倭人伝随想 1 倭人とは何者か 3/3
2018/11/22
*後漢貢献
束の間の新は、長安を落とした反乱軍に討たれて崩壊し、漢以来の栄華の帝都長安は荒廃しました。劉秀(光武帝)は、東都洛陽を帝都として帝国を再興する建武の治を起こし、楽浪郡にも天下太平の布令、参集指令が届いて、王莽の招聘が功を奏した来貢がありましたが、それは光武帝の末年でした。蛮夷は、王莽により「倭奴」と呼ばれていました。
その後、「倭奴」は漢制で「倭人」と知られ、漢礼復興と共に「倭人」は、再度認められましたが、またも、歴史の陰に埋もれ、公孫氏は、倭の価値に気づかないまま滅亡し、傘下の楽浪・帯方郡も単なる東夷と遇したのです。
*帯初遣使
魏朝による帯方郡回復後、東夷平定、特に倭人招聘の指示を受けた新任帯方郡太守の厳命により急遽参上した倭使は、帝都洛陽に連行されて堂々と皇帝拝謁を遂げました。
魏朝第二代皇帝とは言え、祖父曹操、父曹丕の偉業を乗り越え、漢の遺制を払拭して魏朝を一新する烈祖としての新創業を目指した皇帝曹叡は、倭人を未曾有の新来東夷として厚遇するよう指示したので、自身は雄図空しく早世したとは言え、その意図は暫し継承されたのです。
東夷を帝国の東方辺境の抑えと遇する先帝明帝の遺志は、幼帝曹芳の治世では後ろ盾を得られず急速に退潮したというものの、束の間、貴重な文物の将来で訪れた中華文明光芒は、辺境の東夷に活気を与えたのです。
*終章
以上の経緯は、表だって称揚されたものではないから、魏の官人である魚豢は、あえて魏略で言い立てず、陳寿も、正史記事にない部分は明記せず、かくして、「倭人」由来譚は、史書から影を潜め、由緒正しい「倭人」の意義は忘れられ、単に蛮夷諸国の一として「倭」と呼ばれたのです。
ただ、陳寿は、以上の倭人遍歴の光陰を捉え、後漢の「倭奴」を克服して、あえて、本来の「倭人」と書いたのですが、一方、東夷伝記事の倭、倭国は、陳寿の編纂方針に従って原史料の用語を温存したのです。
以上
*謝辞
以上、拙論の手掛かりとして、白川静氏の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。氏は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する情感豊かで、広く、深い思索の成果は、大変貴重であり、拙論に、出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。
しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。
この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。
この項完
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