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2018年10月26日 (金)

倭人伝の散歩道 又々々里数論、戸数論 補足 5/5

                       2018/10/26 補正2020/12/20

*里の起源(「釋名」劉煕:後漢)
 中国太古(周代以前か)では五戸を「鄰」として、五鄰(二十五戸)を里とし、方形と見た里の一辺を「里」とした制度があったようである。ちなみに、里の首長は、里の中央に社を設けて氏神を祭祀したとのことである。当時は、万事小振りの古代であって、里は七十メートル餘で、殷を継ぐ周はそれを維持したとの推定が語られることがある。記録がないから、そのような「周里」の推定は自由ということになってしまうのである。

*里の変貌
 これを続けると、遅れて文明に浴した秦は、「周里」の趣旨を自国の大家族世帯の格好に合わせた四百五十㍍の里、のちの普通里を採用し、統一王国を築いたときにこの里が全土に適用されたという推定もありうることになる。

 その場合、おそらく戦国各国は、「周里」を敷いていたであろうが、各国王家が滅びて、始皇帝の敷いた「同文同軌」と共に駆逐され、普通里で一新、測量されたのであろう。里制に限らず、社会制度の根幹が一新されるのは、史上類の無い同文同軌の一大変革の際に限られるのである。

*周制の名残り
 但し、後の楽浪郡管内の朝鮮半島東夷は、秦朝域外の鄙で、秦里は及ばず、周里を維持したのであろう。それが、一つの思い付きである。

*大人と下戸
 「戸」の談義をすると、倭人伝の「大人」、「下戸」とは何かと思う。
 
 大人は、大所帯の物持ちとして、「上戸」、「大戸」ではない用語と思われる。倭人伝には、「小人」は出てこないで「國大人皆四五婦下戸或二三婦」と「下戸」と対比されている。
 
 同居の使用人は戸で数えないとして、大人に平伏する下戸も戸を構え、配偶者を一人ならず養っていた者もいたことになっている。

 下戸の下には、掘っ立て小屋めいた住み処に巣食っていたものがいたはずである。辛うじて自立して耕地を持ち、兵、税、労務の負担に耐える最低線ということになるのであろう。

 その下は、自前の耕地を持たず、入会地などのおこぼれで飢えを凌ぐ貧民だろうが、大人が雇い入れて扶養し、あるいは、小作させて、社会不安を予防し、大人の繁栄を持続させたのであろう。平伏するのは、こうした小作下戸だろうか。自前の土地を持たない貧農小作民に、兵、税、労務を課することはできず、戸数で数えなかったかとも思う。
 いや、同時代史料に書かれていないから、思索するしか無いが、確たる底辺あっての頂点と見るのである。

*戸の限界
 このように考察を加えても、倭の戸制は不確かなのである。
 以上は、明確な証拠のない憶測であるが、断然として否定はできないのではないかと思うのである。

*謝辞
 以上の私見は、多数の先行文献に依存しているが、ここでは、逐一参照できないのをご容赦頂きたい。

                          以上

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