棚に上げて、相手に悔しさや恨みを押しつけて「復讐」、「報復」を正当化する、スポーツマンシップに反する言動だから、そのままの報道はせず、併せて、発言者に対して、以後慎むように教えてあげるべきでは無いのだろうか。言論のプロの勤めでは無いだろうか。

 当のQBは、これからも、マスコミの質問に対応する機会があるだろうから、全国紙記者は、こんなつまらない失言は、二度としないように、丁寧に教えて上げるべきである。

 以上は、一購読者の勝手な意見であるから、毎日新聞の担当記者に対して強制力を持つものではないのは、言うまでも無い。

 担当記者は、関学、立命、両大学に対して、不明を謝すべきものと考える。

以上

2017年12月10日 (日)

私の意見 OffTopic 科学的データの誤解・悪用(YouTube/UMG)

                 2017/12/10
 以下の議論は、古代史談義から外れているが、他山の石として参考にして頂きたい。

 なお、当ブログ筆者は、公的資格を有しない一私人であるので、ここに示された判断、意見は、権威を有しない、私的な感想である事をあらかじめご了解頂きたい。

*背景と動機の説明
 YouTubeは、一口で言うなら、世界各地の動画作家の著作した動画作品を広く公開している機構である。
 ただし、法的な事情もあって、投稿され、公開された動画作品が、他者の著作物を盗用していないか、厳重に確認する義務がある。(重罪処罰規定あり)

 ただし、著作権制度の制約として、著作物は、必ずしも、公的機関に登録されたものとは限らないので、著作権者(代理を含む)は、YouTubeに自身の著作物の権利行使の走狗とならしめるためには、自身の管理する著作物をYouTubeに登録しなければならない。

 そうした著作物は膨大であるし、YouTubeで公開されている動画著作物は、これまた膨大である。盗用検知は、人の力だけでできることでないのは、容易に理解できる。

*なぞの判定方法
 そこで、登録著作物から、一定のルールに従って、他の著作物と区別できる特徴点(当然、複数)を取り出し、動画著作物から同様のルールに従って取り出した特徴点と比較して、ある程度の頻度、回数一致した時、両著作物は同一である可能性ありと判断する電子的な検知方法を採用するのは、むしろ当然と言える。

 しかし、両者のどの程度詳細な特徴を比較して、どこまで一致したら、動画著作物が、登録著作物と同一であると判断するかは、その検知方法の設定によって、大きく動揺する、素人目にもおぼつかない手法に過ぎない。

 よって、そのようなシステムが、現にしばしば誤動作して、素人目にも誤った措置を行っているのが、大問題なのである。いや、誤動作が知られているのに、何ら是正されないのが大問題なのである。

 上にも書いたように、何らかの判定システムでできるのは、「可能性あり」の判断であり、それは、最終判断たり得ないのは明らかである。

*著作権の限界
 今回の事例では、楽曲そのものの著作権は消滅しているので、演奏の著作権(日本で言う著作隣接権)の問題である。

 動画著作物で背景音楽として引用されているものが、フルート演奏であるのに対して。登録著作物そのものは、バイオリン演奏なのである。このように、こどもにもわかる相違点が検知されていないのであるから、本件が誤動作、誤爆であるのは、自明である。

*不法な処置適用と事後通告
 ここで問題なのは、絶対的な判断基準として、客観的に有効だと検証されていない、つまり、判断基準として無効である可能性が排除されていない「科学的検知方法」の判定が、そのまま適用されている点である。

 その結果、動画著作物に対して、事前了解無しに著作権を侵害する処置を実施した後で、動画著作権者に通告され、そこではじめて、以上の手続きに対する異議を唱えることができる制度となっている。

*理性なき制度
 さて、当該動画が申立人の著作物の盗用を行っているかどうかは、結局、人の知性に基づく判断によらなければならない、と言うのが、著作権に関する判断のあるべき姿と考える。

 しかし、YouTubeは、自ら設定した検知方法の判断だけを根拠にして、無実の動画作家に対して、申立人の著作物を盗用していると決めつけて、強硬措置を発動するのである。

 以上の手順は、当方の推定であるが、今回の顕著な事例を見てわかるように、疑わしきは無罪(推定無罪)という、例えば、合衆国憲法で保障された崇高な通念に反する暴挙に過ぎない。つまり、反社会的な不法行為と見るものである。

*教訓(ここもまた、個人的な意見である)
 案件の最終判断が人の理性のものである時は、人の理性で判定するべきである。

 科学的判定手段は、現実のデータに基づくとしても、全て概算、概要によるものであり、ある程度の不確かさをはらむものである。

 そのような判定手段は、厳重な検証無しに、最終的なものとしてはならない。
 いかに精密に判断しうるデータ分析方法であっても、批判検証されないものは、科学的な判断方法ではない。

 一方当事者が、自身の目的に合うように、時として密かに調整したデータ分析は、データの客観的な分析ではなく、データの改竄、捏造により、一見科学的、客観的なデータ利用と思わせながら、実は、一方当事者の虚妄を正当化しているに過ぎないのである。 

 人ごとではないと思うので、この場に公開するものである。

以上

参考 詳細は下記参照頂きたい。
 There goes YouTube fake copyright complaint invoked by UMG

There goes YouTube fake copyright complaint invoked by UMG

                                             2017/12/09

 今回の騒動の題材は、2015年7月25日公開の旧作である。
 絶景 あべのハルカスのはじまり 2011-2015

1. Allegro - Christian Ferras [Violin], Pierre Barbizet [Piano]    
   申立人 UMG(Deutsche Grammophon (DG) の代理)
 注:UMG :ユニバーサル ミュージック グループ(英語: Universal Music Group)は、
   フランス共和国のメディア企業、ビベンディ傘下のアメリカ合衆国の音楽会社。
   (Wikipediaによる)

 つまり、申立人は、著作物として、W.A.モーツァルトのバイオリンソナタのバイオリニストによる録音を提示している。(情報不足で、詳細は確認しようがないが、この程度は直ぐわかる)

 こどもにもわかることだが、当動画に素材の一部として含まれているのは、同曲のフルート演奏である。演奏の情報は画面に堂々と表示されている。

  子供とは言わないが、ちゃんと文字の読める、フルートとバイオリンを聞き分けられる人間なら、誤検知、事実誤認だとすぐ気づくのであるが、YouTubeは、電子頭脳ならぬ電子無能、Artificial IntelligenceならぬAmazing Idiotの判断を鵜呑みにして、善意の動画作家の権利を奪い取るのである。

 ついでながら、ここに示されている動画の音声部の価値判断について、大いなる疑義がある。

 当動画の素材の一部として使用されている音声データは、市販されている音源とは、芸術的な価値が大きく異なるものであるので、仮に、当動画が当該音源を引用紹介していても、動画作品(無音声でも、ほぼ同等の創作物として認められうる)の一部に過ぎない著作物の根拠薄弱(各国法での判断が示されていない)な権利主張に基づいて、当動画に関する権利を、一方的に奪い取ることは、反道徳的な海賊行為と考える。YouTubeの利用契約に含まれているとしても、公序良俗に反する一方的な規定は、法的に無効ではないかと思量する。
 それが、超巨大世界企業であるUMGの企業倫理に基づくものなのだろうか。一介の小市民の著作権を著作権の過剰と思われる行使で踏みにじっても良いとお考えかとも懸念するのである。

 と言うことで、いわば、謂われのない言いがかりで大変な迷惑を被っていることから、以下、当方の言動に不穏当な点があったとしても、無理からぬ事だとご了解頂きたい。

To whom, it may concern;

Honestly speaking , I feel like as if I were in communication with an idiot. Because it is self-evident that any educated person can see the claimed copyrighted material is completely different from the music properly and lawfully quoted and credited in my work of video.

A certain member of YouTube organization once responded to my inquiry on the detection system errors that the person presumably representing YouTUbe's opinion admittedly stated that the detecting system is known to be erratic and may issue and had issued erroneous identifications.

I did not pursue the communication further because any intelligent person on Earth shall rectify such a serious problem as soon as reasonably possible, because issuing fake complaints is an act of illegal crime anywhere on Earth.

Now, I see the error is alive and well.
I would like to say that no sane person lets an ape hold a charged hand-gun.

It is not a matter of mistaken-for-granted detection mechanism. It is an ultimate proof of intelligent and conscientious management. Is YouTube a healthy organization or not?

If YouTube should persist on this erroneous detection system without regret, it is a major crime to society anywhere.

Needless to say, I have been shocked and threatened by each case of erratic complaint and occasionally feel terribly negative to certainly lawful use of classical music fragments at quite trivial appearances. I feel it YouTube's unreasonable movie author abuse.

Regards.

続きを読む "There goes YouTube fake copyright complaint invoked by UMG" »

2017年12月 3日 (日)

今日の躓き石 万能選手を褒めない「オールラウンダー」共同―毎日

                      2017/12/03
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面のスピードスケートワールドカップ報道である。見出しは、「万能」と絶賛であるが、新聞報道だからこんなものであろう。

 気になったのは、共同通信配信の戦評である。
 いや、素人並のつたない書き方の記事が多い毎日新聞スポーツ記事の書きっぷりに比べて、共同通信社の配信記事は、豊富な知識をもとに、丁寧な取材を進めたことが感じ取れるものが多くて、感心しているのだが、今回は、一失があったようである。

 中長距離三種目で勝って見せた選手に対して、「オールラウンダー」とは、何ともお粗末で、これでは、毎日新聞記者の言葉遣いと代わらないのである。

 丁寧に言うと、「オールラウンダー」というカタカナ語は、このような場に出てきてはならない愚劣なものである。
 第一に、無教養な文法外れの造語であり、このような、いうならば「きたない」ことばを浴びせられる選手は、気の毒である。
 第二に、一度「万能」と絶賛したのに、この言葉は、上に挙げたようにきたない言葉であるから、単に「器用なだけの何でも屋」という揶揄に受け取られかねないのである。

 まして、スピードスケートで距離が違うのは、選手にとって大変なことだとは思うが、読者にとっては、どちらも、滑る速さを競うものであって、例えば、野球で二刀流と呼ぶような驚きを伴わないのである。

 おそらく、この言葉は、文法お構いなしの米国低級ジャーナリストの造語てあろうが、スピードスケートの距離の違いの重みを感じさせるような丁寧な言葉づかいとは思えない。

 だから、今回は、共同通信配信記事にしては、随分お粗末だなと思うのである。

 毎日新聞社は、記事における言葉の品格には、全く関心がないようだから、この記事を悪いお手本にされないようにご注意頂きたいものである。

以上

今日の躓き石 宮本氏のサッカー談義 一点の曇り

                      2017/12/03
 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊13版スポーツ面の宮本恒靖氏のコラムである。

 ここで言いたいことは、もちろん、サッカー技術論でなく、言葉遣いであるが、ちゃんと全部読んだ証拠に、感想をまず述べる。

 そうは書かれていないが、見出しで感じるのは、ワールドカップ予選リーグを勝ち抜くポイントとして、セネガルを倒すことが、最重点と見ているようである。
 並みいる強敵にもつけいる隙はあるはずだが、ギリギリ、一勝二分けでどうにか勝ち抜けないかという見方のように見えた。つまり、初戦を勝てと喚くのでなく、引き分けでも良いが、セネガルには勝たねばならない、三試合で勝ち点5を確保するのが最低線だと、勝手に読んだのである。

 この点、宮本氏は、新聞記者の素人論者でなく、指導者を務めるプロなので、書く言葉に責任と重みがあるから、最初から土俵際の徳俵に退いた書き方はしていないから、以上は、一読者が勝手に喚いているだけだから、無視して頂いて結構である。

 さて、この記事で唯一気になるのは、「セネガルのフィジカルの強いセンターバック」と言う表現である。
 宮本氏の辞書では「フィジカル」とは、強弱を言っているから、「フィジカルコンタクト」、つまり、セーターバックの「当たり」の事ときっちり決まっているようである。

 しかし、スポーツ界で「フィジカル」の意味は各人各様でバラバラであり、サッカー界に限っても、結構好きなように使われているので、しばらく前後関係を確認しないと意味がつかめないのである。
 当ブログでは、新聞記者の使命は、現場で起きていることを家庭に、明快に伝えることだと思っているので、カタカナ語の不適切な使い方に関して、しきりにお説教してきたのである。

 因みに、前に批判した柱谷氏の場合は、カタカナ語に漢字熟語を引き合いに出して、定義めいたことを書かれていてたが、残念ながら、意味が絞れない、あるいは、絞ると取りこぼしが出る書き方であった。

 宮本恒靖氏のコラムは、カタカナ語であっても、ちょっと考えればそこに込めた意味がその場でほぼ理解できるが、それほどしっかりした意識があるのであれば、「セネガルのフィジカルコンタクトの強いセンターバック」と、素人にもわかるように全部書いて、後進に範を垂れて欲しかったものである。

 全国紙は、普通の人が読む新聞であるから、プロにわかりきった言葉でも、端折らないで欲しいのである。

以上

2017年12月 2日 (土)

今日の躓き石 毎日新聞の堕落極まる 一面見出しの「リベンジ」

                 2017/12/02
 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊第3版の一面トップ記事の中見出しである。
 余りに立派な場所での暴言なので暫く唖然としてしまった。

 サッカー日本代表の言葉として、「リベンジ」に意欲を燃やしているような報道がされているが、誤報の最たるものである。
 単に、報道の正確さという面から見ても、次の難点がある。
 1. 監督はフランス語の人だから、日本語のカタカナ語で「リベンジ」と言うはずがない。
 2. 同様に、英語でrevengeと言うわけがない。
 3. 決定した対戦相手の1チームとは、全回大会で対戦して負けた相手だが、4チームのリーグで3戦全敗したのだから、特にこのチームだけに恨みを持つのは、お門違いである。まして、実力負けしたのを恨んでいたら、毎回復讐戦になる。

 と言うことで、ここで「リベンジ」と言ったというのは、担当記者の妄想であり、Fakeである、と信じたい。

 それ以前に、スポーツの対戦で負けたのを根に持って、今度はたたきのめして、ぶち殺してやる、「死ね」と言う言い方は、テロリスト紛いの意趣返し宣言であり、たいへん不適切である。

 にもかかわらず、毎日新聞が監督談話として堂々と報道しているのは、「死ね」暴言自体と同様の暴挙である。暴挙を暴露する趣味は、全国紙の堕落としか言い様がない。
 それとも、全国紙であっても、校閲部門も何もなくて、担当記者の書いたまま発行するのだろうか。

 総合して、今回の報道は、訂正陳謝の対象であると思う。でないと、代表監督は、暴言の主として、世界の批判を浴びるものである。
 仮に、文字通り、その通りの暴言を吐いたとしても、それは、日本語、とくにカタカナ語の魔性を知らないで、片言で口走ったものであり、チームの健闘を祈るべきこの場で報道すべきではないと思うのである。

以上 

2017年12月 1日 (金)

今日の躓き石 柱谷氏のサッカー談義絶賛

                            2017/12/01
 本日の題材は、毎日新聞大阪夕刊スポーツ面のコラムであるが、本来の趣旨は、褒め言葉であって、少々注文は付けているが大したことではない。
 
 サッカーマインド:一発勝負、チャンスをものに=柱谷幸一
 
 当ブログでは、スポーツジャーナリズムが、意味不明なカタカナ言葉で読者をごまかしていることに常々不満を述べているが、今回は、大変珍しいことに、筋の通った解説がされているので、感心したのである。
 
 ただし、氏ほどの人でも、文章作法で言うと、ちょっと行き届いていない点が見られるのが残念である。
 

 サッカーには四つの側面がある。(1)技術(2)戦術(3)メンタル(精神面)(4)フィジカル(身体能力)だ

 
 と堂々と書き出しているのであるが、ちょっと難がある言い方である。
 
 つまり、上の四項目は箇条書きの列挙だが、1,2が、高度な概念を示す、意味の通る漢字熟語なのに、3,4が、意味/概念の確定していないカタカナ語になっていることである。
 本コラムでは、「意味/概念の確定していないカタカナ語」に説明が加えられているのだが、初出の時は「...カタカナ語」の不意打ちで意味が通りにくいというのは、手順として前後していて不首尾のように思う。
 
 これは、せめての読者への心配りとして、先ずは、漢字熟語を項目として立てて、()内でカタカナ語に言い換えるという書き方にした方が良いのではないかと思われる。でないと、言葉遣いが首尾一貫していないのである。
 
 試みに用語を揃えてみると、次のように思える。
 1.技術(テクニカル) 2.戦術(タクティカル) 3.心理  4.身体 
 
 これで概ね項目間のバランスが保たれているように思う。
 
 ところが、氏の用語では、3.精神面 (メンタル) 4.身体能力(フィジカル)であり、これらは、具体的に過ぎるように思うのである。四項目でサッカーの全範囲をカバーしている趣旨とすると、項目/要素/側面を具体的に絞ってしまうと、取りこぼしが出るように感じるのである。
 
 それは、スポーツ界が、本来幅広い意味を持つMental (elements),Physical (elements)を、カタカナ語とするときに勝手に端折ってつかっているから、漢字熟語に戻すと釣り合いが不出来になっているのであって、柱谷氏の責任ではないと思う。
 
 メンタルな要素と言えば、本来は、闘志、忍耐力、集中力のように正の要素以外にも、恐怖心、気後れ、上がりなどの負の要素が入るのではないか。
 
 フィジカルな要素と言えば、身体検査で知れるような身長、体重、筋力などの他に、走行距離とか、速度、加速、減速、展開などもあるだろうし、跳躍力も大事ではないか。
 余りフィジカル要素として語られることはないが、言うまでもなく、サッカーでは、メカニカルな要素であるキック力(速度、飛距離、そして正確さ)までは、ここで評価するもののように感じる。
 
 あえて言うなら、キックの技術は、フィジカル/メカニカルな領域を越えたものを言うように思う。
 
 以上、まことに失礼ながら、素人考えを連ねた事をご容赦いただきたい。
 
 なお、言うまでもないが、以上は、冒頭の部分の表現方法について批判しただけであって、以後に書かれている具体的な論議は、素人考えの及ぶところではない。

 サッカーにおいて目指すものは、ある意味、単純明快であった方が、選手に伝わりやすいかも知れないが、そのために、大事な事柄が取りこぼされているのは、痛々しいものがある。

 それにしても、サッカー界には、柱谷氏のように、高度な概念を思索している、優れた人材がいるのだから、メディアは、豊かな思考に裏付けられた豊かな言葉を持った人に取材すべきではないかと思う次第である。

 
以上

« 2017年11月 | トップページ | 2018年1月 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

カテゴリー

  • YouTube賞賛と批判
    いつもお世話になっているYouTubeの馬鹿馬鹿しい、間違った著作権管理に関するものです。
  • ファンタジー
    思いつきの仮説です。いかなる効用を保証するものでもありません。
  • フィクション
    思いつきの創作です。論考ではありませんが、「ウソ」ではありません。
  • 今日の躓き石
    権威あるメディアの不適切な言葉遣いを,きつくたしなめるものです。独善の「リベンジ」断固撲滅運動展開中。
  • 倭人伝の散歩道 2017
    途中経過です
  • 倭人伝の散歩道稿
    「魏志倭人伝」に関する覚え書きです。
  • 倭人伝新考察
    第二グループです
  • 倭人伝道里行程について
    「魏志倭人伝」の郡から倭までの道里と行程について考えています
  • 倭人伝随想
    倭人伝に関する随想のまとめ書きです。
  • 動画撮影記
    動画撮影の裏話です。(希少)
  • 古賀達也の洛中洛外日記
    古田史学の会事務局長古賀達也氏のブログ記事に関する寸評です
  • 名付けの話
    ネーミングに関係する話です。(希少)
  • 囲碁の世界
    囲碁の世界に関わる話題です。(希少)
  • 季刊 邪馬台国
    四十年を越えて着実に刊行を続けている「日本列島」古代史専門の史学誌です。
  • 将棋雑談
    将棋の世界に関わる話題です。
  • 後漢書批判
    不朽の名著 范曄「後漢書」の批判という無謀な試みです。
  • 新・私の本棚
    私の本棚の新展開です。主として、商用出版された『書籍』書評ですが、サイト記事の批評も登場します。
  • 歴博談議
    国立歴史民俗博物館(通称:歴博)は歴史学・考古学・民俗学研究機関ですが、「魏志倭人伝」関連広報活動(テレビ番組)に限定しています。
  • 歴史人物談義
    主として古代史談義です。
  • 毎日新聞 歴史記事批判
    毎日新聞夕刊の歴史記事の不都合を批判したものです。「歴史の鍵穴」「今どきの歴史」の連載が大半
  • 百済祢軍墓誌談義
    百済祢軍墓誌に関する記事です
  • 私の本棚
    主として古代史に関する書籍・雑誌記事・テレビ番組の個人的な読後感想です。
  • 纒向学研究センター
    纒向学研究センターを「推し」ている産経新聞報道が大半です
  • 西域伝の新展開
    正史西域伝解釈での誤解を是正するものです。恐らく、世界初の丁寧な解釈です。
  • 資料倉庫
    主として、古代史関係資料の書庫です。
  • 邪馬台国・奇跡の解法
    サイト記事 『伊作 「邪馬台国・奇跡の解法」』を紹介するものです
  • 陳寿小論 2022
  • 隋書俀国伝談義
    隋代の遣使記事について考察します
無料ブログはココログ