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2018年2月 3日 (土)

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 11/17

私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記

※纏向遺跡の出現 未踏の大事業
 続いて、纏向の権威者は、「箸墓古墳」が最初の巨大古墳と言い放つが、異論は多数あるであろう。なぜか、百メートル台は「巨大古墳」でなく、二百メートル台になったのが、画期的という意味が不明である。と愚考する。

 民博の方は、纏向が巨大墳墓の最初と決めつけていて、その勢いで、ここから巨大墳墓造成の指示を出したために、結果として絶大な権力が形成されたように言う。

 しかし、これほどの巨大な造成が破綻せずに実行できたのは、読み書き算術に熟達したものが、文書で計画管理し、古代国家の要件を備えていたからだと思う。権力という力尽くでなく、「知」の集結であろう。

 どの墳丘墓が最初であれ、地域初の前例なき巨大墳墓は、前例なき広範囲から、前例なき大量、長期動員することが必要であり、そのような前例なき指示を出し、どれだけ年月を要して、どれだけ苛烈に強制したかは別として、最終的に完工できるまで、地域全体を管理、服従させたということは、それ自体、文書行政に基づく、前例なき強固な機構が確立していた証拠ではないか。
 「読み書き算術」を供えた、有能な官員が多数育成されていなければ成り立たない話してある。

 そのような偉大な「国家」機構が、順当に後継されず消えたのは不思議であるが、それは、当方の知ったことではない。

※中和への物流の担い手
 「もの」は、自分で移動する足はないが、近隣交易の連鎖によって、バケツリレーのように集落間を移動して、終着地に到着するのである。と愚考する。

 行商人が担いで回ることもできる。鉄斧、石材や米俵は無理だが、釣針、縫針の小物を背負子一杯担いで行けば、どこに行っても、寝泊まりできるし、食うに困らない。

※隘路談義

 当シリーズの別の回で、平城京の物資隘路に業を煮やした聖武天皇が、なら山越の恭仁京や竹ノ内越えの難波京への遷都を行ったとしている。
 平城京南方の纏向は、三―四世紀は、人口集中が進んでいないから、物資輸送の隘路はまだ深刻でないにしても、河川交通に恵まれていないという本質は同じである。
 さしあたっては、背負子担ぎとすると、峨々たる竹ノ内峠も、つづら折れの道をゆるゆる上れば越せるのである。

 一方、淀川水系の終着地木津から緩やかな「ならやま」越えなら、竹ノ内越えよりずいぶん楽なのである。
 当時の社会は、地域政権の所帯が、大量の食糧搬入なしに生存できる程度で、人口安定していたはずである。

 まほろばは、稔り豊かな桃源郷ではないと思う。
                     未完

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