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2018年8月

2018年8月31日 (金)

今日の躓き石 ハードルを下げる毎日新聞の奇功

                      2018/08/31
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版(8月30日付)経済面「アマゾンQR決済」と題したコラムの末尾である。但し、別にアマゾンについてとやかく言っているのではない。記事のまとめ方が不出来であるから、不出来だと言うだけである。
 
 各社がQRコードを使った代金決済システムを企画していて、その中の一グループは、決済手数料を一時無料にして事業者が導入する際の「ハードル」を下げているという。
 
 ここで表面に出ている「ハードル」と言うカタカナ言葉は、陸上競技用語の誤用であり、初心者の理解を困難にしている。陸上競技のハードルは、全力疾走している競技者にしてみると、飛び越すのは僅かな負担となるだけで、大した難題ではない。まして、飛び越えずに押し倒して通っても良いのだから、多くの場合に込められた、進路の壁と言う意味は,どこにもない。カタカナ語がわかりにくいのに加えて、ハードルを「越せない邪魔者」と感じた部外者の誤解から始まっていて、最悪に近い誤用である。

 だから、当方は、「バー」(高飛びの横棒)と言い換えるべきだと信じている。最初に誰がこのような馬鹿げた比喩を持ち込んだのかわからないが、どこかで誰かが気づいて是正すべきではないだろうか。後生、つまり、子供や孫の世代に、このような負の遺産を押しつけるのは、恥ではないだろうか。
 
ちなみに、バーの立ち入り禁止の効力は、本当は、バーの高さには関係無いから、軽々とまたげるバーであっても、完全差し止め、Complete barなら、高さに関係無く立ち入り禁止なのであるが、そこまで言わないことにしましょう。
 
 それはさておき、ここに書かれているハードルは、もともと誰が誰に対して設けたものかわからないが、特定の業者が「決済手数料を一時無料にして」、「ハードルが下げている」と言っているから、そのものたちが設けて思いのままにに下げているように見える。 
 システムを広く、速く普及させたいのなら、そんな「ハードル」は、最初から廃止したらいいと読めるのである。また、各社の個性的な政策(販促策)は、「差別化」などと訳のわからない言葉でごまかしてはならないと思う。下手に統一すると談合と捉えられて、公取委に睨まれるから、互いに似ないようにしているだけである。
 
 ということで、普通に読むと、理屈に合わないことになるので、お粗末極まりない書きぶりだと思うのである。比喩を導入するのなら、比喩の出典を確認して、読者に意図が伝わるようにすべきである。また、比喩には、最後まで責任を持つべきである。
 

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2018年8月29日 (水)

倭人伝の散歩道 又々里数論、戸数論 補足

                  2018/08/29 補充2020/12/20
*日数論
 さて、つい取りこぼしてきたが、郡から一万二千里、水行十日、陸行一ヵ月と書かれているのをどう考えるか。

*水行陸行
 水行十日で渡海三千里、つまり一日三百里である。
 陸行一ヵ月、三十日で九千里、つまり一日三百里である。

*一日五十里相当(㍍は、切りの良い概数)
 倭人伝主行程の道里は、一里七十五㍍程度の見立てであって、中国普通里一里四百五十㍍の六分の一なので、三百里は、五十普通里となり、古来言う移動速度「一日五十里」に符合している。
 
*帳尻合わせ
 もっとも、所要日数(水行十日、陸行一ヵ月)は、とてつもなく重要な事項であるので帳尻合わせしている可能性がある。そして、帳尻合わせの内容は、よくよく調べる必要がある。
 例えば、水行に十日必要な実情から三千里としたと思われる。海には、測量すべき道のりはない。

 また、郡から狗邪韓国の「七千里」は、郡(楽浪郡も含め)が官道整備、測量済みで、郡の台帳に普通里で確定記録していたと思われるが、倭人伝に反映していない理由は、取り敢えず不明である。

*最後の紆余曲折起伏 二千里
 倭領域内の里程、つまり、末羅国から倭王都邪馬壹国までの道のりは郡管理下になく、文書通信に供した地方道も、所要日数は不確実だが、郡は、これを二千里とし、半島内七千里と合算九千里で、陸行一ヵ月、つまり、一日三百里として、里数/日数の帳尻を合わせたと見えるが、なぜ、施行されていたと思われる普通里を採用しなかった理由は、取り敢えず不明である。

 この間の日数は端数であるから不確かさは七千里部分で吸収したのである。管理、処罰の厳しい文書通信は命がけだが、最悪の場合でも、文書使が半島内官道を疾駆して帳尻合わせで期限必達とできる、つまり、責任が持てると見たのであろう。「責任を持つ」とは、報告する数字に首を掛ける、文字通り斬首覚悟ということである。

*不定解の森
 安本美典氏が古代史論の決着がつかないことを評したのを敷衍すると、以上の議論も、他の解と共存できる「不定解」の森の小枝、一解である。論が排他的でも、あくまで一論の立場である。

*最小労力解
 当方は、倭人伝記事の里数論で諸論ある中で、最もこじつけ労力を要しない解が、最も明解でも妥当な解であり、それだけに正しい解である可能性が高いと信ずるものである。但し、里程論全体が「全部虚構」なる無正解論は除く。

 倭人伝は、当時の教養人にとって、明解であったと信じるからである。

*お断り
 以上の議論を含め、当ブログの議論は、古田武彦氏、安本美典氏を始め、数え切れない先賢の学恩を被っているが、時として、それら先賢への恩返しとして率直な批判を浴びせている。都度謝辞を書き連ねられないことを、この際にお詫びする。

                                               完

2018年8月27日 (月)

倭人伝の散歩道 又々里数論、戸数論 3/3

                  2018/08/27 補充2020/12/20


*伊都国戸数
 伊都国はかって倭都であり、歴代国王が統治し、あわせて、遣使当時の女王国、すなわち倭女王の処となっている小国を統属したと見られる。王治であったために、戸数は少なく計上されているかも知れない。言うまでもないが、戸数は、必ずしも、それだけの「家」、あるいは、家族が実数としてあったという趣旨ではなく、税務、軍務などの負担能力を言うものである。

 古代に於いても、王治は特別の存在であった。多くの住民は、官員世帯あるいは補佐の官奴世帯であった。住民は、王治食糧供給の農業要員、あるいは、商工業の担い手であった。

 民の義務と言っても、「税務」としては、報酬を支払うべき存在であるから、徴税せず、「軍務」としては、王治防衛に必要な人員を既に常備兵としているので、徴兵せず、「役務」としては、道路整備、建物補修に駆り立れば運営に支障が生じるので、徴用せず、である。
 従って、伊都国の戸数に計上しないのである。また、伊都国の高官は、耕地と奴碑を私有し、不輸・不入の免税特権を持っていたので、これも戸数に計上しない。この辺りが、他国の不満を買った可能性は高い。

 とにかく、郡国志の要求する項目中、口数(人口)は記録されていないから、このあたりはあくまで推定である。

*幻の七万戸大国
 戸数論は、ついには、他の議論に波及している。「筑紫域内に諸国を比定した後に戸数七萬の大国が存在する余地はないから、かかる大国は、筑紫域外にあったとしか思えない」として、域外所在説の論拠になっているようだが、以上述べたように、これは筋違いの強弁で、根拠不明な仮説を頼りに曲芸を試みる事例である。これは、筋の通りっこない我流の史料解釈を押しつけるものであり、お里が知れる、みっともない言い方である。
 子供の口喧嘩の捨て台詞ならともかく、大人の議論で主張するのなら、ちゃんと筋の通った言い分を用意すべきだろう。

*倭人伝戸数の怪
 それにしても、東夷伝内でも、倭人の関係する戸数は、不釣り合いとみられる。

 中国史料に合わせ一戸五人程度の成人男子と見ると、七万戸には三十五万人程度となり、これは、十万人程度の軍事動員が十分可能ということでもある。あるいは、七万戸相当の食糧備蓄があると見られる。

 郡が東夷に戸数申告させた際に、誤訳でもあったかと思われる。各国戸数の多少は、倭諸国間の勢力評価には役に立ったろうが、それにしても、倭の戸数には、軍事大国の幻想がついて回る。

*国々の貌(かたち)
 奴国、伊都国、女王国などは、国王が統属したから、戸籍は整っていたのだろう。それ以外の国に派遣された一大率は、計数感覚と識字能力のある倭官僚であり、それぞれ、派遣元と報告・連絡・相談・指示の文書を交換して、各国の行政を指導したのだろう。
 そうしなければ、 国同士盟約を結んでも、後世に記録が残らないし、代替わりしても王統が維持されなければ、全て白紙となって、盟約の用をなさないのである。これは、遼東/楽浪/帯方郡が相手であろうと、魏帝が出てこようと、文字/文書が継承され、以下、代替わりしても、盟約が継続するという事でなければ、男の意味もないのである。と言うことで、蕃王一等任意寿を渡すのも、服従を継承させるための大事な形代なのである。

 国王のいない諸国では、統領は互選であったろうから、強制的に地籍図、戸籍簿を整えるができず、識字官僚を育てることもできず、先進国の指導が必要になったのだろう。言うならば、正確なデータに基づく徴税、徴兵、徴用でなければ、民の負担となる諸務が不公正、不安定となるので、天下太平を維持するためには、一大率の巡回指導、紛争仲裁が必要なのである。

*所感
 当方が素人考えで読解くのは、全て通じても二千字に及ばない小伝であるから、一字一字にこだわることもできるのである。

                           完

倭人伝の散歩道 又々里数論、戸数論 2/3

                  2018/08/27 補充2020/12/20
*総括里数、日数の意義
 いずれにしろ、投馬国に至る水行二十日は、「都(すべて)水行十日陸行一月」と総括されていた、郡から王治までの行程には含まれていない。

 元々里数を要求するのは、文書通信、行軍、物資輸送に要する日数を知り、各種任務の遂行期限を設定し、これに遅れたとき厳罰に処するという基準であるから、むしろ、倭の交通事情が不明なので、里数を記録するより日数を申告させる方が良いのである。

*水行陸行
 さて、ここまで書き進んで感じたのだが、中国史書全体を見ると、「水」は河川で「海」とは別扱いであるが、倭人伝の里数、行程部分を書いたと思われる帯方郡書記は、行程を、陸上の「陸行」と海上の「水行」に二分していたようである。

 と言っても、倭人伝で、海上を行くのは三度の「渡海」であり、それぞれ千余里と里数が書かれている、全体里数を報告しなければならないので、便宜的に概数を書いているだけで、日数計算に利用できないのは自明である。案ずるに、郡から王治までの水行十日は、この三度の渡海を所要日数に置き換えたものである。

 それこそ、天候に恵まれれば、三、四日で渡れるが、期限に遅れたら首が飛ぶとなれば、十日見て欲しいというものである。渡海を全て千余里と書いたのも同様の配慮である。妻子、兄弟、一家共々長生きしたければ、行程にたっぷり余裕を見て申告しなければならないのである。
 
 郡から狗邪韓国までの行程は、実測里数で所要日数が保証される官道経由である。官道里数と所要日数は、郡管内では、厳密に管理されていたのである。

 かくして、岩礁満載で難破の可能性のある半島西岸、南岸の沿岸航行は、所要日数申告に計上されないのである。関係者は、長生きしたかったのである。

*戸数論再説
 世評では、その後に、「邪馬壹国⚋可有七萬餘戸」と書かれていると見て、そこまでに登場した各国の戸数合計に匹敵する大国と決め込んでいる向きが多いようである。しかし、国都の戸籍が整ってないので、戸数が不確か(可)などはあり得ないことである。つまり、この戸数は、国都戸数でなく、倭の総戸数である。
 
 郡として報告が必要な総戸数は、概数計算で加算して行くとして、約二万戸と明記された奴国までの確かな数字に基づくとしても、最後の投馬国が、不確かで五万戸程度としか言えないのでは、総計は不確かであり、「可有七萬餘戸」と書かざるを得なかったのである。

 ちなみに、戸数は万の位の概数計算であるから、千の位の戸数は、桁違いの端数であり、名のみ列記の諸国は、せいぜい数百戸の評価で、それぞれ総計計算に影響しないのである。
 
*王治論外

 結局、王の処である王治は、戸数計算に入っていない(影響していない)ものと思われる。

                         未完

倭人伝の散歩道 又々里数論、戸数論 1/3

                  2018/08/27
*戸数論精読
 倭人伝解釈論で、しばしば国別の戸数が話題になる。つまり、誰もが納得する結論に至っていないということである。と言うことで、更に一説を足すことにする。

 倭人伝記事の戸数は、奴国など各国のように、単に「有二萬餘戸」などとされているのと投馬国のように、「可有五萬餘戸」と「可」を前記されているのと両様である。

 案ずるに、奴国など先進諸国は、戸籍が整って、戸数は一戸単位で算出された確定値だが、倭人伝は概要資料であるから概数表示したと思われる。

 つまり、行程終盤の投馬国で書き方が変わるのは、戸数が推定値とわかるように変えたのだろう。曰く、南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戶

*里数論再説
 ついでに言うと、そこまでの諸国への里数が、概数とは言え明記されているのは、それぞれ実測され、申告されているということである。申告値が虚偽と判明すれば、叱責どころではない処罰があるから、実測の裏付けをとっているのである。
 
 言うまでもないが、処罰されるのは、先ずは、郡太守、次いで正副使、さらには書記である。三国志の権威は、ここに正確な報告を書く動機がないとうそぶいているが、後世人には「命がけ」の意識がないから、殊更正確な見解を述べる動機がないとの自認・自嘲と見て取れる。

*投馬国論
 ここで、投馬国までの里数が書かれていないのは、遠隔で実測されていないということである。

 無理に、陸行行程の裏付けのない里数を書いても、肝心の水行日数は気象条件に大きく左右されて不確定であるため、たっぷり余裕を見た水行日数を表記したものであろう。

*海路幻想
 東夷伝ではないが、南方の夷蛮の国への行程では、海を行くこと一年程度、但し、天候に恵まれれば四ヵ月で行ける、などと漠然と書かれている例がある。ハワイにでも行ったのだろうか。

 例えば、五世紀初頭、東晋の僧法顕のインド、スリランカからの帰途、大部の仏典を持ち帰るために、往路のパミール山系越え、沙漠縦断を断念し、中国行きの商船に便乗したものの、マラッカ海峡航路で、季節風待ちで数か月待機したとか、中国直前で大変な荒天に遭って難船しかけ、経典の投棄を迫られたとか、船旅の利点と難点は知られていたのである。

 そのような、いつ辿り着くとも知れぬ、先の見えない、命がけの旅と、渡海、つまり川越ならぬ気軽な海越は別物なのである。

 中国にも、その程度の認識は備わっていたので、海を行くことを「海路」などとは言わなかったのである。

                         未完

2018年8月23日 (木)

今日の躓き石 トップメーカーニコンの格調、デジカメウォッチ報道の粗雑

                          2018/08/23
 今回の題材は、ニコン(株式会社ニコン)の新型カメラ発売報道である。
 当ブログで、ニコンほど格調高いメーカーが、下位メーカーの低俗な造語と思われる「ミラーレス」を謳ったことについて厳しい意見を出した手前、様子を見たのである。
 
 言うまでもないが、ニコンの報道資料「プレスレリース」は、丁寧に選んだ言葉が丁寧にちりばめられているのだが、いかんせん報道メディアには、その意図が伝わらなかったようである。
 
 デジカメ Watchの記事で、早々に最悪の例が上げられる。
 『ラインナップは高解像度タイプの「Z7」と、オールラウンダータイプの「Z6」の2機種。新たなブランド名称として「Z」を冠する。価格はいずれもオープン。』
 と、物々しく謳い上げている。
 
  しかし、カメラの世界で「オールラウンダータイプ」とは、何を言いたいのだろうか。まして、「オールラウンダー」は、プロスポーツ報道では見過ごされているらしいが、文法外れのインチキ英語のカタカナ語であり、大人が口に出すのも恥ずかしい、こども言葉である。まして、ここには、このインチキ言葉の説明がない。
 
 ニコンのレリースは、当然、こんな馬鹿馬鹿しい言い方をしていない。
 『「Z 6」は、有効画素数2450万画素、ISO 100~51200の幅広い常用感度域を実現したオールラウンドモデルです。
 どうも、画素数を抑え、感度域拡大もそこそこに抑えた中庸モデルという意味らしい。オールラウンドという言葉に、少々相応しくない気はするが、根拠が示されているので、そのように受け取ることができる。節度を守っているのである。
 
 メーカーのサイトで見ると、『有効画素数2450万画素と常用感度ISO 100~51200を両立。』とされていて、どうも、二刀流の意図で、新語を使い下ろしているらしい。この辺り、本来両立困難なものをニコンの技術力で解決したという技術屋さんの自慢話のようである。感心はしないが、この程度の造語の無理は非難するほどではない。
 
 して見ると、先の報道は、メーカーの意図を汲み損ね、素人考えの勝手な造語を押しつけたものとなる。唯一無二に近い専門メディアとして困ったものである。
 

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2018年8月21日 (火)

今日の躓き石 侍ポーズを止めるわけ?

                        2018/08/21
 侍ポーズが何かはここでは説明しない。
 
 書き出しているのは、高校野球で夏の甲子園大会の決勝まで進出するチームのエースが、試合中にアホ芸を見せるのを止めるべきだという理由である。アホ芸と書いたのは、当方には、猿回しの猿の芸にしか見えないからである。
 
 やめさせる理由は、簡単である。侍ポーズは、相手チームだけでなく、球場の観衆、中継放送の視聴者、新聞雑誌の読者、ネット上の観察者、等々大勢の人々に、大変な「不快感」を与えるからである。人の感性は多様であるから、どれが正しいとは言いがたいが、そのように感じる人たちは、むしろ、まっとうな感性の持ち主と思う。選手は、そうした人たちの善良な感性を裏切るべきではないと思う。ルール以前の問題である。
 
 いいかえると、侍ポーズは、折角好投を続けた投手の、それこそ不朽の記録に拭いがたい泥を塗っているからである。つまり、この泥は、それぞれのメディアに末永く記録されるから、拭い去ることができないのである。記憶から消えても、記録は残るのである。
 
 それにしても、高校野球の指導者達は、なぜ、当人を説得して辞めさせることができなかったのだろうか。未成年者の不法行為は、保護者の監督責任を問われるものでは無いのだろうか。誰にも、真剣に苦言してもらえなかったとしたら、もったいない話である。
 
 当然の務めとは言え、大会審判部は、よく指導したものである。ここに書いたような議論は、それこそ当人と保護者の恥の上塗りであるからあからさまに言わないだけであろう。
 
 無責任な外野席は、自分たちには害は及ばないから、大声で言っているようだが、大事なのは当人の意識である。はっきり言われなければわからないのか、言われてもわからないのか、それとも、言われるから反発するのか。
 
 以上、率直に所感を述べた。当人の耳に入るかどうか、入ったとして、何か感じるかどうかは、当方の関知する範囲を超えているので、関係無いことである。
 
以上

今日の躓き石 大罪を口頭釈明 バスケの怪

                           2018/08/21
 今日の題材は、国際大会に日本代表として派遣されながら、無様な行いをして、帰国させられたもの達の言葉である。
 
 おそらく、謝罪会見とそれに続く場で、謝罪の念を表明する言葉として、自作か、受け売りか知らないが、懸命にこさえたものと見えるが、随分、自己中心で尊大である。
 
 「頭が白くなった」などと、世間言葉で言っているが、四人揃って、黒々とした頭である。口から出任せと見える。普通に解するなら、苦悩の余り、一夜にして、白髪になったと言っているように聞こえるが、口先芸も良いところで、白々しいことおびただしい。
 
 「頭が白くなった」は、スポーツ紙で結構多用されるが、余りのうれしさに、と言う場合も少なくない。意図が伝わらないのである。単に、理性を失ったという事でしかない。お楽しみのホテルでも、頭(の中か?)は真っ白だったということか。
 
 要は、口にする言葉がどういう意味か、一切考えず、単にもっともらしくきこえるように喋っているだけである。情けないものである。
 
 次いで、「泥を塗った」と称していて、自分たちが、日本の国旗や日本の全国民に泥を塗ったとか言っているが、たかが四人の不届き者の行いで、日本の国旗や全国民に泥を塗ることができるわけがない。思い上がりもはなはだしい。
 
 そんな、とってつけたようなことを言い立てるのが、国民に対する謝罪なのかと呆れる。
 
 バスケットボールの歴史に傷をつけたと言うが、これも尊大な思い上がりであり、「バスケットボールの歴史」は、個人の一夜の快楽行為で傷がつくような、柔な、チャチなものではないと考える。また、NBAが聞けば、勝手に俺たちの歴史を口にするなと言うだろう。
 
 謝罪となると、先ずは、不道徳行為を犯したことに対する人間としての謝罪、代表として派遣されながらルールを破り任務を全うせずに退席することのスポーツ人としての謝罪、国民の期待を裏切ったことに対する一国民としての謝罪、であって、国の誇り云々は、余りに重いものであるから、口頭で軽々しく謝罪の仕様がなく、書面をもって表明すべきであろう。厳粛に触れるべきである。
 
 「本当に責任を持って謝罪」などと、大時代の台詞を吐いているが、「切腹」でもするというのか。今回の行動を見て、「責任」とは何か、理解しているとは思えない。
 
 要は、受け取る側が適確に理解できる言葉で語るべきであって、押しかけているメディアの言葉に、安易に合わせるべきではないのである。
 
 以上、当人達の真意を示す、誠意ある発言と思えないので、指摘しておく。
 
以上

2018年8月19日 (日)

今日の躓き石 棋士 に「匹敵」する対戦相手を~マイクロ棋戦の提案

                              2018/08/19
 今回は、特に題材があったわけではなく、一部で蔓延している反知性的な社会風潮に対する不満である。
 
 一例が、『将棋ファンはなぜ「ソフトの方が強い」と決まった後でも棋士同士の戦いに感動するのか』なるタイトル/見出しのネット記事である。別に、特定の記者の孤立した意見ではないと思うので、どこの誰の意見とは書かないが、随分見当外れの意見がはびこっているようである。
 
 将棋ファンならずとも、ファンが関心を持ち、感動するのは、人と人の戦い、将棋では、メンタルファイトである。いくら、Artificial Intelligenceと銘打っても、AIには、知性(Intelligence)と呼ぶに不可欠な品性、個性、つまり、棋風、芸風はない。AIが勝っているところを見ても、共感しないし、AIに人の声は聞こえないから、応援し甲斐もない。とにかく、AIには共感できないから、ヒーローには成れない。こどもたちがAIのようになりたいと憧れることもない。
 
 例え話として適切かどうか確かではないが、競争馬と人(ランナー)が、かけ比べをしてどちらが速いかは衆知であるが、今でも、短距離から長距離まで、人と人の駆け競べには関心が集まり、人は感動している。いや、とにかく勝たないと意味ないというファンも多くいるだろうが、熱戦を楽しみたいファンも多いのである。
 
 と、否定的な意見だけでは、当記事を読んだ甲斐が無いと思うので、ここで、『マイクロPC棋戦』を提案する。

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2018年8月18日 (土)

私の意見 橿考研所長の我田引水講演 2011年 1/2

                          2018/08/18 2024/04/13
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 最近、ひょっとしたご縁で辿り着いた、東京新聞社のサイトで遭遇した記事の古代史フォーラムの菅谷文則・橿原考古学研究所所長(2011年当時)「基調講演」は予断満載で暫し絶句したのです。橿考研(県立橿原考古学研究所)なる略称はご本人の発言によるものです。

*不思議な感慨
 大体が、フォーラムのタイトルからして錯誤しています。
「よみがえる古代の大和 卑弥呼の実像」 2011年9月17日
 とあるが、滅び去ったらしい「古代の大和」とは何のことでしょうか。

すくなくとも、「大和」とは、現奈良県が国とされた奈良時代等のことではないのでしょうか。それが、数世紀前の卑弥呼と何の関係があるのでしょうか。なかったものの亡霊が復活すれば、別の意味で怪談です。

 県立機関としては、卑弥呼が、「後に大和と呼ばれることになった地方にいた」という「地方説」を担ぐものとして、いきなり卑弥呼の「実像」と言うと耳触りが良いので言い立てたのでしょうか。所詮、「像」は、外面、いうなら絵姿に過ぎないのです。

 フォーラムでは、服装を論じていますが、それが古代史の理解に役に立つのか、大事なのは、外観でなく実態ではないのか、と思います。それとも、光学の基本に還って「倒立実像」をいうのか。妄想か児戯という感じがします。

 総じて学術的に意味不明の言葉を連ねるようでは、学問の論議ではないと知れます。東京新聞社も、このようなトンデモフォーラムを開催するのでは、新聞社の良識を疑われても仕方ないと思うのです。

 以下、率直が最大の敬意表現と考え、手加減していないものです。

私は、倭国の政治の中心は纏向遺跡ではないか、そして、卑弥呼の没年は古墳時代だと思っています。纏向から中国皇帝の「封泥(ふうでい)」(文書などを封緘(ふうかん)するための粘土の塊)などが発見されることを大いに期待して、橿考研(奈良県立橿原考古学研究所)の所員に気合を入れて発掘しろと言っています。

 ほんの滑り出しの僅かな文字数に、これでもかと問題点が詰め込まれています。以下、推して知るべしと言えます。

未完

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2018年8月16日 (木)

今日の躓き石 サッカー「ハンド」の怪 誤解の累積

                         2018/08/15
 今日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第31版スポーツ面の「サッカーマインド」なるコラムであるが、別に、「VARハンド判定に課題」とした内容に文句があるわけではない。日本サッカー協会審判委員長の意見にしては、ちょっと、論理的でないと、僭越にも首を傾げただけである。以下、丁寧にその主旨を説明する。
 
 いや、サッカーは、英語の本家、イングランドの協会の制定したルールで捌かれているのだから、素人の日本人がとやかく言うのは筋違いかも知れないが、素人目には、「ハンド」の解釈がおかしいのではないか。ルール解釈が、なまっているのではないか。
 
 まず大事なのは、イングランドで英語で定義されているルールには、「ハンド」、「手」などとは書いていないはずである。日本協会が「誤訳」して広めているだけである。ぼちぼち、是正すべき時ではないか。
 
 イングランド協会が定めたフットボールの「法」(Law)は、ボールを、故意にハンドリングしてはならない、と言うものである。(素人目には、そのように読める)
 
 ハンドリングの反則を、普通の言葉で言うと、ボールを投げてはならない、少し拡大すると、飛んできたボールを叩いて進行方向を変えてはならない、ボールを掴んで保持してはならない、と言うものではないか。素人目には、そう見える。:むしろ、hands、つまり、両手を要するように思う。大抵は、生きたサッカーボールを片手で取り扱うことなど、できないのではないか。まあ、バスケットボールの名手は、片手でボールを受け止めて、そのままシュートを決める至芸を見せることがあるが、いずれにしろ、「手」で行うものである。
 
 と言うことで、それらの名技は、全て、手(ハンド)で行うものであって、腕(アーム)で行うものではない。素人は、単純にそう思う。
 
 そのように明解に英語で定義されているはずのハンドリングであるのに、長年英語の定義を大きく逸脱して解釈され、先回のワールドカップの判定例で言うと、極端な場合、上腕部にボールが当たって、ボールのコースが変わったのを、ハンドリングと判定している例が多々見られた。それでは、各プレーヤーが腕全体を隠したがるのも無理ないところである。何しろ、VARは、克明であるから、物理的にボールが肩より先の腕に触ったことは、ほぼ確実に確認できる。
 
 しかし、大事なのは、そのような接触で、ブレイヤーが、ボールを「故意にハンドリングしたか」どうかということである。身体を動かしたら、身体の一部である肩から先の「腕」がボールに当たったとしても、上腕部では、ボールをハンドリングできないのである。それは、胸や頭などの部位で、ボールをハンドリングできないのと同様である。
 
 してみると、イングランド協会の解釈を尊重するとして、英語で、「ハンドリング」とはどんな意味か、「故意に」の意義をどう受け止めるべきか、素直に原点に還って見直す必要があるのではないか。
 
 日本のスポーツジャーナリズムが好む用語で言うと、次のようになる。
 「ハンドリング」は、「フィジカル」であり、「故意に」は、「メンタル」である。
 フィジカルは目に見えるが、メンタルは、本来目に見えない。見えないものを、見て判断しろというのだから、そりゃ、無理というものである。メンタルをビジブルにするのが、審判委員に求められる知恵なのではないか。素人は言うだけだから、楽なものである。
 ちなみに、国内で言う「ハンド」の該非は、もっと明解である。「手」がどこまでかは明確であり、大幅に拡大解釈しても、せいぜい肘から先程度ではないか。上腕部が肩に繋がっているから、続く部位は「腕」であって「手」ではないのである。一般人を迷わせる誤訳は罪深いのである。
 
 ちなみに、今回のコラムで疑問なのは、「ハンドに関しては介入しすぎ」などと、誤訳まじりの誤引用をしていることである。まさか、各国関係者は、日本語で論じていたわけではないだろう。イングランド協会の英語ルールの言葉で話していたはずである。また、VARで審判が苦慮していたのは「故意に」の部分ではないかと思う。
 
 以上のように、ことの意義は、VARの介入是非というものではない。VARで厳密に確認して、「故意にハンドリング」していないものは、ハンドリングの反則としてはならないと思うのである。
 
 関係者の皆さん、一度中学生に戻ったつもりで、協会ルールの英語の意味を確認いただきたいものである。
 
以上

2018年8月 8日 (水)

今日の躓き石 全固体電池の謎 NHKサイエンスZEROの迷走 R

                               2018/08/08  2018/11/25確認 R
 突然、再放送されたが、特に訂正は無いし、新発見の追加もないので、以下の批判は全く耳に届かなかったようである。何とも、もったいない話である。
 特に、固体物質の中を別の物体が自由に通り抜けているという幻覚というか、与太話が、視聴者に対して一向に説明ができていない、という自覚がないようである。目の前の「こじるり」が、まじめに賢い質問をしても、反射的にごまかすだけで、質問の意味を解していないから説明になっていないのは困ったものである。
 ご本人は、とにかくそう思い込んでいて、とにかくこれからの30年も試行錯誤で貫くようだが、それでは周囲の協力者はたまらないのである。
 どうか、目を覚ましてもらいたいものである。
 そうそう、リチウムイオン電池が偉大なのは、それまでは水を電解質に使っていた電池の1.4V程度の「壁」を、大きく越えたからである。電極間の電圧が上がると、水の電気分解が起こったので、いくら高電圧の発生出来る電極剤があっても、使えなかったのである。
 発明の意義をよく味わうべきである。
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 本日の題材は、NHKEテレサイエンスZEROであるが、最新の回ではなく、前回、つまり7/29放送の 「1分で充電完了!?誕生!夢の全固体電池」のとんでも説明である。時間経過と言えば、逆順であるが、症状は共通しているから、このように一週遅れで、公開する。
 いや、「迷走」と言っても、電池の性能そのものに疑問があるのではなくて、動作原理の説明がおかしいのである。
 
 図形化と実験データの提示で、明解なように見えるが、実は、とんでもない誤解を提供しているのである。
 
 よく考えれば誰でもわかるのだが、およそ電池である以上、内部を「電気」が移動しないといけないのだが、それを、リチウムの移動によるもののように説明しているのが、不可解、不合理である。
 
 誰でも知っているものの理屈なので、聞き役のこじるりが、すかさず鋭く、賢いツッコミを入れているのだが、言うならば、固体内を物質が自由に移動するのは不可能である。
 
 しかし、そのような真剣な疑問に対して、現に電池が充放電されているということは、リチウムが液体のように移動しているのだと、理論的な説明にならないまま押し切って、リチウムの通り道をもっともらしく図解してはぐらかしている。図解は、説明者の考えを描いただけで、実際の現象を解析した結果ではない。個人的な憶測を言い立てられては、大いに不満である。これでは、聞き役の聞き甲斐がないのである。

 
 もし、本当にリチウムが移動しているというのであれば、その瞬間の内部の物質分布を示してほしいものである。講釈師紛いの見てきたようななんとやらは、ご免である。
 
 さらには、塩素を添加すると電池性能が向上すると言っているが、その理屈が説かれていない。結果が良ければ、理論解明は要らないということなのか。
 
 このように理論解明しないままに、しらみつぶしに材料試験を重ねたと言うから、提示された固体電解質は、偶然の「発見」であり、特許は取れないということである。模倣し放題である。困ったことである。
 
 当方は、いろいろものの理屈を知っていると言うだけの、無位無官の素人であるが、思うに、電池内を移動しているのは、リチウム原子ではなく、イオン化によって追加された価電子、つまり、電子の移動、と解する言い古されていることだが、価電子の移動方向と電気の流れる方向は正反対であるが、それは、ここで指摘している問題の本質に関係無い。
 

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2018年8月 6日 (月)

今日の躓き石 一流棋士に不名誉な「レジェンド」~毎日新聞将棋記事の黒い影

                                  2018/08/06
 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版「囲碁・将棋」面の「囲碁将棋スペシャル」コラムである。つまり、ある程度、囲碁将棋界に通じた読者を対象にした記事である。
 書いたのは専門の記者であろうが、全国紙の記者の基本の基本として忘れて欲しくないのは、生煮えのカタカナ言葉を振り回さないことである。面白おかしく書けば読んでもらえるスポーツ面ではないのである。
 
 世間で時に見かける「レジェンド」は、日本語への言い換えが不安定で、都度、意味が揺らいでいるから、読者に意図が伝わらないのである。と言うか、読者それぞれで理解が違うから、記事の読み方が一定しないのである。報道者として、記事が明確に読者に伝わることを最上の使命として欲しいものである。
 
 今回の記事は、そのようなカタカナ語を自己流に解して見出しにかざしているから、何のつもりかと迷うのである。まさか、叩く記事ではないだろうが、あちこちに名棋士を貶める言い回しが潜んでいるようである。
 
 まず第一に言わなくてはならないのは、十七世名人の資格を持つ名棋士は、別に引退を表明したわけでもなければ、棋力を失って頽勢にあるわけでもない。いわば、現役バリバリであり、順位戦B級一組在籍ということはA級に復帰する勢いとみていいのではないか。その現役棋士を「レジェンド」などと不似合いなカタカナ言葉で呼び捨てて骨董品扱いするのは、大変不都合ではないか。
 
 記事は、序盤部分で、ここ五年間の不振を書き立てているが、その間、関西在住でありながら前会長の遺託を受けて将棋連盟会長の激務を引き受けたことを忘れてはならない。成績不振の言い訳にはしていないが、トップ棋士に不可欠な研究の時間を「大幅に」割かれていたことは容易に想像できる。

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2018年8月 5日 (日)

今日の躓き石 堂々めぐりのアルミ資源 NHKサイエンスZEROの暴言

                     2018/08/05
 本日の題材は、NHKEテレ『サイエンスZERO 「カガクの”カ” #6 超臨界地熱発電・内視鏡AI」』のとんでもない報道である。
 いや、ここでやり玉に挙げているのは、この番組のタイトルの二件の話題ではない。
 問題としたいのは、二件の途中に挟まれた「東北に眠る新たな資源とは」と題した小ネタである。
 
 番組によると、地質学の専門家という研究者が提案しているのは、火山・温泉地帯に豊富に流れている強酸性の谷水をアルミ缶に作用させて、水素ガスを発生させる試みであるが、既に、秋田県仙北市が賛同しているそうである。
 NHKの番組でそう聞くと、公共放送が、大変良い考えだと紹介していることになるが、少し考えるだけで、この提言は暴言とわかると思う。なぜ、誰も、このような浅はかな研究者の考え違いを直してあげないのか、不審である。
 この研究者は、専門外の分野については、中高生なみの常識も持たず、誰もアドバイスしないから、ひたすら暴走すると言うことであれば、以下の話題の信頼度も推して知るべしとなる。
 
 常識であるが、アルミ缶などのアルミ材は、銅や鉄に比べると、遙かに低温で溶かすだけで、新しいアルミ材として利用できる「リサイクル優等生」である。できたアルミ材は、軽量で、曲げ伸ばし自在であるから、大変好評である。
 だから、分別回収しているのである。だから、売り物になるのである。
 
 このような貴重な資源を、酸で溶かしてしまうのは、資源の無駄遣いになる。
 
 再利用せずに水素ガスを発生させた後のアルミ廃材は、もう金属アルミではないから再利用に使えない。再利用できない廃材として捨ててしまうのだろうか。

 

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