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2018年2月 3日 (土)

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 12/17

私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記

※纏向のまほろば
 隘路談義のついでに、纏向運河について雑感を述べると、運河遺跡の語るものは、常時そのような水運があったという事ではないであろう。纏向付近は、東方の山地から流れ下る河川の渇水と氾濫に苦しんでいたはずであり、運河は用水路、排水路となっていたと推定する。
 そのような、言うならば複合扇状地状態であったため、南北交通は、ながく、山腹を蛇行する「山辺の道」に頼ったのである。ために、狭隘で駄馬の陸運は運用できず、人力の背負子運びと思われる。

※幻の大和川水運

 同様に、盆地西方から河内平野の経路は、主に、竹ノ内峠越えのつづら折れの山道であったと思われる。

 大和川は、そもそも急流であり、時として暴れる川であるから、遡行の水運は成立しがたい(実際上、運用不能)と思われる。遡行を維持するには、人力または馬力曳き船が必須であるが、大和川の川岸にそれらしき曳き路が通じていた形跡は見つかっていないと思う。

 考古学者によると、海船が大和川を南下遡行して柏原辺りの船だまりで荷下ろししていた形跡があると言う。ここまでは、正確な推定だろうと思う。
 そこから、川船で大和川を遡行したと推定しているが、先に述べたように、それはできない相談であり、実際は、陸送に切り替えたのではないかと思われる。

※喪われた大和川水運
 元々遡上できなかった大和川が、纏向造成時代に開鑿されて、建築資材などの重荷搭載した川船を曳いて遡上したとしても、後世、平城京時代は、途絶したのではないかと思う。
 遡上運行が続いていれば、語り継がれているだろうから、そう思うのである。後年設営された平城京は、盆地北部のなら山のすぐ南であり、大和川水運から大きく遠ざかっている。

 因みに、当番組では、古墳造営故事のどさくさ紛れに、大和川を遡行して石材を大量運搬したとか、九州方面から瀬戸内海を歴て貢ぎ物を献じたとか法外な空想まで持ち込んでいる。
 纏向領域で、九州を含む各地産物が発掘されたのは事実だろうが、当時は、それほどの広域を支配した政権が存在しないから、政権が指示して、はるばるここまで貢納させたわけではないのである。

 大層なことを言わなくても、地域間交易の鎖が繋がっていれば、誰かがわざわざ持参しなくても、月日は要するが、ものは自力で到来するのである。

 纏向説は、当時限りの「共同幻想」と思えるのである。

 当特番では、大規模墳丘墓を、ほぼ纏向に限っているが、吉備や河内、さらには、南山城の墳丘墓については、ほとんど語らないのである。これも、不思議である。
                     未完

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