« 2018年3月 | トップページ | 2018年5月 »

2018年4月

2018年4月29日 (日)

私の意見 邪馬台国の会 第367回講演記録 大乱小論 3/3

                         2018/04/29
私の見立て ★★☆☆☆ 当部分に限る

*後代史書論
 梁書は、「侯景の乱」で帝都建康が反乱軍により包囲され陥落し梁が壊滅した際と次代陳の亡国の際に散逸したと思われる南朝「梁史稿」を、在野史料などによって復活させたものであり、検証を経ずして正確さを言うべきものではない。

 因みに、公孫淵誅殺は、景初二年の出来事であり、引用しているような景初三年の事件ではないのではないか。また、遼東における公孫氏滅亡と遙か南方の帯方郡の魏朝帰属とそれに続く郡の倭国使節招聘の二つの事歴の時間的な前後は、魏書には明記されていないので梁書を起用したと思われるが、梁書編纂時の魏書解釈が正しいという保証はないと見る。

 北史は、史料の乏しい北朝諸国史を、正統の魏(北魏)を継いだと称する隋、唐以降の北朝系の史官が再構成したものと思う。北朝諸国は、東夷倭国との通交がなかったため、東夷倭国伝とすべき独自素材がなく、魏晋南朝の東夷倭国伝を流用したものと思われる。

*継承と改竄
 このように、倭人伝編纂時期から遙か後世の史書編纂に際して使用した史料の正確さを考えると、普通の解釈では、何れかの時点で、倭人伝記事引用資料に書き足し、ないしは、読替えによる改竄がされたということであり、それ以後は、帝室書庫に門外不出で所蔵されていた同時代原本と別に、そのように改竄された「通用史料」が継承されたということである。

 いかなる誤記、誤解、書き足しも、同時代原本と対照し校閲訂正しなければ継承されるが、そのような改竄内容は、遡って同時代原本に至ることは無い。

*公孫氏小伝 確認のみ
 次項を含めて、本件批判の背景にある個人的な意見(建安史観)を述べただけであり、他人に押しつける意図はない。

 公孫氏の遼東における自立について確認すると、建安九年(二百四年)に楽浪郡を支配下に収め、建安十二年(二百七年)に袁氏が滅亡して、曹操の支配が及んだが、河水以北を確保した曹操が、西方、南方の制圧を優先したので、服従している限り、討伐を受けることはなかった。

*曹操建安年紀 確認のみ
 曹操は、単身同然で帝都長安を脱出して以来、流浪・窮乏の(後の)献帝を君主として迎え、冀州の鄴を首都とし、改元した建安元年(百九十六年)に実質的君主となった。
 但し、一度崩壊した漢朝の権威は、曹操の武威をもってしても、直ちに全国の群雄に号令するに至らなかったため、以後も建安(天下泰平)の元号のもと、四半世紀に亘る天下平定の戦いが続いたのである。
 漢朝の名のもと、曹操は、抜きんでた勢力を確立し、建安十三年(二百八年)に漢の丞相に任じられ、以後、同十八年(二百十三年)魏公、同二十一年(二百十六年)魏王の栄誉を加えたが、同二十五年(二百二十年)に没するまで、漢朝を廃して新王朝を拓くことはなかったので、取り敢えず、漢帝国の紀元前二百二年(元号無し)以来、四百年余の伝統は保たれた。
                       完

私の意見 邪馬台国の会 第367回講演記録 大乱小論 2/3

                         2018/04/29
私の見立て ★★☆☆☆ 当部分に限る

*景初三年の怪 再説
 皇帝曹叡(明帝)の臨終の床での司馬懿謁見は、三国志全巻でも燦然としていて、晋朝創業に繋がる吉兆として描かれているが、それにしても、帰還即日参上は誇張であり、数日前、つまり前年中に洛陽の自邸に帰着しているはずである。

 明帝享年混乱の一因は、明帝が没した月を、前年景初二年の「後の十二月」として、一月一日の命日を避けたことに起因した混乱にあるように思われる。当時の数え年齢では、景初二年没と景初三年没では、享年が一年違うのである。

 因みに、健在、病臥に拘わらず、皇帝が署名すれば、皇帝印を押した詔書は発行できるし、時には、皇帝署名無しでも詔書は発行できる皇帝は「自然な」行いはできないのである。

*翰苑論 再説含む

 論拠とする史料、翰苑の紹介が端折られているが、現存する世界唯一の写本は、全巻でなく写本残巻である。

 また、翰苑は史書ではなく通史でもない。もちろん、国家として編纂を進めたものではないから、帝室書庫の正史原本などを参照することはできなかった。確か、勅許のない民間人の史書編纂は、大罪であった。張楚金の編著がどのような位置付けで行われ、唐時代に写本継承され、どのような経緯で二世紀近い後年に雍公叡によって付注されたのか一切不明である。

 後年正史と認定された三国志や後漢書ですら、写本継承の経過が不明だから、一切信用できないとする論客があるくらいだから、翰苑や国内史料は、異本、異稿との丹念な比較検証を経ないと、どこまで信用できるか不明ではないかと思われる。

 翰苑記事が「はっきり」書かれていることを採用根拠としているが、文字を書いた人間が原稿を書いたのでは無いから、「はっきり」記していても誤記はある。

 古来、二と三との取り違いは、珍しくない。まして、「翰苑」残存写本断簡は、筆運びが華麗で字形が妖しく、素人目に明らかな誤字をしばしば堂々と書いているので、書かれている文字に、無条件の信を置くべきでは無いと思われる。写真版を見て頂ければ、明らかである。

*翰苑論の系譜 文献紹介
 翰苑論は、竹内理三氏の著書(「翰苑」 吉川弘文館)が嚆矢であり、史料全文写真版は唯一である。

 早い段階で考察を加えたのは、内藤湖南氏(研幾小録 舊鈔本翰苑に就きて「内藤湖南全集第七巻」)であり、後年、克明な論考を加えたのは、古田武彦氏(「邪馬一国への道標」第4章 十一歴代の倭都は「謎」ではないーー『翰苑』をめぐって)である。

 寡聞未見なだけで、諸論奮発していると思うが、世上には、子引き、孫引きか多いのでなかなか目につかない。
                       未完

私の意見 邪馬台国の会 第367回講演記録 大乱小論1/3

                         2018/04/29
1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史

私の見立て 後記部以外は、未読のため、無評価。
 当ブログ記事は、安本美典氏主催「邪馬台国の会」が、概算で三〇年を越えて、ほぼ月例で開催している講演の記録紹介と批判である。当ブログで「批判」が論点否定でないのは、いつもの通りである。

私の見立て ★★☆☆☆ 当部分に限る
 ここで取り上げたのは、「2倭国の大乱」の一部であり、別記事の「長大論」で取り上げた段落に続く部分である。

■後漢末、遼東には、公孫氏が蟠踞(ばんきょ)していた
 当段落は、前段に丁寧に展開された卑弥呼長大論挿話に続いて、今回の講演の本題である「大乱」を描き出そうとしていると思われる。

 ことさら字数を費やして力説しているのは、倭人伝に書かれていない「大乱」を、それ以外の後世史書記録と風聞で綴り上げる大技を意識してと思われるが、論理の強さは、語勢の強さや字数の多さでなく、論拠の確かさ、論理展開の滑らかさにあるのではないかと思われる。

*段落総評
 総合して、当段落の論説は、不安定な論拠と不安定な論理展開に陥っているものと思われる。

 最大の弱点は、もっとも適確な記録と思われる倭人伝が記事に残していない「大乱」を、後漢書を起点として説くも、総じて根拠不確かで、論理展開も不出来なためと思われる。

 また、倭人伝以外の部分の魏書記事を上げて状況証拠としているが、核心となる、寡黙な倭人伝を華麗に上書きする論拠を持たないものと思われる。
 憎まれるのを承知で言うと、倭人伝に、『倭国「大乱」はなかった』と思われるのである。

*避けたい時代錯誤

 講演録の限界でもあるが、全体に元号抜きで、当時ローマで通用していたと思われる太陽暦とは言え、後世、六世紀にローマ暦紀年に変えて採用されたとされる西暦年を表記するのは、誤解を招く時代錯誤である。横着とみられても仕方ない。

 概念としての時代錯誤として「独立」がある。
 公孫氏は、中央政府の諸侯管理の崩壊で帰属先を無くしたのであって、今日言う意味での「独立」などせず、後に帝都に人質を送ったが、自身の皇帝拝謁は行わなかった程度である。漢の一官吏であった曹操が、帝国崩壊の瓦礫から残骸を拾い集めて帝国複製品(レプリカ)をでっち上げたが、慌てて平伏する必要もあるまいと様子見していたと思うべきである。

 文献記録の乏しい古代に対して、時代錯誤の概念を持ち込むのは、正確な時代観形成を疎外するように思われる。
                       未完

2018年4月26日 (木)

私の意見 邪馬台国の会 第367回講演記録 長大論 3/3

私の見立て ★★★★★ 当部分に限る

*天下三分の計
 当時、すでに五十歳の左将軍にしてみれば、自身の一回り下であって、主君孫権の五歳下であって同世代後輩である三十四歳であっても曹操の元で軍功を積んでいた曹丕すら「若造」だったのに、新帝曹叡は、孫権の二回り下で、軍功も何もない年端もいかぬ子供、幼帝ではないか、恐るるに足らずと酷評したと思われる。

 進言の時点まで、孫権は、江東に君臨していたというものの、強大な魏に臣従して、長江上流に割拠する蜀漢との抗争を有利に進めようと帝位を称さずにいた。
 しかし、進言を受けて、天下を眺めると、非力な曹叡を頂く曹魏には、天下統一の威勢無しと見極めたのである。

 かくして、西暦二百二十九年、孫権は呉国を創立して、天子に就き、さらに蜀漢と和解して簒奪者曹魏を攻撃する姿勢を取ったと呉書は述べているようである。いわば、東呉版、天下三分の計であるが、三国三君でも、孫権の評判は悪いので、諸葛瑾も割を食っているようである。

*古田説への異論
 閑話休題。
 以上、論拠のない当て推量ばかりの余談が長引いてしまったが、当呉書記事は、そのような由来で書かれているのである。

 古田武彦氏は、三国志は、陳寿によって、統一した方針で編纂されたという見方をしていたため、いわば、当然の帰結として、「倭人伝」「長大」解釈の随一典拠として卑弥呼三十代説の用例として依拠したものである。

 しかし、以上、長々と講釈したように、当記事は、客観記事でなく、東呉が自立を正当化するために「作った」記事と解すべきであり、従って、諸葛瑾によって「長大」と形容された曹丕即位時の実年齢三十四歳自体は単に参考とすべきである。と言うのが、当ブログ筆者の頑固な古田説批判である。

*堅固な論説
 誤解されると困るので念押しすると、安本氏は、曹丕用例に特別な意義を見ず、国内史料考察を中心に着実、かつ柔軟に積み重ねて堅固な論拠を積み重ねているのは、揺るぎない末広がりの堅固さであり、論考姿勢としてまことに賢明と言える。

 古田氏を始め、古代史解釈において、素人受けする「ユーレカ」事例(アルキメデス気取り)や「コペルニクス」事例に肖る一発論説はしばしば目にするが、学問の世界は、着想が全てではなく、堅固な物証、論証の積み重ねに注目すべきである。

 本記事における「長大」論展開は、目立たないが、安本氏畢生の偉業と考える。(迂遠な自画自賛とは自覚している)
                                          完

私の意見 邪馬台国の会 第367回講演記録 長大論 2/3

                        2018/04/26
私の見立て ★★★★★ 2 倭国の大乱 の当部分に限る

*余言2
 最後にあげられたのは、当ブログ筆者も検索・渉猟した中国史書用例であり、東夷伝で倭人伝に先立っている高句麗伝の用例に続いて、曹丕が帝位を継いだ西暦二百二十年、三十四歳の姿を「長大」と形容した例が示されていて、本用例については、当方からの考察を加えることができると考えた。

*呉書諸葛瑾伝
 この記事は、呉書諸葛瑾伝、即ち東呉孫権の重臣で、当時は呉王配下の左将軍の任にあり、東呉の建国と共に大将軍に上り詰めた諸葛瑾の伝の引用である。因みに、諸葛瑾は、三国鼎立時代前半に蜀漢宰相を務めた諸葛亮(孔明)の実兄として知られているが、政務に私情を交えなかったことで知られている。

 記事は、諸葛左将軍の呉王孫権に対する進言を史官が「呉国史稿」に書き留めたものと思われ、東呉政権内部の言葉遣いそのままであって、三国志編者たる陳寿が、魏志記事に相応しい視点、用語で書き残したものではないと思われる。

*呉書と蜀書
 いや、予告無しの不意打ちで「呉国史稿」と呼んだ史料は、もちろん、実在のものではなく、東呉が、秦漢に続く国家としての呉を名乗り、皇帝を擁立した以上、必須とされる国志編纂史料を仮にそう呼んだのである。別に高度な史料でなく、後に、晋朝が発行したような「起居註」のように、皇帝の日々の行動、発言を逐一記したものであり、史官が交替で君側に伺候して、ひたすら記録し続けるのである。

 陳寿の述懐として、蜀漢は、蜀漢に仕えて知っていたが、漢の後継王朝と言いながら、先主劉備、後主劉禅の皇帝二代の君側に史官が伺候していなかったので、正確な記録が残っていないことを歎いていたが、呉については何も言い残していないので、「呉国史稿」は残されていたのであろう。

 ただし、諸侯王は、自国の史稿を残すことを許されないので、亡国の際に廃棄されただろうが、史官の生き残りにより、密かに呉書が書き綴られたのだろう。

*進言の背景・真意
 思うに、この進言は、在位六年で没した曹丕について語ったものではなく、後継の曹叡(西暦二百二十六年)が二十一歳の若輩で、実母たる皇太后の後ろ盾は無く、先帝の兄弟は、曹丕の邪魔にならないように、早々に政権から排除され、また、皇帝見習いとしてむしろ酷使されていた曹丕自身と異なって、洛陽政権から隔離、保護され、温存されていたために自身の軍事、行政の実績が無く、従ってそうそう、曹丕以来の老臣の支持も乏しい、まことに心細い姿を評したものと思われる。

                                        未完

私の意見 邪馬台国の会 第367回講演記録 長大論 1/3

                       2018/04/26
第367回 邪馬台国の会

 1 中国・後漢末の動乱 2 倭国の大乱 3 古代青銅鏡小史

私の見立て 後記部以外は、未読のため、無評価。

 当ブログ記事は、安本美典氏主催「邪馬台国の会」が、概算で三十年を越えて、ほぼ月例で開催している講演の記録紹介と批判である。当ブログで「批判」が論点否定でないのは、いつもの通りである。

私の見立て ★★★★★ 2倭国の大乱 の当部分に限る
 首掲サイト記事の講演会記録は筆者紹介がなく、主催者安本氏が書かれたとしている。失礼があればご容赦いただきたい。

■長大---長大(ひととなる)
『魏志倭人伝』につぎの文がある。

卑弥呼の年齢について述べた個所である。
「年、已(すで)に長大なれども、夫壻(ふせい)無し。」

 この文のなかの「年已(すで)に長大なれども」とはどういう意味であろう。なんとなく「おばあさんであるが」という意味のような印象を受ける。「おばあさん」とはいかないまでも、「年をとっても」などと翻訳されていることが多い。

 しかし、ここの「長大」はその上よな(ママ)意味ではない。「成人したけれども」あるいは「大人になったけれども」の意味である。それは、日本の古典の使用例からも、中国の文献の使用例からも、そう言える。


*明解・堅実な論考
 上記引用部に始まる安本氏の論考は、古代史学界の泰斗にふさわしく、論拠と論旨が明快であるので、このような明言をいただき感謝すること大である。
 まず、「」で、筑摩書房版三国志魏書の日本語訳を引用され、「定説」に対して、内外文献を根拠に合理的な「長大論」を展開される筆致は燦然たるものがある。

 「倭人伝」の「長大」の解釈を論じて、壮語を避け、着実に足場を踏み固めて論説する進め方は、論旨に同意できない方達も物書きとして大いに参考とすべきであると考える。

*豊富な古典用例
 私見では、日本の古典の用例は、後世資料であるので、参考でしかないと思うのだが、その執筆時点で継承されていた字義を示していて、数世紀遡った三世紀に典拠とされていた字義、すなわち、「長大」は、現代語でも言う「成人となる」(動詞表現)で使われていたとの用例解釈は尊重すべきである。当ブログ筆者が浅学の分野であるが、「論じ方」に賛成する。

*余言あり
 余計な素人考えかも知れないが、ここは、個別用例の学術的評価であるから、各用例の評価を怜悧に揺らさず、「文脈から、然々(しかじか)の意味で用いられていると見る」と揃えた方が、拙く(つたなく)見えても、一般読者が解釈に困らなくて良いのではないか。

                                                    未完

2018年4月23日 (月)

今日の躓き石 暴走に関する苦言 法の精神(正義)はどこに

                      2018/04/23
 今回の題材は、新聞の誤記とか言うものでなく、司法界の心得違いを問うものである。
 
 一例では、無免許運転で暴走していた車が死亡事故を起こしたのに対して、無免許運転で事故を起こさず走行してきたから、運転者の技量は十分であったと判断するという論法である。
 
 当時すぐに思いついた反論があったのだが、司法関係者が判断すべき事項であり、やじうま的な議論は控えたのだが、六年を経て、どこからもそのような異議が出ていないようなので、当方の素人考えをここに公開する。
 
 被告は、無免許運転の暴走という違法行為の果てに死亡事故を起こしたのであるから、被告は、事故を起こす以前から無免許運転という違法行為をしていたのである。そのような違法行為の結果を、被告に対して有利に援用するのは、法の精神、つまり、正義に反しているので、証拠として採用すべきではないと考える。
 
 誰が考えても、被告の違法な無免許運転は、たまたま、事故を起こさなかったと言う「結果オーライ」なだけで、技術未熟な、あるいは、違法で危険な運転をしていなかったという証拠は無いのである。一定時間走行して事故が起きなければ、運転者の技量を認定するのであれば、現行の運転免許試験は、無意味と言われかねない。
 
 それとも、権威ある第三者の見解で、運転者の技量を称する基準として、そのように証言されたのであろうか。
 
 裁判の基本は、推定無題であるが、証拠を悉く被告に有利に判定するというのでは、法の精神は地に墜ちると言わねばならない。
 あるいは、被告が、正統な裁きを受けて、受刑し、自身が犯した罪を償う機会を奪うものと言うこともできる。まことに不公正ではないか。被告は、終生、巧妙な言い逃れで、自身の犯した罪の報いを免れた卑劣漢と指弾され続ける軛を負い続けるのである。
 
 弁護人は、自身の功名を追究するのではなく、被告の全き贖罪を追究すべきではないかと思う。
 
 以上の通り、いずれの立場から見ても、被告が違法状態で成した違法行為の結果は、被告に有利な証拠として採用してはならないと考えるものである。
 
 言うまでもないが、当方は、いかなる権威も持たない私人であるから、以上に述べた見解が、法的に正しいと主張するものではない。
 
以上

2018年4月 8日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞の汚点 スポーツ面に「リベンジ」絶えない醜態

                  2018/04/08
 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版のスポーツ面のプロ野球記事である。
 好成績(結果)を収めながら、余計者として放出された選手が、独立リーグで再起への出発を飾ったという、大変結構な記事なのだが、何としたことか、「リベンジ始動」と、この上なく汚い言葉で見出しを付けられては、前途は険しいと思う。

 おそらく、プロ球界への復帰を期しているのだろうが、こう大々的に恨み言を書かれると、この選手を自チームに迎えるのは、当該球団の扱いを不当とし、選手の復讐心に加担することになるので、とても採用に乗り出せないのではないか。
 当人がそのような不穏な発言をしたとしたら、自身で、球界復帰の道を閉ざしたことになる。(「球団」とは、プロ野球のものであり、「球界」とは、プロ野球界のことである。)

 毎日新聞は、この選手の未来を呪う、球界への復帰の可能性を断つ記事を書いたことになる。

 それにしても、輝かしい伝統を持つ全国紙である毎日新聞での「リベンジ」の蔓延には、情けないものがある。

 スポーツ選手は、単なる向上心では刺激が足りず、なにか激烈に闘志をかき立てる呪文が必要のようだが、スポーツの上でのライバルに対して、ぶっ殺してやるとか、血祭りだとか、とんでもない言葉を言い立てないと「モチベーション」が保てず、力を尽くせないのだとしたら、いさぎよく、スポーツ界を去るべきである。

 ついでに言うと、当記事の担当記者は、趣旨不明にしているが、現在の若者言葉では、「リベンジ」は、血塗られたものでなく、生ぬるく見える「再挑戦」、「リチャレンジ」が大勢のようである。

 一つのカタカナ言葉として、英語直訳の第一義すら、理解困難として一般読者を困らせているのに、それと見分けの付かない第二義を紛れ込ませるのは、報道の大義に背く、不適切なものである。簡単に言うと、言いたいことは、読者に明解に伝わるように、しっかり書くものではないのかということである。
 オヤジ好みの不穏な「リベンジ」を、ぶち殺して駆逐したいのであれば、言いっぱなしにするのではなく、その場で補足すべきなのである。

 それにしても、リベンジを期する、とは、どんな意図で書いたのだろうか。当人は、俺の実力を見ろ、採用すれば、即チームの力になる、ことを示したいのではないか。それであれば、他球団にけんかを売るものではないから、採用に動くチームもあるかも知れない。最初に書いたように、「リベンジ」報道は、未来に暗雲を投げかけている。困ったものである。

 最後になるが、天下の毎日新聞には、このような不出来な記事を是正する編集機能はないのだろうか。
 担当記者が書き散らしたものが紙面に蔓延するのであれば、もはや、フェイクニュースへの歯止めも、ないということであり、組織として権威を期待される大新聞も、組織が機能しないということであり、組織として、報道の頂点から退陣すべき時が近づいていると懸念されるのである。

以上

2018年4月 4日 (水)

動画撮影記  東北の春 内陸線 阿仁河川公園 桜満開

 どうも、当方は、内陸線ブログへのコメント投稿を禁止されているようなので、ここに勝手に載せます。
 年に一度程度しか行けない大阪人ですが、秋田内陸線沿線の桜と言えば、阿仁合の河川公園の桜並木は、なかなかの絶景だと思います。(角館は除くとして)

 YouTubeで2,014年の阿仁河川公園の桜満開時の眺めを公開していますので、ご参考まで。

 なお、阿仁河川公園に行くには、阿仁合駅で途中下車し、駅舎を出て直ぐ左に行くと、河川公園に通じる用水路沿いの路に降りる案内板が出ているはずです。(のんびり、一時間程度欲しいところです)

 ブログコメントには、URLは載せられないので、下の部分を検索して見つけてください。

 10分ものになっていますが、特にオチはないので、どこかで再生を切ってもらって結構です。
以上

 それにしても、訳のわからない、つまり、明記されていないコメント投稿禁止ルールがあるのは、何とも情けないものです。

2018年4月 2日 (月)

今日の躓き石 NHKの暴言 「歴史を変える」を憂う

                   2018/04/02
 今回の題材は、NHK News Watch 9の暴言である。
 いや、スポーツの部分ではあるが、公共放送の看板番組で、正しかるべきNHKのキャスター(複数)から、「歴史を変える」との発言かなされたのである。ことは、無教養な民間人の無礼な言動ではない。

 真面目な話、一般的な解釈で、歴史とは過去に実際に起こったことであり、厳にi確定していて、当然、一切変えることはできないのである。少なくとも、日本語ではそうである。

 逆に、変えられない歴史を書き換える試みは、「歴史改竄」として、厳しい非難を浴びているのである。

 もし、NHKが、「歴史」は書き換えられる(べき)ものと認識しているのであれば、近来のように、なし崩しに既定事実としてもり立てるのではなく、公式に表明するべきであるが、それは、政府の方針と合致しているのだろうか。
 意地悪く言えば、政府が、歴史は随時書き換える(べき)もの、と言う認識を持っているのを忖度して、公共放送として、それに沿った発言をしているのだろうか。まことに、まことに不気味である。

 そうそう、じゃあどう言えば良いのかであるが、当たり前のことながら、「歴史に新たなページを付け加える」、とか、「記録を塗り替える」とか、普通の言い方をすれば良いのである。強調するために、いきなり既成の言葉遣いを壊すのは、もの知らずの野蛮人である、と個人的に信ずるものである。
以上

今日の躓き石 デジカメセンサー解像度の錯乱

                      2018/04/02
 今回の題材は、やじうまPC Watchの記事である。

 タイトル自体が、なんとなく意味不明で、何の話か伝わらないのだが、また、いきなり「CMOSセンサー「120MXS」の実写映像」と言うが、CMOSセンサーの実写映像など、動画としても、見ても面白くも何ともないので、画像配信で良いのではないか、などと思ってしまう。考え直して、「の動画」を取ってしまえば、タイトルとしては明解になるのではないか。

 それはさておき、「120MXSは、有効解像度13,280×9,184ピクセルという、フルHD(1,920×1,080ドット)の約60倍に相当する解像度を備えた超高解像度のCMOSセンサーで、同社は2010年に開発の成功を発表している」と打ち出しているが、「約60倍に相当する解像度」と言うのが、とんでもない誤報だと思うのである。

 細かいことは抜きにすると、解像度とは、撮影画像の水平、垂直方向の直線方向で、1インチ当たり何本の線が見分けられるかという単位である。

 それにしても、JPEGなどのデータは、圧縮によって、解像度が低下するので、センサーの解像度の実力評価は難しいと思うのであるが、動画となると、さらに圧縮がかかるので、公平な比較は可能であろうか。もちろん、無圧縮であれば、正確な解像度が評価できるが、これほどの「ど」のつくでかいデータが完全無圧縮で記録できるのだろうか。

 解像度が60倍と言うことは、面で言うと、3600倍のデータが読み取れると言うことであり、途方もない超絶技術だが、それは、途方もない考え違いではないか。3600倍のデータが出力されたら、動画をメディアに記録することなどできないであろう。記事を見ただけで、すぐおかしいと思うのである。いや、メディアに記録するとして、どんな規格によって、どんなフォーマットで圧縮記録するのだろうか。再生機器はあるのだろうか。

 参照されている記事には、当然、そんな途方もない「解像度」は書かれていないから、この数字は、当記事のライター、つまり、カメラ素人の創作なのだろうが、誰も、解像度の意味を教えてくれなかったのだろうか。

 因みに、2010年の開発発表報道は、デジカメウォッチで報道されていて、「新開発のCMOSセンサーは、EOS-1D Mark IVに搭載しているセンサーの約7.5倍となる約1億2,000万画素を有しており、解像度が2.4倍に向上したという。」と、発表内容に沿っていて、創作していない。

 専門知識に欠けたライターの素人考えが、誰も確認しないままに、公開されるのであれば、当サイトの記事には、誤報が避けられないと思うのである。(現在、過去、未来通じて)

 以上、個人経営プログの素人の勝手な言い分なので、勘違いしていたらご容赦いただきたい。
以上

« 2018年3月 | トップページ | 2018年5月 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2022年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

カテゴリー

無料ブログはココログ