倭人伝の散歩道 又々々里数論、戸数論 補足 4/5
2018/10/26 補正2020/12/20
*全国戸数説の当否
続いて「可七万餘戸」と書かれた戸数は、明確な奴国「有二萬餘戸」と不詳の投馬国「可五万餘戸」を足したために、不詳な全国戸数になったと考える。そして、倭人伝には、全国戸数が必須であるから、「可」をつけて記載したのであろう。(蕃王として伝の体裁を要しないのなら、戸数はいらないのだが)
*端数の行方
倭人伝は、對海国 有千餘戸、一大國 有三千許家、末盧國 有四千餘戸、伊都國 有千餘戸、奴國 有二萬餘戸、不彌國 有千餘家と書くが、一萬戸単位には、奴國二萬餘戸だけ計上され、他は、千戸単位の端数であり計算を要しない。
また、国名だけで戸数のない諸小国も、端数と見て計算を要しない。
合わせての理由として、倭人伝は、通説と異なり「餘」が一律切り捨てせず、端数を切り上げ乃至切り捨てで端数を丸めたとの解釈と共にここでは議論しない。
*多桁表示の弊害
以上を算用数字などで多桁表示すると、概数であることを忘れさせるので固く戒めたい。専ら、実務では筆頭桁の算木計算が採用されたのである。古来、銭勘定は、一銭単位の精度で筆算を行ったと思われるが、そうした高度な計算は超絶技能と思われる。
*七萬餘戸語り直し
別稿で書いたように、王治の「戸数」は、当然、正確に得られているはずであり、「可」は不要。つまり、倭人伝記法で綴り直すと、次のようになるのである。
南至邪馬壹國女王之所。官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮。七萬餘戸
「水行」云々は郡からの里程とみるが、ここでは論議しない。
*可の意義
倭人伝の「可七万餘戸」は、戸数不詳だが五万より多く十万より少ない見当の表現であるが、王治戸数は、当然適確に捕捉されていて、前記したように「七万餘戸」と言いきれるはずである。
後世史書晋書が、七万餘戸を全戸数とみるのは、以上の自然な読み解きをしたものである。(「素直な」と書くと、反対論者を罵倒していることになりかねないので、ここだけ自粛した)
*ウソでない創作
いや、三国志大家の「史家はウソを書く」という暴論には組みしないが、書きようのない数字は、余儀なく体裁を整え、真意を秘めて創作したのは、「ウソ」と関係のない、「無理」の無い議論と見る。おそらく、「史家」に自分が含まれるという自然な解釈を、子供のように失念したようである。
*畿内説、筑後説の根拠
本論の趣旨に直接の関係はないが、世に言う畿内説の根拠として、「九州に七萬餘戸の大国が存在する余地がないから、邪馬台国は土地に不自由のない畿内に違いない」とする一種の背理法が説かれるが、そのような倒錯した独断は意義が無いと思われる。
同様に「筑前」に余地がないから、邪馬台国は、筑後、肥後、ないしは豊前とする議論も根拠に欠けると見られる。
いずれも、根拠は、よそに求めるべきである。
因みに、三世紀、四囲と隔離された山郷(やまと)に、七万戸の大国が存在したという根拠は見当たらないようである。まして、食糧供給など度外視した壮大な陵墓工事など、素人目には、不可能としか思えないのだが、畿内説諸兄は、自説のダメ出しはしないのであろうか。
未完
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