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2018年1月

2018年1月21日 (日)

今日の躓き石 理解不能 強い「メンタル」 NHK-BS1の独善

                             2018/01/21

 本日の題材は、NHK-BS1の「世界はTokyoをめざす」と題したドキュメンタリーで、タイ国の女子バドミントン選手の物語である。いや、選手に問題があるのでは、全くない。

 なぜかわからないが、突然、「強いメンタル」など、理解不能な言葉が出てくるのである。
 タイ人が、意味不明なカタカナ語を喋るわけはない
ので、通訳の不手際なのだろうが、番組で一度ならず出て来るので、NHKのスポーツ用語なのだろうか。
 一般的な視聴者に理解できないので、普通の言葉に言い換えて欲しい
ものである。

 「メンタル」なるものが、何かわからないが、強いかどうか評価される以上は、何か数値化する測定方法があるのだろう。「強さ」なる数値を高めるための強化方法があるのだろうか。

 仏教僧が何か指導していたが、どう関連するのか、明解ではなかったように思う。
 是非、世のわかもの達のために、カタカナ語に逃げずに、きっちりご教授いただきたいものである。

 それにしても、報道の本分は、視聴者にわかるように伝えることにあると思うのだが、なぜ、一般人に理解できないカタカナ語を濫用するのだろうか。

 
受信料を払っているのだから、視聴者ファースト、わかる言葉で喋れ、と要求できると思うのである。

以上

「今どきの歴史」 第五回を巡って

                                                                   2018/01/20 

「三角縁神獣鏡、製作地論争 画期的「国産説」の登場」

 私の見立て★★★★☆

 留守をしていて、確認が遅れたが、毎日新聞の18日夕刊に「今どきの歴史」が出ていた。

 遺物精査で見出された新たな国産鏡説であるが、例によって、論争不利と見たらしい魏鏡派から反論が出ないのは、実質上無条件降伏という事なのだろうか。

 それにしても、「今どきの歴史」の筆者である毎日新聞記者は、提唱者である鈴木勉氏の著書に開示された提言を咀嚼し、消化し、我が物にした上で、合理的な意見を提示している。全国紙の記者は、かくあるべきである。賞賛に値する。

 ただし、今回取り上げた画期的な見解の提唱者にしてからが、「大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団」による「出吹(でぶ)き」などと、「アクロバット的」な迷言を物しているのは、何とも、もったいない話である。

 古代の一時期、そのような工人集団が、どのような上位組織に所属して、どのようにして担当業務を遂行して、生計を維持していたのか。どこにも根拠が示されていないはずであり、何か神がかりでもあったのかと、大変不思議に思うのである。

 地に足をつけた推定では、何れかの交通要地に専門家が工房を築いていて、そこに各地から、対価(後世なら「大金」)を手にした「客」が参集したと見るものだろう。いや、制作依頼時は、手付けをもって乗り込み、納期には、粛々と対価を支払って受納したのだろう。取り決めの心覚えとして、契約書めいたものは取り交わしただろうから、商業道徳や契約慣行はできていたはずである。遠隔地から注文を受けて、納品し、対価をそこで受け取るというのは、随分後世の話だろう。
 原材料調達の便といい、製品配送の便といい、そして、提唱者に従うなら「出吹き」の際の大道具の輸送といい、河川交通の恩恵がなければなり立たないと見るのである。

 この観点から言うと、山間に逼塞した奈良盆地南部飛鳥や奈良盆地中部纏向の界隈では、鋳物工房なる「重工業」の本拠は成立しないであろう。辛うじて、なら山越えで淀川水系木津川の水運に密接な関係を持っていたであろう奈良盆地北部なら、成り立ったかと思われる。(後に、広大な平城京が設定された由縁である)

 このような議論には、今後とも、明解な結論は出せないだろうが、時代の交通・輸送能力や紙文書無き「前文明」の「国家未形成」の様相から、そのように思うものである。

 いや、銅鏡の細部に、制作者の署名というべき無二の痕跡が見て取れる、という地道な見解の打ち出しには、大いに敬意を表しているのである。

 以上、勝手に推定しているが、普通に考えればそうなると言うだけで、絶対というわけではない
 くれぐれも、健全、堅実な「ものの見方」を大事にして欲しいものである。

以上

 上に書き忘れたので、余談として追記する。
 「アクロバット的」と意味不明なカタカナ語だが、この言葉は、アクロバットを低次の駄芸と見るものには、罵倒の言葉であるかも知れないし、アクロバットを超絶技巧と見て喝采するものには、極上の褒め言葉であるから、読者の理解が不安定になる。注意したいものである。

 

2018年1月 9日 (火)

倭人伝の散歩道 番外 稲部遺跡調査報告の怪 5/5

                      2016/10/18 2018/01/09 
 さて、以下、壮大な粉飾の連発と思われるのです。

 まずは、「保持することが勢力に大きな影響を与えた鉄器」と物々しく語っていますが、鉄器を「保持する」ことが威力を持つと、他国統治者は、見たことも聞いたことも無いもののに恐れ入るのでしょうか。

 そうなら、当時、他に類のない鉄器を持っていた当遺跡統治者は天下を制するはずですが、そのような記録はあるのでしょうか。理屈に合わない話です。

 引き続いて、更に物々しく「祭祀都市・政治都市であるうえ、工業都市でもあった稲部遺跡」と主張されていますが、それでは、当遺跡統治者の権力が中国を凌ほどに輝くのです。遙か後年の織田信長の安土城に於ける天下布武の威勢を投影しているのでしょうか。時代錯誤の幻影と言えますが、祭祀都市、政治都市、工業都市の十二文字が、全くの虚辞なので、意味がわからないのです。

 「都市」と銘打つのは、一次産業従事者の比率が低く、二次三次産業の従事者や官僚、祭祀従事者が多数居住し、門前市をなす状況を主張していることになります。
 それほど大々的な都市は、後世の平城京、平安京でわかるように、食糧自給が不可能で、周辺からの定常的な大量の食糧供給が不可欠となります。
 そうした地域社会構造の根拠はあるのでしょうか。

 遺跡、遺物に文字記録が付属していたわけでもないのに、現代の論者が、勝手に現代的な都市国家を見るのは、かなり、念の入った幻像投影でしょうが、このイリュージョンでは、だれも騙されてくれないでしょう。

 以上、学術的な成果発表に、時代錯誤の無謀な文飾を施すのは、地方自治体が公費で行った事業の科学的な成果発表にふさわしくないと考えます。

 ふと気づくと、サイト内の別の告知記事には、次のように粛々と書かれています。

 「稲部遺跡発掘調査現地説明会
〈内容〉発掘調査で縄文時代から古墳時代までの遺構と遺物が検出され、同遺跡は弥生時代後期後半から古墳時代の前期を中心とする愛知川流域の拠点集落であることが明らかになりました。検出された遺構などを見学しながら、職員がわかりやすく説明します。」

 ここが「成果発表」の原典であり、これに対して大層な粉飾を行って、虚構の世界を提示しているのが、それ以降の発表文のように思います。

 是非、彦根市教育委員会は、地方公共団体の教育を預かる公共機関にふさわしい、学術的見解を堅実に書き連ねるように改定してほしいものです。

                                        以上

倭人伝の散歩道 番外 稲部遺跡調査報告の怪 4/5

                           2016/10/18 2018/01/09 
 短い告知文ですが、確認された事実に基づく部分と関係者の推測部分の間に大きな食い違いがあり、新聞記事の迷走に繋がったと思われます。

 遺跡の「時代観」は、新聞記事のように支離滅裂なものでなく、「2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)」、つまり、弥生時代後期中葉が二世紀、古墳時代前期が四世紀と想定されていて、その当否はともかくとして、古墳時代が二世紀に遡るという誤解は発生する余地の無いものです。 

 稲部遺跡が最も栄えた時代を3世紀前半と見る「時代観」やその時代を、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代と見る「時代観」も当世流行のようですが、ここに定説を覆す根拠は示されていません。

 そして、これが、邪馬台国と同じ時期にあたるというのは、もっぱら誤解を招く独断と思われます。

 続いて、「中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方群と外交している国が30ヶ国あったとあります。」と無造作に断じていますが、多くの問題点を含んでいます。

 「魏志倭人伝」なる歴史書は存在しなかった、などと無粋なことは言いませんが、この部分の書き方で、学術的なものなのか、非学術的なものなのかが判別できるのは事実です。

 倭(=日本)と書いているものの、「このころ」には、日本なる概念は存在せず時代錯誤、非学術的です。ついでながら、「倭(=日本)」とは、まことに無謀な言い方で、関係者の古代史に関する無知蒙昧を感じさせます。

 また、「魏もしくは出先の帯方群(ママ)と外交」と無造作に言いくくるが、当時、少なくとも、倭国諸国の連携が成立し、個々の国が「外交」(時代錯誤の現代語として解釈します)権行使できたとは思えないのです。
 つまり、互いに、国交に関する条約を取り決め、互いの首都に大使館を設置し、人質を交換するなどの手順はなかったはずです。帯方郡と東夷の集団とが平等なはずはないので、土下座したかどうかは別として、一方的な服従ではなかったかと思われます。まことに無謀な言い方で、関係者の古代史に関する無知蒙昧を感じさせます。

 言うまでもなく、魏が存在したのは三世紀の一時期であり、帯方郡は魏の成立後に作られ、西晋朝まで生き延びたものの、魏の出先として機能していたのは短期間です。三世紀全体に適用できる概念ではありません。時代錯誤、非学術的です。
                                未完

倭人伝の散歩道 番外 稲部遺跡調査報告の怪 3/5

                             2016/10/18 2018/01/09
 引き続き毎日新聞朝刊大阪第13版の1面記事の掘り下げです。

 つまり、いい加減な主張が掲載されたのは、彦根市教委発表のせいなのか、毎日新聞記者の誤解のせいなのか、もう少し検討しようというものです。

 と言っても、目下の所、今回の記事の元となった「プレスレリース」(報道機関向けの説明資料)が公開されていないので、仕方なく彦根市のサイトに掲載されている告知記事を引用するものです。

 因みに。当記事全体の文体が丁寧なのは、当方は彦根市民ではなく、市民として市教委を難詰しているのではないとして、少々遠慮しているためです。

平成28年度「稲部遺跡発掘調査現地説明会」の開催について
 彦根市教育委員会では、市道芹橋彦富線・稲部本庄線道路改良工事に伴う発掘調査を実施しています。

 平成25年度から実施された調査で発見されたのは、2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)の大規模な集落跡です。

 稲部遺跡が最も栄えた時代は、3世紀前半、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代、つまり、邪馬台国と同じ時期にあたります。

 中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方群と外交している国が30ヶ国あったとあります。おそらく、稲部遺跡も、この国々の一つの中枢部だったと思われます。

 稲部遺跡からは、180棟以上の竪穴建物に加え、王が居住するにふさわしい大型建物、独立棟持柱建物が発見され、当時、保持することが勢力に大きな影響を与えた鉄器の生産が行われた鍛冶工房群、青銅器の鋳造工房も発見されています。祭祀都市・政治都市であるうえ、工業都市でもあった稲部遺跡は、ヤマト政権成立期における近江の巨大勢力の存在を物語る大集落です。

 現地説明会では、この「イナベのクニ」とでも呼ぶべき遺跡の内容と、近隣にそびえる国指定史跡荒神山古墳へのつながりについても、調査担当者がお話しします。彦根市が誇るべき、大遺跡の調査を体感できる貴重な機会です。ぜひ、ご参加ください!

                未完

倭人伝の散歩道 番外 稲部遺跡調査報告の怪 2/5

                                2016/10/18 2018/01/09
 提唱されているような大規模な鍛冶工房は、原材料として、大量の鉄材を消費しますが、例えば、海峡を越えた朝鮮半島東南部で、どんなものと物物交換していたのか興味津々です。

 往復1年かかろうという感じだが、盗難や難船のリスクを担って交易していたとすると偉大です。であれば、それ以外の交易も膨大で、中継地や相手先に代理人を常駐させていたと思います。当遺跡の統治者は強固な支配基盤を持った独立君主と見ます。

 続いて、「武器や農具、工具を造っていた」と無造作に云っていますが、大事なのは、「鉄」の技術でなく、高度な鋼(はがね)鍛造技術です。

 唱歌「村の鍛冶屋」は、「しばしも止まずに槌うつ響。飛散る火の花、はしる湯玉。ふいごの風さへ息をもつがず、仕事に精出す村の鍛冶屋。」と頌えます。

 遙か後世に至っても、打ち刃物鍛造は、鉄の延べ棒から槌で叩き出す芸術的造形であり、暑熱環境での力仕事です。「鉄の延べ板」すら赤熱した鉄塊を槌で叩く鍛冶仕事です。当時流通したのは「延べ板」でなく粗製の鉄鋌ではなかったかと思います。

 当然、大量の薪炭が必要となり、周辺の山林伐採は、激しかったと思われますし、排水汚染もすさまじいものだったでしょう。裏付けはあるのでしょうか。

 さりげない言い方で「魏志倭人伝」を引き合いに出して、当遺跡に権威付けしようとしていますが、倭人伝に琵琶湖はなく、(中国)大陸からの鉄材輸入もなく、また、「邪馬台国」も倭人伝にはないのです。

 「遺跡が最も栄えた時代は、中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国時代と重なる。 」と大胆に提言しますが、資料理解に不備がある上に遺跡時代観が未確立では、単なる作業仮説、憶測です。言葉を費やすほど信用がなくなる補足です。

 全体に、全国紙報道と思えない検証不足の粗雑な記事です。記事の大半は、発表者の不用意な発表資料のせいでしょうが、全国紙掲載には、受け売りでなく新聞社としての考察が不可欠でしょう。

 読者は、当記事を、このような発表があったという事実報道と思わず、全国紙が評価した学術発表の報道だと解するので、虚報連座の罪は重いのです。

                              未完

倭人伝の散歩道 番外 稲部遺跡調査報告の怪 1/5

        2016/10/18 2018/01/09
 題材は、毎日新聞大阪第13版1面記事ですが、NHK番組批評に連動して一部縮小、再公開します。

 新聞社としての位置付けは、「芸術・文化」らしいのです。関連記事が社会面に掲載されているが、大抵の読者は、一面記事だけで報道の概要を掴もうとすると思うので、ここでは評価しないことにします。

 地方自治体の遺跡発掘調査報告書は、往々にして、特定の古代史学説の宣伝媒体と化していると噂されていますが、今回の彦根市教委の発表も、その一つではないかと気になります。

 これに、客観的な評価を殆ど加えずに言いなりになっているのは、全国紙の報道姿勢として感心しないのです。いくら「芸術・文化」の分類になっていても、古代史は科学(サイエンス)の一分野と見られるので、こうした大胆な時代観提唱は、客観的に評価した上で報道すべきと思うのです。

 どこが感心しないかというと、まずは、「古墳時代」の考古学上の位置付け(時代観)の齟齬と動揺です。

 当記事では、説明なしに、冒頭に「古墳時代初め(3世紀前半)」と定説に対し、大巾に時代を引き上げ、「ことば」なる囲みでは、「古墳時代(2〜4世紀)」と決めつけますが考古学としてどうでしょう。

 記事内で、古墳時代開始は、3世紀前半と2世紀の見解が共存していて無残ですが、古代史学界の考古学定説との対比が欠落しているのが重大です。発表資料の不備としても、短い記事の中で、用語・表現が揺らぐのは、全国紙科学記事として不用意です。

 深入りすると、この場で「国内には当時、製鉄技術がなく、鉄の延べ板を朝鮮半島から取り寄せ、武器や農具、工具を造っていたと考えられる。」と独善を述べるのが、考古学の原則に反し、非常識です。

 当時は、広域支配した統一国家が存在せず、多数の地方政権なる「国」が大小混在していたので、当遺跡がどの「国」の施設か不明であり、「国内」と云われても、なんのことか理解に苦しむのです。 

 当時「製鉄」ができなかったのは、単に鉄鉱山が発見されていなかっただけと思われます。鉄鉱石がなければ「鉄」を取り出す冶金技術は無効です。「朝鮮半島から取り寄せ」ると云っても、ただとはいかず、何かの物資と交換するしかないのです。
                                                             未完

2018年1月 8日 (月)

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 4/4

                                        2018/01/08
*正史にない事業
 倭人伝には、帯方郡倭国間の行程だけが書かれているが、交易はこれに限定されなかったと思われる。

 

 一大港には、今日の佐世保、博多、宗像辺りや以遠の海港から、しきりに渡海船が着いたと思われる。

 

 對海港も同じで、狗耶港に限定せず、他の半島南岸港からの渡海船の荷を受けていたものと思う。

 

 それぞれ、活発な海市を主催し、南北交易に限らず、東西の交易を行い、取引先を競わせていたはずである。交易相手を限定したら、事あるごとに兵糧攻めされて、言いなりになっていたであろう。してみると、喧伝される食糧不足は、節税策かと思われる。(眉唾物である)

 

 倭人伝で、両国が南北に交易したというが、あくまで、時代相当の近隣との集散交易であり、海峡を越えた遠方まで手を広げていたとは思えない。

 

 こうしてみると、對海港も、一大港も、地理的な位置もさることながら、入りよくて出よい機能を備えていたために、両国は、ほどほど繁栄していたものと思われる。

 

*正史にない海の話
 因みに、陸封されていた中原政権は、海への関心か乏しく、正史などに海に関する記事が乏しい。

 

 自然、海峡とか海路とかの言葉が出てこない。川を渡るのに似た渡海すら、滅多に出てこない。

 

*東夷伝の海洋志向
 海という字が、比較的活発に出てくるのは、帯方郡関係者が提供したと思われる東夷伝記事である。

 

 その意味でも、倭人伝の語彙は、魏書全体の語彙と異なる味わいを示していて、海に対する感覚は、むしろ、呉書と通じるときがある。

 

*倭人伝の歩き方
 当方が最近努めているのは、倭人伝は、魏書の一部として書かれたと安直に決めつけず、むしろ、公孫氏から解放された束の間の興隆期に帯方郡の抱いた「海洋国家」の大志、つまり、野心の記録として書かれたものであり、先ず、倭人伝の用語、表現を理解した上で、魏書の一部としての理解を図るという手順の勧めである。

 

 一例として、巷間騒がれる倭人伝の一里の短さであるが、冒頭で郡から狗邪韓国を七千餘里とする地方里制を宣言していて、筋が通っているのである。

 

                         完

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 3/4

                                              2018/01/08
*渡海伝説の試み
 これも、念押しだが、諸兄は、早々と狗邪―末羅区間の渡海は一貫したものと決めつけているのではないかと気になってきた。推定を検証して信ずべきとしているのなら良いが、結論に飛びついてはいないだろうか。
 倭人傳では、半島側から順に港を経るとして、

    1.  狗邪港から對海港まで、千里の渡しである。
    2.  對海港から一大港まで、千里の渡しである。
    3.  一大港から末羅港まで、千里の渡しである。

 と、三回「渡し舟に乗る」と書いていて、一船で渡り切るという書き方ではないと思う。

*島巡り航法の不合理
 古田氏の島巡り説は、狗邪港から末羅港まで一貫航走する海船を回航する行程と見えるが、実用的でないと見える。魏使用船は、貴重な荷物を大量に積載したから回航もあり得るかと思うが、標準行程の道里に回航は採用しないと思われる。(回航による里数整合の当否は別記事で述べた
 地図を見る限り、對海港は、細い陸峡部を挟んで対馬島の両側にあり、長丁場で危険な回航をしなくても、人も物も陸上移動で移載できるように素人目に見えるので、ことさらそう思うのである。

*渡し舟の得
 ということで、三度の渡海は、毎回別便と見るものではないかと思われる。使用する便船は、両側の港が、それぞれ競い合って、往復運行していたものだろう。今日、シャトル便というのは、織機の飛び杼のように、めまぐるしく往復運動することから呼ばれる。
 往復便であれば、漕ぎ手は、慣れた区間を規則的に往復するだけである。便船も、短距離区間の往復で軽便になるので、複数建造することができる。
 一大港と末羅港間は、最短区間なので、軽便で漁船に近いものでも務まったのではないか。

*瀚海渡しは別仕立て、か
 ただし、對海港―一大港間は、海峡中央部で流速が速いと思われ、ウネリも厳しかろうということで、「瀚海」と難所扱いであるから、漕ぎ手の多い大型船ではないかと思われる。
 そのように適材適所の配船ができるのも、短区間の渡海船だからである。

                              未完            

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 2/4

                                                   2018/01/08
*人材投入
 買付部隊の責任者は、読み書き算術ができて、武勇に優れ、価格交渉できる人材でなければ務まらない。政権幹部が長期出張となりかねないのである。

*地の利
 これに対して、九州北部の地元商人は、日頃、海峡交易しているから、ものの相場を知っていて、対価として割の良いものを持っていくはずである。これは、日常業務だから、担当者に、適度の権限と資金を与えて派遣すれば良いのである。船舶や乗員は新たに整える必要はない。往復は短期間であり、買付担当者の動静は把握できる。その際、危険相当分を売価に乗せるから、保険がかかっているのである。

*買付地の引き寄せ
 中和纏向商人の九州北部での買付価格は現地価格より高価であるが、自前で買付船を仕立てるのに比べて、妥当なものと見ざるを得ないのではないか。

*自前取り寄せの負担
 九州北部から中和纏向まで、どのような経路をとるにしろ、自前の移動である。大分緩和されているが、自前で大変な危険を背負い込まねばならない。

*近隣買付の得
 これを、淀川水運の終着点、木津の市で買い付けるとしたら、買付価格自体は高くなるが、経路に、なら山越えの軽微なもの以外に難関はなく、纏向から数日の近場であるから、諸々の負担は極めて軽微であり、纏向地域政権のとるべき策は自明だろう。

*遠隔交易の戒め
 同様に考えれば、吉備や丹波から遠路韓国に向かう貿易船団も、時代錯誤の幻想である。

*長期構想
 創業と発展と考えると、先ずは、短距離で短期間の小規模貿易で創業し、これを長距離まで発展させるらには、それこそ移動距離の二乗に比例しそうな経済的、文化的成長が必要ある。所詮、商売して多額の利益を得るには、売り先が大量に必要なのである。壮大な遠距離買付が成り立たないなら、同様に壮大な遠距離販売もなり立たないのである。

 もちろん、大規模交易には、読み書き算術のできるものが多数必要なのである。

                                   未完

倭人伝の散歩道 海上交易と渡し舟 1/4

                                          2018/01/08
 古代史論者で、倭人伝当時の交易規模を誤解している人が多いようなので、当たり前のことを説かねばならない。ここで誤解というのは、後世の概念に影響された過大な評価である。

*遠距離通商の幻想
 A地点(例えば、奈良盆地中部、中和の纏向)に住んでいるものが、片道数か月を要するB地点(半島南端の狗邪韓国)へ買付に向かうとすると、当然、B地点で何かを支払って、何かを買い付ける。

 現在なら、米ドル(共通外貨)を持参するしクレジットカードも使える。それ以外、銀行送金、外貨為替、現地銀行保証付き信用状など支払手段はある。

 当時は「現金」持参しかない。何が「現金」かは置くとして、「大金」持参には、資金が必要である。つまり、一年程の過程で事故があれば大金が失われる。

 現地の買付で、どのような折衝をするかわからないが、買い付けはできたとする。

 当時は通信手段がないから、一旦出ていったら、還ってくるまで、何もわからない。かれこれ一年経って、帰国してこなくても、単に日程が延びたのか、何かあったのかわからない。

 当時は、保険制度もないから、船団が帰還しなければ大金が失われる。

*遠距離買付の難点
 このように自前で遠路を買付に行くと、買付費用以外に、乗組員の長期遠距離出張に要する全費用を負担しなければならない。造船費用まで考えるととてつもなく膨大な資金が必要である。

 以上の概要だけで、中和纏向から狗邪韓国まで買付に出かけるのは、無謀だとわかると思う。

 幸い、無謀な大事業に取り組もうにも、先立つものが、まるで整わないので失敗しないのである。

*支払いの困難さ
 以上、大金、資金など現代語を使ったが、当時、普遍的通貨はないから「もの」で支払うことになる。

 もし、米俵を持参するとなると膨大である。絹織物のようなものであれば、嵩張らないだろうが、市場相場がわからないと、適切な価格評価がわからない。

 社会基盤が整った後世にならないとできないことだと思うのである。

                                                未完

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