私の意見 橿考研所長の我田引水講演 2011年 1/2
2018年8月18日
最近、ひょっとしたご縁で辿り着いた、東京新聞社のサイトで遭遇した記事の古代史フォーラムの菅谷文則・橿原考古学研究所所長(2011年当時)「基調講演」は予断満載で暫し絶句したのです。橿考研(県立橿原考古学研究所)なる略称はご本人の発言によるものです。
大体が、フォーラムのタイトルからして錯誤しています。
「よみがえる古代の大和 卑弥呼の実像」 2011年9月17日
とあるが、滅び去ったらしい「古代の大和」とは何のことでしょうか。
すくなくとも、「大和」とは、現奈良県が国とされた奈良時代等のことではないのでしょうか。それが、数世紀前の卑弥呼と何の関係があるのでしょうか。なかったものの亡霊が復活すれば、別の意味で怪談です。
県立機関としては、卑弥呼が、後に大和と呼ばれることになった地方にいたという「地方説」を担ぐものとして、いきなり卑弥呼の「実像」と言うと耳触りが良いので言い立てたのでしょうか。所詮、「像」は、外面、いうなら絵姿に過ぎないのです。
フォーラムでは、服装を論じていますが、それが古代史の理解に役に立つのか、大事なのは、外観でなく実態ではないのか、と思います。それとも、光学の基本に還って「倒立実像」をいうのか。妄想か児戯という感じがします。
総じて学術的に意味不明の言葉を連ねるようでは、学問の論議ではないと知れます。東京新聞社も、このようなトンデモフォーラムを開催するのでは、新聞社の良識を疑われても仕方ないと思うのです。
以下、率直が最大の敬意表現と考え、手加減していないものです。
「私は、倭国の政治の中心は纏向遺跡ではないか、そして、卑弥呼の没年は古墳時代だと思っています。纏向から中国皇帝の「封泥(ふうでい)」(文書などを封緘(ふうかん)するための粘土の塊)などが発見されることを大いに期待して、橿考研(奈良県立橿原考古学研究所)の所員に気合を入れて発掘しろと言っています。」
ほんの滑り出しの僅かな文字数に、これでもかと問題点が詰め込まれています。以下、推して知るべしも言えます。
まず、普通は個人的な信条をどうこう言うことはないのですが、学識を尊重されて選任されたはずの研究所長が、こう支離滅裂に「本音」を言い立てるのを紙面で見ると、傾げた首が捻挫しそうです。
普通の言い方で、丁寧に、筋道だって言うと、「倭人伝に書かれている倭の王都は、纏向である。纏向王都の中核が、遺跡建物である。古墳時代は、卑弥呼埋葬の墳墓造成を画期的事業として始まった」となります。大胆な仮説満載ですが、なぜ、それはそれとして、素直に主張しないのかと不審を感じます。
これは、スピーチの後段の発言に展開されているように、多くの先達が、長年にわたって営々と築き上げた考古学界の「定説」「常識」をことごとく誤断と決めつける「異説」の予兆であり、そして、三世紀の日本列島に関する唯一の資料である倭人伝記事に反する、いわば非「常識」な「異説」に至る不吉な遠吠えと思います。
橿考研ほどの権威ある公的組織が、このような、所長の個人的道楽とも見える、異説確立に血道を上げるのは、真理を追究し、得られた成果を国民に伝えるという公的組織の任務、本分に反していると感じられます。
奈良県立といえども、奈良県の私有物ではないはずなので、大阪の一府民が、ここに述べられた方針に対して、完全と異議を唱えているのです。
この異説は、長い論争の果てに、近年創唱されたものであり、少数のみが唱える孤説であったはずです。それでも、所長は、スピーチの後段で絶叫しているように、少数のものが唱える異説は、少数で、聞くに値しないと斬り捨てるのでしょうか。一度、洗面台の鏡で相手を睨み付けて面罵してほしいものです。
未完
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