倭人伝の散歩道 又々々里数論、戸数論 補足 3/5
2018/10/26 補正2020/12/20
*北方諸国戸数
いや、ここで慌てて補足すると、對海国から不彌国の戸数に「可」のつかない北方諸国は、戸籍に基づき戸数計算できたという可能性もあるが、不確かなので不確かとして扱うしかない。
現にその時代に生きていた人々が不確かとした戸数を、遙か後世のものが、こうと決めてかかるのは無法である。
概数計算の見地から言うと、諸国で戸数に意味があるのは奴国の二万餘戸だけであり、他の諸国は端数である。して見ると、奴国は、自国の権威を裏付けるため、積極的に桁違いの戸数を申告したとも思えるのである。
*投馬国戸数
北方諸国に入らない投馬国は、そこまでと変えて「可五万餘戸」、つまり不確かとしている。
北方諸国は、「一大率」の監察を受けて制度革新に努めたが、一大率受け入れは必須でなく、投馬国は鄙であるのをよいこと我関せずであり、戸籍不備で不詳だが、推定して二万を越え十万に及ばないので中を取り五万としたので、「可五万餘戸」としたと見るものである。
各国は、投馬国の戸数表明は、全く裏付けのない大風呂敷と見たはずである。遠隔地だから、奴国の倍以上と言われて、確認のしようがないから、「可」と付記したとも見られる。
*王都里数戸数考察
倭人伝には、倭王の治所「邪馬壹国」(以下、単に王治)に至る里数と王治の戸数が明記されていないように見える。
当記事では、伊都国から王治までの道のり、里数は百里単位の端数であり、千里単位の合算に影響しないので省略したと見る。倭人伝に求められたのは、郡から王治までの里数、所要日数であるから、端数は書かないで済ましたのであろう。
戸数も、萬戸単位の合算に影響しない端数と見ている。王治は、「小国」、「大国」、いずれとも解釈できるが、本来の「国」でなく、祭祀の最高権威、一之宮関係者が大半である。婢千人の家族を含め、王治関係者は、兵税労務を免除されるから、「戸数」計上できないのである。中国でも、首都官吏は非課税が常識であったから、こうした扱いは異例ではない。
と言うことで、王治までの里数と王治の戸数は、あえて書かなかったという事情があるとみるのである。
なぜか、倭人伝「志」の「倭人在帶方東南」「七萬餘戸」「自郡至女王國萬二千餘里」「都水行十日陸行一月」が離散したのである。
*奴婢千人創作説
ついでながら、使い走りも含めて千人いれば、居場所を取り食事も必要だし、し尿処理も大変で、全員住み込みと行かず、官吏共々、時に出退勤したのだろうか。よって、奴婢千人は、蕃王の王治の体裁を重んじた「創作」と見る。実見したとかしないとかとは、別次元のものである。
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