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2018年9月

2018年9月30日 (日)

今日の躓き石 NHKが続ける「リベンジ」の継承 チアリーディング

                            2018/09/30
 本日の題材は、NHKBS-1で放送されたチアリーディング日本選手権大会なのだが、選手の口からも、ナレーターの口からも、「リベンジ」という忌まわしい言葉が漏れるのは、何とも、痛々しいのである。どうも、この笑顔満載の世界でも、やられたらやり返すのが通り相場になっているらしい。
 
 もちろん、チーム同士互いにぶつかり合う場面はないから血を見ることはない。ただ、単に「借りを返す」と言うだけでも不穏なのだが、カタカナ語でリベンジというと、当人にそのつもりはなくても、血のにおいがするのである。もったいない話である。最後の最後に、主役らしいチームの演技に先立って、「去年のリベンジを果たす」とたっぷり泥を塗りつけられたのは気の毒である。
 
 勝者の選手は、自分たちの世代は負け続けてきたが、ここで力を出し切れて、優勝できてうれしいという。そうありたいものである。負けて恨まず、勝って奢らずである。通り相場などではないようで、安心した。
 
 スポーツ指導者の皆さん、前途のある選手達が、意味もわからないままに、こんな悪い言葉を口に出さないように注意してあげて欲しいのである。
 「結果がすべて」というからには、済んだことは済んだこと、悔しさや恨みは引きずったらだめ、という教えだと思うのである。なら、「リベンジ」も捨ててほしいものである。
 
 随分長いこと、悪い言葉が出回っていたから、みんなの頭の中から消すのにも時間がいるんだろうなと、あえて事を荒立ててなげくのである。
 
以上

2018年9月24日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ欄に不屈のリベンジ

                      2018/09/24
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面のプロ野球記事である。スポーツ新聞に根強い「リベンジ」にコップ一杯の水を差した記事に続いて、品格を問われる全国紙に、根強く「リベンジ」が生き残っていて、その不屈の病根に一言言わざるを得なくなった。
 
 毎日実戦を繰り返しているプロ野球だから、その都度失敗があり、成功があるのは当然である。別にだまされたわけではないから、失敗する度に恨みに思って、仕返しをしていては、もたないはずである。しかし、安易なメディア担当記者は、つまらないネタを蒸し返さないと、記事を書けないらしい。困ったものである。
 
 特に、今回の例では、前日チャンスに打ち取られたが、今日は殊勲打を打てたという事であり、そりゃ、いくらプロでも、毎回、毎回ヒットを打てるわけではない。チャンスに凡退しても、その試合から引っ込められるだけで、別に首になるわけではない。
 
 同じ打ち取られかたをしないように、次の好機での一打を狙うものではないのか。また、さよならの一打が試合を決定づけたように見えるが、その一打以外の全プレーが、残らず愚にも付かない無意味な時間を費やしたわけはないのである。塁上の走者は、劣らぬ功労者なのである。
 それが、チームの強さと思うが、違うのだろうか。
 
 
忘れてならないのが、野球はチーム九人で攻め、九人で守って戦っているのである。その中の一人が、個人的な復讐心、敵愾心で気負い立っていたら、チームプレーではなくなるのではないか。「リベンジ」など言うべきではないのである。この試合は、おまえ一人のために戦っているのではないのだぞ。
 
 ここで大事なのは、記者が見出しで謳い上げているのは、A型リベンジ、つまり、「やり返してやる、血祭りに上げてやる」という、今は廃れている言い回しだという事である。若者の言うのは、B型リベンジ、つまり、もう一丁という軽い意味である。
 
 一つのカタカナ言葉に二つの紛らわしい意味があって、プロの記者すら気づかずに気ままに混同しているようでは、読者に広島カープ松山選手選手の真意が伝わるはずがない。
 誤報に等しい失態である。プロの報道人にしては、情けない。
 
 それにしても、定番とも言える問題表現が、堂々と紙面に出るという事は、毎日新聞社には、良心がないのかと疑いたくなるのである。一片の見出しは、紙面に出るまでに、複数の人々の批判に遭うものと信じているから、宅配講読を続けているのである。担当者が書いたら、何も審査せず、そのままなのだろうか。新聞の品格は、記事の中の最低のものに合わせて評価され勝ちである。
 
 何とか、良心ある各メディアから、「リベンジ」なる野蛮な言葉が消え去る日が来てほしいものである。微力ながら、当方は、気がつく限り、こうしてか細い摘発を続けるのである。
 
以上

2018年9月23日 (日)

今日の躓き石 悲惨な虚報スポニチテニス報道の暴走

                            2018/09/23
 今回の題材は、スポニチのネット報道である。ここで取り上げるのは、全国紙にほぼ限定していたが、今回は、余りにひどいので、スポーツニッポンを非難することにした。
 
 ここで非難されてるという事は、全国紙並に扱っているという事であり、批判を受け止める品格があると見なしているので、良い意味で受け止めてほしいものである。
 
 と、観客に向かって「血なまぐさい復讐」(Revenge)を誓ったと報道されている。
 
 これでは、当人の人格を疑われてもしょうが無いことになる。スポーツの世界で、不敗でない限り、出場大会で一度は負けるのだから、負ける度に、その相手に復讐を誓っていたら、誓いを守るのは無理だろう。相手も、大勢負かしているから、一々覚えていられないだろう。
 そんなにくやしかったら、勝てば良いのである。そして、観客に怒りをぶちまけるものではない。
 
 記事では、実際には、『「私の試合を観に来てくれてありがとう。来年頑張って…ありがとうございます」と感謝の言葉を送っていた』のであり、どこにも、負けた相手に対する恨みや怒りは述べていないし、来年は、ぶちのめしてやるなどと不穏なことを言ったのでもない。
 

 ここまではっきり、敵対発言を報道するのなら、当人にRevengeを誓ったのかどうか確認すべきではないか。 それとも、スポーツ新聞は、事実を報道する報道メディアではないというのだろうか。
 

 一方、勝った方は、『初Vのプリスコバ 大坂思いやる「彼女には明るい未来が待っている」』と、見事に美化されている。
 
 スポニチは、「大坂バッシング」しているのだろうか。
 
以上
 

2018年9月15日 (土)

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑺ 張明澄 3-3

 季刊邪馬台国第17号 (1983年9月刊) 好評連載第七回
  私の見立て ★☆☆☆☆  末尾の提言 ★★☆☆☆
                       2018/09/15
*倭人伝水行論
 倭人伝を読むと、狗邪韓国から末羅国に至る行程は、三度の渡海を示しているが、これは、官道を行くように、一里、一里刻んで進むものでないのは明らかである。単に、それぞれの渡海の前後の日数を含めて、それぞれ三、四日、総計水行十日を要すると見なしたものである。

 渡海を「水行」というのは、倭人伝独特であり、三国志本文にほとんど見られないことは容易に確認できる。伝統的な中国漢文で「水」は、河川であり海ではない。倭人伝は、海洋交通が発達した地域事情に合わせて、正統的漢文と異なる用語を駆使しているのである。

 それとも、張氏は、当時、海上移動の経路が「海路」と制度化されていて、その路長が道里として実測され、里程標が敷設されていたと言うのだろうか。それは、壮大な蜃気楼と言わざるを得ない。

*欠陥だらけの羅列
 ということで、今回も張氏の議論は迷走して論拠が散乱、折々に暴言を挟むが、「致命的」欠陥があっても人は生きて行けるものと思うしかない。

 最後近く「妙な」証明の仕方と言うが、これは、褒めているのか、貶しているのか、特定できない。時代によって意味が変わっている言葉をぶちまけては泥仕合は収まるはずがない。

*ご褒美か蛇足か
 末尾に蛇足ならぬおまけのご褒美として至言が書かれている。
 ⑴証拠は証明能力をよく確かめてから出すこと。
 ⑵原文を出して訓読文で出さないこと。

 ぱっと見、今回もごもっともなご託宣のようであるが、少し気合いを入れて読むとしても「致命的」に理解困難である。いや、救急車を呼ぶ必要はない。ちょっとした咳き込みだけである。

 前者は、前記されていた「証明能力の識別」らしいが、識別能力が欠如しているものがどうやって識別できるというのだろうか。

 先だって、「語学的に問題になる」と言う言葉づかいも、読者によって定まらない。「問題」は、学校の授業で生徒の理解を確かめるために出されるなぞなぞであり、隠された回答があるが、一般社会で「問題」とは、事態を混乱させている諸悪の根源、打破すべき難関という意味で解されることが多い。倭人伝の原文を滅ぼされてはたまらないのである。

 以上のように、簡単な単語でも、時代背景、著者の意図によって、意味が大きく変わるのである。これは、氏の忌み嫌う冒瀆であろうか。

 後者は、文献証拠を提供するときは必ず原文を引用参照せよ、と言う意味であろう。また、当然、日本語で説明をつけるのであろう。でないと、読者は内容を正確に理解できないから、著者の意図が読者に、全く伝わらないのであり、そのような表現は、度しがたい自己満足でしかない。

 かくのごとく、張氏が力説する、高邁なご託宣は、死の床にある現代日本人の邪馬台国研究家には、実行不可能である。
                                完

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑺ 張明澄 2-3

 季刊邪馬台国第17号 (1983年9月刊) 好評連載第七回
  私の見立て ★☆☆☆☆  末尾の提言 ★★☆☆☆
                       2018/09/15
*読解力の欠如、表現力の欠如
 つづいて、「証明能力の識別」が命取りという。文献や遺物に証拠能力があるかの判断能力が欠如していることらしい。当方の日本語語学力では、しばし判読できなかった。憶測だが諸賢にも意味が読み取れないだろう。人は、知らずして黄泉路を行くのであろうか。

 つまり、著者の意を汲んで読替えないと理解できないのである。これは「語学」冒瀆だろうか。冒瀆しているのは、誰だろうか。

 ということで、以下、延々と奮戦されている議論の根底が見て取れない。ご自身の主張を自身で冒瀆している論法は、まことにもったいない。

*白崎氏批判
 古田氏ならぬ白崎氏の論を取り上げるが、「われわれ」などと架空同僚を言うのは感心しない。「問題」とは、研究課題という意味だろう。

 さらに、三国志著者が「白崎氏が勝手に作り上げた法則に従って」と攻撃しているが、古代人が後世人著作を知ることはできないのは自明でありとてつもなく愚論である。氏は、多くの資料から帰納的に「法則」を見出したのである。もちろん、正確かどうかは、また余の儀である。

*多数派工作
 続いて、「まともに古文を読める中国人」なる風評虚報で直線式読解が少数派とするが学術論議は多数決でない。「証拠能力」に欠けると見える。

*梁書批判
 続いて、梁書に書かれている旅程論を、梁書の著者の心境を空想・忖度して、これに自説を託しているが、同じく証拠能力に欠ける議論である。

*「気まま」批判
 ここで古田氏の意見を「気まま」と批判するが、論者は自身の意見に合わせて証拠を撓めるものであるが、古田氏は、考古学的な諸賢を踏まえる理性的論者であるから、女王国を欧州に比定するはずはない。張氏ほどの人には奇妙、いや不可思議な暴言である。「奇妙」では絶賛と解されるかも知れないので、言葉を換えた。

*ローレンツ短縮の怪
 途中で、また訳のわからない余談が介在している。「ローレンツ短縮の物理学」などと訳知りめいているが、これは、光速に極めて近い速度で移動する物体に関連した時間と空間の変移を言い、日常世界には関係無い。生かじりの無責任な余談は、張氏を真似ると、「こじつけ」であって氏の主張を裏付ける「能力」などない
のである。

*海上里程論
 ちなみに、張氏が、このような妄言を弄してまで主張しているのは、一大国から「千余里」の距離表示にこだわるせいであろう。

 これは、張氏が、倭人伝の海上里程表記の独特の書き方を理解していないためである。時代と地域で、独特の言い回しが行われるのは、当然であり、全時代、全地域を通じて、同一の言い回しで同一の概念を表現していたとするのは、誰が考えても夢想であろう。がんこな語学信者である張氏自身も、それは認めているのである。
                                       未完

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑺ 張明澄 1-3

 季刊邪馬台国第17号 (1983年9月刊) 好評連載第七回
  私の見立て ★☆☆☆☆  末尾の提言 ★★☆☆☆
                       2018/09/15
*張明澄暴論の発掘
 今回も、当方が採用している里程説に対して、提唱者である古田武彦氏の罵倒という形でいたずらに字数を稼いでいるので、35年遅れで熟読批判した。但し、当方は、放言を避け、濁点付きの暴言も避け、丁寧に批判しているので、多少は参考にして頂けるかも知れない。

*死に至る病
 いきなり、かなり多くの邪馬台国研究家には、致命的な欠点が見られると医学的な託宣であるが、まだ、同行の方々が多数早世した話は聞かないので、これは藪医者の放言であろう。

*奴国なる砂上の楼閣
 続いて、福岡市は、83年現在、九州一の大都会と断言しているが、これは、お粗末な断言である。1983年当時の人口は100万人強であり、ようやく九州最多の人口となったものであるが、依然として、北九州市とほぼ同等であるが、各市の人口は市域の採り方にもよるので、人口で、都会の大小比較が困難であるのは明らかである。とは言え、張氏が何をもって福岡市を最大の都会と言ったのかは、不明であるから、否定も肯定もできないのである。字数稼ぎの無駄口でしかないのである。

*福岡市再確認

 また、福岡市の博多湾岸寄りの部分は、太古以来次第に海に進出してきた河川扇状地であり、三世紀当時は、今日の港湾領域は海面下であり、そのような浅瀬・砂州のある海域に小舟の停まりはあったとしても、貿易港としての態を成していたかどうか不確かと言うしかない。

*幻夢の重畳

 確かに、遺跡発掘によって、博多湾の扇状地に住居が存在していたことは確認されているが、少なくとも、地盤軟弱で河川氾濫でしばしば浸水する領域に、楼閣、望楼などの大規模建物を設営するはずはないのである。して見ると、当時、現在の福岡市域に、数万戸の大国はなかったと見るべきではないか。以上、何とも。無造作な放言なので、ツッコミを入れた。

*悲惨な文盲批判
 張氏は、中国文明を知らず、中国語を読み解けない「文盲」は、魏志倭人伝を論ずるなと、得意の門前払いであるが、門の中に何が在るのか不審である。正確な表現を心がけてか「漢文文盲」と言い足しているが、この昂然たる差別表現が何を齎しているのか、意図不明である。

*信教告白
 ここで、張氏は、実は、自身が「語学」教徒であると告白している。
 

 「冒瀆」とは、崇拝対象に使う言葉であり、氏の議論は、全て宗教的なものなのである。信仰の問題は当人の自由であるが、学術の分野に、聖戦概念を持ち込まれてはたまらない。いや、古代史分野で、冒瀆や売国なとの論議不能な言葉が飛び交うのは、別に、張氏の著作に限らない。道理で暴言が飛び交う。不信心者に配慮は要らないのであろう。

 つまり、張氏の古田氏批判の根源は、古田氏の「冒瀆」に対する攻撃であり、これでは、しらふでも、熱に浮かされた議論になり、子供の口喧嘩ではないが、白熱した売り言葉、買い言葉が飛び交うのである。
                                          未完

2018年9月14日 (金)

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⒀ 張明澄

季刊邪馬台国第23号 (1985年3月刊) 好評連載第十三回
  私の見立て ★☆☆☆☆  末尾の提言 ★★★★★

*議論のゴミ
 今回の議論の本筋は、古田氏の「島巡り」里程論の否定であるが、上田正昭氏の苦言に倣って、そんな書き方の前例はあるのか、と一言叱責すれば仕舞いで、不細工な例え話は要らないと思う。

 正しく、この点は、古田氏の誤謬の一例であり、狗邪韓国から王都まで全里数一万二千里の明細が倭人伝に書かれていて、全て合算するとピタリ総里数となる、という持論を成立させる島巡り行程論であり、自賛の「ユーレカ」啓示の要である。これは、古代史分野でざらに見かけるが、立派な結論が先行して、後でこじつけることから来る惨状である。単に、九十九パーセントは単なる錯覚である「ユーレカ」啓示のまた一つの事例かと愚考する。

 そう書き出して、後は、読者の良識に任せれば良いのである。

 色々罵倒やら何やら書くのは猿芝居である。目の前の観衆が喝采して、おひねりが山ほど飛んでくるかも知れないが、それは、学問と無縁である。当時の読者に好評だったかも知れないが、この暴論は氏の名声に泥を塗っていると思う。

 猿芝居の一例として、「古田説はどうして(中略)陸行したがるのだろうか」と、古田氏を「説」と同一視している。しかして、古田先生は恐水症だと罵倒している。氏は、議論は正確でも、やたらと暴走する暴論家なのだろうか。もったいないと思う。

*先生の怪
 ここで、突然「古田史学」なる胡散臭い前振りが出て来る。普通、自称以外あり得ない、不当な表現ではないかと思う。

 また、「古田武彦先生」と書いているが、衆知の如く、中国語で「先生」は尊称でもなんでもない。おそらく、日本人が尊称としているのを一中国人として揶揄しているのかと思う。

*正論
 しらふに戻ったか、末尾で「魏志倭人伝」の著者が、張氏の感覚で、誤記としか取れない書き方をしているところがあると指摘している。もっとも、「ミスプリント」とカタカナにするところが、日本語ぶっていて鬱屈している。ただし、刊本伝承の間違いにこじつけず、倭人伝著者の用語癖が間違っている可能性に言及しているのは、市井の素人論者にない、秀逸な提言と思う。

 つまり、一見間違った言い方としか解釈できない記事であっても、「神」がかって誤写誤刻とせず、著者の意図を汲み取る「人」としての読み方が必要だというのは、国籍を問わず、知的な読者の取るべき態度と思う。毎度だが、自戒しているのだろうか。
                                                                       完

2018年9月13日 (木)

今日の躓き石 杉内投手最後の消し難い汚点 「同級生」と毎日新聞の悪乗り

                     2018/09/13
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面の記事である。いや、長く健闘してきた名投手の引退記者会見にこのような批判を寄せるのは、恥ずかしいのだが、言うべき事は言うことにした。

 いや、別に目新しいことではなくて、一流の選手は、一流の言葉遣いをしなければにならないということを言っているだけである。「同級生」とは、小、中、高校で同じ学級に属していた仲間を言う言葉であり、同学年、同期入社という意味に誤用されているが、誤用は誤用である。言うならば、正しい言葉遣いを知らないものの恥知らずな言い方でしかない。誤用を撲滅するには、そんな言葉遣いをしないことである。なのに、杉内投手は、誤用を言いふらして、子供達まで、道連れにしているのである。

 当人が正しい理解をしている証拠に、「後輩」と言って「下級生」とは言わないのである。まことに、このように恥さらしな談話が、全メディアに記録されるというのは、もったいないことである。

 ということで、談話の内容を書き換えるわけにはいかないとは言え、誤用を注釈無しに報道するのは、天下の毎日新聞として、情けないと思うのである。事実を事実として報道するのは、最低の報道であって、このような場合、「同級生」と引用しないのが、当人の未来のために正しい報道だと思う。

 もっとも、続くコラムで、毎日新聞自身の言葉として「同級生」と書き立てているから、これは、毎日新聞の標準用語になったのかとも思うのだが、そのような発表は聞いていないので、毎日新聞としては、誤用としているものと思う。

 そうそう、ここで、三流の言葉遣いで「野球人生」などと大げさに言っているが、これは、狭い、閉ざされたプロ野球界独特の誤用であり、普通の言葉遣いでは、さすがに毎日新聞がすかさず訂正しているように「17年のプロ生活」と言うべきである。これからの「人生」の参考にして頂ければ、幸いである。
 
 つまり、校閲の疎漏、手落ち、手抜かりということかと思う。しっかり、給料分の仕事をしてほしいものである。諸氏の給料は、口座に振り込まれているが、その水源の一滴は、当ブログ筆者の支払ったものである。微少であるが、ゼロではないことをご留意頂きたい。

以上

2018年9月 5日 (水)

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑼ 張明澄 2-2

 季刊邪馬台国第19号 (1984年3月刊) 好評連載第九回
                  2018/09/05      
  私の見立て ★☆☆☆☆  末尾の提言 ★★★★★

*記紀擁護の熱弁
 張氏は、記紀を、古代人のでっち上げと見る日本人は多いと見て取りながら、言葉遣いを誤っているのはもったいない。ここは、創作(Ficiton)と言うべきである。一定の筋書きに従って作り上げた物語は、でっち上げ(Fake)ではない。勝手に、そのような陰の声を作り上げて開き直っているのも、自作自演の創作と言える。

 記紀も倭人伝も、過去に起きた史実を客観的に中立に書き記したものでないから、それぞれ創作であるというのは、卓見のようで愚見である。
 ものごとは、程度の差で評価が分かれるのであり、記紀が黒に近い灰色、倭人伝が白に近い灰色としたら、一目で明暗が見えるのでけあるから、両方灰色とは暴論である。
 記紀が黒っぽいからといって倭人伝に泥を塗るのは、あくまで美肌効果(Cosmetic)であり、倭人伝の本質には影響しない。

*狢論
 その勢いで、ものごと皆灰色としゃれるかと思ったら、張氏は、古田氏史論はガセネタと決めつける。一度鏡を覗いていただければわかるが、張氏の議論は大抵灰色で素人目には、古田氏と同じ穴の狢なのである。これは、美白しても変わらない。

*こじつけの余談
 末尾に、毛沢東政権末期の四人帮に関する日本側の観測が間違っていたと揶揄するが、当時、中国国内の消息は日本に伝わっていなかったから判断を誤っただけであり、無理難題というものである。当時、中国中央の消息は、国内とは言え地方にすら伝わっていなかったが、かえって、台湾に伝わっていて、張氏は消息を知っていたのかと思うのである。

 教訓は、「実情を知らないものの報告は信じるな」である。

*論証無き論断の非
 今回も、氏は、随分力説しているが、明記無き偏見と見当違いの類推から来る独断的な所論で、現実の古代氏論を論断するのは、暴論である。論証しなければ、論断はできないのである。

*素晴らしい卓見 
 今回有益であったのは、倭人伝なる文献史料を正確に理解するには、二つの読み方が必要との提言である。

 一つには、「語学として読む」。私見では、当時中国中原の文書家の辞書(仮想)を根拠として読むのである。それと別に、「著者の意味を汲み取るように読む」。私見では、倭人伝自体を根拠とし、文脈に従って読むのである。

 古代史分野でこの意見は、張氏の畢生の卓見であり、古代史分野の金字塔のように思われる。当方は三十年後に後塵を拝しているが、素晴らしい卓見である。倭人伝の解釈が定まらないのは、現代中国人が誤解する用語表現が多く含まれているからであり、それは三世紀当時の洛陽市民に読ませても、大して変わらないように思う。

 「文は、まず文脈で読め」と言うのは、当方の独断である。
                             以上

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑼ 張明澄 1-2

 季刊邪馬台国第19号 (1984年3月刊) 好評連載第九回
                 2018/09/05       

 私の見立て ★☆☆☆☆  末尾の提言 ★★★★★

 随分昔の記事だが、学問世界に新旧はないので、気づいた時点で批判する。(既報の古田武彦ジャリタレ論の類は例外だが)

*運命動機
 書き出し部分で、張氏一流の提言をいただいている。
「日本古代史の研究において、同地域文献である『日本書紀』と『古事記』は、同時代文献である『魏志』「倭人伝」より大切である。」
 
この冒頭提言「モットー」は、全篇を一貫している。

 たしかに「日本」なる古代国家の研究において、信頼できる文献は、ほぼ、『日本書紀』と『古事記』、(記紀)しかないので、これが重要史料であるという点には、反論は出ないと思う。人によっては、旧事紀も重要だろうが、今、その点は脇に置く。

 日本は、七百一年創唱された国号であり、倭と別だとされているので時代が限定される。つまり、魏志倭人伝(倭人伝)と別時代の史料であり、地域も、同じかどうかわからないのである。

 ということで、張氏の掲げるモットーは、まるで素人の議論のように、はなから外しているのである。残念ながら、同意致しかねる。

*「一中国人」の怪

 そして、張氏の意見が、「一中国人」の見解として打ち出されているのである。

 少なくとも、「一中国人」というのは、現代の一国家、中華人民共和国の平均的住民の意見と解されるが、誰が考えても、一般的な中国人が、記紀を愛読して日本を論じ、倭人伝を論じるとは思えないし、自国史料である倭人伝より日本史料である記紀の方が重要と信じていたとは思えない。

 いや、一日本人である当方が、「大切」の語義を取り違えているかも知れないが、日本語で人が人を大切に思う愛情表現にも使われる感情的な言葉と思うので、混乱するのである。

*記紀偏愛の由来(憶測失礼)
 それは、さておき、氏が記紀に対して愛情を感じている由縁は、末尾の生年、出生地を見ると感じ取れるように思うのである。

 昭和九年台湾にて出生とあるから、氏は、皇国臣民として生まれ、現在の言い方で言うと六年制の小学校を通じて由緒正しい、つまり、教育勅語に従った皇国教育を受けたと思われる。

 つまり、ここに言う「一中国人」は、戦前の日本人と同じ愛国教育を受け、記紀に対する大切な思いを刷り込まれていると見える。(別に強制されたものではないが、自発的ではないと思う)

 昭和二十年、敗戦と共に日本人教育者は台湾を去り、その後は、中国教育を受けたと思われるが、戦後四十年近くなっても、皇国教育が氏の所説の根幹に残ったと見るのは偏見であろうか。

 いや、そのような背景がどうこう言うのではない。日本統治下で生まれ、日本流の小学校教育を受けた中国人が、自らを「一中国人」と称するのは、読者の誤解を招いているのである。
                            未完

2018年9月 2日 (日)

今日の躓き石 卓球の石川佳純にオンチとの誤解

                       2018/09/02
 いや、今回の題材は、どちらかというと他愛のない揚げ足取りである。
 
 卓球の石川佳純がオンチだといじめているようだが、伝えられているお話を読むと、見当違いである
 
 本人は、歌っていて、音を外すと、しまったとばかり歌をやめているらしい。その通りとしたら、音感(耳)はしっかりしている。つまり、自分の出している声の音程とカラオケの伴奏の音程というかコードが、ちゃんと聞こえていて、外れたら外れたと直ぐに気づいているのだから、むしろ、人並み以上の音感があるということである。(気づかなければ、外しっぱなしで歌い続けるから、本物のオンチではないかという疑いが出て来る)
 
 つまり、音を外すのは、記憶しているメロディーを歌い続ける発声の加減がうまく行っていないと言うだけである。言うなら、ラケットで捕らえているのに、方向違いに飛んでいくとしたら、ラケットに当たるまでは、完璧ということなのである。
 それにしても、耳から聴いたメロディーを、ちゃんと記憶しているのは、立派な才能、感覚である。
 
 ということで、オンチと呼ぶのはやめてほしいものである。それは、オトハラとでも言いたい、「いじめ」である。
 
 予想であるが、音楽教室で、週一回一時間ずつトレーニングすれば、一年と立たずに、音を外すことはなくなるはずである。そんな暇はないことは、よくわかっていて言っているのだが。
 
 励みになるかどうか知れないが、昔、トップ10に入るようなヒットを出したアイドル歌手で、(毎日のようにレッスンをうけていたはずなのに)数少ない持ち歌の歌い出しの音を外すつわものが一人ならずいたから、石川佳純は、立派に歌手として通用する可能性があるのである。
 
 当方は古稀の老爺であるが、若い女性を見る目には年をとらせていないので言うが、今回のニュースの流れから読み取ると、石川佳純は、卓球台に向かっていないときは、気負いのない、謙虚で、魅力的な若者のように思える。いや、何十年も前にレジェンド資格すらなくしているから、口先で気を引いても仕方ないのであるが。
 
以上

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑹ 張明澄 3-3

 季刊邪馬台国第19号 (1983年5月刊) 好評連載第六回

                  2018/09/02
*掲載誌の沽券
 本記事は、編集部の審査を経て季刊邪馬台国の誌面を占め、古代史に無関係な戯言を書き連ねて雑誌品位を損壊したと言える。カゴ一杯のリンゴの一つが悪くても全部が悪いわけじゃないと言うが、どうだろうか。

 古田氏は、練習量不足で持ち歌をど忘れしたのか。ズボンの尻がほころびたのか。とにかく知り合いの玄人はだしの酔っ払いより歌が下手、論議が変、と非難されたのだろうか。批判の意図不明である。

 こうした酔っ払いの駄弁に似た記事に一般読者が同意するのか、当方は、季刊邪馬台国誌の読者の大勢を知らないから判断できないが、狭い社会で拍手喝采を集めても外界で通用しないのが常、と述べているから、この記事も、ここでだけのウケ狙いで書いた知能犯かも知れない。

*見捨てられた批判
 末尾近くで古田式里程論批判に辿り着くが、「水行十日、陸行一月」を郡からの総日数と解釈したのを、ひどいと言い、「こう言う読み方は間違いで、こんな変な読み方になるわけがない」と私見を言うだけで根拠は示されていない
から徒労であった。ここに、慎んで返礼させて頂いた。

 こうしてみると、特定の筆者の意見を受け入れるかどうかは、その論者の個人的な嗜好を知った上でないと決しがたいとなってしまう。それは、学問ではない、子供の口喧嘩になってしまう。

 思うに、論議は、実証の裏付けがなければ意味が無い。実証のない独善は、自嘲の一形態である。絶対的な独善は、絶対的な自嘲である。

 ここまで示唆したように、論者の古田武彦批判は、強い妬みの感情の産物であり、当記事は強く偏向したものと見られる。煎じ詰めれば、論者の自嘲記事である。論者の信用は大きく失墜し、心ある読者は、著者名を見ただけで内容に目もくれずそっぽを向く。もったいないことである。

 懸案を棚上げしたまま、余談が長引いたが、世の論争は、このような発想から生じていると思う。提示された論考への反論はその内容を適確に理解する理解力が必要であるから、理解力の無いものは、涙を振るってその場を去れということである。それは、国籍や学歴の問題ではない。

*結語 大丈夫ですか

 論者は「大丈夫」というのだろうか。
 その言葉は、中国語の意味では三国志演義の関羽大将軍のような巨漢ながら、日本人の言い慣わしているのは、大抵やせ我慢である。これは論者のような国際的教養人に相応しい滑稽、いや、結構な結語とおもう。いや、どこにも、そのような戯言は書かれていないのだが。うん、誣告は時の娘、つまり、時と共に変貌するから、いまや時効としゃれのめす手もあるか。

 ちなみに、古田氏は当記事での批判に対して反論していないはずである。氏の論証に具体的に根拠を示して堂々と批判すれば、反論できるが、論者一流の反論無用の暴言には、反論の仕様がないのである。

 それとも、気を読んで、「日々三時間の発声練習とダンスのレッスンを欠かさない。練習量は不足していない」と反論して欲しかったのだろうか。

 何とか、この戯言で締めくくれそうである。
                               完

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑹ 張明澄 2-3

 季刊邪馬台国第19号 (1983年5月刊) 好評連載第六回

                  2018/09/02
*酔って赦される和風暴言か
 古来、生酔い本性違わずとして、多少酩酊していると、余計な分別、自制心がなくて、本領が発揮されるとの提言があるので、この酔っ払いも、その事例かと思われるが、何しろ、論者の独断で、第三者が検証可能な証拠が示されていいないから、読者は判断のしようがない。

 続いて、「こう言う歌手は、外国ではほとんどものにならないが、日本では一番ファンにすかれている」と断じているが、「ものになる」、ならないをどう判断するのか不明である。歌手が売れるかどうか予見、判断する能力があるなら、ここに駄文を掲載するより、その抜きんでた感性を活かして芸能エージェントに就職すべきだ(だった)と思われる。

 ここに書き連ねた発言は悉く無責任な放言であり、論者は酩酊泥酔したかと不審に駆られる。無責任に「外国」と言うが、この国の事情すら、国内くまなくその現場に臨んで実際に観察しないと適確に把握できない。何れかの都道府県ではよく売れるが、別の都道府県では売れない、という知見が示されていれば、この断罪についていけるが、漠然と外国と言われて、どの国なのか、文化風俗が異なる国で、この歌手が受けるかどうか、論者を問わず、この世の誰にも責任を持って発言できないはずである。

 この後には、一段と国際性のない、国技相撲界の特定の力士と別の力士が対比されていて、さらに馬鹿馬鹿しいので割愛したが、当時引退したばかりの貴乃花の相撲道とどう結びつくのか、貴乃花がガキという趣旨なのか。実見した技術批評でなく論者の私見を綴っているに過ぎないと見る。

 このような居酒屋の放言のような記事に何の意義があるのだろうか、論者の人格を疑わせるのである。「酔っ払い」が、論者の自嘲含みの自画像だとすると、酔っ払いが歌手として格段に上で、ど下手の「ジャリ」タレントより売れるべきとする「妬み」と見える。

*古田「俊彦」 タノキンとしちゃん論か
 ここまでが前置きで、続いて、論者は、古田武彦を田原俊彦に擬するのである。風貌、体形、芸風が似ているのか。下の名前の彦が共通しているというとしたら、江戸っ子風のしゃれである。

*課題論文の使命
 ようやく、本号特集の古田武彦氏の古代史論批判である。一種の課題論文のようであるが、書かれているのは、単なる妄言、誣告にすらならない駄文である。古田氏のその時点までの活動、出版成果を無理にこじつけたとか評しているが、論理付けの努力は見えているようである。

 つまり、季刊邪馬台国誌に相応しい論理的な批判を求められていながら、提出しているのは無責任な落書きである。インターネットによる公開討論の始めの頃、ネット上の匿名の意見は便所の落書きだとする批判があったが、この記事も、記名されていとは言え、個室の壁に書き連ねる内容のようである。そのような我田引水的課題と感情的な田倉俊彦論とどう繋がるのか。

 呉志では、孫権の半廻り年下の曹丕皇帝を、本来若造とか青二才とか呼べないはずが、孫権一党は見下しているのである。「古田武彦は貴乃花の同類」とした方が、論者の望む「俗受け」になったのではないか。
                         未完

私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⑹ 張明澄 1-3

 季刊邪馬台国第19号 (1983年5月刊) 好評連載第六回
                 2018/09/02       

 私の見立て ☆☆☆☆☆

 随分昔の記事だが、学問世界に新旧はないので、気づいた時点で批判する。

*張明澄暴論の発掘
 先行する論考で前提としている古田武彦氏提唱の里程論に対して、張明澄氏(季刊邪馬台国16号「好評(ママ)連載第六回 一中国人の見た邪馬台国論争」1983年6月刊)が、これは中国語の文章の解釈として誤っている、と門前払いを公開していたので、35年遅れで熟読批判した。

 この記事を書いた論者の出生年、出生地(台湾省)、最終学歴は明記されているが、専攻は書かれていない。つまり、今回記事が、どのような教養知識を背景として書かれたかは一切書かれていない。

*ジャリタレ論の使命
 延々と、随分日本国内のテレビ放送を視聴した結果と思われる知見が記されているが、例えば、台湾では、衛星放送の域外受信は別として、日本国内のテレビ放送のかなりの部分が、ビデオテープとして持ち込まれていて、手軽に視聴できていたから、これは、「外国」で一外国人が日本人向けに制作放映されたテレビ番組を見た感想かも知れない。

 ともあれ、何も背景は書かれないから憶測に過ぎない。台湾と日本では、芸能界の交流も長く続いていて、両側で高い人気をもつ芸能人も知られている。台湾は、日本と文化的な共通点の多い外国とは当方の私見である。

 氏の古代史論の冒頭でやり玉に挙がっている被害者も、そうしたビデオ放映を通じて、外国で人気を博したかも知れないが、論者は外国では通用しないと一刀両断である。そこには外国の視聴者の意見が反映されているのかとも思うが、議論の背景が何も書かれてないからあくまで推測である。

 「田原俊彦というジャリは、人気ナンバーワンの歌手である」と引き合いに出したのは、市井に人気の古田武彦氏の古代史論批判の手掛かりとしたようである。以下、私見、素人判断を羅列して田原俊彦を徹底罵倒しているが、読者には、何のために、古代史に関係無い素人議論を書き立てるのか不明であろう。読み通すのは、よほどの物好きかと思われる。

 「田原俊彦の歌声は、練習量の不足のため、カラオケで歌う上手な酔っ払いの歌より聞きづらい」というが、実証に欠ける感情的な暴言であって、歌手の歌唱力批判にも何にもなっていないのは言うまでもない。何も説明がないから、いつ、どのテレビ番組で視聴したときの感想か不明である。生オケ生歌なのか、口パクなのかも示されていない。まあ、折角の素質が埋もれているとも読めるのだが、そう思う根拠が示されていないので、空虚なリップサービスとも見える。

 おけ伴イントロがあっても、歌い出しのキーを掴み損ねる人気タレントがいて、そのような放送事故を避けるために、いろいろポロ隠しの例があると聞いているが、当の歌手の事故例なのかどうかは不明である。

 論者にとって、ある歌が「聞きづらい」のは、あくまで当人の感性に合わないからであって、技術的な批判でないのは明白である。まして、いつ、どこで観測したか書いていないから、野帳記事になっていない。練習量の不足といわれても、事前に何時間練習したのか、本来何時間練習すべきであったか書かれないから、根拠不明の印象でしかない。

 また、比較の規範とされている「酔っ払い」の歌が提示されていないから、規範のどこがジャリタレの駄演より上なのかわからない。全て不明、不明では、何もわからないのである。
                      未完

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