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2018年9月 2日 (日)

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑹ 張明澄 3/3

 季刊邪馬台国第19号 (1983年5月刊) 好評連載第六回      2018/09/02 2022/11/18

*掲載誌の沽券
 本記事は、編集部の審査を経て季刊邪馬台国の誌面を占め、古代史に無関係な戯言を書き連ねて雑誌品位を損壊したと言える。カゴ一杯のリンゴの一つが悪くても全部が悪いわけじゃないと言うが、どうだろうか。

 古田氏は、練習量不足で持ち歌をど忘れしたのか。ズボンの尻がほころびたのか。とにかく知り合いの玄人はだしの酔っ払いより歌が下手、論議が変、と非難されたのだろうか。批判の意図不明である。
 こうした酔っ払いの駄弁に似た記事に一般読者が同意するのか、当方は、季刊邪馬台国誌の読者の大勢を知らないから判断できないが、狭い社会で拍手喝采を集めても外界で通用しないのが常、と述べているから、この記事も、ここでだけのウケ狙いで書いた知能犯かも知れない。

*見捨てられた批判
 末尾近くで古田式里程論批判に辿り着くが、「水行十日、陸行一月」を郡からの総日数と解釈したのを、ひどいと言い、「こう言う読み方は間違いで、こんな変な読み方になるわけがない」と私見を言うだけで根拠は示されていない
から徒労であった。ここに、慎んで返礼させて頂いた。

 こうしてみると、特定の筆者の意見を受け入れるかどうかは、その論者の個人的な嗜好を知った上でないと決しがたいとなってしまう。それは、学問ではない、子供の口喧嘩になってしまう。

 

 思うに、論議は、実証の裏付けがなければ意味が無い。実証のない独善は、自嘲の一形態である。絶対的な独善は、絶対的な自嘲である。

 

 ここまで示唆したように、論者の古田武彦批判は、強い妬みの感情の産物であり、当記事は強く偏向したものと見られる。煎じ詰めれば、論者の自嘲記事である。論者の信用は大きく失墜し、心ある読者は、著者名を見ただけで内容に目もくれずそっぽを向く。もったいないことである。

 

 懸案を棚上げしたまま、余談が長引いたが、世の論争は、このような発想から生じていると思う。提示された論考への反論はその内容を適確に理解する理解力が必要であるから、理解力の無いものは、涙を振るってその場を去れということである。それは、国籍や学歴の問題ではない。

 

*結語 大丈夫ですか

 

 論者は「大丈夫」というのだろうか。

 

 その言葉は、中国語の意味では三国志演義の関羽大将軍のような巨漢ながら、日本人の言い慣わしているのは、大抵やせ我慢である。これは論者のような国際的教養人に相応しい滑稽、いや、結構な結語とおもう。いや、どこにも、そのような戯言は書かれていないのだが。うん、誣告は時の娘、つまり、時と共に変貌するから、いまや時効としゃれのめす手もあるか。

 

 ちなみに、古田氏は当記事での批判に対して反論していないはずである。氏の論証に具体的に根拠を示して堂々と批判すれば、反論できるが、論者一流の反論無用の暴言には、反論の仕様がないのである。

 

 それとも、気を読んで、「日々三時間の発声練習とダンスのレッスンを欠かさない。練習量は不足していない」と反論して欲しかったのだろうか。

 

 何とか、この戯言で締めくくれそうである。
                               完

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