今日の躓き石 毎日新聞 スポーツ報道の解決されない課題
さて、およそ課題は、解決可能なものと解決不可能なものがある。永遠の課題などと、不朽の生命を保つ課題は、別に珍しくない。
今回挙げている課題は、選手個々の身体特性をあげつらっているものであり、個人としての解決はほぼ不可能であるから、チームとしては、身体検査でもして、特性の不足している者と特性を満たしている者とを入れ替えるしか無いのである。
担当記者は、身体特性による選手入れ替えを、強硬に主張しているようである。
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2018/05/29
*個別確認4
4の主張は、3.までの推定が根拠を確立できていないため、根拠のない暴論となっています。
丁寧に言うと、かりに、推定されている事態か起こって、敦煌残簡以後に(呉国志)特定部の改竄があったと証明する証拠が得られたしても、それは、国志の別の部分に改竄が行われたという確たる根拠にはならないのです。
この部分の結論として、国志に「改竄」が行われたという確実な証拠は、全く存在しないと断定されます。
*誤解列記
写本、刊本時の皇帝僻諱を改竄の事例としていますが、改竄の定義をご存じないようです。僻諱は、特定文字の置き換えなどで皇帝実名などを避けるものであり、改竄して文意を変える意図でなく、刊本ならぬ私的写本で僻諱が適用されたかどうかも、全巻確認しない限り不明です。
また、裴注を改竄の事例としていますが、これも、改竄の定義を外れた暴言です。紹興本、紹凞本などの刊本現存品を見ても、裴注は原文と区別され、原文を書き替えることはありません。
*用語混乱
「改竄」、「善意」、「悪意」などの法律用語を、日常感覚で書き連ねるのは、まことに不用意であると考えます。
*類推の主張
視点を反転して、国志に一切改竄が無かったと断定する絶対的な証拠は無いから改竄の可能性を認めるべきだと力説されているようですが、それは考え違いです。
漠然たる一般論であれば、根拠不確かな推定を押し出さなくても、単なる思いつきの主張として、存在を赦されるものです。
ところが、主張されているのは、特定の部分で特定の内容の改竄があるとの具体的主張であり、それは、確証を持って正しく主張しなければ、単なる暴言だということです。
1-4のような不確かな推定の積み重ねを確証とみているということは、学術的な論証に対する判断能力が欠けているということであり、著者の評価が低下するものです。
*助言
と言うことで、このような論法は、大変損ですよ、と忠告するものです。
所説を主張したいのであれば、正攻法で論証すべきです。世に、曲芸的と揶揄される主張はごまんとありますが、論理の曲芸は、褒め言葉ではなくて、欺瞞の類いとして、排斥されているのです。
おそらく、著者は、嫌われても良いからと苦言を呈してくれる友人をもっていないと思うので、ここに、とびきりの苦言を書き記したのです。
完
2018/05/29
*個別確認1 まとめ
延々と続く残簡記事が、史実を正確に記録しているかどうかは問題ではありません。論点がそっぽを向いています。
また、残簡が、呉国志以外の史料、例えば、韋昭編纂の呉書稿、あるいは、私的史稿を写した可能性は、否定も肯定もできないものです。裴注が無いのもその傍証です。
正体不明、由来不明の史稿残簡が、呉国志と異なる行文としても、何かを証明するものではないのです。
*個別確認2
2.の論証は、物証の示すとおりです。だからといって、何かを証明するものではありません。
*個別確認3
3.「残簡は、その時点の国志写本を正確に写し取っている」とは、時点の国志写本が確認できない以上、検証不能です。つまり、3の論証は推定に過ぎません。
*巻紙談義の余談
残簡は、明らかに巻紙に書き込まれたものであり、行当たりの字数が一定していませんが、字数を揃えるのは、正確な写本の基礎であり、それが守られていないということは、厳格な写本がされていないことを物語っています。
それにしても、国志写本が、当初、巻紙だったのか、冊子だったのかは断言できません。
後漢朝末期の混乱期間に洛陽周辺の紙業も大いに混乱したと思われ、国志編纂時に定寸単葉紙が大量に調達できたかどうか不明です。慣用表現とは言え、国志が巻表示なのも、重視すべきでしょう。つまり、当時、帝室書庫に厳重保管されていた国志写本は門外不出とは言え、巻物形式であった可能性が高いと思われ、敦煌残簡が巻物形式であること自体は、不審の原因とはならないようです。
国志各巻は、長巻物と予想され、残簡上に写本上必要と思われる目印が見られないのは、若干、否定的な要素です。
なお、写本、刊本が、袋綴じの単葉紙になったのは、遅くみると、北宋咸平年間の木版刊本時と思われます。巻紙は印刷できないためです。
*改竄重罪
当代最高写本工まで巻き込む正史改竄は、以後の写本に引き継がれても、世にある写本は書き替えられないので、いずれ露見します。正史改竄は重罪で、一族処刑もあり得るので、同志を得られず実現不能と思量します。
未完
2018/05/29 2018/11/25補筆
邪馬台国と日本書紀の界隈
『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉
サイト記事のトップで、『「邪馬台国熊本説」の中核をなすのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説』と明言されていて商用出版物に次ぐ位置付けとします。
*論考の確認
同サイトの論法は、次のようなものと思われます。
しかし、この段階的論証は、以下順次述べるように確実なものとは言えません。むしろ、可能性薄弱と思われますから、諸説を覆すことのできるものではないと思われます。
*個別確認1
1.は、基本的な論証が欠けています。
著者は、残簡特定部が、呉国志(韋昭呉書との混同を避ける)の特定部と同様記事であったことから、敦煌残簡は、呉国志の写本と速断していますが、これは有力な推定であっても断定できないのです。残簡には、呉国志の一部であることを示す編集事項が書かれていないと考えます。
未完
2018/05/23
「更新版の AdSense 利用規約をご確認ください」と題して、
「Google AdSense チーム」からメールが届いた。
「Google AdSense オンライン利用規約」へのリンクを掲示して、「確認」することを求められた。
「確認」とは、以下のことを言うようである。
必要なご対応: AdSense アカウントにログインし、更新版の利用規約をご確認のうえ同意してください。規約についてご不明な点がある場合は、法務顧問に相談されることをおすすめいたします。
これは命令文であり、「法務顧問」との相談を指示されているが、当方は、一個人なので、相談の相手がない。
問い合わせ、質問の類いは、通常の相談窓口から問い合わせよということらしい。
この更新についてご不明な点がございましたら、お客様のアカウント担当チームにご連絡いただくか、ヘルプセンターからお問い合わせください。
当方は、とつぜん「お客様」と呼びかけられているが、「アカウント担当チーム」など持っていない。
ヘルプセンターに下記問い合わせしたが、責任ある回答が来そうもないので、ここに公開質問状を掲示する。
提案されているAdSense 利用規約に関して、法務的な異議があるので、問い合わせしたい。端的に言えば、違法な契約になっているので、改善をお願いしたい。
法務顧問がいない一人者(ひとりもの)なので、ほぼ独学の素人質問でまことに恐縮だが、これだけ厳重な契約文を持ち出されて、対応を誤ると、とんでもない目(刑事告発、巨額賠償請求、法廷闘争)に遭いそうなので、丁寧に確認するのである。
まず、丁寧に読むと、提供されているのは、「規約」と言いながら、内容は本格的な契約である。現に、表だっては規約、確認と書かれているが、下には「契約」に「同意」せよと書かれている。概念のすり替えでは無いか。
つまり、当方は何者かとの契約締結を命じられているらしい。と言うことで、提案されている契約文が妥当なものか、真剣に、逐一検討し、必要と思われる質問、異議を述べることになる。
随分苦慮したが、他の「お客様」も共通した問題を提起されて苦慮しているだろうから、出入り禁止の人柱となる覚悟で提起するものである。
なお、提案の利用規約案は、公開情報では無いが、機密情報とは明記されていないので、言いがかりで無いことがわかる程度に、最低限必要な範囲で以下引用する。
特に、すぐ上のイタリア景観と対比すると、新装なった駅舎を見せない演出が意図不明なのである。そういえば、個人的には気に入っている新丸ビルも写っていない。どういう意図なのか、これも不審である。
*「時を重ねる景観」私見
以下、得々と私見を述べるが、これは勝手な私見であって、別に読者に同調を求めているのではない。
「古さと新しさが混交し」、「統一感のあるストーリー」を説明できないとおっしゃるが、「13-15世紀」の原景観と比較されても困惑するのである。
13世紀と言えば、鎌倉時代であるし、15世紀は、戦国時代という事でしかない。現在の東京は、ほとんど草ぼうぼうの未開地であり、半ばは海底であったように思う。
*生きた大都市の現在
16世紀末の家康江戸入りまで時代を下っても、当時の風情は、浅草寺に微かに残っているくらいであり、それ以後も、江戸時代の都市造成、埋め立てと大火、維新時の洋風化、震災、戦災で、原景観の大半、と言うか、事実上全ては失われ、その度に発展的に復興されてきたのではないか。
なにしろ、江戸は100万人の生活を支える大都市であったし、後を受けた東京も、この150年間、専ら、政治経済分野で、多数の都民とさらには全国国民を支えたのである。
東京は、生きた都市であり、中世の化石ではないのである。言い方が悪いかも知れないが、汗だくで日本全国を引き立てていった馬車馬の如き無比の存在であり、ミュージアム(美術館、ないしは博物館)の展示物、レジェンドではないのである。
比較する相手が間違っている。せめて、京都と比べるべきではないか。
*ローカル視点と全国視点
それにしても、「統一感のあるストーリー」を説明したいなどと言う東京地区でしか通じないローカルな話題に、近畿圏住民として口は挟まないが、東京都民にどうしろと主張しているのだろうか。まあ、内輪の「恥」を全国紙に書き立てないことである。
*未来の流れ
そもそも、生きた都市は、時が流れ、人は変わり、景観も変わる中で、歴史を残しつつ未来に移っていくものではないか。
なぜ、実現しようのない、後ろ向きの時代感に囚われているのか、理解できないのである。「今どき」の人は、空想的な懐古主義なのだろうか。そのような論理が空虚なのは、肝心の駅舎を隠した広場景観写真にあらわれているように思うのである。
*私見御免
以上、後半の私見に賛同するかたは少ないだろうが、広場写真の欠陥には、大抵の人が同感してくれるのではないかと思い、ここに書き上げたのである。
以上
私の見立て★☆☆☆☆ 2018/05/15
今回やり玉に挙げるのは、毎日新聞大阪朝刊13版社会面の古代史記事である。
驚き桃の木というのは、「邪馬台国強まる畿内説」と大見出しを付けているからである。通常、前日の夕刊の報道と重複する場合は、一部既報と明示するものだが、それは抜けていて、本記事が初出のようになっている。
ここでは、ニュースソースは、桜井市纒向学研究センターが「公表」したとされているが、同センターのサイトに告知はないし、当然、公開資料もない。
ここに書かれていない「14日に公表した研究紀要」を撤回していて、「公表」されたというものの依然として事実確認ができないし、どこまでが公表内容でどこからが記者の私見なのか確認しようがない。
見たところ、「2018年2月24・25日の2日間、纒向学研究センターにおいて平成29年度定例研究集会を開催しました。」とする定例研究集会での発表を公表と言っているのかとも思うのだが、なぜ、二ヵ月以上経過したこの時期に、二大紙が慌ただしく報道したのか、依然としてわからない。
また、本日の報道の本体部分は、名古屋大の中村俊夫名誉教授が、長年に亘り孤軍奮闘していた年代測定方法を顕彰しているようである。
あくまで、提供サンプルのC14年代測定が、ご自身の学究の一つの集大成、つまり、最善の努力による最善の結果であると説明されているものであり、その範囲に限り特に異論は無い。
教授自身も、「この数字をどう捉えるかは考古学者の方たちに委ねたい」とあり、古代史考察は一切行っていない。
と言うことで、この記事は、立派な意義のある紹介記事だが、あくまで参考記事であり、報道内容の裏付けとなるものではない。まるで、スポーツ面の優勝選手紹介である。
となると、夕刊、朝刊に書き出されている「邪馬台国」論は、纏向学研究センター寺沢薫所長の公式見解に基づいたのだろうか。というものの、その発言は、「纏向が三世紀中頃に収まることを示す重要な資料だ」と引用されているだけである。スポーツ面の監督談話のようだが、独占インタビューでも行ったのだろうか。
ここに掲載された断片的な発言の根拠は不確かだし、どこにも、毎日新聞記者が書き立てているような華々しい議論は述べていない。
つまり、毎日新聞の書き方は、研究者が断言していないと思われる事項を、記者の個人的な偏見に基づいて、勝手に断定していていると受け取られるものであり、まことに不穏当である。
2018/05/16追記
2018/05/01
私の見立て ☆☆☆☆☆ 1.中国・後漢末の動乱の当部分に限る
*大量殺戮
いやな言葉で、大量殺戮と言うが、三世紀に行われた悪名高い曹操の「仇討ち」のように、強力な軍隊組織が、指揮官の厳命で取り組まない限り、組織的な軍事行動として持続されないと思うのである。
「太乱」に限らず、蜂起勢力にとって、地域社会は、勢力拡大の原動力であり、貴重な戦力を割いての収穫無き殺戮は考えられない。
古来、他国侵略の際は、他国政権に、復旧負担を与えるために掠奪、暴行が、半ば許容されるが、将来自国に併呑すべき土地では、掠奪、暴行が、厳禁されるのが常道である。
*倭国概観
以下は、個人的な、つまり、素人考えの考察であるが、三世紀に先行する倭国前代、村落に近い小規模なクニ(国邑)の散在状態と思われる。自然、近隣との交流が先にあって、婚姻などの親戚づきあいが生じたと思われるから、互いの喧嘩、諍いは、氏神の祭礼などでの駆け競べ、力比べにより勝敗を競い、様々な場で優先権を定め、戦いに至らない工夫がされたのではないかと思うものである。
そもそも、武装と軍糧を備えた常備軍無しに全面戦争は不可能であるし、全面戦争に農民を大量動員して戦争を拡大すれば、広範囲で農耕が停滞し食糧生産が大不振に陥り、数年を経ずして深刻な飢餓がやってくるのである。全滅である。
いや、戦闘を重ねるにつれて、双方に死傷者が増え、仇討ち、復讐、仕返しの激情が、止めどなく過熱化するのは、古代であっても、むしろ自然な成り行きと思われる。
そのようなことは古代人にとって、自明であったから、戦いではなく、折り合いが求められたはずである。そうであったという証拠は無いが、全滅が発生しなかった以上、どこかで分別が働いていたのである。
今回、この項では、諸国分立状態では戦乱が「歴史の必然」とばかり長々と饒舌を振るわれているが、何のために、そこまで話題を迂回させて、後漢書にしか書かれていない「倭国大乱」を、広域戦乱と実証しようとしているのか、一向に見えてこない。
*無用の暴力的、猟奇的記述・表現
なお、Wikipediaでは、一部、好ましくないと判断した記事、例えば、暴力的記事に対しては、冒頭に警告が付されている。「この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。」読者に、心の準備をする余裕を与え、読者に、忌避する選択肢を与えるものと思われる。
今回の講演記録のこの部分では、邪馬台国の会の名声から期待される品格が損なわれるような、無用、かつ無効な「暴力的または猟奇的な記述・表現」が長々と述べられ、いたずらに聴衆の感性を攻撃して、学術的な講義としての意義を見いだせない。
当世風の言い方に染まると、一種の学術的な聴衆虐待、アカデミックハラスメントではないかと危惧される。
一度、関係者の皆さんがじっくり考えて、ふさわしい対処をしていただければ、まことに幸いである。
完
2018/05/01
私の見立て ☆☆☆☆☆ 1.中国・後漢末の動乱の当部分に限る
*太乱屠城
太乱の暴挙の中には、幹部の一人が殺害された時に、報復として「屠城」、つまり、都市住民全員の殺害を行ったと記録されているが、太乱賊徒にしてみれば、正当な復讐、制裁であり、何ら良心の痛みは感じなかったと思われる。
*文書批判
以下、「軍隊としての規律がとぼしい太平天国の賊徒」と前置きして、清朝御用達の反「太平天国」の視点で書かれた文書が引用されている。
歴史上の事実として、太乱は回天の志を遂げずに敗北したから、勝者たる清朝の戦後処理では、その行いを悉く貶めるのが急務であり、まとめられた文書は、事実の忠実な報告を意図したものでなく、「偏見」「曲筆」の精緻であるのは、自明と思う。
まして、先に引用したような一方勢力に加担した前置き付きで、偏向したと想定される文書の内容を書き立てるのは、この通りに歴史に学べとばかりの偏った引用紹介であり、安本氏の講演として、「絶対に」適さない。
*無用な偏見刷り込み
と言うことで、ここに引用された太乱資料は、十九世紀の歴史上の事実を紹介するものとして不適切である。
また、十九世紀史料は、二世紀の黄巾の乱の際の惨状を推定する参考として全く見当違いである。
付け加えて言うと、二世紀の黄巾の乱と倭国の乱との関連も、不確かであると考える。
そのように、本件資料をもとにした史学的な考察が成り立たない可能性が極めて高い上に、このような資料は、聴衆にとって無用な残酷行為の描写が聴衆に、後々まで消しがたい深い悪心証を与え、加えて、聴衆に、中国五千年を通じ、戦いに残酷行為が相場であったという、歴史理解の邪魔になる有害な中国観を刷り込むものとなりかねない「有害資料」であり、その取り扱いに異議を禁じ得ない。
*暴言の波
すでに、さる公共放送の番組で、猿ならぬ人のコメンテーターが、突然、弥生社会に乱入した「掠奪」主義が倭国の乱の原因であったと、幼児のごとく喚き出す態を示し、そういう安直な暴虐古代史観が、史学会に蔓延しているのではないかと懸念するのである。
*人口激減考察
同時期の中国は、古代国家が確立されて久しく、全国くまなく戸籍が整備され、帝国の骨格となっていたが、漢末、中央政権が壊滅し、要地にあって地方鎮守する軍事拠点が、武力と資材備蓄を備えていたので、各地に紛争が生まれたのである。
生じた広範囲の動乱は、動員農民が不在で、耕作物に対する飛蝗やネズミの大規模な被害を防ぐことができなかったための収穫喪失も含めて、人災としての飢饉を呼び、留守家族を含めた地域社会に大損害を与えた結果に至ったと思われる。
人口十分の一は、ただごとでなく、実際にそうなれば、当該地域社会が崩壊し、生存者も程なく死に絶える。それこそ、県単位で地域社会が消滅したことであろう。
案ずるに基礎となる地域戸籍の壊滅、地域戸籍集計による広域人口調査の劣化が主因と思われる。
戸籍が捕捉できないと、税務としての食糧収集もできず、広く遠隔地にまで日々の食料を求めていた、つまり、到底食糧自給できない首都圏など帝国中核部の飢餓などで、人口額面通りの実害が出たとしても不思議ではない。
未完
2018/05/01
私の見立て ☆☆☆☆☆ 1.中国・後漢末の動乱の当部分に限る
*仲裁の労
その際、和平策を提示して仲裁の労をになったのは、辛うじて権威を保っていた天皇であり、それを両陣営が受け入れた故に、戦国時代の一翼を担っていた一向一揆は平定されたのである。そのような解決に至ったのは、武装集団が求めていたのは、宗教集団の無害化であって、殺戮では無かったからである。
以上、何の権威も持たない素人の聞きかじりだから、史実の見方や言葉遣いが不穏当であるかも知れないが、かって、日本史上でも、大規模な殺戮の例があって、その一例は、仲裁によって平定されたことを指摘するのみである。
当然、以上の見方に不審はあるだろうから、是非、安直な先入観や偏見、俗説にとらわれて言い飛ばすのではなく、ご自身で、じっくり考察を加えていただきたいものである。
2 太乱記録紹介の意義
皮切りに続いて、延々と展開される太平天国の乱(「太乱」と略称)に関する資料紹介は、倭国古代史とは、時代背景がとてつもなく、途方もなく異なり、まったく古代史に関して参考にならないどころか、大きな誤解を招くので、大いに異議がある。
勝手な言いがかりと言われたくないので、以下、丁寧に説明する。
*太乱概括
太乱は、たかだか二世紀前の近代の事件であるが、正史たる清史が書かれていないので、どんな視点で書かれた文献を「参考」資料として採用するか、厳重な検討、史料批判が必要であると考える。
案ずるに(以下略)、太乱を起こしたのは、キリスト教の影響下に生まれた新興宗教集団であり、すでに二百年近く中国に君臨し、知識の導入には熱心であっても、危険極まりないキリスト教の国内布教を厳重に禁じていた清朝から見ると、そのような叛徒集団は、直ちに滅ぼすべき邪教勢力であったと思う。
太乱の主体は、古来の宗教観を、迷信、偶像崇拝とみて、布教に反抗するものに処刑を加えるものであるから、中華文明に背く邪教集団である。
*清朝概観
かたや、清朝は、中国東北部の満州族が、先行する明朝の三世紀に亘る頑強な政権が内乱に討たれて崩壊したのに乗じて全土制覇した政権であり、異民族だが往年の元朝とは異なり、中華文明に忠実な正統政権として治める大義名分を得ていた。
従って、中華文明を破壊する邪教集団は、天下の敵であり、何としても撲滅しなければならない、と言う大義名分、主たる動機があった。
そのような対決の際に、それぞれ、自身の行動を正当化するから、軍事行動の範疇を越える残酷な所業があったのは、確かなところであろう。
未完
2018/05/01
1.中国・後漢末の動乱 2. 倭国の大乱 3. 古代青銅鏡小史
私の見立て 後記部以外は、未読のため、無評価。
当ブログ記事は、安本美典氏主催「邪馬台国の会」が、概算で三〇年を越えて、ほぼ月例で開催している講演の記録紹介と批判である。当ブログで「批判」が論点否定でないのは、いつもの通りである。
私の見立て ☆☆☆☆☆ 1.中国・後漢末の動乱の当部分に限る
講演会来場者がどのような感慨をもたれたかは、当方の知りうるところではないが、端的に言うと、この部分に関しては安本氏の権威と品格に相応しくないものであり、サイトで公開するに適しないものと考える。想像力の豊かなかたは、PTSDなどの心理障害を避けるため、目や耳を塞いだ方が良いと思う。
首掲サイト記事の講演会記録は筆者紹介がなく、主催者安本氏が書かれたとしている。失礼があればご容赦いただきたい。
■「思痛記」にみる惨状
日本の歴史では考えられないが、中国では戦乱などの混乱での殺戮は大規模で悲惨である。この2世紀の黄巾の乱の殺戮について詳細な記録は残っていないが、19世紀の太平天国の乱で、殺戮の惨状が書かれているので、参考に示す。
*異議提出
いきなり、冒頭の釈明に異議がある。
1.国内史実の確認
「日本の歴史では考えられない」と言い切っているが、「日本」の歴史、つまり七世紀以降に限るとしても、一度ならず大規模な殺戮があったのは衆知ではないか。話者は、考えられないのではなく、知らないだけである、と譏(そし)られかねない失言である。
一つは、戦国時代末期、一向一揆の集団に対して行われた撲滅策であり、もう一つは、江戸時代の初期、天草、島原の一揆に対して行われた撲滅策である。
いずれも、宗教集団側の身命を惜しまぬ不退転の団結と、天下平定の天命に従い、その徹底的な排除を進める攻撃側の強固な戦意が、不倶戴天の敵対を招いた不可避な事態である。
*一向一揆顛末
戦国後期の一向一揆は、領主の統治の後退によって勢力を拡大し得た各地に設けた強力な出城を、多くの犠牲を払ったとは言え、悉く撲滅した武装集団(実名を出すと、織田信長指揮下の軍団であるが以下、実名は避け、図式化する)の包囲攻撃に、石山本願寺を本拠とした未曾有の堅城で頑強な籠城策を採ったが、数年に亘る、執拗、かつ、頑強な攻勢を受け、信徒が悉く「殉教」する最悪の事態を避けるため、指導者(実名を出すと、顕如であるが、以下、実名は避け、図式化する)が、武装闘争を放棄し、自ら開城の上、全員退散する和平策を受け入れたため「最悪の事態」は避けられた、と素人なりに理解している。
未完