倭人伝の散歩道 番外 稲部遺跡調査報告の怪 4/5
2016/10/18 2018/01/09
短い告知文ですが、確認された事実に基づく部分と関係者の推測部分の間に大きな食い違いがあり、新聞記事の迷走に繋がったと思われます。
遺跡の「時代観」は、新聞記事のように支離滅裂なものでなく、「2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)」、つまり、弥生時代後期中葉が二世紀、古墳時代前期が四世紀と想定されていて、その当否はともかくとして、古墳時代が二世紀に遡るという誤解は発生する余地の無いものです。
稲部遺跡が最も栄えた時代を3世紀前半と見る「時代観」やその時代を、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代と見る「時代観」も当世流行のようですが、ここに定説を覆す根拠は示されていません。
そして、これが、邪馬台国と同じ時期にあたるというのは、もっぱら誤解を招く独断と思われます。
続いて、「中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方群と外交している国が30ヶ国あったとあります。」と無造作に断じていますが、多くの問題点を含んでいます。
「魏志倭人伝」なる歴史書は存在しなかった、などと無粋なことは言いませんが、この部分の書き方で、学術的なものなのか、非学術的なものなのかが判別できるのは事実です。
倭(=日本)と書いているものの、「このころ」には、日本なる概念は存在せず時代錯誤、非学術的です。ついでながら、「倭(=日本)」とは、まことに無謀な言い方で、関係者の古代史に関する無知蒙昧を感じさせます。
また、「魏もしくは出先の帯方群(ママ)と外交」と無造作に言いくくるが、当時、少なくとも、倭国諸国の連携が成立し、個々の国が「外交」(時代錯誤の現代語として解釈します)権行使できたとは思えないのです。
つまり、互いに、国交に関する条約を取り決め、互いの首都に大使館を設置し、人質を交換するなどの手順はなかったはずです。帯方郡と東夷の集団とが平等なはずはないので、土下座したかどうかは別として、一方的な服従ではなかったかと思われます。まことに無謀な言い方で、関係者の古代史に関する無知蒙昧を感じさせます。
言うまでもなく、魏が存在したのは三世紀の一時期であり、帯方郡は魏の成立後に作られ、西晋朝まで生き延びたものの、魏の出先として機能していたのは短期間です。三世紀全体に適用できる概念ではありません。時代錯誤、非学術的です。
未完
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