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2018年9月 2日 (日)

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑹ 張明澄 2-3

 季刊邪馬台国第19号 (1983年5月刊) 好評連載第六回

                  2018/09/02
*酔って赦される和風暴言か
 古来、生酔い本性違わずとして、多少酩酊していると、余計な分別、自制心がなくて、本領が発揮されるとの提言があるので、この酔っ払いも、その事例かと思われるが、何しろ、論者の独断で、第三者が検証可能な証拠が示されていいないから、読者は判断のしようがない。

 続いて、「こう言う歌手は、外国ではほとんどものにならないが、日本では一番ファンにすかれている」と断じているが、「ものになる」、ならないをどう判断するのか不明である。歌手が売れるかどうか予見、判断する能力があるなら、ここに駄文を掲載するより、その抜きんでた感性を活かして芸能エージェントに就職すべきだ(だった)と思われる。

 ここに書き連ねた発言は悉く無責任な放言であり、論者は酩酊泥酔したかと不審に駆られる。無責任に「外国」と言うが、この国の事情すら、国内くまなくその現場に臨んで実際に観察しないと適確に把握できない。何れかの都道府県ではよく売れるが、別の都道府県では売れない、という知見が示されていれば、この断罪についていけるが、漠然と外国と言われて、どの国なのか、文化風俗が異なる国で、この歌手が受けるかどうか、論者を問わず、この世の誰にも責任を持って発言できないはずである。

 この後には、一段と国際性のない、国技相撲界の特定の力士と別の力士が対比されていて、さらに馬鹿馬鹿しいので割愛したが、当時引退したばかりの貴乃花の相撲道とどう結びつくのか、貴乃花がガキという趣旨なのか。実見した技術批評でなく論者の私見を綴っているに過ぎないと見る。

 このような居酒屋の放言のような記事に何の意義があるのだろうか、論者の人格を疑わせるのである。「酔っ払い」が、論者の自嘲含みの自画像だとすると、酔っ払いが歌手として格段に上で、ど下手の「ジャリ」タレントより売れるべきとする「妬み」と見える。

*古田「俊彦」 タノキンとしちゃん論か
 ここまでが前置きで、続いて、論者は、古田武彦を田原俊彦に擬するのである。風貌、体形、芸風が似ているのか。下の名前の彦が共通しているというとしたら、江戸っ子風のしゃれである。

*課題論文の使命
 ようやく、本号特集の古田武彦氏の古代史論批判である。一種の課題論文のようであるが、書かれているのは、単なる妄言、誣告にすらならない駄文である。古田氏のその時点までの活動、出版成果を無理にこじつけたとか評しているが、論理付けの努力は見えているようである。

 つまり、季刊邪馬台国誌に相応しい論理的な批判を求められていながら、提出しているのは無責任な落書きである。インターネットによる公開討論の始めの頃、ネット上の匿名の意見は便所の落書きだとする批判があったが、この記事も、記名されていとは言え、個室の壁に書き連ねる内容のようである。そのような我田引水的課題と感情的な田倉俊彦論とどう繋がるのか。

 呉志では、孫権の半廻り年下の曹丕皇帝を、本来若造とか青二才とか呼べないはずが、孫権一党は見下しているのである。「古田武彦は貴乃花の同類」とした方が、論者の望む「俗受け」になったのではないか。
                         未完

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