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2018年10月26日 (金)

倭人伝の散歩道 又々々里数論、戸数論 補足 2/5

                       2018/10/26 補正2020/12/20

*勲爵制度
 よく知られているように、統一秦朝は、全土に勲爵制度を公布し、軍功(首)のあったものに進級を加えるという褒賞制度により、兵士一人一人に強力な動機付けを施したのである。
 このような勲爵制度は、各戸にきめ細かい賞罰を与えることを可能とするが、前提として正確な戸籍制度が必須であり、良い意味で、伝統を持たない後進国の強みを活かしたのである。

 ついでに書き留めると、秦の勲爵制度では、周朝の高官であった「大夫」が、一般人向けでしかも低位爵位になっている。周朝権威の否定である。
 
 次いで、自国の機能的法治主義を全国に展開し、全国を土台から作り直そうとしたのであるが余談はここまでである。
 
*倭の戸制
 本題に還って「倭」の戸数はどんな意味を持つのだろうか。
  極端な大家族ではないとしても、戸長は、複数の配偶者を持ち、当然、それぞれと子を成して、数世代が同居し、多くの壮丁を抱える、秦の旧来家族制度に類するものであったようである。
 
 各戸は、戸長の一男一女を祭事に専念させ、残る「家族」は生産に従事して、戸としての祭祀を維持するから、子供がいない、あるいは、まだ幼い若夫婦は、戸長の務めは維持できず多世帯同居が必然であった。当時の人々にしてみれば、夫婦単位の「世帯」は時代錯誤であり、戸が家族だったのである。
 
*倭制推察
 して見ると、当時の倭が、中国と同様の一戸五人の前提で国政を進めていたはずは無いのである。范曄「後漢書」は、早のみこみして倭は女性が多い国と断じたが、戸制には踏み込んではいない。
 中国の辺境では、兵税労務逃れであろうが、戸籍に異様なほど壮丁が少なく、各戸が年寄りと女子供ばかりなのに基づいた観測であろうか。笵曄は、倭戸籍を見たのでは無いようである。
 
 いや、別に、当時、国勢調査はないから倭の戸の内容はわからないし、そもそも、文字がなく戸籍台帳が存在しないから、各国の正確な戸数、口数は不明としないとしょうが無いのである。
 
 とにかく、東夷の倭人は、華夏文化と無縁の蕃夷の「国」なのである。
 
*郡の苦心
 しかし、帯方郡太守としては、「親魏倭王」に任じる新参国について、鄙、つまり海南遠絶でわかりませんでは、傘下各国の内情を知り尽くすという任務を怠ったものとして解任されるから、戸数は書かざるを得なかったと見るものである。
 
*データ批判の勧め
 と言うことで、苦し紛れにまとめられた、根拠不明の戸数数字をもとに、中国や後世の「日本」の統計数字と関係づける議論は、全て無意味である。調査していないのだから、「正しい」数字は、誰にもわからないのである。

                                  未完

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