倭人伝の散歩道 又々里数論、戸数論 2/3
2018/08/27 補充2020/12/20
*総括里数、日数の意義
いずれにしろ、投馬国に至る水行二十日は、「都(すべて)水行十日陸行一月」と総括されていた、郡から王治までの行程には含まれていない。
元々里数を要求するのは、文書通信、行軍、物資輸送に要する日数を知り、各種任務の遂行期限を設定し、これに遅れたとき厳罰に処するという基準であるから、むしろ、倭の交通事情が不明なので、里数を記録するより日数を申告させる方が良いのである。
*水行陸行
さて、ここまで書き進んで感じたのだが、中国史書全体を見ると、「水」は河川で「海」とは別扱いであるが、倭人伝の里数、行程部分を書いたと思われる帯方郡書記は、行程を、陸上の「陸行」と海上の「水行」に二分していたようである。
と言っても、倭人伝で、海上を行くのは三度の「渡海」であり、それぞれ千余里と里数が書かれているが、全体里数を報告しなければならないので、便宜的に概数を書いているだけで、日数計算に利用できないのは自明である。案ずるに、郡から王治までの水行十日は、この三度の渡海を所要日数に置き換えたものである。
それこそ、天候に恵まれれば、三、四日で渡れるが、期限に遅れたら首が飛ぶとなれば、十日見て欲しいというものである。渡海を全て千余里と書いたのも同様の配慮である。妻子、兄弟、一家共々長生きしたければ、行程にたっぷり余裕を見て申告しなければならないのである。
郡から狗邪韓国までの行程は、実測里数で所要日数が保証される官道経由である。官道里数と所要日数は、郡管内では、厳密に管理されていたのである。
かくして、岩礁満載で難破の可能性のある半島西岸、南岸の沿岸航行は、所要日数申告に計上されないのである。関係者は、長生きしたかったのである。
*戸数論再説
世評では、その後に、「邪馬壹国⚋可有七萬餘戸」と書かれていると見て、そこまでに登場した各国の戸数合計に匹敵する大国と決め込んでいる向きが多いようである。しかし、国都の戸籍が整ってないので、戸数が不確か(可)などはあり得ないことである。つまり、この戸数は、国都戸数でなく、倭の総戸数である。
郡として報告が必要な総戸数は、概数計算で加算して行くとして、約二万戸と明記された奴国までの確かな数字に基づくとしても、最後の投馬国が、不確かで五万戸程度としか言えないのでは、総計は不確かであり、「可有七萬餘戸」と書かざるを得なかったのである。
ちなみに、戸数は万の位の概数計算であるから、千の位の戸数は、桁違いの端数であり、名のみ列記の諸国は、せいぜい数百戸の評価で、それぞれ総計計算に影響しないのである。
*王治論外
結局、王の処である王治は、戸数計算に入っていない(影響していない)ものと思われる。
未完
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