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2018年12月

2018年12月26日 (水)

倭人伝随想 11 局地里制論について 3/3

                            2018/12/22
*倭人伝世界概念図 追記再掲
 ということで、前記概念図に普通里里数を並記してみました。



 太字、括弧内の里数は、普通里里数を丸めた概数です。煩雑を避けて概数表記を省略しますが、すべて、「餘里」と書かれるべきものです。

 一部で、「餘」は30パーセントか、それ以上の端数を一律で切り捨ていたと決めてかかった読みが見られますが、少なくとも、当資料では、「餘里」が、端数の切り捨てか切り上げかは全く不明で、別項の議論に譲ります。

 ともあれ、おそらく、倭人伝里数は、短里で表現される明解な図式を書き出したものであり、普通里は現地で実施されていなかったし、中国標準里程である普通里との換算は想定されていなかったものと思われます。

 くどいようですが、これは、概念図であり、図上の方位、角度、寸法などは、概略とみても地図として不正確です。つまり、当時の倭人世界で「東アジア」の世界像は、切りの良い短里で認識されていたのです。

*倭人世界像
 見たとおり、短里であれば、各里数の位置付けが明解に見て取れるのですが、普通里を採用すると、概数処理の関係で、食い違いがでるのです。

 以上、考え合わせてみると、倭人伝里数は、倭人世界で実施されていた短里で書かれていたのです。切れ味が悪いのですが、実戦はこんなものです。

*短里制波及の追求

 三国志全体を精査して、帯方/楽浪郡の短里が、中国本土の他地域の里制に影響を与えている例が発見されるかも知れませんが、それは倭人伝の里数審議とは別の話です。

                                完

倭人伝随想 11 局地里制論について 2/3

                            2018/12/22
*六倍誇張説の謎
 前記事で述べたように、当時、有効数字一ないしは二桁で丸めて、七千短里は一千二百普通里、一千短里は百七十普通里、一万二千短里は二千普通里を、それぞれ六倍したことになるのです。

 それでは、元々、数字が細かかったのを、誇張するのと同時におおまかにしたことになります。特に、直線経路とみられる里数に集中すると、末羅国―伊都国間以外、短里で、七千,一千,一千,一千、一万二千と、千里単位にまとまって切りのいい数字が並ぶのに、想定している長里では、一千二百,百七十,百七十,百七十,二千と込込み入らせたことになります。

 特に、三度の渡海の計三千短里は、本来五百普通里のはずが、三渡海に分けて足すと、計五百十長里になり半端が出るのです。元々、渡海部分は、海上なので、里数はあくまで推定の概数ですが、なぜ、二百長里が三回で六百長里と、切りの良い数字にしなかったのか不可解です。

 もっとも、それでは、短里が、それぞれ一千二百里になり、三回で三千六百里と、整然としなくなるのです。と言うことで、短里での里数がきっちりするようにしたのでしょう。何とも、芸の細かい手口です。

 と言うことで、上層部の理解しやすい切りのよい数字を求めると、普通里里数を整数倍して誇張したという論法は、成り立たないのです。

 振り返ると、数字に弱いと思われる現地が、懸命に有効数字二桁の普通里里数で報告したのを、数字に強い帯方郡が、悪戦苦闘して六倍した上で有効数字一桁ないしは、それ以下の概数に丸めて、倭人伝にあるきっちりした数字の短里里数にしたのでしょうか。

*六倍誇張説の不合理
 とかく、倭人伝の里数は、大まかだと言われますが、現地は普通里を施行していて、わざわざ六倍したらきっちりになる里数を出したのでしょうか。随分、手間のかかる誇張の整形を施したものですが、素人目には、なぜ、処理が圧倒的に簡単な十倍にしなかったのか、不可解なのです。十倍なら、十里が百里、百里が千里になるのは、桁上げだけで良いのであり、当時主力の算木計算なら、何もしなくていいのです。不思議な話です。

 倭人伝の里数の書き方は、まず、わざわざ、韓伝の範囲である帯方郡から狗邪韓国までと言う半島側の里数、つまり、長年に亘って知られている里数を基準としたと明記していて、引き続いて、倭人伝として公的に採用する里数を書いているのだから、公明正大であり、過大申告も無いのです。

*誇張論廃棄

 と言うことで、倭人伝の行程は元々短里で描かれていたと見るのが自然なのです。現地で、普通里が実施されていた強弁する誇張論は早々に放棄し、短里を中国に展開する魏晋朝短里説も廃棄し、地域里制を直視するべき時代が来たのではないかと思われます。

                             未完

倭人伝随想 11 局地里制論について 1/3

                            2018/12/22
*局地里制論とは
 既出記事と重複しますが、視点が違うので、再度言うことにします。

 倭人伝の里数の特徴として、冒頭近くで、帯方郡から狗邪韓国の里数を七千餘里とする局地里制を採用したことを明示し、魚豢「魏略」も陳寿「魏志」も、この「局地里制」を採用しています。これは、ほぼ一里七十五㍍程度で、中国の標準である「普通里」、一里四百五十㍍程度の六分の一として、古代史分野では、大抵の場合「短里」と呼ばれています。以下、概数であることは自明なので、「程度」や「餘」は省略します。

 そのような地域独特の短里が採用された理由は、とりあえず不明ですが、ともあれ、短里は、当時の現地の公的な里制として「通用」していたと考えられます。そして、見る限り、倭人伝の残る部分は、一貫して短里で書かれていて、そのまま史書として妥当とされているのですから、倭人伝の里数は首尾一貫していて誇張はないと思うものです。

*根拠無き誇張論

 里数が単に誇張されたのでなく、局地里制として短里が実施されていたと感じるのは、中原の里制と簡単な比例関係に無いからです。
 
 簡単な比例関係は、二倍、四倍、八倍の倍々系列を除けば、ただ一つ十倍関係です。十倍であれば、単に、百里単位の里数を千里単位へ桁変更だけであり、数の計算が一切要らないのです。従って、誇張しやすいように、一里四十五㍍にしそうなものですが、そうはなっていないのです。

 当時は、今日と異なって多桁計算がなく、一長里四百五十㍍で測定した里数を短里七十五㍍に換算するには、里数を六倍するのですが、それでもかけ算に手間がかかるし、計算前後両方で切りの良い数字は、ごくごく限られるのです。

 データの件数は少ないと言え、そのような手間のかかる変換をしたとは思えないのです。まして、晋書地理志を見る限り、短里は、一切公認されていなかったのですから、換算法も知られてなかったのです。

*概数の起源
 いや、ここまできっちりした数字で書きましたが、当時の普通里、短里は、メートルで刻んでなかったので、どちらも端数がぞろぞろ出るのです。ここでは、話が早いように、四百五十対七十五としているだけです。

 大事なのは、一普通里が六短里という比例関係ですが、これは、秦が、全国統一制度を敷いたときに、既存の周里、短里を、新たな里制である長里としたときの倍率と見ているのであり、当然、六倍という整数倍なのです。

*原里数の推定

 倭人伝の七千里、一千里、二百里といった里数表示が普通里の測定値から六倍に誇張されたと見て、元の普通里里数を逆算すると、きっちりした里数が出ないのです。せめて、十里単位できっちりして欲しいのですが、きっちり計算すると一里でも割り切れず小数になるのです。

                               未完

倭人伝随想 10 里数の底流 餘の世界 2/2

                           2018/12/26
*粗刻みの世界
 そういう大まかな数字であれば、一千里単位は諦めて、先に挙げたような粗い目盛りでほぼ二千里単位にするしかないのです。それ以上となると五千里単位の大まかさになりますが、そこまでは言えなかったのでしょう。

*端数の切り捨て
 千里から上の里数が二千里単位であり、前後一千里程度の不確かさがあるなら二百里。五百里は端数であり、総里数計算の大勢に影響しないのです。世に言う、「餘」は一律切り捨て論とする解釈では、端数が積み上がるので、百里単位が無視できないのです。

*千里附近の扱い
 丁寧に言うと、二千里単位の概数と言っても、一千餘里は、七百五十里程度から一千七百五十里程度の範囲内かと思われますが、里数に二千餘里が登場しないので上限は確かではありません。先の概念図は、一定間隔で刻んでいますが、不確かさは比率問題なので、一千辺りは狭い範囲になるのです。

*実世界、実感を刻む対数
 その辺りは、ちょっと難しい「対数」の世界です。実生活は、実は、比率で評価される対数の世界なのですが、わかりやすく図示するのが難しいので、あえて直線的に描いたものです。数字に強い倭人伝筆者と魏志編者の丁寧な筆法が、現代人に理解されず、数多くの誤解が生じているように見えます。

*松本清張氏の慧眼と限界
 松本清張氏は倭人伝の数字に、三,五,七の陰陽五行説に登場する奇数が多いのに着目し、実数に関係無くこれらの数を使用しているから、倭人伝数字(里数、戸数など)は信用してはならない、と断じています。これは、里数で言えば、千里を越える里数は、二千里間隔の概数であった結果、ことの必然として奇数が多発したという背景に気づかなかったための早計と思われます。

 倭人伝に奇数が多い、とは、白鳥庫吉氏の所説に触発されたとは言え、まことに慧眼です。奇数は、本来「奇」、つまり高貴な数ですが、倭人伝では縁起担ぎの数字ではなかったのです。氏の身辺に、先賢の著書を含め、理数系の大局的な見地から助言する声がなかったのが残念です。

*まとめ
 倭人伝の里数や戸数は、不確かな数字を適切に概数処理したものであり、概数として理解すれば、筋の通ったものなのです。
 なお、以上の推定に援用した数学知識は、遅くとも、大学教養課程で指導される程度の基本的なものであり、特に高度な概念は採り入れていないものと思います。
                                以上

倭人伝随想 10 里数の底流 餘の世界 1/2

                           2018/12/26



*餘の世界
 さて、当ブログでここまで提言している概数里程論で理解しにくいのは、仮に数百、数千「餘里」の里数が前後の範囲を含んでいるとしても、千里単位であれば前後五百里の範囲内ではないかという疑問と思います。その辺り、何度か触れていますが、上の概念図を参考に、もう一度考えて頂きたいところです。

*曖昧な世界
 算用数字縦書きは実数を配置していますが、下段で漢数字の大まかな枠に落ち着くのです。現代感覚では、四捨五入する桁を指定すれば、百里でも千里でも「きっちり」概数が出せるのですが、きっちりできるのは、正確な実数を丸める場合であり、倭人伝里数のように、元々おおざっぱな数を寄せ集めるときに、その理屈は通用しないのです。

 あるいは、ある程度正確に知られている数字とおおざっぱな数字を交えて計算するときという方が、事態に適しているかも知れません。

 要するに、全里数の計算は、行程全体を見渡して、もっとも不確かな里数に合わせなければならないのです。

*知られている里程
 帯方郡から狗邪韓国まで長年、官道として通行していて、全長に亘って何れかの国が管理しているので、区間毎に縄張り測量し一里塚を据えていたと思いますから、少なくとも、一里単位の里数を知ることはできたはずです。

*推定しかできない里程
 しかし、渡海行程は、海上に道がないので、里数の測りようがなく、所要日数から類推するしかないのです。また、狗邪韓国から見ての向こう岸は、道はあっても、縄張り測量してなければ、里数の報告があっても、どの程度信頼できるか不明です。

*不確かさの度合い

 例えば、元々が一千里程度で九百五十里から一千五十里の範囲かどうか疑わしいのです。九百里から一千百里の程度どころか、五百里から一千五百里の間という大まかさかも知れないのです。海の向こうで実情はわからないのです。里数は測っていないが、普通に歩いて三、四日なので、一日三百里として一千里程度、と言う計算かも知れないのです。

                                未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 9/9 釋名論 改

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08
*里の起源(「釋名」劉煕:後漢)
 参考まで、冒頭で論議した釋名の「定義」を掲げます。

釋名:周制,九夫為井,其制似井字也。四井為邑,邑,猶悒也,邑人聚會之稱也。四邑為丘,丘,聚也。四丘為甸,甸,乘也,出兵車一乘也。

 ここまでは、司馬法と同内容です。

五家為伍,以五為名也。又謂之鄰,鄰,連也,相接連也。又曰比,相親比也。
五鄰為里,居方一里之中也。五百家為黨,黨,長也,一聚之所尊長也。
萬二千五百家為郷 郷,向也,眾所向也。

 以下、少々検討を加えます。
 「釋名」は、中国の州名や国名の由来を明らかにした古典書籍、一種の辞典であり、その一部の「釋州国」に、「家」、「里」などの由来が記録されています。それらの定義は、主として周代の史料から引用して集成されたものと思われます。

*里の起源 一説
 古来、つまり夏殷周の三代で、五家を「鄰」として、五鄰(二十五家)を里とし、里の一辺を「里」としたようです。ちなみに、里の首長、里長は、里の中央に社を設けて氏神を祭祀したようです。当時は、万事小振りの商(殷)代であって、憶測ですが、里は(約)15㍍で、殷を継ぐ周はそれを維持したようです。一家は15㍍四方となります。(以下、約を省略)
 このように、里は集落であり、転じて距離単位にもなったのです。

*里の変貌 一説
 夏殷周文明の影響下にあった中原諸国に比べて、遅れて文明に浴した秦は、古制にあった距離単位の里を、自国の大家族世帯の格好に合わせて、周里の六倍の450㍍とし、統一王国を築いたときにこの長里が全土に適用されたのでしょう。

 周里を適用していたであろう各国王家が滅び、「同文同軌」と共に、秦里で一新、測量されたのでしょう。里制に限らず、社会制度の根幹が一新されるのは、史上類の無い同文同軌の一大変革の際に限られるのです。

 但し、距離単位の里が六倍となったために、集落としての里は三十六倍となり、周の時代と大きくかけ離れたものになったのですが、先に述べたように、これを周の井田制という土地支給制度の「井」と合わせたので、見かけ上、周里は、秦に引き継がれたように見えたのです。

*周制の名残り 一説
 朝鮮半島東夷は鄙で秦里は及ばず、周里制を維持したのでしょう。秦漢で、下級役人となった大夫が、周と同様の高官となって、東夷に残ったのと同様と思います。

*史料の検索
 古田武彦氏は、緯度ごとの太陽高度の変化に周里の定義を求めて75㍍程度の概数を得ていますが、当ブログは、史料に根拠を求めたのです。
                               以上

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 8/9 改

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08
*周里の意義
 と言うことで、距離の単位としての里が周制から六倍になったという仮説と整合させる策としては、周制の里は、尺、歩から積み上げたものでなく、別の根拠を持つ、言うならば独立した単位系でなかったかということです。

*次元の違い
 井と里が合同なら、里を六倍に拡大すると、下は、歩から天子領分まで倍数で定義されている全体系が連動しますから、それは不可能というものです。 
 絨毯を敷き詰めた部屋にテーブルを置いた会場で、絨毯の一角を別の場所に移すことなど不可能なのと同じです。

*同文同軌 周秦革命
 周里が長さの単位(一次元)で、井(二次元)と無関係(異次元)であり、秦朝が、何かの理由で周を井に同期したのなら、同文同軌の里制変更で里程が影響されても、日常使用の歩、畝は変動せず、混乱はなかったのです。また、些細な改定ということで、里長の変更は記録に残らなかったのでしょう。

 先ほどの例で言うと、絨毯の一角が本来別物で、縫い付けられているだけであれば、そこだけ、剥がして移動できるのです。

*結論
 と言うことで、経緯は不明ですが、周里が短里としても史料に書かれている周制と矛盾しないという見方です。何しろ、秦始皇帝が周制を覆してから、陳寿の三国志編纂まで五百年、房玄齢の晋書編纂まで九百年経っていたのですから、いくら公文書類と言っても、正確な伝承には限界があったし、何事も組織的に定義するとしても、全て定義できるものでもないものです。
 
 どんなものにも欠点はあるのです

*現地里制の確認
 原点に戻って、延々と模索した結果、古田氏の提言は見事に構築されていたものの、その展開に於いて、根拠に欠けるものであり、不適切な部分をそぎ落とした核心だけが、ほぼ論証されたものと思います。

 即ち、倭人伝里制の由来は多少不確かでも、⑴現地里制を適確に示しているとする意見を覆すものでないということです。また、別系列の史料により、⑵周朝が短里を実施していたことは、ほぼ信じて良いでしょう。 この項は撤回します。
 
 晋書地理志から判断すると、⑶以降については、成立しないものと思いますが、可能性に乏しくとも、別史料で覆る判断かも知れないのです。

 以上、一介の素人の意見ですから、別に権威はないのですが、ものの理屈として、筋が通っていると思うので、ご参考まで公開したものです。

                               以上

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 7/9 改

                    2018/10/26  2018/12/26 2019/01/29 修正 2020/11/08
*天下のかたち
 司馬法は、さらに、高位の軍制を示しています。

一封三百六十六里,提封十萬井,定出賦六萬四千井,戎馬四千匹,兵車千乘,此謂諸侯之大者也,謂之千乘之國。

 封は、三百六十六里(正しくは三百十六里)で一万井となります。うち、六万四千井が出賦で、戎馬四千匹兵車千乗を有し千乗の君と呼ばれます。

天子畿內方千里,提封百萬井,定出賦六十四萬井,戎馬四萬匹,兵車萬乘,戎卒七十二萬人,故天子稱萬乘之主焉。

 天子の畿内は、方千里で、地は百万井。六十四万井が出賦で、戎馬四万匹兵車万乗を有し、天子は万乗の君と呼ばれます。

*遠大な構想
 以上のように、周制は、尺から始まって、天子の直轄領分である一辺千里(一辺四百五十㌖)に至る倍率の階梯がきっちり規定されていて、勝手に、一部をずらすことはできない仕掛けです。
 天子直轄領は、約二十万平方㌖で、 本州島面積の約二十三万平方㌖に匹敵しますが、これは、周王朝の京畿であり、諸国所領はこれを越えているものがあったと見えます。

*秦制の意義
 秦が天下統一した後、周衰亡の原因として、このような形式的軍制が、周辺勢力への防衛にならなかったと提起され、始皇帝は、「乗」数軍制を廃棄しましたが、周制の里規定に手を加え、一歩六尺を新設したとはなっていません。

 里と連動した土地面積単位として「畝」が存在しているので、いかに始皇帝でも、土地検量、税の付け替えは避けたとは思うのです。

*秦朝の里制変更
 いや、当方にも意外だったのですが、司馬法のみならず、晋書地理志自体の記事にも、秦始皇帝が里制、井田制などを改めたとの記事は無いのです。
 井田制は、単に廃止されたのでしょうが、里制は廃止できないので、改定すれば記録が残るはずです。特に周制の定義が延々と引用されている以上、里制の変更だけ実施することはできないのは自明です。

 と言うことで、秦始皇帝は、周制による尺、歩、畝、里から天下に至る大系に手を加えなかったのです。

*地域短里制の消滅

 ついでながら、倭人伝里制は、朝鮮半島にも実施されていたかも知れませんが、三韓体制と帯方郡支配が崩壊し、新興の新羅、百済が東西に勃興し、その際に中国里が敷かれたと思われます。そして、遂に、短里制は、倭独特の「倭里」となり、倭の消滅と共に、日本里制に置き換えられたのです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 6/9 改

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08
*井田受田
 一夫一婦受私田百畝,公田十畝,是爲八百八十畝,餘二十畝爲廬舍,出入相友,守望相助,疾病相救。

 井田制度では、農民は、二十歳で、私田百畝、公田十畝の計百十畝の良田を受け、六十歳で返納するまで、毎年の収穫時に公田からの収穫を税として上納すると書かれているようですが、それは一割以下の税率であり、古来、そのような低税率で運用された政府は無く、実際のものとは思えないのです。

*軍制、地方官規定への拡張

 司馬法には、井田を基礎とした周の軍制、地方官制が書かれています。

 十井、つまり、一里区画の十倍を通、十通を成とし、成は、一辺十里とします。続いて、十成を終、十終を同とし、同は、一辺百里とします。続いて、十同を封、十封を畿とし、畿は一辺一千里としてす。丁寧に、一里に始まる十倍階梯で帝国の広域に結びつけています。

令地方一里爲井,井十爲通,通十爲成,成方十里。成十爲終,終十爲同,同方百里。同十爲封,封十爲畿,畿方千里。

*軍制、地方官規定の拡張

 これと別に、四井を邑とし、四邑を丘とし、この丘は、十六井としています。丘ごとに、戎馬一匹、牛三頭の保有が課せられています。

故井四爲邑,邑四爲丘,丘十六井,有戎馬一匹,牛三頭。

 続いて、四丘を甸とし、田は、六十四井としています。井は、戎馬四匹、兵車一乗、つまり、四頭立ての兵車一台に加え、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有します。これを、乗車の制と言い、兵車乗数の計算基準となります。(甸 ①天子直属の都周辺の土地。「甸服」「畿甸(キデン)」 ②郊外。 ③おさ(治)める。 ④農作物。 ⑤かり。狩りをする。かる。)

四丘爲甸,甸六十四井也,有戎馬四匹,兵車一乘,牛十二頭,甲士三人,卒七十二人。是謂乘車之制。

*地方官規定への拡張
 同は、一辺百里であり、領地は一万井となります。但し、領地内には、山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路など、耕作地外の土地が三千六百井であり、残る六千四百井が出賦で、戎馬四百匹、兵車百乗を有します。領主である卿大夫は百乗の家と呼ばれるのです。

一同百里,提封萬井,除山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路三千六百井,定出賦六千四百井,戎馬四百匹,兵車百乘,此卿大夫菜地之大者也,是謂百乘之家。

 と言うことで、里は、各地領主の軍備計算の根拠であり、兵車の乗数は領主の権威の格付けでもあります。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 5/9 改

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08
□短里制再考
 以下、もう少し手前に遡って、「倭人伝短里」の由来を見極めたいと考えます。

*地域短里制再考
 倭人伝里数は、短里で書かれていて、これは、現地で実施されていたことの忠実な反映と見ます。「地域短里」と称されているものです。 もっとも、晋書地理志に倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

□晋書による里制考
 と言うことで、基本に立ち返って、晋書地理志の「里」について考察します。参照されているのは「司馬法」で、該当部分は、司馬法の残簡にない逸文となっていますが、別文献で周制であることが裏付けされています。

*古制
 「廣陳三代,曰」と書き出されているのは、夏、殷、周三代の制度を述べる前触れのようですが、資料が残されているのは周朝であり、古制とは、周朝制度と思われます。

 以下、井田法と呼ばれる土地分配の規則が記されていて、土地の広さの単位である、「歩」「畝」「里」の決め方が記されています。

 古者六尺爲步,步百爲畝,畝百爲夫,夫三爲屋,屋三爲井。井方一里,是爲九夫,八家共之。

 「井」が土地区分の単位であり、漢字の形が示すように、縦横三分割されて九個の夫から成り立っています。井は、方一里、つまり、縦横一里の正方形となっています。それぞれの夫は、百畝。つまり、縦横それぞれ十個、つまり百個の畝からなっています。それぞれの畝は、百歩。つまり、縦横それぞれ十個、つまり百個の歩からなっています。

*歩の起源
 そこで、基本である歩をどう決めるかという事ですが、これは、人体の「尺」の六倍となっています。
 「歩」と書いていることから、人の歩幅に関連付ける解釈が見られますが、それは、後生の東夷人の早計であり、短に、六尺の言い換えとしてこの字が選ばれたとみる方が、明快に理解できるでしょう。

 尺は、人の腕の尺骨の長さで、ほぼ25㌢㍍と仮定します。すると、歩は、150㌢㍍、つまり、1.5㍍のようですが、併せて、一歩を一辺とする正方形の広さを言うようです。と言うことで、長さでは、一里は三百歩となり、450㍍に落ち着きます。

*長さ、距離と面積
 以上の説明で、数字に明るい方は首を傾げると思うのですが、長さの一里が三百歩であれば、一辺一里の方形の面積は一辺一歩方形の面積のの九万倍であり、逆に、面積の一里が面積一歩の三百倍であれば、長さの一里は長さの一歩の十七倍であり、十七倍の食い違いとなります。長さで言うと、これは、二十㍍となります。

 推定ですが、ここで参照される一歩六尺に基づく一里三百七十五㍍が、普通里、いわゆる標準里として、後世まで一貫して実施されたのでしょう。特に、長距離の「里」表示は、社会制度の一部として固定されていたものと見ます。

                              未完

追記 尺、歩。里を、25㌢㍍、150㌢㍍、450㍍と統一しました。あくまで、概数であり、桁数が多いと誤解されるので、有効数字を二桁に減らしたものです。
   2020/11/08

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 4/9 改

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08

○周朝短里制への疑問
 さて、次に懸念があるのが、⑵の項です。いや、秦が短里を長里に変更したということも、議論が必要ですが、周の短里制がいかなるものだったか解明しなければ、秦里制を、議論しようがないので、後回しとします。

*晋書地理志に見る周朝制度

 周は、それまで中原を支配していた殷の覇権を奪って、王朝交代を実現したのですが、元々、西方の地方勢力だったので、統一国家を運営する組織も、制度も持っていなかったのですから、殷の制度、殷の官僚組織を継承しつつ、徐々に周の国家制度を組み立てていったものです。

*口分田制度(日本)

 参考となる口分田は、本朝律令では、「戸籍に基づいて六年に一回、口分田として六歳以上の男性へ二段(七百二十歩=約24㌃)、女性へはその三分の二(四百八十歩=約16㌃)が支給され、その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。」Wikipedia
 1㌃は、一片10㍍の方形の面積(百平方㍍)。

 少年少女以上の男女それぞれに支給されている点が、めざましいのです。

*井田制
 本朝の口分田のお手本となった周朝の井田制は、「中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。 まず、一里四方、九百畝の田を「井」の字の形に九等分する。そうしてできる九区画のうち、中心の一区画を公田といい、公田の周りにできる八区画を私田という。私田はそれぞれ八家族に与えられる。公田は共有地として八家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。」 Wikipedia

*尺・歩・畝・里

 少し言い足すと、(中国)畝は、六百尺四方であり、一尺25㌢㍍とすると、一辺150㍍程度となり、およそ2.25㌃となります。縦横三個ずつ畝を並べた、井とも呼ばれる「里」は、一辺450㍍の正方形となります。つまり、距離としての一里は、450㍍となります。(あくまで概算です)

 「尺」は、時代によって異なったと知られていますが、多くの物差しに複製されて日常の経済活動に使用されるから、短期間に変動することはなく、長期的にも六倍に変動することはあり得ないのです。
 結局、記録に見る里は、おしなべて長里なのです。また、畝は、半永久的に継承される土地台帳に記載され、時代によって変動することはないと思われます。取り敢えず、周朝の短里制度は見えてこないのです。

 議論の詳細は、大変長引くので、別途説明します。

                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 3/9 改

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08
*本論開始
 枕が続きましたが、題材とした資料文献の背景説明としました。
 と言うことで、晋書地理志が当記事の本題です。

▢古田武彦氏の「魏晋朝短里説」の消長
○短里説提唱と展開
 古田武彦氏は、『「邪馬台国」はなかった』で、倭人伝行程記事の郡から倭に至る里数について、詳細に考察した上で、
  これは、当時の里制を忠実に記したものである。実際の地理から、倭人伝の一里は一貫して75㍍程度(数値は、参照しやすく丸めた概数である)の「短里」である。
 ⑵ これは、古代周朝の里制である。
 ⑶ これに対し、秦始皇帝が、天下統一にあたり、六倍、450㍍程度の「長里」に変更し漢に継承された。
 ⑷ これに対し、魏朝は全国里制を「短里」に復原し倭人伝に反映している
 ⑸ 短里は晋朝に継承されたが、晋朝南遷後東晋によって廃され、秦漢「長里」に復帰した』との趣旨で提言したものです。

 ⑴~⑸は当記事筆者による要約

○魏晋朝里制の論証
 古田氏の論旨は、三国志は陳寿が統轄編纂した史書で、里制は統一されているべきである、との理路により、倭人伝記事の小局から出発して魏晋朝全国という大局に及び、三國志全文に及ぶ実証の試みは現在も続いています。

○魏朝里制変更の否定
 ここでは、先ほどの⑶以降の推論が成立しないことを述べるものです。

*史書に記載なし
 晋書地理志を根拠とすれば、魏晋朝短里の否定はむしろ自明です。晋書地理志は、古来の地理情報を克明に記していますが、魏晋朝において、秦漢朝と異なる里制が公布、施行されたとの記事はありません。

*里制変更の無法さ
 里制は、地理志という公式記録の根拠となるものであり、国政の根幹であると共に、各地方においても行政の根幹であり、里制を変えるという事は、国家の秩序を破壊することであるから、皇帝と言えども里制変更はできないのです。

 短里に変更すると全国の地籍(土地台帳)を書き替える必要があり、土地課税単位が変わることから、増税前提と判断されて、衆怒を招きます。

▢結論
 そのような重大な制度変更は、魏晋朝の不手際を明らかにするものとして、晋書の本紀部分に記載されるべきものであり、まして、地理志の周以降の制度推移記録に記載されないはずがありません。
 と言うことで魏晋朝といえども、国家制度としての短里は、実施されなかった事が明らかです。実施されなかったから、記録に残らなかったというのは、まことに明解です。
                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 2/9 改

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08
*太平の崩壊招く愚策
 実は、最後の呉を滅ぼして天下統一した皇帝が、太平に甘えて官兵を靡兵、解雇したために、失業した多数の元官兵が、各王の私兵となったのです。

 野心家が天下を狙うとなれば、教育、訓練の要らない、命令服従を本分とする元職業軍人は強力な武器であり、各王が他の王に対抗して強力な軍を組織し台頭を図ったため、乱世の幕を拓いたのです。束の間の天下太平であり、晋朝は自滅政策を行い、始皇帝以来の統一国家は瓦解し、四世紀に亘り南北二分されたので、晋皇帝は大罪人ということになります。

*前車の轍 始皇帝の構想

 天下統一で兵力過剰に直面した秦始皇帝は、大軍を匈奴対策名目で北方に駐在させ、全国から、長城や寿陵建設に大量動員して失業軍人の反乱を避けたのです。税収に即した緻密な動員策が必要ですが、全国地方官からの統計情報を元に計数に強い官僚がギリギリまで民衆を絞りあげれば、中央政権を永続できたはずです。一方、全国から不平分子を徴用して反乱の原動力を吸い上げ、併せて事業経費を幅広く徴収して反乱の資金源を断つ戦略です。

 とは言え、後継皇帝は、そのような巨大な戦略に気づかず、崩れた過酷な動員と徴税を続けたため、衆怒を買い、反乱多発の状態となったのです。

*晋書由来

 晋書の素性を知るため、中国史を抜粋しましたが、晋書は、南方に逃避した東晋政権や後継の南朝諸国では編纂できず、北朝を継いだ唐朝で、太宗麾下の重臣房玄齢の率いる錚錚たる集団によって完成したのです。

 既に、時代は、南朝を討伐して全国統一した隋が天下太平維持に失敗したために、またもや生起した全国反乱を統一した正統たる唐の御代であり、晋書を、南北朝の乱世を生起した晋朝の不始末をうたいあげる、いわば反面教師としての正史としたため、史談とも言うべき本紀、列伝において、風評に富んだ「面白い」史書になったのです。

 但し、当方が取り組んでいる地理志は、地理情報、統計情報を記した「志」であり、そうした演出とは関係無く、歴代政権の公文書として継承された豊富な資料を、丁寧に駆使した意義深いものです。

*「志」を欠く先行史書
 先行史書で言うと、後漢書は、自身の「志」を備えず、唐代に、別史書の「志」と併合したものです。そして、三国志は、遂に「志」を持たなかったので、晋書は、漢書以来久々の体裁の完成した正史となります。また、後漢書が、ほぼ笵曄単独の労作であり、三国志も、陳寿の指導力が強く反映しているのに対して、晋書は、房玄齢以下の集団著作とされていて、厖大な数値データを参照する必要のある「志」の編纂に相応しい体制であったと思われます。もちろん、四世紀ぶりに、乱れた全国を再統一した唐王朝の国力も、強く反映されています。

 つまり、晋書地理志は、大変信頼性の高い史料と見るものです。
                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 1/9 改

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08
*始めに
 本項の目的は、引き続き、倭人伝里制の妥当性を確認するものです。
 まず、当ブログ著者は、本記事初出の段階では、倭人伝里数は短里のものであり、これは、現地で実施されていた里制の忠実な反映と見ました。主たる論拠は、倭人伝冒頭で、帯方郡から狗邪韓国までの、帯方郡にとって既知の里程が、七千餘里と宣言されているということです。そのため、全体に「地域短里」、「倭人伝短里」の見方で進めています。

*「誇張」・「虚偽」説
 これに対して、倭人伝里数が、悉く「誇張」・「虚偽」と見る説は、総じて根拠のない憶測であり、正史に明記された記事を否定する力を持たないものです。そのような説自体、非科学的な「誇張」・「虚偽」と見えます。例外的に趣旨明解な松本清張氏の主張の批判は別記事です。

*方針説明
 当記事は、倭人伝の時代を含む歴史的な地理情報を網羅した晋書地理志の内容を検討し、里制に関する判断資料とするものです。もっとも、晋書地理志に倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

*晋書紹介
 晋書は、倭人伝の編纂された時代の中国王朝です。時に、「西晋」と呼ばれますが、当時は、自分たちの時代が早々に幕引きになって、南方で再建され「東晋」と呼ばれる後世の王朝と区別するために「西晋」と呼ばれるなどとは思っていなかったことは言うまでもありません。

*古代の晋(春秋)
 ちなみに、「晋」は、中国古代の春秋時代に、中原北方に封建された春秋時代の一大国でしたが、春秋時代末期に王権が衰えて自由心に権力を奪われて飾り物になった後、重臣間の抗争を歴て生き残った三家が、遂に晋王を放逐、それぞれの姓によった趙、魏、韓の三国に分割したのです。

 晋王が、臣下に放逐されたのは、画期的な大事件であり、諸国を束ねた東周の権威が失われ、各国がむき出しの抗争を行う戦国時代に移ったとされます。晋王は周の創業以来の大黒柱であり、臣下による追放から保護できなかった上に、三国から大枚の贈答を受けて不法事態を承認したから、周王に権威がない事を天下に知らせたことになるのです。

*司馬晋登場
 ともあれ、この時代の晋の創業者司馬氏は、つい先年の曹操、曹丕の手口そのままに、皇帝から権威を奪うについては、先ずはとなり、古代の晋の旧地を所領とする異姓の「晋王」に任命され、続いて、皇帝から国の譲りを受けるという「禅譲」により魏朝を廃し皇帝としてり晋朝を拓いたのです。こでは、古代とは逆に「魏」から「晋」に権力が移行したことになります。

                               未完

今日の躓き石 「フォーシーム」SUにルビーの栄冠

                                2018/12/26
 今日の題材は、公共放送でも全国紙でもなく、コミック誌の劇画である。
 
 小学館ビッグコミック誌連載の「フォーシーム」は、MLB(メジャーリーク)に飛び込んだ「無頼派」投手の力戦記であり、ことの始まりも、MLBで48連続セーブという展開も、とてもあり得ないほら話ながら、丹念な取材を書き込んでいて、ついついのめり込むのである。
 
 今回の題材、つまり、2019年第一号(2019/01/10)に掲載された連載第140話「ほくそ笑み」(さだやす圭)は、とても目立たない所で、ひっそりと燦めいているので、ここで取り上げないと、誰も気づかないだろう、と言うことで、賑々しく述べる。
 ふりがなをいう「ルビ」は、宝石ルビーに因んでいる。宝石は、とてもとても小さいが、見る人か見れば、このページどころか、140回の連載全体を燦然と照らしているようである。
 ゲーム終盤に登場する、クローザーの締めをお膳立てする役目を、SU(セットアップ)と書いているのは、作者の周到な取材と見識の齎す宝石と感じる。大拍手である。
 
 日本のスポーツジャーナリズムは、とにかくズボラで、「セットアッパー」などと、言葉づかいを壊して喚いていて、当方に叩かれているのだが、本作は、きっちりしているのである。
 
 と言うことで、当カテゴリーで滅多にない賞賛記事であるが、これが二度目なのである。多分、国内ジャーナリズムの用語とぶつかるので、あまり言いたくない、書きたくない言葉かと思うのである。
 
 以上、単なる素人の、閑散ブログでの発言なので、いくら言い立てても埋もれるだろうが、微力を尽くすのが身上なので、ここに記事を公開するものである。
 
以上

 

2018年12月24日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞駅伝報道の「リベンジ」汚染

                      2018/12/24
 本日の題材は、の毎日新聞大阪13版スポーツ面の高校駅伝報道である。高校男子の結果を一ページで報道する一面のど真ん中の記事であるから、大見出しではないものの、大会を主催する新聞社としての力の入った報道だと思うのである。
 
 駅伝は、競争であるから、互いに勝ったり負けたりして恨みを募らせるものではない。いや、元々、スポーツに復讐だの怨念は無いはずであるが、なぜか、全国紙たる主催紙が、復讐譚を書き立てて、生臭い話に仕立ててしまうのである。
 
 堂々と書いているのは、昨年追い越された場所で、逆に追い越して優勝した、ざまを見ろ、昨年はやられたが、血祭りに上げてやった、ということになる。チームが、「リベンジ」を果たしたということは、監督以下、全員がそう思っていたという報道であり、それが優勝の原動力となると、これからも、復讐の連鎖で血塗られた世界が続くことになる。
 伝統ある全国紙ともあろうものが、そうした前時代的な蕃風に加担しているのは、何とももったいない話である。
 
 どうか、後世の若者に、この負の遺産を押しつけずに、スポーツマンらしい競争心が高まるよう、せめて、リベンジは、「絶対禁句」にしてほしいものである。
 
 もし、高校駅伝の指導者が、復讐心をかき立てでも、勝てばいい、結果が全てだと思っているとしたら、それは、考え直してほしいものである。
 毎日新聞社には、主催紙として、そのような助言は欠かせないと思うのである。
 
以上

2018年12月11日 (火)

新・私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 1/1

 掲載誌「図書」2012年2月号 (岩波書店)

 私の見立て ★★★★★ 必読         2018/07/01  2018/12/11

*緒言
 当研究論文は、昨今大分知れ渡った『百済人祢軍墓誌の「日本」』に関して、碑文を逐一吟味するという地味な議論で先駆けし、隅々まで論拠を明らかにし、後続論者が一歩一歩追随できたのは見事と思います。

 毎号格調高い記事がひしめく当誌の巻頭記事に相応しい堂々たる論文と受け止めます。

*経緯
 本件経緯は、先ず、中国吉林大学王連龍氏の研究論文をもとにした朝日新聞記事で日本国号の新史料の発見が報じられました(2011年10月23日)

 東野氏が戒めても、碑文資料から「目に付く」、つまり、安直な結論に飛びつき、着実な資料批判がなおざりになる「軽率」は、(日本)古代史学の通例/通弊ですが、当論文の堅実さは、大変貴重な少数派の美点です。

*論証
 東野氏は、本件の初出論文である、王氏の研究論文を熟読し、碑文に「日本」を認めた王氏の判断を尊重した上で、
 碑文を国号「日本」の使用例と見るのは早計です。文脈から見て、「日本」は詩的字句で、現実の国名とは考えられません。 
 『「日本」は、漢魏代の遼東、楽浪、帯方の三郡領域、後の、高句麗、百済、新羅の三国領域では、東方、日之出の場所として用いられていて、必ずしも、後世の「日本」と同義ではありません。碑文の「日本」云々は、むしろ、百済遺民の逃亡と見られます。
と、細かく押さえていて、それぞれ、妥当と思われます。

 とかく、国粋的視点からのみ判断して、丹念な論証が無視され、以上の論証が等閑にされていますが、科学的な見方で、全て妥当な論証と見られます。

*ささやかな批判
 当論文で同意できないのは、国名抜きの日本列島として、「倭国」と表記していることです。(碑文とは関係無い東野氏の地の文です)

 同時代正史舊唐書も、本紀などで、体裁上二字名とせざるを得ない時を除いて「倭」と呼んでいて、三国志、後漢書を継承しています。また、「日本国」とも書いていないのは、百済国、新羅国と書かないのと同様です。

 「倭」の実態については、ここでは論じません。

*ささやかな異論
 東野氏は「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに妥当な構文解析と思います。

 一方、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるし、それぞれ、三字句+三字句で揃っているのではないか、と見解が異なります。本碑文は、「于時日 本余噍、拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ詩的字句にしろ「日本」と書いてないとするのが異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのです。

 ちなみに、「本余噍」は、「本藩」すなわち「百済」の余噍、つまり、「百済」残党です。従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのです。これは、東野氏の説くところに整合していると思います。

 但し、この異論を認めると、墓碑碑文発表以来の「日本」論議が空騒ぎになってしまうので、中々認められることはないものと思っています。

                               以上

新・私の本棚 直木孝次郎 「古代を語る 5」 大和王権と河内王権 2/2

           吉川弘文館 2009年刊

 私の見立て★★★★☆ 必読          2016/12/11  2018/12/11

*具体的手段
 旗竿のようなものを利用し、藤原京から、逐次北上して参照地点をつないでいけば、最終的にそこそこの精度で目的地に到達できると思うのです。

 例えば、原点に立てた旗竿の真北に、二本目の旗竿を立てるのです。藤原京ほどの地点であれば、太陽観測によって、南北方向を得ていたはずです。区間幅を、旗竿の振り方で意思疎通できる程度にしておけば、特に通信機器がなくても、二本目の旗竿を一本目の旗竿の真北に位置決定できるのです。

 三本目以下の旗竿の位置は、先行二本の旗竿が真南の一直線上に見える地点に決定できますが、誤差が積み重なって方位がずれるのであれば、何本目かに一回、候補地での南北を太陽観測で決定し位置を確定すればよいのです。

 三本の旗竿が一直線上に並んだところで、最初の一本を北上させて行くという手法を順次採用すれば、目的地までに日数を要するものの、五十五㌖程度の距離であれば、そこそこの精度で真北に進むことができるのです。

 著者が気にしている途中の山の問題ですが、平地同様、随時見通す感じで北進していけば、特に困難なしに順次旗竿をたてて、真北に進めるはずです。

 経路上に登攀困難な高峰や対岸の見通せない大河や湖水があれば、そのような進行は不可能ですが、見る限り、克服可能な経路と思います。

 と言うことで、古代、先進光学機器も衛星写真もなくても、小数計算を含む十進数計算の思想がなくても、時分秒の時間計測概念がなくても、つまり、SI国際単位系に規定されたメートル法の単位系がなくても、この程度の距離と地面の起伏であれば、「一直線」に北進できると判断します。(愚考の一案です)

*謝辞・賛辞
 復習すると、藤田氏の叡知は、二万五千分の一地形図で見ると両地点が南北「一直線」上に見える、という発見に触発され、当時利用可能な手段で、藤原京のほぼ真北に山科陵を位置決定できたのではないかとの提言であり、こうすれば実現可能と読者側から手をさしのべられる真摯なものです。

 これをご自身の見識に照らして考証し、適切な理解と紹介を行われた著者は絶賛に値するものと信じるのです。

*失敗事例
 これまで、毎日新聞連載「歴史の鍵穴」論説を当ブログが批判し続けているのは、提示区間が途方もない長距離であり、時に、海上を延々と通過するから絶対不可能というのであり、論拠として掲載されている方位や距離の多桁数字が、現代の技術で測定された地形データを根拠無しに古代に適用し、無理で意味のない高精度計算を行う、と不法に不法を重ねているからです。

 要は、ここまで「地図妄想」と批判してきたのは、学術的に意味のない、本末転倒した主張を続けているためです。

*感慨
 豊富な知見と学識を有する先人が、ここに例示されたような合理的で、的確で、隙のない思考を行って見せてくれているのですから、虚心に見習うべきではなかったかと、歎くものです。

                               完

新・私の本棚 直木孝次郎 「古代を語る 5」 大和王権と河内王権 1/2

           吉川弘文館 2009年刊

 私の見立て★★★★☆ 必読        2016/12/11  2018/12/11 2019/01/29

*北進の道
 今回の著者直木孝次郎氏は、史学先賢の中でも「巨匠」と呼ぶべき大家ですが、ここでは単に「著者」と書かせていただきます。

 題名が示すように、本書は、日本古代史に関する著書であり、当プログ筆者の守備範囲外ですが、訳あって末尾の部分を題材にさせて頂きます。

 もちろん、書籍全体を読ませていただいたのですが、史書の追究はともかく、多数の遺跡、遺物の現地、現物を身をもって体験された結果の貴重な論考であり、謹んで敬意を表させていただきたいと思っています。

 さて、今回取り上げるのは、末尾も末尾、最後に示されたご意見です。

*地図の思想
 ここでは、天智天皇山科陵が藤原京の真北に存在しているように見えることから、これは、山科陵設営当時、意図してその位置に造営したのではないかという仮説を紹介し、現地踏査の結果、具体的な位置設定手段は確認できないが、この仮説は否定しがたいとの意見を述べているものと思います。

 もとになる仮説を提示したのは、藤堂かほる氏(「天智陵の営造と律令国家の先帝意識―山科陵の位置と文武三年の修陵をめぐって―」(『日本歴史』六〇二号1998年)」)であって、このように発表誌も明記されているから、第三者が原文を確認して、追試検証できるものです。

 また、発表誌を確認するまでもなく、著者の簡にして要を得た紹介があり、藤堂氏論拠である両地点を記載している国土地理院発行の二万五千分の一地形図二面をつきあわせた際の両者の位置関係が明記されています。

*実施(可能と思われる)方法

 さて、著者が藤田氏の提言を元に現場確認された際の意見を拝聴すると、両地点は、ほぼ五十五㌖を隔てていて、丘陵というか、山が介在して直視できありませんが、何らかの手段で山を越えて位置確認できたから、山科陵は現在の地点に設置されたのではないかと感じたと述解されています。

 ブログ筆者は、理工学の徒ですから、以下、推定を試みています。実地確認したものではないので、実行困難とのご批判はお受けします。

 筆者は、自身の良心のもとに、古代の世界に自分を仮想して、このような任務の実行任務を与えられたら、十分に実現可能であると判断するものです。

 基本的な認識として、いかなる光学機器も、単体では、見通しの利かない二地点間の方位を測定することはできないのです。いや、見通し可能であっても、五十五㌖先が視認できると思えないのです。

 そのような無理でなく、古代人であっても利用可能な道具類を使用し、数人の技術者とその何倍にも当たる人夫をある程度の期間動員して、全区間を細分化した区間を順次踏破すれば良いのです。

                           未完

2018年12月10日 (月)

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」 2/2

            筑摩プリマーブックス154 筑摩書房 2004年

      私の見立て★★☆☆☆ 参考のみ          2017/02/10 2018/12/10

*「考古学」における科学的測定法
 データねつ造に至らないまでも、依頼者所望の結果を出すのが受託した科学者の仕事なのです。測定方法選択段階で測定結果が予想されることは珍しくないので、希望するデータが出るよう測定方法が塩梅されることは珍しくないのです。
 
 また、判定の条件設定は主観に左右されるのです。専門機関といえども、依頼元の意図が肯定される判定を出さねば依頼元を裏切ると考えて、測定方法を調整しデータ解釈を演出することはざらにあることです。依頼の際に強調することもあるだろうし、あうんの呼吸で忖度させることもあるのです。
 
 考古学者は、自身の学識知見には責任を持てても、自然科学的測定は、畑違いで責任外ですから、くれぐれもお手盛りにならないように、依頼からデータ受け入れまで慎重に扱うべきなのです。

*早計な判断
 そこまで言うのは、本書は、自然科学的判定によって古墳年代を比定していると見えるからです。更に、その判断を元に、文献資料解釈を決めているのです。そのような成り行きは、古典的な言い方では曲筆です。

 本書著者は、考古学者としてかくかくたる名声を得ている方と思いますが、一読者には、他分野の見解が耳に心地良ければ丸ごと受け入れるのは、考古学者の使命をおろそかにしているように見えるのです。

 しかも、ご自身で、最初に述べたように、考古学者の見識が揺らぐ原因として、外部分野見解の安易な取り合わせがあることを見抜かれているのですから、なおさらに、本書の主題となる「曲筆」は痛々しいのです。

*素人の意見
 当ブログ筆者は、遺物、遺跡を実見していないので、諸文献を精読して自分なりの意見を形成します。つまり、先賢の高説を元に文献を読み解くのですが、その限り、倭人伝に九州北部の局地的政権である倭が描かれているとする意見に大きく傾いています。
 本書著者は、深い学識で、ヤマトにあった地方政権が全国政権として広く統括するに至った「歴史の必然」を示されて、当ブログ筆者は深い敬意を持ってその展開を眺めるものです。

 ただ、そのような議論を文献資料とつなぎ合わせるために、たとえば、箸墓の造成に、卑弥呼の没後十年かけたとされるのはもったいない話です。

 堂々たる議論でも、文献資料を無理な解釈で歪めさせるとすれば、その発端となる、自然科学的判定を造作する進め方に賛同できかねるのです。

 まして、考古学を基本とした見解で、乱世の続く文献解釈を快刀乱麻のごとく武力平定するというのは、何か初心を忘れているように思うのです。

*最後の聖戦か
 思うに、本書著者は、ヤマトに対する絶大な愛着で冷徹な判断が妨げられていると見るものです。そのような先入観から遠い当方には、愛着に起因する先入観に立つ議論は学術上の論議として採用しがたいのです。

                           以上

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」 1/2

            筑摩プリマーブックス154 筑摩書房 2004年

      私の見立て★★☆☆☆ 参考のみ          2017/02/10 2018/12/10

*はじめに
 本書を購読したのは、近年顕著な「古墳時代の開始吊り上げの主たる提唱者が、本書著者白石太一郎氏である」という風説を確認しようとしたものです。結論を言うとまさしくその通りで、著者は肯定的な確信犯だと言うことです。

 言うまでもありませんが、当ブログ筆者の意見は、本書で公開されている論理の進め方に一般人として異論を唱えるもので、学術的な当否は対象外であり、まして、本書著者の権威を傷つけようとしているものではないのです。

*「考古学」と「古代史」の狭間
 本書冒頭の述懐で、古代史分野と一般人が捉える学術分野は、「考古学」と「古代史」の、ずいぶん土台も筋道も異なった二分野に分かれていることが、素人にもよくわかるように、説かれているのです。

*議論の分かれ道
 そうした前提が説明された後で、本書著者は、文献資料である魏志倭人伝の解釈と考古学の知見をすりあわせ、古墳時代の開幕を3世紀前半であると判断し、この判断に従うと、倭人伝の邪馬台国は、奈良盆地の一角ヤマトを本拠としたとの論理を述べています。この論争に良くある「決まり」主張です。

 もちろん、その際に、先に述べた、考古学の見る遺物、遺跡は、他の遺物、遺跡との相互年代、つまり、どちらが古いか新しいかという判断はできるものの、「絶対」年代、つまり、西暦何年であるとか、中国のどの王朝の何年という断定はできない、という考古学への定評を克服したと主張するのです。明確な結論が端的に導き出されると言うことは、その形成過程が「結論」に向かう強い指向性を持って進められていたのではないかと思われるのです。

*自然科学的手法の限界

 しかし、援用されている自然科学的時代判定は、どんなデータをどのような方法で検定したか明記されてないので一般論で批判するしかないのです。

 言うならば、考古学の持ち分である遺物、遺跡鑑定でなく、自然科学の観点からの判定ですから、その判定は、自然科学視点で支配され、考古学の立場から責任をもって検証できないと思われるのです。つまり、本書著者が慎重に遠ざた文献史学の年代検定同様、「部外者」見解なのです。

 当ブログ筆者の科学観は、そのような外部見解は、考古学者自身の見解形成に丸呑みして採用すべきでない、と言うものです。自然科学の判定が信用できないという話でなく、自身の学識および知見の範囲外のものは、(素人なりの)検証無しに受け容れるべきでない、というものです。

 当ブログ筆者は、工学系訓練を受け、企業内で実務に携わり、場数はある程度踏んでいると考えてください。その背景から、科学技術的な測定と見解は、測定機器の高精度化とデジタル化によって、客観的なものと思われがちですが、実は、主観の影響を大きく受けると考えるのです。

                             未完

今日の躓き石 毎日新聞「この一年」[文化財]の怪記事は捏造か

                          2018/12/10
 本日の題材は、毎日新聞夕刊文化面の「この一年」[文化財]の回顧記事である。
 
 麗々しく文化財というものの、冒頭記事は、「文化」の「文」がどこにも見つからない発掘遺物である遺跡の桃の種の年代鑑定の与太話であり、毎日新聞の品位を疑わせるものである。
 
 どうして与太話かというと、「分析結果が出たことが、5月に明らかになった」と風評として書いているからである。分析の主体、担当機関が書かれていない上に、どのようにして毎日新聞に対して「明らかになった」のか、書かれていないというのは、本来、ニュースとして取り上げるべきでない風評、与太話を書いているように見えるのである。そして、大事なことは、結果として注目を集めたと言うだけで、学術的な評価がなされていないということである。
 
 因みに、次段の古墳調査は、「宮内庁と堺市」が共同で発掘調査し、「11月下旬に報道陣と研究者に公開した」と明記されていて、容易に検証可能である。俗に「裏を取る」ことによって、一般人である読者も報道の真否を検証できることになる。
 
 これに引き換え、纏向桃の種事件報道は、ニュースソースが秘匿されていて、まさか、虚報、捏造や不正情報ではないだろうが、不審そのものである。同一人が、同一コラムに書いたとは思えない派手な食い違いである。
 
 また、引用された鑑定結果が、135-230年という範囲を明記しているらしいのを受けて、⑴これが卑弥呼の活動時期と重なる、と断定して、従って、⑵当時の女王国は、桃の種の出土したとされる纏向にあった、と強弁しているのだが、それぞれ、憶測であり、それを強弁するのはうさん臭いのである。
 
 ⑴ 鑑定結果に幅があるのは、要は、科学的に、範囲を持たせざるを得ないことを示しているのであるから、書かれている95年の範囲には、同等の重みがあるのであり、遺跡が、三世紀前半か、四世紀以降となるかの議論のいずれにも組みしないと見るべきである。陰の声が言う、科学的に「何の意味もない」とする至言は、その主旨と思う。ずばり、科学的に的を射ていると思う。 
  それを担当記者が勝手に読み替えて、三世紀前半説が裏付けされたとする報道は、まことにうさん臭いのである。(偏向、曲筆と言いたくなるほど、曲がっている.)
 
 ⑵纏向遺跡の遺構が三世紀前半に存在したとしても、その遺跡の主催者が、当時の日本列島(西部)を統一支配としていたとする根拠はない。時代感覚をしゃにむに曲げてでも、この点を結びつけようとする書きぶりはまことにうさん臭いのである。
 
 お手盛りの「古代史最大の謎」が、単に「邪馬台国の所在地」だけであり、毎日新聞がその「謎」に関して、独自の秘密取材で独自のニュース、つまり特ダネを得た、世間の注目を集めたと狂喜乱舞するのは、新聞社の社是として、前前世紀の骨董品であり、報道の本質を離れた過去の遺物ではないか。
 
 折角の自画自賛であるが、素人目にも、曲がった記事なので、指摘させて頂くのである。毎日新聞には、学会のガラス窓に投石する以外の端正な対応が望ましいのである。
 
以上

新・私の本棚 齋藤茂樹 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する! 4-4

                            2018/12/09 2019/01/29
 私の見方 ★★★★☆ (必読級)

*批評サンプル
 具体的な批判を最後に述べます。

 Kindle書籍には、ノンブルがないが、次の場所は、1 列島の地政学的位置と特異な地形「内陸の発展を担った河川と湖」の一部です。(Kindle の位置No.384). DEZAINEGGU-SHA. Kindle 版]字間スペースを削除)

その代わり交通面では、古奈良湖まわりの扇状地に河川が四通八達し、河内湖や巨椋池、琵琶湖までつながる水運が機能したのです。大和盆地が、標高三〇~一〇〇メートルと海面からさほど高くないことも水運が機能した理由です。

 「水運が機能する」は要翻訳です。古代に「水運」はなかったし、無いものは、機能する、しないの論外です。「交通面」は、虚辞です。

 古奈良湖があっても西部は山際で扇状地となれなかったはずです。
 まして、河内湖、巨椋池、琵琶湖と羅列された湖沼は淀川水系で、古奈良湖と繋がっていないどころか、遠隔であり、最寄りの淀川支流木津川はなら山越えが必要であるから、水運が繋がるはずがないのです。

 水運で肝心なのは、接する水面の広さでなく、船着き場を設営できる堅固な岸であり、船荷を貯蔵できる倉庫、上屋(明治新語)、そして陸送路です。後背市場がなければ買い手がなく荷下ろししてもしょうがないのです。「水運」の原動力は、琵琶湖由来の水量に恵まれ、急流の少ない淀川です。

 古奈良湖について推察すれば、東方山並みから流れ込む水流はか細く、水運を支え得なかったと見られます。周辺に古代遺跡が乏しいのも見逃してはなりません。東岸扇状地は、遠巻きにされていたようです。

*大和盆地の遠隔性
 大和盆地が、海面からさほど高くないというのは、上っ面の気休めでしょう。西方河内方面は、金剛・生駒の鉄壁に阻まれ、主要街道たる竹ノ内街道の奈良側は、延々たるつづら折れで、日毎の荷を背負って黙々と踏みしめる難路だったのです。わずか数㌖でも、峠まで往復が一日仕事でした。緑茶はないものの「峠の茶屋」で、背なの荷を交換して峠から担ぎ下りる「陸運」「幹線」と思われます。豪勢な後世用語を使うと、堂々たる大帝国の大水運、大陸運に見えますが、実際は、無数の草の根が支えていたのです。

*旧くて新しいつづら折れ
 いや、竹ノ内越えは、実に最近まで、このつづら折れを利用していたのであり、新道が一直線に峠越えしたのは、そんなに昔ではないのです。

*木津川水運
 「水運」などの時代錯誤は別として、木津川が平城京物流の「幹線」であったことには、木津「淀川流域盟主」説の当方は、大いに同感です。
                               完

新・私の本棚 齋藤茂樹 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する! 3-4

                            2018/12/09 2019/01/29
 私の見方 ★★★★☆ (必読級)

*蟻の峠越え
 私見では、大層な陸運などいらないのです。船荷を小分けして、背負子で丘越えすれば、荒海に耐える貴重な船体を無傷で次の旅に出せるし、人夫に大勢の屈強な者達を呼び集めることも要らないのです。

 著者はしきりに、一人何㌕運べるとか、現代視点で書いていますが、古代の辺境の貧乏人が、どれほどの体力を有していたか、当方は、何の資料もないので計算にお付き合いはしません。無理は無理というのです。

 背負い運びの常識で、一人で背負えない荷は、二人、三人で分け、とにかく、日帰り行程に小分けしていけば、全体として重荷を運ぶことができます。軽量であれば、今日まで良くあったように女性が運びます。
 どのみち、一個で重大な荷は、船腹の積み卸しができないので別儀であり、船荷は一人分相当に小分けしたのです。

*峠越え商売

 あり得る姿は、到着海港での荷渡しであり、山向こうの買い手が、引き取り人夫をよこしていたのです。中流まで小舟で漕ぎ上って引き揚げ、中流で荷下ろしして一旦休憩し、翌日、背負子で峠まで背負い登ったでしょう。峠では、山向こうの背負い手と荷を交換して引き返し、こちら側の海市まで荷を担ぎ下ろしたでしょう。これで、無理なく荷運びが続くのです。

 こうした小刻みの荷運びは貧弱な里人でも維持可能だし、小遣いどころではない稼ぎになったと思われます。勤勉、不屈の働き蟻の姿ですが、土地がらによっては、近年まで担ぎ屋さんがいた(今もいる)のです。

 しかし、著者は、大河の如き堂々たる水陸運を構想しているので、そのような、みみっちい、春の小川の営みに目もくれないのでしょう。氏の構想を支えるのが、「海路」氏の暴論では私見が食い違っても致し方ないのです。

*孤説の異説
 著者は、表紙に「通説・異説」に組みしないと力説していますが、力説しているのは姿見の前であり、著者の所説自身が孤説、異説である以上、目前の最悪の敵は、自身の反映であることを忘れているように見えます。

*出荷品質向上
 以上、商用出版として不首尾な著作を世に出さないためには、是非、「イエスマン」でなく、旦那芸を無遠慮、誠実に批判してくれる読者の意見を求めるべきです。

*工科脳の実現性視点
 当方は、実現性を重んじる工科脳を基礎にしているので、超絶技巧を追求する理系脳と、反りが合わない点があるのは、避けられないのです。

                               未完

新・私の本棚 齋藤茂樹 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する! 2-4

                            2018/12/09

 私の見方 ★★★★☆ (必読級)

*為せば成る
 但し、見解が分かれるのは、著者は、大変な困難があってもやるべきものが「やればできる」のであれば不可能ではない、との意見であり、当方は、一般人がとてもできないことは不可能である、との意見です。繰り返し繰り返し失敗しても、最後に辛うじて成功したら成功というかどうかです。

*修羅の如く
 例えば、著者は、河川を荷船で遡行し最後に丘越えで山向こうに移すのは、大勢の船曳と陸上の修羅引きで克服できるから、陸運、荷役として成立するとしていますが、当方は、そのような難業は、継続して行うことができないから、業として成立しないと見ているのです。

*受け売りの陥穽
 そうした理屈づけに、「海路」氏(『古代史の謎は「海路」で解ける』の著者、長野正孝氏をここではそう呼ぶ)の暴論に追従しているのも不審です。

 荷船の峠越えを当然視するのは、過度の可能性論です。やればできるとして論じられていますが、古代人は、家族共々実生活を生きていたので、持続可能な方法で無ければ生業にならないのです。修羅で船の丘越えはできないことはないとしても、毎回それでは、人がもたない、船がもたないのです。

 それ以外に、労苦の果てに半島に渡れたことをふまえて、大軍も渡海できると見ていますが、渡海拠点港の補給力、支援力には限界があり、白村江への大量の船舶の渡海は実行不可能な幻像に見えます。

*幻像君臨
 「海路」氏流暴論の果てが、白村江幻像であるから情けないのです。虚像は、現実のものの見え方ですから、人それぞれ勝手となりますが、幻像には実体がないから、なんとも始末に負えません。

 ご当人には鮮明でも、脳内の幻像は実世界に存在しないのです。古代で、何万人もの渡海出撃などできないのです。一端を言えば、食糧をどうしようというのか、です。そして、大敗戦で、未帰還軍兵はどうなったのか、そして、敗軍の将はどうなったのか、です。

*石橋を叩いて
 著者は、「海路」氏の主張を踏み台にするについて「石橋を叩いて」いるのでしょうか。私見ですが、「海路」氏は、著書に多年の実見に基づく知見を齎したとしていますが、実際は、一瞥で理解したつもりの、上滑りした空論に満ちています。

 何しろ、古代存在しなかった「海路」なる単語で古代を解明するから、古代里程をメートル法で半端なく割りきるようなもので、古代になかった概念による考察は理屈から外れています。
 著者が、同様の陥穽に陥ってなければ幸いです。いや、全体の堅実な史眼が、ここで迷走しているから、丁寧に批判しているのです。
                                未完

新・私の本棚 齋藤茂樹 技術と交通インフラを軸に古代史を再考する! 1-4

                           2018/12/09
 Kindle書籍 または オンデマンド出版書籍 (アマゾン扱いのみ)

 私の見方 ★★★★☆ (必読級)

*前置き 電子出版
 本書は、一般的な出版物でなく、つまり、書店に流通している「本」ではないので、本屋さん、書店では、購入どころか、立ち読みもできません。

 当方は、アマゾンのKindle書籍のサンプルを見て、見所ありとして購入しました。確かに、見所は沢山ありますが、読み通すのはなかなかの難業でした。

*独自用語、独自表現
 本書を一貫しているのは、一読で理解しがたい独自用語、独自表現の氾濫であり、当ブログで常用している「褒め言葉」、時代錯誤の眷属が、カタカナ語、現代風漢字熟語共々、花盛りです。これらは、現代ですら孤立した言葉遣いですから、古代概念に適用したら読者は付いていけません、そのような飛躍、暴走は、商用書籍として困ったものです。

 よそ事ですが、最近、一流出版社書籍でも、編集努力が見られない愚作を見かけるので、言い方に困るのですが、書籍には書籍として期待される品位があり、編集部は敵前逃亡はしないでもらいたいのです。いや、出版不況の昨今、弱いものいじめとも成りかねない架空の編集部いじめは余計でした。

*王道の反映か
 著者は、会社勤めでしたが、早々に一般社員の立場を離れ、管理職から役員になられて、ご自身の主張を強い言葉で組み立てた提言にすることに努められたようで、新語、造語をちりばめた文章を綴ることが多かったように見えます。その際、高位職種にあったので、文章を賞賛されても批判はされなかったようです。一種の旦那芸ですが、これは珍しくはないのです。

 本書は、社内文書でなく、一般読者に理解されるための書籍ですから、本来、出版社の編集者が手を入れるものですが、本書は私家出版であり、いわば独演会、「書いて出し」なのでしょうか、氏の我流用語に馴染めないものには、しばしば読替えが生じて苦痛なのです。

*妥当、至到な着眼、見解
 商用書籍としての難点はさておき、肝心なのは内容ですが、基本線である、実行可能な仮説を求めるという点では、おおいに同感です。

 当ブログでしばしば語っているように、文字のない時代に、遠隔地を実効支配することは根本的に不可能であるし、交通手段、輸送手段(現代カタカナ語ではインフラと言う)が、断然未完成なときに、大軍遠征は不可能です。その点、定説に良くある机上空論をとうに脱して、大賛成なのです。諸兄に、是非この史眼をものにしていただきたくて、必読としたのです。

                                未完

2018年12月 9日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞は「リベンジし勝つ」の暴報道 サントリーラグビーの怪

                         2018/12/09
 
 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊スポーツ面ラグビートップリーグ準決勝のあと、勝ったサントリーの主将談話である。
 
 実際にどんな趣旨だったのかわからないが、毎日新聞の報道では、「次はリベンジし勝って終わりたい」と暴言したと報道されている。事実だとしたら、国内トップクラスのラグビー選手の談話としては、とてつもなく不穏で、相手チームに爆弾を投げつけて、血祭りに上げでも勝ってみせるという趣旨にされている。毎日新聞は、サントリーに恨みでもあるのだろうか。不穏である。
 
 おそらく、スポーツ界には、試合に負けたら、必ず相手をぶち殺してでも勝つという気迫があふれているのだろうが、それを口に出したらおしまいである。スボーツに暴力はつきものなどの暴言は、ご免である。それを、全国紙の紙面で堂々と報道する新聞記者も、同罪である。いつまでも絶えない暴力嗜好である。
 
 因みに、当世風のリベンジは、再挑戦である。つまり、決勝戦で対戦相手に出くわすだけで、リベンジできているのである。その辺りのダブルスタンダードを知らない新聞記者も、ド素人なみのドジである。
 
 いや、毎日新聞のスポーツ報道は、スポーツ界の復讐嗜好、暴力嗜好のヘドロの海の底に沈んでいて、一向に浮上してこないのである。付ける薬がないのだろうか。
 
以上

2018年12月 7日 (金)

倭人伝随想 8 「倭人世界」図の試み 1/1

                            2018/12/07
*倭人世界図
 魏使経路、里程、旅程の概念図です。
 上図は、諸兄が参照されているような精密な地図ではなく、当時の一地方人が頭の中で描いたかも知れない概念図の真似事をこころみたものです。
 
 手順としては、表計算ソフト(マイクロソフト エクセル)の罫線機能やセル塗りつぶし機能だけで描き、「図」として貼り付けたものです。作図機能は全く使っていないもので、意識して、地図資料は参照せずうろ覚えで描いたので、誤解、誇張、見落としなどはご勘弁ください。また、盛り込まれている当方の随想の当否は、ここでは論議しないでください。

 そういう由来の戯画なので、見たとおり、大小関係、角度(方位)などおおざっぱそのものですが、帯方郡官人の地理感覚は、現代人が利用できる地図から見てとれるものとほど遠く、むしろ、このような素朴な図に近かったのではないかとの仮説を視覚化する意図で概念図としています。これでも、図の周辺部が、くっきり見えすぎているのではないかと思います。(丁寧に説明すると、曲線、斜線、矢印などは使えず、説明を書く場所は、セルを狭くしたり、低くしたりできないため、この形に収まったのです。「正確」でないのは、承知の上です)
 
 ということで、現代の地理感覚も、算用数字を駆使した多桁四則計算も、分数計算も忘れて頂いて、こうしたおおざっぱな感覚を感じて、史料批判を進めて欲しいと思った次第です。

 もちろん、当時であっても、洛陽の高級官僚は、精緻な地理感覚、高度な算術を駆使していたでしょうが、中国全土どこでも、官人なら誰でもというわけではないはずです。
                              以上

 

 

 

 

2018年12月 5日 (水)

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 3/3

                      2018/12/04  補追 2019/01/09
*後世の海路
 遙か後世、大型帆船で無寄港航行できるようになって、始めて、西海岸のはるか沖を通過する航海が実現したのですが、それでも、荒天による遭難は避けられず、この海域で沈没船が発見されたとの報道があったのです。

 因みに、夜間航行する無寄港航海は、訓練された乗員や軍人は停泊休憩無しの航行にも耐えても、便乗する外交官や民間人には耐えがたいので、頻繁に寄港したはずです。そう、船酔いの問題もあるでしょうし。

*対馬海峡渡海
 以上の談義は、対馬海峡の渡海には、全く適用されません。

 この区間は、単に三度に分かれた渡海であり、途中の海は、海流こそ激しいものの、難破させられる見えない岩礁などなく、かつ、目的地が見通せる区間であって、それぞれ区間は一日の航海で到着するのです。
 
 この航路は、代替経路がない幹線で通行量が多くて定期便が普及している「街道」であり、それぞれの港には、ゆっくり休養できる宿があり、替え船はないとしても、その区間の渡し舟を利用できるので、わざわざ専用船を仕立てて一気に漕ぎ渡る必要もなかった
のです。

 街道往来の便船の漕ぎ手なら、それこそ旬(十日)に一回往復すればよいとか、無理ない日程管理ができたでしょう。

*水行十日三千里
 倭人伝も、この三回の渡海を総合して、休養日、天候待ちも入れて、水行十日で渡れますから、三千里相当と書いといてくださいとしている
のです。

 水行を海とする読みは、別項に書評したように中島信文氏が提唱し当方も確認した解釈とは一致しませんが、倭人伝は、中原語法と異なる地域語法で書かれているのです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。

*南岸難関
 西岸踏破では、途中必ず何があるから、日程を決められないのですが、南岸踏破は、さらに難関と見られます。端的に言えば、この多島海を短区間の寄港を続けて乗り切ることができるのかどうか不明なのです。

*見えない後日談
 後世、帆船航行の初期は、なんとか西岸沖合を南下し、済州島付近から、一気に大渡海に入ったのでしょうが、だからといって、無事に未踏の航路を開拓し、乗りきれたかどうか不明です。もっとも、初唐期唐使高表仁は、数か月を費やした浮海で航路を発見し、百済を歴ずして倭に到着したようです。

 郡倭航海はこなせても、倭郡航海は、帆船といえども、海流に逆らう大渡海で至難であり、いっそ、佐世保辺りから北西帆走したかと思われます。

 そして、郡から倭に向かう航海は何とかこなせても、倭から郡に向かうときは、帆船といえども、末羅港から海流に逆らう大渡海は至難であり、いっそ、佐世保辺りから、西に向かって帆走するのではないかと思われます。

 この辺り、古田武彦氏は、初唐期、有明海に帆船母港を置いて、そこから発進したのではないかと想像をたくましくしています。

*まとめ
 これぐらい丁寧に説明したら、「西岸南岸一貫水行」説は、影を潜めないものかと願っています。
 

                            この項完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 2/3

                            2018/12/04
*難所の海
 半島南岸はとてつもなく難所続きですが、まずは、乗りこなせそうに見うる西岸から考えてみましょう。俗説では、帯方郡が仕立てた海船、おそらく漕ぎ船が南下して、この海域を踏破したことになりますが、そんなことはできたでしょうか。また、ここが通れなければ、南岸も通れないのです。

 現在の地図に見える多島海を漕ぎ通ることは大変難しかったでしょう。どんな船でも、海底の岩礁で船底に穴があいて浸水すると沈没します。岩礁が見えたら避けようとするのですが、見えないでは対処できません。地元の海人、漁師達は、そうした危険な場所を知っていて、陸上に目印を作り、いちはやく避けることができます。いわば、漁師の土地勘というものですが、海底が見えず土地勘もない船は、そんな海域に立ち入れないのです。

 まして、一人乗りの漁船より遙かに大きく、重い二十人漕ぎの荷船は、喫水が深く、船底が深くまで伸びて、漁船が通れる海域でも、難破するのです。

*帆船のなやみ
 もし、さらに大規模な帆船であれば、格段に幅が広く、喫水が深いので、もはや、漁船の土地勘は通用しないのです。安全に通行するには、海域全体で、水深を測って、浅瀬になりそうな場所に目印を置くことになります。

 さらに、帆船通行が難しいのは、帆船の舵取りの困難さにあります。わかりやすく言うと、帆船は舵の効きが遅い上に、低速航行では舵が一段ときかないので小回りがきかず、しかも、舵の効きが、帆にかかる風の力や海流に左右されるので、進路を制御するのが難しいのです。

 ということで、帆船を含めた大型海船は、沿岸航行では基本的に直進するのです。進路を変えるには帆を下ろした帆船を手漕ぎの曳き船で押して方向転換させます。今日、大型船入出港は、タグボートと水先案内が活躍します

 この制約を克服するには、帆船に数十人の漕ぎ手を乗せ、入出港の際は、手漕ぎで進めることになります。ますます船体が重くなり、載せられる荷物の量が減ります。ちなみに、古来、漕ぎ手は非戦闘員扱いです。

*不可能な使命

 それはさておき、半島西岸の沿岸一貫航行は、浮揚するホバークラフトでも使わない限り、実現不可能という事がわかります。

 いや、可能性は無限なので、絶対失敗する訳ではないのですが、官道としての便船であっても荷船であっても、途中の難破が度々あっては、使い物にならないのです。

 いや、難破と言わなくても、途中十箇所なり二十箇所なりの寄港地が一箇所でも停泊不能となると、土地不案内な漕ぎ船はそこで立ち往生し、官道が途絶するのです。

 いや、そんなことは、帯方郡には自明だったので、そのような海上航行は採用されないどころか一顧だにされなかったのです。

                             未完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 1/3

                            2018/12/04
*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。

 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

*無謀な一貫航行
 結論を先に言うと、三世紀の日本列島で長距離一貫航海は無謀です。

 まずは、そうした長期航海に耐える船体はありません。船体には、漕ぎ手を入れても良いでしょう。二十人程度の漕ぎ手は中々揃わず、長期にこぎ続ける体力は無いし、派遣元も、長期間出っぱなしとは行かないでしょう。

 沿岸航行を続けるなら、一日漕いでは一休みし、疲労回復して再度漕ぐのでしょうが、そのような航行で遠距離漕ぎ続けるには、多くの寄港地が必要で、ただで滞在もできないしということになります。

 無難なのは、港、港で便船を乗り継ぐ行き方です。地元の船人が慣れた海域を、慣れた船で行くので、危険の少ない行き方です。

 問題は、全航路を乗り継ぎでつなげることが、その時点で可能かどうかと言う事です。いや、可能にならなければ、航路はできないのです。

*無理な半島巡り
 それにしても、韓国西南部の海岸巡りは、無謀です。提唱以来久しいのですが、そのような航行があったとの報告がありません。

 もちろん、例えば一人乗りの漁船で沖に出て漁労に勤しむことはできたでしょうが、それは、岩礁の位置を知り、潮の干満を知った漁師のみが出来るだけであり、今課題とされている二十人漕ぎ程度の喫水の深い船は、水先案内があっても、とても、無事航行することはできないと思われます。いや、命がけですから、とても、航行出来ないという方が正しいでしょう。

*手軽な渡し舟

 とかく誤解が出回っているのですが、倭人伝に書かれている海の旅は、今日言う航海などではなく、手軽な渡し舟なのです。

 海に疎い中国でも、北の河水、黄河、南の江水、長江などの中下流の滔々たる流れは、架橋などできなかったので、渡し舟で往き来していたのです。

 渡し舟は、川の流れの向こうがわかっているので、羅針盤も、海図も要らないのです。川に魔物がいるはずもなく、渡し場が決まっていれば、往来する客に不自由はなく、生活のために、時には、日に何度でも渡るものです。

 ということで、以下、少し丁寧に批判します。

*渡海船談義
 渡海船で言えば、例えば、半島南岸の狗邪韓国から目前の対馬に渡る船は、海流のこなし方さえできれば、さほど重装備にしなくても、手軽に渡れるのです。一日の航行で好天を狙うので、甲板は要らず、軽装備で、漕ぎ手は一日限りの奮闘です。

 対馬と壱岐の間は激流で、多分漕ぎ手を増やした渡し舟だったでしょうが、それにしても、日々運用出来る程度の難所だったのです。

                               未完

2018年12月 1日 (土)

今日の躓き石 「バリアフリー」反対論への疑問 毎日新聞の不思議

                    2018/12/01
 本日の題材は、昨日の毎日新聞朝刊特集面の「毎日ユニバーサル委員会 第4回座談会」記事であるが、最後に出席者の一人である東洋大教授川内美彦氏が提言している内容に頑固に反対するものである。
 つまり、「バリアフリー」に関する言葉いじりが、感心しないことおびただしいと言いたいのである。

*カタカナ言葉幻想
 川内氏の提言は、桜井氏が世界標準と豪語した「アクセシビリティー」を丸受けしたせいか、大きな勘違いで始まっている。
 「バリアフリー」は、カタカナ六文字の日本語であり、日本語であるから、海外の用語、用法と違うのは当然なのである。
 日本には、「バリア」(バリアー?)なる言葉はなかったし、「フリー」と言う付け足しも希であったから、この六文字カタカナ語は、古くさい概念のつきまとわない新語であり、つまり、新鮮で、好感度が高かったと思うのである。要するに、日本語としての「バリア」「フリー」は、英語の語源、語義とほとんど繋がっていないのであるから、バリアの意義は日本独特である。
 ちなみに、桜井氏の言葉として、「ハードル」が見えているが、この言葉など、完全な誤解にもとづく誤用の典型的な事例であるが、いまや、日本語となっているので、止められないのである。

*When in Japan
 今回川内氏から聞かされた評判は、欧米、おそらく、イングランド風土のお高くとまった貴人の意見であろうが、ローマではローマ人に習うべきであるように、日本では日本文化について学んだ上で、日本語で批判すべきである。勝手に、英語文化の物差しで、悪口を叩かないでいただきたい。それにしても、川内氏が端的に断言するように、世界こぞって英語圏の指導に従って、「正しい」英語を使用しているのだろうか。

*A13Yの愚
 そして、川内氏が代替語として提案されている「アクセシビリティー」(提言のアクセシブルは、形容詞であって、扱いにくいのである)は、語源らしい英語を推定すると、意味の多い語幹を元にすえた、大変できの悪い二段仕掛けの派生語であり、漸く通用するようになった、耳に親しみやすい単語を、何故、こんなわかりにくい、官僚や技術者の作文を連想させる独善的な単語に置き換えるのか、しみじみ理解できない。
 いや、どんな英語を使うか英語圏の勝手、日本人の知ったことではないと言うなら言うが良い。その趣旨の反論は、すでに上に、日本人視点で書いている。お互い様ということである。
 この言葉の語源と思われる英語は、Accessibilityなる13文字の綴りが長すぎて、A13yと略されそうである。まことに人工的でわかりにくい言葉だから、それ故に、日常使われず、それ故に妙な既成概念、言葉に付いた手垢がないから、誤解が無いと言いたいのだろうが、日本人には、無縁のこじつけである。
 
*「メデイア」幻想
 川内氏は、最後に「メディア」の指導力について講釈して、毎日新聞の権威に期待しているようだが、引き合いに出されるような「メディア」は、とうに権威を喪失しているのである。昔、新聞界では、毎日新聞を代表とする全国紙、放送界では、公共放送であるNHKが、言葉の護り人としての権威を感じさせていたが、すでに、国民の過半には、そのような旧メディアから押しつけられる言葉でなく、自分たちの間で、適当に言葉をでっち上げる文化が増進していて、「メディア」は、感情的な反発による離反を怖れて、若者言葉、当世言葉に迎合しているようにすら見えるのである。いや、「メディア」の構成員自体、すでに、「メディア」の聖なる役割を忘れているようにも見えるのである。(毎日新聞にはコメントしがたいと思うので、一読者が勝手に言う)
 当方の考えすぎであれば、幸いである。

*日本文化の試み
 当方は、古典的日本語の信奉者であるので、英語に範を得たと思われるカタカナ語に、英語視点から難癖を付けられるのは好まない。別に、文句タレの子でもないし、孫でもない。日本語に関しては、大の大人である。
 川内氏も、「やさしい日本語」と語っているので、上に紹介した提言は、それに反しているように思うのである。生煮えのカタカナ語は、日本人すら、よほどの説明がないと理解できないのであり、更に、どこかの土中から掘り出したばかりの泥まみれのカタカナ語を導入する意図には、共感できない。この辺りの「理屈」が、身についていないのではないかと危惧する。
 川内氏が、どうしても「バリアフリー」を廃語としたくて代替語を求めるなら、受け売りのカタカナ言葉でなくて、伝統ある外国文化である漢字言葉を造語して、「平坦化」としたら良いと思うのである。
 平坦は、比喩である。でこぼこ、段差、躓き石、落とし穴のない世界にしようというものである。平坦化するものは、物理的、フィジカルなものに限らず、心理的、メンタルなものも含まれる、と言う程度の含蓄は込めてある。かなり「やさしい」「日本語」と思うものである。
 最初から、地域固有の言葉に翻訳していたら、英語常識の欠如を責められることは無かったのである。反対論だけでは済まないので、提案を添えた。 

以上

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