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2018年11月24日 (土)

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」 3/3 

                    2018/07/07  2018/11/24
*殷(商)遺風
 白川静氏が殷(商)風俗と見た春秋社日は、私見では、長江下流域(後の呉越)から海岸沿いに伝わったようです。社日は稲作のための農暦であるから、その時期に稲作は商の旧邦、後の斉の地に伝わっていたと見られます。

*商風廃絶

 のちに商の一部が、西域の富を求めて中原に攻め上って武力国家を創業し、これが世紀を経て成長して天下を把握した殷(天邑商)となったと見ていますが、殷は、乾燥した中原に適さない稲作風俗を失ったようであり、殷を打倒した周は遊牧文化を持っていたので、その制はなかったようです。

 このため、中原に展開された華夏文明は、東方を「夷」とみて、その文化を排したもののように思われますが、あくまで、東都洛陽を発端とした浸透であり、鄙の民俗を根こそぎ書き替えるには至らなかったようです。

*二倍年暦談義

 後代、春秋時代の斉、魯を起源とする諸史料を中心に、年暦に殷の遺風「二倍年暦」が偲ばれるということですが、ここでは触れません。

 (例えば、「古賀達也の洛中洛外日記」ブログ「二倍年暦」に発表。
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/the-double-year-calendar/)

*伝来の背景
 一方、斉から倭への伝来は、どうであったかは不明ですが、風俗の大系が伝わったようであり、集落ごとなど大所帯の移住があったと見られます。

 移住の時期次第ですが、殷後期以降で文字が存在していれば、文書記録を携えて移住したのではないかと思われます。となれば、斉での稲作文化のかなりの部分が忠実に再現されたと思うのです。但し、移住後、商「文化」がどの程度継承されたかは、不明です。

*謝辞
 以上、拙論の手掛かりとして、白川静氏の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。氏は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する施策理成果も大変貴重なものであり、拙論にその出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。

 しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。

 この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。

                             この項完

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