私の意見 邪馬台国の会 第367回講演記録 大乱小論 3/3
2018/04/29
私の見立て ★★☆☆☆ 当部分に限る
*後代史書論
梁書は、「侯景の乱」で帝都建康が反乱軍により包囲され陥落し梁が壊滅した際と次代陳の亡国の際に散逸したと思われる南朝「梁史稿」を、在野史料などによって復活させたものであり、検証を経ずして正確さを言うべきものではない。
因みに、公孫淵誅殺は、景初二年の出来事であり、引用しているような景初三年の事件ではないのではないか。また、遼東における公孫氏滅亡と遙か南方の帯方郡の魏朝帰属とそれに続く郡の倭国使節招聘の二つの事歴の時間的な前後は、魏書には明記されていないので梁書を起用したと思われるが、梁書編纂時の魏書解釈が正しいという保証はないと見る。
北史は、史料の乏しい北朝諸国史を、正統の魏(北魏)を継いだと称する隋、唐以降の北朝系の史官が再構成したものと思う。北朝諸国は、東夷倭国との通交がなかったため、東夷倭国伝とすべき独自素材がなく、魏晋南朝の東夷倭国伝を流用したものと思われる。
*継承と改竄
このように、倭人伝編纂時期から遙か後世の史書編纂に際して使用した史料の正確さを考えると、普通の解釈では、何れかの時点で、倭人伝記事引用資料に書き足し、ないしは、読替えによる改竄がされたということであり、それ以後は、帝室書庫に門外不出で所蔵されていた同時代原本と別に、そのように改竄された「通用史料」が継承されたということである。
いかなる誤記、誤解、書き足しも、同時代原本と対照し校閲訂正しなければ継承されるが、そのような改竄内容は、遡って同時代原本に至ることは無い。
*公孫氏小伝 確認のみ
次項を含めて、本件批判の背景にある個人的な意見(建安史観)を述べただけであり、他人に押しつける意図はない。
公孫氏の遼東における自立について確認すると、建安九年(二百四年)に楽浪郡を支配下に収め、建安十二年(二百七年)に袁氏が滅亡して、曹操の支配が及んだが、河水以北を確保した曹操が、西方、南方の制圧を優先したので、服従している限り、討伐を受けることはなかった。
*曹操建安年紀 確認のみ
曹操は、単身同然で帝都長安を脱出して以来、流浪・窮乏の(後の)献帝を君主として迎え、冀州の鄴を首都とし、改元した建安元年(百九十六年)に実質的君主となった。
但し、一度崩壊した漢朝の権威は、曹操の武威をもってしても、直ちに全国の群雄に号令するに至らなかったため、以後も、建安(天下泰平)の元号のもと、四半世紀に亘る天下平定の戦いが続いたのである。
漢朝の名のもと、曹操は、抜きんでた勢力を確立し、建安十三年(二百八年)に漢の丞相に任じられ、以後、同十八年(二百十三年)魏公、同二十一年(二百十六年)魏王の栄誉を加えたが、同二十五年(二百二十年)に没するまで、漢朝を廃して新王朝を拓くことはなかったので、取り敢えず、漢帝国の紀元前二百二年(元号無し)以来、四百年余の伝統は保たれた。
完
*後代史書論
梁書は、「侯景の乱」で帝都建康が反乱軍により包囲され陥落し梁が壊滅した際と次代陳の亡国の際に散逸したと思われる南朝「梁史稿」を、在野史料などによって復活させたものであり、検証を経ずして正確さを言うべきものではない。
因みに、公孫淵誅殺は、景初二年の出来事であり、引用しているような景初三年の事件ではないのではないか。また、遼東における公孫氏滅亡と遙か南方の帯方郡の魏朝帰属とそれに続く郡の倭国使節招聘の二つの事歴の時間的な前後は、魏書には明記されていないので梁書を起用したと思われるが、梁書編纂時の魏書解釈が正しいという保証はないと見る。
北史は、史料の乏しい北朝諸国史を、正統の魏(北魏)を継いだと称する隋、唐以降の北朝系の史官が再構成したものと思う。北朝諸国は、東夷倭国との通交がなかったため、東夷倭国伝とすべき独自素材がなく、魏晋南朝の東夷倭国伝を流用したものと思われる。
*継承と改竄
このように、倭人伝編纂時期から遙か後世の史書編纂に際して使用した史料の正確さを考えると、普通の解釈では、何れかの時点で、倭人伝記事引用資料に書き足し、ないしは、読替えによる改竄がされたということであり、それ以後は、帝室書庫に門外不出で所蔵されていた同時代原本と別に、そのように改竄された「通用史料」が継承されたということである。
いかなる誤記、誤解、書き足しも、同時代原本と対照し校閲訂正しなければ継承されるが、そのような改竄内容は、遡って同時代原本に至ることは無い。
*公孫氏小伝 確認のみ
次項を含めて、本件批判の背景にある個人的な意見(建安史観)を述べただけであり、他人に押しつける意図はない。
公孫氏の遼東における自立について確認すると、建安九年(二百四年)に楽浪郡を支配下に収め、建安十二年(二百七年)に袁氏が滅亡して、曹操の支配が及んだが、河水以北を確保した曹操が、西方、南方の制圧を優先したので、服従している限り、討伐を受けることはなかった。
*曹操建安年紀 確認のみ
曹操は、単身同然で帝都長安を脱出して以来、流浪・窮乏の(後の)献帝を君主として迎え、冀州の鄴を首都とし、改元した建安元年(百九十六年)に実質的君主となった。
但し、一度崩壊した漢朝の権威は、曹操の武威をもってしても、直ちに全国の群雄に号令するに至らなかったため、以後も、建安(天下泰平)の元号のもと、四半世紀に亘る天下平定の戦いが続いたのである。
漢朝の名のもと、曹操は、抜きんでた勢力を確立し、建安十三年(二百八年)に漢の丞相に任じられ、以後、同十八年(二百十三年)魏公、同二十一年(二百十六年)魏王の栄誉を加えたが、同二十五年(二百二十年)に没するまで、漢朝を廃して新王朝を拓くことはなかったので、取り敢えず、漢帝国の紀元前二百二年(元号無し)以来、四百年余の伝統は保たれた。
完
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