« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »

2018年11月

2018年11月29日 (木)

資料批判 諸蕃職貢圖巻 「斯羅國」題記 清 張庚による模本 2-2

*内容確認
 題記は、あくまで、新羅使、そして、黒幕となっている百済使の勝手な言い分を記録に止めているだけで、反論も検証も無いから、史実の正確な反映と見ることはできない。

 題記の滑稽なところは、辰韓統一に成功して新羅と名乗ったのが、五世紀初頭であったのに、梁来貢するのに遅参した理由について、辰韓小国の時代はともかく、新羅國と大成した後も、大国倭の許しがないために遣使できなかったとしていることである。今般の新史実発見報道は、この馬鹿馬鹿しい言い訳に魅せられたようであるが、この内容は、大嘘である。

 倭の武王は、辰韓、新羅ら六カ国を統轄する将軍に任じられたことは夙に知られているから、新羅が、一時期倭に臣属したという言い訳の裏付けになるようにも見えるが、一方的で不確かであり、不参理由にもならない。

*梁の百済愛顧
 この時、歴代南朝に臣属している百済に従う遣使であるが、他ならぬ百済が朝鮮半島西岸の南半を押さえ、其の北半を高句麗が押さえて、半島西岸を封鎖していたので、東南部の小国新羅使節の南朝帝都建康行きは不可能であった。新羅と百済は、長年、半島中央の山地を越えて侵入抗争を繰り返し、新羅は百済の仇敵であることから、厳しく排斥されていたのである。

 ほかならぬ倭も、百済の興隆後は、諒解無しに半島西岸から中国沿岸への航行、南下を要する遣使ができなかったので、百済の敵国である新羅を随伴するどころでない。と言って、百済が新羅遣使を妨害したと中国側に知れると手ひどい制裁があるので、百済が新羅を連れて行く際、新羅に対して箝口令が出ていたはずである。

*評語
 つまり、この題記に書かれている、倭の指示に従い遣使を控えたという新羅の言い訳は大嘘である題記が、検証可能な原史料を反映していたと仮定しても、記事は虚構の塊であり、原史料が検証できない以上、当記事は、戯言というか、子供のいたずら書きである。それが史学のイロハである。

*結語
 労力を費やしたあげく、妄言流布の重罪案件を見たのである。

 このようなウソ記事(Fake)を無批判に信じる者は、不見識の素人であり、そのようなFakeを、史料批判を怠り、訳もわからないままにWikipediaのあちこちに書き立てるのは、恥晒しである。

 当該記事を削除編集することは可能だが、マナー違反でできないから、是非、考え違いを自覚して、記事を撤回してほしいものである。また、今後は、胡散臭い記事を、ここに公開しないように自粛してほしいものである。
                                以上

  史料出所 Internet Archives
 引用した資料は、著作権の消滅した公有著作物である。

 因みに、別項目の倭國題記は、衆知の正史記事の切り貼り細工であり、記事としては錯乱しているが、文字は既出のようである。

資料批判 諸蕃職貢圖巻 「斯羅國」題記 清 張庚による模本 1-2

                           2018/11/29
 *掲題文献の文字部分を収録し、新発見の新羅記事を初めて公開したとされているが、誤報、捏造、妄言の類いである。

*史料引用(誤写ご免)
 「愛日吟廬書畫續錄」  (清)葛嗣浵撰
  紙本 高九寸三分 長一丈四尺三寸四分
  白描法鉤而不染一国畫一人人約六七寸長毎人各載一記統計一十八種
    1.渇槃陀    2.武興蕃    3.高昌國       4.天門蠻       5.滑者
    6.波斯國    7.百濟國    8.龜茲國       9.倭國      10.高句驪
 11.于闐   12.斯羅國 13.周古柯國 14.呵跋檀者滑 15.胡蜜檀國
 16.宕昌國 17.鄧至國 18.白題國

題記 斯羅國 (注 魏志韓伝では、辰韓斯盧国であるが、ここでは史料に従う)
  斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時曰斯羅
  其實一也或屬韓或屬倭国王不能自通使聘普通二年
  其王姓募名泰始使随百濟奉表獻方物其國有城號曰
  建年其俗與高麗相類無文字刻木為範言語待百濟而
  後通焉

*大意
 斯羅國は、当初東夷辰韓の一小国であったと言う、魏の時は新羅と言い辰韓に属し、宋の時は斯羅と言い倭に属した。同じ国であるが、それぞれ大国に属していたため、自分で中国に遣使できなかった、と言う。
 梁の普通二年、斯羅国王募泰が、百済使節に従い梁に遣使し、上表すると共に方物を貢献した。
其の国には建年と号する城市があり、其の俗は、高麗に似ているという。文字はなく、木に刻みを入れて伝えるという。言語は、百済通詞を要した。以後通じた。

*解説
 当文献は、史料としては、通常言う史料文献ではないゴミに過ぎない。

 内容を見ると、辰韓斯羅國(斯盧国)が辰韓統一で新羅国となった史実を取り違えている。魏志韓伝には斯盧国が明記されているのである。そもそも、新羅が、斯羅國と自称するはずはない。(記事の魏は、戦国魏にリンク)

 出典は不明だが、全くの造作と思えないので、新羅使節上表文を写した程と見られる。但し、新羅に文字も言葉もなく、中文が書けないので、百済が代筆ないしは検閲した表に、国王が御璽を押印したのであろう。

 題記は、南朝梁都建康に十八国夷蛮使節が来貢したときの姿を描いたとされる「諸蕃職貢圖巻」肖像画の一記事である。梁代原典は失われ、模本、複製品または復原品を残すだけである。また、十八国のうち、新羅使節の絵姿は失われ、題記が写し取られて残存したとも見える。

 無論正しい題記は「新羅國」であり、模本作成、または、題記書写で誤記されたのであろう。原典臨書して取り違いするとは思われず、失われた題記の考証復原の手違いであろうが、いかにも粗雑である。これほど明白な誤記が訂正されなかったということは、内容校正が無かったということである。校正されていない史料は、信用できない。

 つまり、題記記事は、史料価値の全くないものである。
                             未完

2018年11月27日 (火)

倭人伝随想 4 倭人伝の来た道 写本継承の話 2/2

                     2018/11/27

*概念図の試み
 三国志写本継承の概念図を試作しました。エクセルの表計算シートですが、再現できないので図としています。写本時代のとある時点の写本管理のあり方を勝手に図式化したもので、この通りであったと主張するものではありません。帝室原本に始まり、流布写本に至る階層を想定したものです。

 これは個人の見方を示したものであり、正しいとか間違っているとか言う議論の対象外ですが読者としての感想はそれぞれ持って頂いて結構です。

*写本継承の流れ

*絵解きの絵解き
 所詮絵解きでしかないので、簡単に説明すると、100とか36と書かれているのは、史料としての相対評価で、100だから絶対間違いないと言う意味ではありません。%で書かれているのは、写本の相対評価で、誤字、誤写の発生率を見たものではありません。すぐ右、ないしは、すぐ上の写本をその段階で写本した結果として写本の評価が下がるという趣旨です。

 帝室原本は、当代唯一の写本であり、これを100点(満点)と評価します。時代原本は、帝室原本複製品、レプリカであり、時点最善写本として、時代最高の文献家と写本工が行い、僅かな評価点減しかないとみられます。

 以下、順次進みます。一次写本は、その時代で資料参照されるときの「原器」です。二次写本は、王族高官等に配布し、一部、貸し出しに備える控えも作ったでしょうが、もはや最高峰ではないのです。以下は、写本を増やして世に広めるもので、貸出先の写本が大半で、進めば進むほど精度が下がるため累積的に評価が下がります。途中、手持ち写本を種本として写本をやり直すと、一段評価が下がると見て少し評価が下がっています。

 図内下位写本が疲弊すれば、上位写本から補填することになるでしょう。

 反面、下位から上位を上書きすることはなく、不可逆的継承なので、世紀を経ても高級写本に改竄の手が伸びることはないのです。特に、最上位帝室原本は、書庫に厳重に保管され内容が変わることはありません。

 以上の制度は、国宝級の史料写本の変質を防ぐために、当然設定されるべきものであり、この通りに実行されたという証拠は無いでしょうが、他に適切な手段がないので、そうしたものと思われます。

*史料擁護の弁
 今日確認できる三国志史料は、誤字、誤写と思われる点が、大変少ないので、全体として適切な管理が行われたと見るべきです。

                            この項完

倭人伝随想 4 倭人伝の来た道 写本継承の話 1/2

                            2018/11/27
*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。

 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

 ここでは、倭人伝という著作物が、陳寿の編纂以来、どのように継承されてきたかという話を丁寧に説明することにします。というのも、世上あふれる議論の中には、別世界の知見に基づいて、誤った見方をしているかたが多いからです。別世界には、国内史料に馴染んだ人も含まれます。

□倭人伝の来た道 写本継承の話
*原本のかたち

 長い中国の歴史で、「三国志」の編纂された時代は、既に、後漢時代に書物の素材として紙が登場してから久しく、政府の公式文書や経書などに紙に書写した文書が利用されていたと思われますが、いろいろ制約があって、全面的に紙文書にはなっていなかったものと思われます。

*簡牘と帛書
 太古以来文書媒体として利用されていたのは、一つは、帛書、つまり、絹布に墨で書いた文書です。当然、絹布は高価で、貴重ですから、王族や政府高官など、高貴な人々の、特別な書面に利用されていただけでしょう。

 帛書は、おそらく、今日の単葉紙、つまり、一枚物の用紙の使い方であり、とじ合わせて、多くのページを連ねることはなかったものと思います。却って、今日の広告チラシのような感じになっていたのでしょう。

 それ以外の一般文書や律令文書は、一行単位の細長い短冊状の竹簡を並べて、革ひも綴じの巻物にしていたはずです。

*巻物の時代
 今日、博物館展示などで紙文書の巻物を見ることかできますが、簡牘、つまり、木簡ないし竹簡の場合も、取り扱いや保管の点から、こうした紙巻物と同程度の太さになっていたはずですから、当然、一巻当たりの行数、つまり、簡牘の枚数は限られていても、今日刊行されている三国志が、全六十五巻となっているように、大変嵩張り、また、重いものになっていたはずです。綴じ紐の腐朽が早いことから、簡牘書物は、バラバラに散乱して出土しています。

余談:「歴博」(国立歴史民俗博物館)は、後漢書簡牘巻物の復元複製品と銘打った展示を行っています(2020年11月現在)が、根拠となる遺物がどこで出土し、どのように鑑定され、復元されたか、説明がありません。よりによって、范曄後漢書本体部全九十巻の内、卷八十五·東夷列傳第七十五倭伝部分が出土して復元されたとは、まことに神の配剤であり、疑うらくは、骨董品ならぬ現代工芸品と見えます。

*写本の時代~紙巻物の時代

 三国志は、暫くして、写本されて紙巻物にまとめられたものと思われますが、短冊で構成した簡牘巻物と違って、紙巻物は、用紙を継ぎ上げて、全巻一枚にすることができるので、随分、身軽になったはずです。また、巻物を綴じ上げる腕の確かな職人が必要なので、「製本」ならぬ大々的な「製巻」工房が必要なのです。
 また、読書家にとっては、貴重書の綴じ紐の切れる心配もないのです、難点は、紙が、紙魚に食われることでしょう。

 三国志の善本の官制写本は、六十巻に及ぶ全文字を厳格に書き写すことから、よほどの権威がないと命じることはできず、また、要求される写本工の数と格から言っても、当然ながら官命以外ではできなかったでしょう。帝室書庫から取り出されて世に出た時代写本が、それほど厳格で無い写本を経て、世に広がっていったことでしょう。いや、この成り行きは、簡牘時代と同じなのですが、「製巻」が手軽になったことで、普及が広がっていったという事です。

 ということで、各巻の伝、小伝目録が書き出されていて、需要に応じて、抄本が作成されたかも知れません。つまり、「倭人伝」の呼称は、他の多数の伝と同様に、写本工程で錯巻を回避するために用いられ、広く通じていたのでしょう。

*写本継承
 他国の制度はいざ知らず、中国歴代王朝の官製写本からの写本継承は、原本をもとに作成された数少ない上級写本を種本として、階層状に書写され続けて、最後、末端の写本に至ったものと推定されます。かくして、三国志は、各時代「最善の努力で継承された」という視点で評価していただきたいものです。

 もちろん、いかに厳格に管理に努めても、史料が変質することは避けられないのですが、「下位写本の誤記や改竄が帝室原本まで波及する」というような、現実離れした、無謀な議論は、よほどの根拠がない限り避けていただきたいものです。

*捏造、改竄、差替の幻夢~余談
 なお、厳重に管理された貴重書の各巻が巻物になっている状態では、「一部差し替えは不可能」ですから、部分的に模造作成した改竄物を、隠密裏に紛れ込ますことは、不可能の極みです。門外不出の秘蔵書の紙質ぐるみの模造など、到底できるものではないのですが、仮に、万が一、模造できたとしても、ということです。
 このあたり、現代人夢想家の妄想は切りがないのですが、古代国家の史料管理の手際を見くびってはならないのです。犯行が発覚すれば、共犯者同罪は当然として、それぞれの両親、妻子は無論、三親等以内の親族が全員刑死する重罪を、誰が企て、あるいは、同意するでしょうか。そして、何のために。

                                未完

2018年11月24日 (土)

今日の躓き石 「リベンジを果たした」が消えない悔恨 NHKアナの浅はかさ

                                    2018/11/24
 本日、NHKGで中継の「多摩川クラシコ」とは、対戦しているサッカーJ1のFC東京と川崎フロンターレの本拠が、東京多摩川を挟んで対峙していることから名付けられたということが、さすがにNHKらしく、丁寧に解説されたが、この点は、最後に触れる。
 
 番組の半ば、前後半のブレイクタイムで、ほぼ拮抗する両チームの過去の対決を回顧しているから、負けたり勝ったりは必然であるが、大逆転で負けた翌年、大差で叩いて借りを返したのは、気分として高揚したのであろう。
 
 そこで、「リベンジを果たした」と禁句がNHKアナの口から飛びだした。NHK中継で、何とも不用意である。ここでは、当世風の軽い意味でなく、血祭りに上げるという蕃風であり、プロ中のプロによる暴言は、とても見過ごせないのである。

 現に、選手は、勝って借りを返して大逆転負けの痛みを解消したというのでなく、いまだに、逆転負けへの悔恨の念があると言うから、報復してチャラにしたと見るのは、野次馬根性以外の何物でも無いようである。
 
 サッカー選手は、一時の勝ち負けの感情、というか、貸し借りの勘定では動いていないのであろう。一流の報道関係者は、もう少し、選手の心情を察するべきである。
 
 それにしても、番組構成で過去の対決を回顧する以上、当然、条件反射でそう言いたくなる展開が予想されているから、そこの所を、成り行きの常套句に流されず、ぐっと、堪忍袋の緒を締めてプロ根性を示して欲しいのである。
 
 因みに、「クラシコ」は、スペイン語由来であり、ラテン系のチーム名が多いJリーグにまことに相応しいのである。「ダービー」などと、イングランド気取りは、そぐわないし、どこでも「ダービー」となると、言う奴の安直さを歎くところである。
 
 以上、「リベンジ」弾劾は別として、クラシコ談義の感心も不満も、素人の咄嗟の思いつきであるから、別に真剣に取り組んで頂かなくても結構である。
 
以上

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」 3/3 

                    2018/07/07  2018/11/24
*殷(商)遺風
 白川静氏が殷(商)風俗と見た春秋社日は、私見では、長江下流域(後の呉越)から海岸沿いに伝わったようです。社日は稲作のための農暦であるから、その時期に稲作は商の旧邦、後の斉の地に伝わっていたと見られます。

*商風廃絶

 のちに商の一部が、西域の富を求めて中原に攻め上って武力国家を創業し、これが世紀を経て成長して天下を把握した殷(天邑商)となったと見ていますが、殷は、乾燥した中原に適さない稲作風俗を失ったようであり、殷を打倒した周は遊牧文化を持っていたので、その制はなかったようです。

 このため、中原に展開された華夏文明は、東方を「夷」とみて、その文化を排したもののように思われますが、あくまで、東都洛陽を発端とした浸透であり、鄙の民俗を根こそぎ書き替えるには至らなかったようです。

*二倍年暦談義

 後代、春秋時代の斉、魯を起源とする諸史料を中心に、年暦に殷の遺風「二倍年暦」が偲ばれるということですが、ここでは触れません。

 (例えば、「古賀達也の洛中洛外日記」ブログ「二倍年暦」に発表。
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/the-double-year-calendar/)

*伝来の背景
 一方、斉から倭への伝来は、どうであったかは不明ですが、風俗の大系が伝わったようであり、集落ごとなど大所帯の移住があったと見られます。

 移住の時期次第ですが、殷後期以降で文字が存在していれば、文書記録を携えて移住したのではないかと思われます。となれば、斉での稲作文化のかなりの部分が忠実に再現されたと思うのです。但し、移住後、商「文化」がどの程度継承されたかは、不明です。

*謝辞
 以上、拙論の手掛かりとして、白川静氏の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。氏は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する施策理成果も大変貴重なものであり、拙論にその出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。

 しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。

 この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。

                             この項完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」 2/3 

                    2018/07/07  2018/11/24
*社日の決めごと
 村々の指導者は、節気を起点とした段取りを描いた絵を持っていて、そこには、例えば、代掻きの手順は何日後と決めているものです。毎年、通達された太陰暦の月日ごとの手順を決め、手配りを描くのです。

 かくして、稲作指導者は、春秋社日に参集した村々の指導者に田植え、収穫の段取りを徹底し、それが、村の指導者から家々に徹底されるのです。

 つまり、社日の場で、春の農耕の段取り、手配り、ないしは、秋の収穫の段取り、手配りが決まり、それぞれの家は、集団農耕の職能を担ったのです。

 あるいは、集落に掲示板があって、文字はなくとも、木に縄を巻くなどして、月と日を広く知らせていたかも知れません。

*職能国家
 以上、村落で共同作業を行う図式を絵解きしました。

 大勢の手配りが必要なのは、田植えと収穫時だけであって、それ以外の時は、それぞれの家で決めて良いから、稲作は年がら年中団体行動というわけでは無いはずです。

 さらには、後世のように、それぞれの家が、農暦と農作の要諦を掌握していれば、自主的に稲作できるでしょうが、それにしても、村落各家に職能を割り振ることによって、村落の一体感を保つ効用が絶大だったのです。

*「春秋農暦」の意義

 かくして、年二回の大行事を定めて農暦画期としましたが、この制を素人なりに「春秋農暦」と呼ぼうとしているのは、学術的な「二倍年暦」という用語が、その由来を語らないからです。

*陳寿の編纂

 三国志編者陳寿は、旧蜀都成都付近で生まれ育ちましたが、蜀に「春秋農暦」がなかったためか、農暦を知らず、長じて移住した晋都洛陽附近は麦作地帯で稲作風俗がなく、陳寿は、遂に春秋農暦の年二回の社日ごとの加齢を知らなかったので魏略記事の意義が理解できず割愛したようです。

*裴松之付注

 三国志に付注した裴松之は、南朝劉宋の人で、長江下流建康で稲作風俗を知っていたので、倭人寿命記事に関する陳寿の見落としに気づいたが、本文改訂は許されないので、魏略記事を付注し、示唆したのでしょう。

 倭人伝に春秋農暦が明記されていないのは、魏使を務めた郡の士人が、「春秋農暦」育ちであったため、当然とみたためであり、魚豢魏略も、割愛はしなかったものの、特記まではできなかったのでしょう。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」 1/3

                    2018/07/07  2018/11/24
*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。

 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

□社日で刻む「春秋農暦」
*社日典拠

 「社日」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる(後略)

 社日は、白川静氏編纂の辞書「字通」にも記されています。
 社日(しゃじつ) 立春、立秋の後第五の戌の日。〔荊楚歳時記 、社日〕 (後略)
 また、「社」自体に、社日の意があるとされています。

*社日随想
 雑節は、二十四節気、以下「節気」、に則っているので、社日は、太陽の運行に従っています。社日が今日まで伝わっているのは、一年を二分する「農暦」の風俗の片鱗が太古以来伝わっているということなのでしょう。

*太陰太陽暦
 月の満ち欠けで暦を知る太陰暦は、文字で書いた暦がない時代、月日を知るほぼ唯一の物差しでしたが、太陰暦の十二ヵ月が太陽の運行周期と一致していなくて、春分、夏至などの日付が変動するため、何年かに一度、一ヵ月まるごとの閏月を設けます。一般に太陰暦と呼ばれても、実際は、太陽の運行と結びついた太陰太陽暦であり、これを簡略に太陰暦と称しているのです。

 「八十八夜」、「二百十日」雑節が、立春節季に基づいているように、太陽の恵みを受ける稲作は、万事太陽に倣って進めなければならないと知られていたのです。
 一方、太陰暦は、海の干満、大潮小潮を知るために重用されたのです。

*節気と農事
 節気は、日時計のような太陽観測で得られ、毎年異なる太陰暦での節気を基準として農務の日取りを決めて、社日で知らせたとみているのです。
 いや、各戸に文書配布して農暦を通達できたら、元日、年始の折にでも知らせられるでしょうが、文書行政はないので、実務徹底の場が必要なのです。

                             未完

2018年11月23日 (金)

倭人伝随想 1 倭人とは何者か 3/3 

                    2018/11/22
*後漢貢献
 束の間の新は、長安を落とした反乱軍に討たれて崩壊し、漢以来の栄華の帝都長安は荒廃しました。劉秀(光武帝)は、東都洛陽を帝都として帝国を再興する建武の治を起こし、楽浪郡にも天下太平の布令、参集指令が届いて、王莽の招聘が功を奏した来貢がありましたが、それは光武帝の末年でした。蛮夷は、王莽により「倭奴」と呼ばれていました。

 その後、「倭奴」は漢制で「倭人」と知られ、漢礼復興と共に「倭人」は、再度認められましたが、またも、歴史の陰に埋もれ、公孫氏は、倭の価値に気づかないまま滅亡し、傘下の楽浪・帯方郡も単なる東夷と遇したのです。

*帯初遣使
 魏朝による帯方郡回復後、東夷平定、特に倭人招聘の指示を受けた新任帯方郡太守の厳命により急遽参上した倭使は、帝都洛陽に連行されて堂々と皇帝拝謁を遂げました。

 魏朝第二代皇帝とは言え、祖父曹操、父曹丕の偉業を乗り越え、漢の遺制を払拭して魏朝を一新する烈祖としての新創業を目指した皇帝曹叡は、倭人を未曾有の新来東夷として厚遇するよう指示したので、自身は雄図空しく早世したとは言え、その意図は暫し継承されたのです。

 東夷を帝国の東方辺境の抑えと遇する先帝明帝の遺志は、幼帝曹芳の治世では後ろ盾を得られず急速に退潮したというものの、束の間、貴重な文物の将来で訪れた中華文明光芒は、辺境の東夷に活気を与えたのです。

*終章
 以上の経緯は、表だって称揚されたものではないから、魏の官人である魚豢は、あえて魏略で言い立てず、陳寿も、正史記事にない部分は明記せず、かくして、「倭人」由来譚は、史書から影を潜め、由緒正しい「倭人」の意義は忘れられ、単に蛮夷諸国の一として「倭」と呼ばれたのです。

 ただ、陳寿は、以上の倭人遍歴の光陰を捉え、後漢の「倭奴」を克服して、あえて、本来の「倭人」と書いたのですが、一方、東夷伝記事の倭、倭国は、陳寿の編纂方針に従って原史料の用語を温存したのです。

                               以上

*謝辞
 以上、拙論の手掛かりとして、白川静氏の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。氏は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する情感豊かで、広く、深い思索の成果は、大変貴重であり、拙論に、出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。

 しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。

 この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。

                             この項完

倭人伝随想 1 倭人とは何者か 2/3 

                    2018/11/22 追記 2020/12/14
*倭人渡海
 当時の様子を調べると、克殷、つまり、殷を滅ぼした周は、後の洛陽地域に、後の東都、成周を設け、時の成王が、東辺に雌伏する商遺民など不穏勢力を平定するために征東軍を率いて出御したと記録されていますが、その際、諸族入朝を命じた時のことのようです。

 先人は、この時、南方特産である鬯草を献じた倭人を、南の蛮夷と見ていますが、周代の倭は、既に東夷であったとも見られるのです。

 殷の出自である旧邦の商は、南方と西方の交易を中心とした、つまり、平和と協調を旨とした、穏やかな国でしたが、殷の遺民として討たれるのを避けるために、「倭人」の名の下に南海交易で得た亀甲、子安貝と共に、鬯草を貢献したかも知れません。

 そして、成王が長安付近の周都宗周に引き上げた後、周が封建した斉、魯の猛威を見て、殷一族と露見して討伐されるのを怖れて、小なりといえども、故郷を捨て異郷に移住したかも知れません。

*秦から魏へ
 秦が形骸化した周を滅ぼして記録を引き継ぎましたが、その秦も諸国の反乱で滅び、秦の記録は、いち早く秦都咸陽を接収した沛公劉邦の手に入りました。とは言え、周代来貢の倭人は忘れ去られたようです。
 武帝劉徹が朝鮮を滅ぼしたときも、海南に倭人探索したとしてもその形跡はありません。

 追記すると、この時、武帝の置いた四郡の所在地には、諸論あるようですが、半島南部を切り離している小白山地を越えた土地に所在していたとは思えません。後年、遼東郡が、支配下の楽浪郡を分郡し、帯方郡を新設したとき、そこは、荒地、つまり、郡政の及ばない未開地と書かれています。

*新の再発見
 二百年続いた漢を簒奪した新の創業、王莽は復古主義で、周礼を復興し、ました。その一環として、周に因んで、越人には、天下平定を称揚する白雉、倭奴には、鬯草のそれぞれ献上を命じたと思われますが、白雉献上はあったものの、鬯草献上はなかったのです。

 倭奴探索の余波として、海南に貨泉が伝えられ、大夫を貴人とする制が伝わったのは、周制が渡来したものと見られます。あるいは、周里、つまり短里は、この時、新たに施行されたのかも知れません。

*王莽改称癖
 王莽は、皇帝就職慶賀使招聘の際、「倭人」を一段貶めて「倭奴」としたとはいえ、倭奴は、特に蔑称ではなかったのです。当時、蛮夷格下げに邁進した王莽は、かって、漢が胸(匈)に徴を帯びる敵(対等勢力)「匈奴」に同格印章を渡し、一種尊称を許していたのを悪習とし、恭順する「恭奴」と改称、臣下印章を与えたものです。

 とはいえ、由緒正しい倭人は、一段貶められたと知らぬまま、倭奴として来貢することになりました。

 王莽は、帝国を簒奪した極悪人扱いでしたが、王莽が復興した周礼の多くは、「漢制」として維持されたのです。

                             未完

倭人伝随想 1 倭人とは何者か 1/3 

                    2018/11/22
○随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。

 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

□倭人とは何者か
*人族の由来

 白川静氏の講演録「文字講話 Ⅰ」第三話「身分と職掌」に「周礼」が引用紹介されていて、某氏と呼ばれる「氏族」と某人と呼ばれる「人族」が、官名として列記されているのが見て取れます。「氏族」、「人族」は、当方が勝手に言うだけですが、ここだけの地域規格として諒解いただきたいのです。

 当方の勝手な解釈では、「氏族」は、中国華夏文明の「氏」として認められている集団であり、尚書を解し、礼を弁える華夏文明の一員です。これに対して、「人族」は、氏として認められない蛮夷ですが、来貢して華夏文明に認知され、服属したものです。

 ここでは、「人」は、周官制で定められた称号と解釈するのです。

*「倭人」の務め
 人族の官名は職能を示しているようですから、「倭人」も、当時中原にはほとんどなじみのない稲作を司る、女性を担いだ種族と思いますが、周礼に倭人はないようなので、倭人が再来したかどうかは確かではないのです。どこでも、初見は記録するが再見以降は漏らされるのです。

 周代記録に、「鬯人」はあっても、「倭人」はないようです。何れかの時に音信不通(「絶」)となって除名されたかと思うのです。封建され所領を得たら記録されたはずですから、正体も所在も不明とは、大した存在と認められてなかったようです。

*鬯草貢納
 論衡に記録されている、周成王時の鬯草貢納とは、周礼儀式に必要な鬯草貢納の職能を割り当てられて、周に服属したことを言うのでしょう。周は、「倭人」を王朝儀礼の一職能に任じたかも知れませんが、職能を明記した青銅器の下賜はなく、鄙の蛮夷は記録を持たないために、二十年一貢程度の来貢すら維持できなかったかも知れません。

 後の春秋時代、東周慶王の世に、斉桓公が、楚公に対して、周祭礼の苞茅貢納を怠ったと指弾しましたが、楚も、新参蛮夷の時、苞茅貢納職能を担うことで認知された由来を示しているように思います。
                             未完

2018年11月 9日 (金)

今日の躓き石 毎日新聞の恥拡散 河内の「リベンジ」 日生の汚名 

                     2018/11/09
 今回の題材は、毎日新聞大阪版地方面「河内」の看板のもとに、「日生 リベンジ果たす」と大見出しで、「毎日新聞」の金看板に泥を塗り、一方、日本生命は呼び捨てで、こちらもたっぷり泥を塗られている紙面である。
 
 ここで言われている「リベンジ」は、以前負かされた相手に恨みをだいて、今回、見事に「ぶちのめした」ことを高々と誇っているらしいが、伝統ある立派な企業が言い立てるべきこととは思えない。
 
 引用された副会長談話を見ると、言葉遣いは表面上和らげられているが、
趣旨は、予選で負けた相手に本大会で「やり返せ」、「血祭りに上げろ」である会社として、復讐、仕返しの動機付けがないと勝てないチームに育てたのだろうか。宿願を果たして、この後、どうやって闘志を維持するのだろうか。

 担当記者は、趣旨を忖度して、この見出しにしたようである。

 
 となると、新聞社が正直に「報道」しているのだろうが、これでは、野球チームに社名を名乗らせた努力が、却って社名に泥を塗っている。
 
 どちらにしろ、全国紙の紙面に出て来るべき言葉ではない。
 
 まして、ここに使われているのは、今日広がっている「リベンジ」、つまり、再挑戦とは違う、野蛮な使い方である。やられた相手にやり返す、血塗られたものである。担当記者の語感の荒廃は、何とも言いがたいものである。
 
 相手チームは、正々堂々と試合して勝った結果をこのように恨まれては、情けないであろう。次回対戦の折は、貯えた恨みで復讐しろというのだろうか。復讐の連鎖が綴るのが、毎日新聞の考える社会人野球だとしたら困ったものである。
 
 それにしても、毎日新聞には、用語基準はないのだろうか、あっても、徹底していないのだろうか、紙面を世に出す前に校閲はしないのだろうか。
 
 このような野蛮な言葉の世間への蔓延と子供達の言葉の汚染を身をもってでも止めようという志はないのだろうか。
 
 と言うことで、またも、残念な苦言を呈することになり、情けない朝を迎えたのである。
以上
 
後日談
 次の試合は、当のチームにしてみたらくやしい完封負けだったのだが、毎日新聞の報道した監督談話で、最初の失点を起こした、つまり、タイムリーエラーした選手に憤懣のすべてがぶつけられていて興ざめであった。

 そんなことを、全国に報道される場で言うものではない。

 大体、完封されたのは、チーム全体の問題である。しかも、一点差でなく、追加点を取られている負けだから。最初の一点がなくても、なんで負けても、負けは負けである。
 エラーは必ずあるものだから、恨みっこなしである。
 
 選手権大会の場で、点が取れずに負けたのは、端的に言えば、監督の責任である。
 それとも、エラーで一点先取された瞬間に、もう負けて当然とでも思ったのだろうか。負けをメンタルな流れのせいにするのは、随分、無責任な指導ではないかと危惧する。

 いや、ここでは、監督を辞めろと言っているのではない。絶対にない。執念に凝り固まった考えと「責めつける」発言を改めて、次の試合に取り組む意欲を育てて欲しいだけである。
以上

今日の躓き石 日テレの暴言日米「同級生」につける薬 MLB来日

                          2018/11/09
 今日は珍しく、民放系の野球中継である。
 
 いや、随分以前から、野球中継のアナウンサーは、大分知恵の回っていないのがいるとは気づいていたが、今回は、来日中のMLB選抜と巨人の試合で、大分いけないのを知らされた。
 
 大体が、「同級生」と言うのは馬鹿そのものの言い損ないだと気づかないで、恥をさらしているのだが、それでは足りないように、MLB選手と日本選手が「同級生」というのには、いや、「つける薬がない」と言わされるのである。
 
 普通の人なら大抵は知っていると思うのだが、日本では、四月が学校の新年度というのに対して、アメリカは九月である。五ヵ月ずれていて、同学年とは言いようがないのであるが、それを、わざわざバチものの「同級生」と言い換えて、恥の上塗りである。一瞬口ごもりそうになったのだが、野球放送だから、言いっぱなしで良いのだと、馬鹿になろうとしたようである。野球ファンも随分嘗められたものである。
 
 今回の場合、単に「同年」と言えばいいのではないか。それくらいの常識はあるのではないか。そもそも、「同学年」というのが新語であって、元々、国内制度では「同年」で通っていたのである。
 
 いや、こんないい加減な言葉遣いで、プロのアナウンサーとして通用するのだから、民放は、この上なく甘い世界なのであろう。こどもたちが、まねしなければ良いのだが、とかく、馬鹿な言葉遣いの方が受けるのである。
 
 因みに、当方が馬鹿話を聞かされたのは、ケーブルテレビで視聴したG+(日テレジータス)である。同社の社内基準で、「とにかく同級生と言え」と業務命令になっていたら、勘違いでアナウンサーを責めているのは申し訳ない。
 
以上

2018年11月 2日 (金)

倭人伝の散歩道 卑彌呼の正体は「畀彌呼」か

                              2018/11/02

 

 白川静氏の字源字書「字統」を眺めて、卑彌呼という名について、これまで思っていたことを考え直す。以下、漢字学的な解説は字統による。推測、憶測は、当ブログ筆者のものであり、今のところ、先例を見つけていない。

 

 結局、国名、すなわち固有名詞の臺と壹のどちらが正しいか結論が出せないと言うことは、他の固有名詞も疑って良いということである。

 

 例えば、翰苑の写本、太平御覧の刊本で見えるように、卑には異字が見られる。末尾に示したように、太平御覧の現存刊本にこの異字が散見される。女王名以外に、官名などに登場するから、倭人傳内に限れば、結構用例が多い。

 異字候補は、「畀」である。発音は、同じく「ヒ」であるが、当然卑しいという意味はなく、贈る、賜う、与えると言うように、貴重なものの授与に使う言葉である。

 字形は、「絶対違う」と言い切るのに大変な努力と勇気が要るほどに似ているのてはないか。いや、この字は、設定によっては表示されないことがあると思われるので、字形を説明すると、田の下に丌であるが、この部首も表示できないのであれば、下の字の左右反転である。卑との違いは、「田」のてっぺんにちょんと「’」が乗っているかどうかにもあるようにも見える。であれば、ここに見えているのは、「畀」である。

 

 続く、「弥」(び、み)は正字では「彌」(び、み)であり、つくりの部分「爾」は、字統によれば、女性の文身を示すとのことである。元々、長寿を言祝ぐ意味だったようである。但し、異字という事ではない。

 

 「畀彌」の意味は、文身を備えた巫女に長寿が恵まれることを祈念したということで、貴人の名として筋が通っているように思える。自称として、特に尊大でも無礼でもなく、妥当ではないか。

 

 これまで、当方は、個人的な意見として、「卑」の字源から、卑彌呼は、柄杓で水を汲む若い女性と考えたが、畀彌呼であれば水汲み女ではなくなる。

 

 良くある牽強付会説の論法に倣って「畀が卑に誤伝された」と仮定すれば、それは、三国志継承のごく早い時期だったかも知れない。倭人伝は、最初から卑彌呼と書いたようにも見える。三国志には「俾彌呼」も見かけるが、と言っても、ほぼ、それっきりの登場であるから、殊更この文字遣いを正確とする絶対的な裏付けがないように見えるのである。

 

 「畀」と「卑」は、殊更崩し字で比較しなくても、随分似通っているから、壹臺誤記論のように、草書写本論を持ち出す必要もないのである。

 帯方郡、ないしは、中国側の鴻廬館の関係者が、蛮夷の女王だから「卑」と決め込んだのかも知れない。わからないことは、いくら考えてもわからない。

 

 いや、壹臺誤記論で言い古された論法を持ち出すと、陳寿原本も裴注原本も、現存していなくて、せいぜい、翰苑や太平御覧に、刊本事業で整頓される以前の面影を窺うしかないのだから、結局、畀彌呼論を完全に否定することはできないと思うのである。
 あわてて追記すると、宮内庁書陵部蔵書の三国志紹凞本、つまり、木版印刷本でも「畀」のようにも見える「卑」が印刷されているように見える。写本工の判定の癖というわけでもないようである。

 

 

 

 いや、今更の一説として、ひっそり世に出る価値はあると思うのである。
 

 

 

以上
 

続きを読む "倭人伝の散歩道 卑彌呼の正体は「畀彌呼」か" »

2018年11月 1日 (木)

今日の躓き石 サイト記事の権威喪失 TPP11騒ぎ

                                2018/11/01
 本日の題材は、INTERNET Watch   トピック   業界動向   著作権・知財

 やじうまウォッチと題したコラムである。
 
 
 関係者は、慌てふためいているようだが、このことは、遙か以前から予告されていたのである。 
 当ブログでは、既に2015年時点で、期間延長と「非申告主義」について警鐘を鳴らしていたが、それ以降反対活動が報道されたように思えないし、記事に触れられていないので、記者の目にとまらなかったようである。
 
 当然、このような重大な記事を公開する以前に、著作権関係に権威を持つ弁護士さんの意見を求めておくべきではなかったかと思う。
 
 素人考えながら、大原則として、現在制度で既に著作権が公有化されている著作物が、制度変更により、再び、著作権有効になることは無いものと理解している。
 TPP11発効の前日夜半(23時59分59秒)までにパブリックドメイン(PD)入りした著作物は、TPP11発効後も(未来永劫)PDであるという理解である。

 特定のサイト、青空文庫がどうなるかということもさておき、文豪の著作などPD著作物の独自刊行は、アマゾンなど他の企業/組織でも行われているところである。
 公共図書館では、所蔵PD書籍をスキャンしたPDFを公開している例が多い。そうした機関では、TPP11の影響を事前評価して、早くから制度改定に備えているのである。
 繰り返すが、既にPDとして公開されている著作に影響は無いということである。

 当記事には、そのような権威ある見解は、一切何も示されていない。担当者は、居眠りでもしていて、寝起きに騒いでいるのだろうか。
 わからないことは調べろ、誰に訊いたら良いかわからないときは、そこから調べろ、と言うのが原則ではないか。
 やじうまは、出不精なのだろうか。運動不足は、デブ性(しょう)のもとである。記事は、足で書くべきである。

 ネット報道が無責任だと言われるのは、このような無意味な記事が、誰の確認も無しに出回るところにあると思うのである。
 当ブログのように個人発の気楽なブログなら、ある程度仕方ないと見られるだろうが、当サイトINTERNET Watchは、商用サイトであり、読者の情報源、つまり、よりどころになっているはずである。ここで批判するのは、その見方からである。
以上

« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2022年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

カテゴリー

無料ブログはココログ