倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 4/4
2018/01/08
*正史にない事業
倭人伝には、帯方郡倭国間の行程だけが書かれているが、交易はこれに限定されなかったと思われる。
一大港には、今日の佐世保、博多、宗像辺りや以遠の海港から、しきりに渡海船が着いたと思われる。
對海港も同じで、狗耶港に限定せず、他の半島南岸港からの渡海船の荷を受けていたものと思う。
それぞれ、活発な海市を主催し、南北交易に限らず、東西の交易を行い、取引先を競わせていたはずである。交易相手を限定したら、事あるごとに兵糧攻めされて、言いなりになっていたであろう。してみると、喧伝される食糧不足は、節税策かと思われる。(眉唾物である)
倭人伝で、両国が南北に交易したというが、あくまで、時代相当の近隣との集散交易であり、海峡を越えた遠方まで手を広げていたとは思えない。
こうしてみると、對海港も、一大港も、地理的な位置もさることながら、入りよくて出よい機能を備えていたために、両国は、ほどほど繁栄していたものと思われる。
*正史にない海の話
因みに、陸封されていた中原政権は、海への関心か乏しく、正史などに海に関する記事が乏しい。
自然、海峡とか海路とかの言葉が出てこない。川を渡るのに似た渡海すら、滅多に出てこない。
*東夷伝の海洋志向
海という字が、比較的活発に出てくるのは、帯方郡関係者が提供したと思われる東夷伝記事である。
その意味でも、倭人伝の語彙は、魏書全体の語彙と異なる味わいを示していて、海に対する感覚は、むしろ、呉書と通じるときがある。
*倭人伝の歩き方
当方が最近努めているのは、倭人伝は、魏書の一部として書かれたと安直に決めつけず、むしろ、公孫氏から解放された束の間の興隆期に、帯方郡の抱いた「海洋国家」の大志、つまり、野心の記録として書かれたものであり、先ず、倭人伝の用語、表現を理解した上で、魏書の一部としての理解を図るという手順の勧めである。
一例として、巷間騒がれる倭人伝の一里の短さであるが、冒頭で郡から狗邪韓国を七千餘里とする地方里制を宣言していて、筋が通っているのである。
完
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