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2018年4月26日 (木)

私の意見 邪馬台国の会 第367回講演記録 長大論 2/3

                        2018/04/26
私の見立て ★★★★★ 2 倭国の大乱 の当部分に限る

*余言2
 最後にあげられたのは、当ブログ筆者も検索・渉猟した中国史書用例であり、東夷伝で倭人伝に先立っている高句麗伝の用例に続いて、曹丕が帝位を継いだ西暦二百二十年、三十四歳の姿を「長大」と形容した例が示されていて、本用例については、当方からの考察を加えることができると考えた。

*呉書諸葛瑾伝
 この記事は、呉書諸葛瑾伝、即ち東呉孫権の重臣で、当時は呉王配下の左将軍の任にあり、東呉の建国と共に大将軍に上り詰めた諸葛瑾の伝の引用である。因みに、諸葛瑾は、三国鼎立時代前半に蜀漢宰相を務めた諸葛亮(孔明)の実兄として知られているが、政務に私情を交えなかったことで知られている。

 記事は、諸葛左将軍の呉王孫権に対する進言を史官が「呉国史稿」に書き留めたものと思われ、東呉政権内部の言葉遣いそのままであって、三国志編者たる陳寿が、魏志記事に相応しい視点、用語で書き残したものではないと思われる。

*呉書と蜀書
 いや、予告無しの不意打ちで「呉国史稿」と呼んだ史料は、もちろん、実在のものではなく、東呉が、秦漢に続く国家としての呉を名乗り、皇帝を擁立した以上、必須とされる国志編纂史料を仮にそう呼んだのである。別に高度な史料でなく、後に、晋朝が発行したような「起居註」のように、皇帝の日々の行動、発言を逐一記したものであり、史官が交替で君側に伺候して、ひたすら記録し続けるのである。

 陳寿の述懐として、蜀漢は、蜀漢に仕えて知っていたが、漢の後継王朝と言いながら、先主劉備、後主劉禅の皇帝二代の君側に史官が伺候していなかったので、正確な記録が残っていないことを歎いていたが、呉については何も言い残していないので、「呉国史稿」は残されていたのであろう。

 ただし、諸侯王は、自国の史稿を残すことを許されないので、亡国の際に廃棄されただろうが、史官の生き残りにより、密かに呉書が書き綴られたのだろう。

*進言の背景・真意
 思うに、この進言は、在位六年で没した曹丕について語ったものではなく、後継の曹叡(西暦二百二十六年)が二十一歳の若輩で、実母たる皇太后の後ろ盾は無く、先帝の兄弟は、曹丕の邪魔にならないように、早々に政権から排除され、また、皇帝見習いとしてむしろ酷使されていた曹丕自身と異なって、洛陽政権から隔離、保護され、温存されていたために自身の軍事、行政の実績が無く、従ってそうそう、曹丕以来の老臣の支持も乏しい、まことに心細い姿を評したものと思われる。

                                        未完

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