私の本棚 一中国人の見た邪馬台国論争 ⒀ 張明澄
季刊邪馬台国第23号 (1985年3月刊) 好評連載第十三回
私の見立て ★☆☆☆☆ 末尾の提言 ★★★★★
*議論のゴミ
今回の議論の本筋は、古田氏の「島巡り」里程論の否定であるが、上田正昭氏の苦言に倣って、そんな書き方の前例はあるのか、と一言叱責すれば仕舞いで、不細工な例え話は要らないと思う。
正しく、この点は、古田氏の誤謬の一例であり、狗邪韓国から王都まで全里数一万二千里の明細が倭人伝に書かれていて、全て合算するとピタリ総里数となる、という持論を成立させる島巡り行程論であり、自賛の「ユーレカ」啓示の要である。これは、古代史分野でざらに見かけるが、立派な結論が先行して、後でこじつけることから来る惨状である。単に、九十九パーセントは単なる錯覚である「ユーレカ」啓示のまた一つの事例かと愚考する。
そう書き出して、後は、読者の良識に任せれば良いのである。
色々罵倒やら何やら書くのは猿芝居である。目の前の観衆が喝采して、おひねりが山ほど飛んでくるかも知れないが、それは、学問と無縁である。当時の読者に好評だったかも知れないが、この暴論は氏の名声に泥を塗っていると思う。
猿芝居の一例として、「古田説はどうして(中略)陸行したがるのだろうか」と、古田氏を「説」と同一視している。しかして、古田先生は恐水症だと罵倒している。氏は、議論は正確でも、やたらと暴走する暴論家なのだろうか。もったいないと思う。
*先生の怪
ここで、突然「古田史学」なる胡散臭い前振りが出て来る。普通、自称以外あり得ない、不当な表現ではないかと思う。
また、「古田武彦先生」と書いているが、衆知の如く、中国語で「先生」は尊称でもなんでもない。おそらく、日本人が尊称としているのを一中国人として揶揄しているのかと思う。
*正論
しらふに戻ったか、末尾で「魏志倭人伝」の著者が、張氏の感覚で、誤記としか取れない書き方をしているところがあると指摘している。もっとも、「ミスプリント」とカタカナにするところが、日本語ぶっていて鬱屈している。ただし、刊本伝承の間違いにこじつけず、倭人伝著者の用語癖が間違っている可能性に言及しているのは、市井の素人論者にない、秀逸な提言と思う。
つまり、一見間違った言い方としか解釈できない記事であっても、「神」がかって誤写誤刻とせず、著者の意図を汲み取る「人」としての読み方が必要だというのは、国籍を問わず、知的な読者の取るべき態度と思う。毎度だが、自戒しているのだろうか。
完
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