私の意見 邪馬台国の会 第367回講演記録 惨状論 2/4
2018/05/01
私の見立て ☆☆☆☆☆ 1.中国・後漢末の動乱の当部分に限る
*仲裁の労
その際、和平策を提示して仲裁の労をになったのは、辛うじて権威を保っていた天皇であり、それを両陣営が受け入れた故に、戦国時代の一翼を担っていた一向一揆は平定されたのである。そのような解決に至ったのは、武装集団が求めていたのは、宗教集団の無害化であって、殺戮では無かったからである。
以上、何の権威も持たない素人の聞きかじりだから、史実の見方や言葉遣いが不穏当であるかも知れないが、かって、日本史上でも、大規模な殺戮の例があって、その一例は、仲裁によって平定されたことを指摘するのみである。
当然、以上の見方に不審はあるだろうから、是非、安直な先入観や偏見、俗説にとらわれて言い飛ばすのではなく、ご自身で、じっくり考察を加えていただきたいものである。
2 太乱記録紹介の意義
皮切りに続いて、延々と展開される太平天国の乱(「太乱」と略称)に関する資料紹介は、倭国古代史とは、時代背景がとてつもなく、途方もなく異なり、まったく古代史に関して参考にならないどころか、大きな誤解を招くので、大いに異議がある。
勝手な言いがかりと言われたくないので、以下、丁寧に説明する。
*太乱概括
太乱は、たかだか二世紀前の近代の事件であるが、正史たる清史が書かれていないので、どんな視点で書かれた文献を「参考」資料として採用するか、厳重な検討、史料批判が必要であると考える。
案ずるに(以下略)、太乱を起こしたのは、キリスト教の影響下に生まれた新興宗教集団であり、すでに二百年近く中国に君臨し、知識の導入には熱心であっても、危険極まりないキリスト教の国内布教を厳重に禁じていた清朝から見ると、そのような叛徒集団は、直ちに滅ぼすべき邪教勢力であったと思う。
太乱の主体は、古来の宗教観を、迷信、偶像崇拝とみて、布教に反抗するものに処刑を加えるものであるから、中華文明に背く邪教集団である。
*清朝概観
かたや、清朝は、中国東北部の満州族が、先行する明朝の三世紀に亘る頑強な政権が内乱に討たれて崩壊したのに乗じて全土制覇した政権であり、異民族だが往年の元朝とは異なり、中華文明に忠実な正統政権として治める大義名分を得ていた。
従って、中華文明を破壊する邪教集団は、天下の敵であり、何としても撲滅しなければならない、と言う大義名分、主たる動機があった。
そのような対決の際に、それぞれ、自身の行動を正当化するから、軍事行動の範疇を越える残酷な所業があったのは、確かなところであろう。
未完
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