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2018年12月

2018年12月26日 (水)

倭人伝随想 11 局地里制論について 3/3

                            2018/12/22
*倭人伝世界概念図 追記再掲
 ということで、前記概念図に普通里里数を並記してみました。



 太字、括弧内の里数は、普通里里数を丸めた概数です。煩雑を避けて概数表記を省略しますが、すべて、「餘里」と書かれるべきものです。

 一部で、「餘」は30パーセントか、それ以上の端数を一律で切り捨ていたと決めてかかった読みが見られますが、少なくとも、当資料では、「餘里」が、端数の切り捨てか切り上げかは全く不明で、別項の議論に譲ります。

 ともあれ、おそらく、倭人伝里数は、短里で表現される明解な図式を書き出したものであり、普通里は現地で実施されていなかったし、中国標準里程である普通里との換算は想定されていなかったものと思われます。

 くどいようですが、これは、概念図であり、図上の方位、角度、寸法などは、概略とみても地図として不正確です。つまり、当時の倭人世界で「東アジア」の世界像は、切りの良い短里で認識されていたのです。

*倭人世界像
 見たとおり、短里であれば、各里数の位置付けが明解に見て取れるのですが、普通里を採用すると、概数処理の関係で、食い違いがでるのです。

 以上、考え合わせてみると、倭人伝里数は、倭人世界で実施されていた短里で書かれていたのです。切れ味が悪いのですが、実戦はこんなものです。

*短里制波及の追求

 三国志全体を精査して、帯方/楽浪郡の短里が、中国本土の他地域の里制に影響を与えている例が発見されるかも知れませんが、それは倭人伝の里数審議とは別の話です。

                                完

倭人伝随想 11 局地里制論について 2/3

                            2018/12/22
*六倍誇張説の謎
 前記事で述べたように、当時、有効数字一ないしは二桁で丸めて、七千短里は一千二百普通里、一千短里は百七十普通里、一万二千短里は二千普通里を、それぞれ六倍したことになるのです。

 それでは、元々、数字が細かかったのを、誇張するのと同時におおまかにしたことになります。特に、直線経路とみられる里数に集中すると、末羅国―伊都国間以外、短里で、七千,一千,一千,一千、一万二千と、千里単位にまとまって切りのいい数字が並ぶのに、想定している長里では、一千二百,百七十,百七十,百七十,二千と込込み入らせたことになります。

 特に、三度の渡海の計三千短里は、本来五百普通里のはずが、三渡海に分けて足すと、計五百十長里になり半端が出るのです。元々、渡海部分は、海上なので、里数はあくまで推定の概数ですが、なぜ、二百長里が三回で六百長里と、切りの良い数字にしなかったのか不可解です。

 もっとも、それでは、短里が、それぞれ一千二百里になり、三回で三千六百里と、整然としなくなるのです。と言うことで、短里での里数がきっちりするようにしたのでしょう。何とも、芸の細かい手口です。

 と言うことで、上層部の理解しやすい切りのよい数字を求めると、普通里里数を整数倍して誇張したという論法は、成り立たないのです。

 振り返ると、数字に弱いと思われる現地が、懸命に有効数字二桁の普通里里数で報告したのを、数字に強い帯方郡が、悪戦苦闘して六倍した上で有効数字一桁ないしは、それ以下の概数に丸めて、倭人伝にあるきっちりした数字の短里里数にしたのでしょうか。

*六倍誇張説の不合理
 とかく、倭人伝の里数は、大まかだと言われますが、現地は普通里を施行していて、わざわざ六倍したらきっちりになる里数を出したのでしょうか。随分、手間のかかる誇張の整形を施したものですが、素人目には、なぜ、処理が圧倒的に簡単な十倍にしなかったのか、不可解なのです。十倍なら、十里が百里、百里が千里になるのは、桁上げだけで良いのであり、当時主力の算木計算なら、何もしなくていいのです。不思議な話です。

 倭人伝の里数の書き方は、まず、わざわざ、韓伝の範囲である帯方郡から狗邪韓国までと言う半島側の里数、つまり、長年に亘って知られている里数を基準としたと明記していて、引き続いて、倭人伝として公的に採用する里数を書いているのだから、公明正大であり、過大申告も無いのです。

*誇張論廃棄

 と言うことで、倭人伝の行程は元々短里で描かれていたと見るのが自然なのです。現地で、普通里が実施されていた強弁する誇張論は早々に放棄し、短里を中国に展開する魏晋朝短里説も廃棄し、地域里制を直視するべき時代が来たのではないかと思われます。

                             未完

倭人伝随想 11 局地里制論について 1/3

                            2018/12/22
*局地里制論とは
 既出記事と重複しますが、視点が違うので、再度言うことにします。

 倭人伝の里数の特徴として、冒頭近くで、帯方郡から狗邪韓国の里数を七千餘里とする局地里制を採用したことを明示し、魚豢「魏略」も陳寿「魏志」も、この「局地里制」を採用しています。これは、ほぼ一里七十五㍍程度で、中国の標準である「普通里」、一里四百五十㍍程度の六分の一として、古代史分野では、大抵の場合「短里」と呼ばれています。以下、概数であることは自明なので、「程度」や「餘」は省略します。

 そのような地域独特の短里が採用された理由は、とりあえず不明ですが、ともあれ、短里は、当時の現地の公的な里制として「通用」していたと考えられます。そして、見る限り、倭人伝の残る部分は、一貫して短里で書かれていて、そのまま史書として妥当とされているのですから、倭人伝の里数は首尾一貫していて誇張はないと思うものです。

*根拠無き誇張論

 里数が単に誇張されたのでなく、局地里制として短里が実施されていたと感じるのは、中原の里制と簡単な比例関係に無いからです。
 
 簡単な比例関係は、二倍、四倍、八倍の倍々系列を除けば、ただ一つ十倍関係です。十倍であれば、単に、百里単位の里数を千里単位へ桁変更だけであり、数の計算が一切要らないのです。従って、誇張しやすいように、一里四十五㍍にしそうなものですが、そうはなっていないのです。

 当時は、今日と異なって多桁計算がなく、一長里四百五十㍍で測定した里数を短里七十五㍍に換算するには、里数を六倍するのですが、それでもかけ算に手間がかかるし、計算前後両方で切りの良い数字は、ごくごく限られるのです。

 データの件数は少ないと言え、そのような手間のかかる変換をしたとは思えないのです。まして、晋書地理志を見る限り、短里は、一切公認されていなかったのですから、換算法も知られてなかったのです。

*概数の起源
 いや、ここまできっちりした数字で書きましたが、当時の普通里、短里は、メートルで刻んでなかったので、どちらも端数がぞろぞろ出るのです。ここでは、話が早いように、四百五十対七十五としているだけです。

 大事なのは、一普通里が六短里という比例関係ですが、これは、秦が、全国統一制度を敷いたときに、既存の周里、短里を、新たな里制である長里としたときの倍率と見ているのであり、当然、六倍という整数倍なのです。

*原里数の推定

 倭人伝の七千里、一千里、二百里といった里数表示が普通里の測定値から六倍に誇張されたと見て、元の普通里里数を逆算すると、きっちりした里数が出ないのです。せめて、十里単位できっちりして欲しいのですが、きっちり計算すると一里でも割り切れず小数になるのです。

                               未完

倭人伝随想 10 里数の底流 餘の世界 2/2

                           2018/12/26
*粗刻みの世界
 そういう大まかな数字であれば、一千里単位は諦めて、先に挙げたような粗い目盛りでほぼ二千里単位にするしかないのです。それ以上となると五千里単位の大まかさになりますが、そこまでは言えなかったのでしょう。

*端数の切り捨て
 千里から上の里数が二千里単位であり、前後一千里程度の不確かさがあるなら二百里。五百里は端数であり、総里数計算の大勢に影響しないのです。世に言う、「餘」は一律切り捨て論とする解釈では、端数が積み上がるので、百里単位が無視できないのです。

*千里附近の扱い
 丁寧に言うと、二千里単位の概数と言っても、一千餘里は、七百五十里程度から一千七百五十里程度の範囲内かと思われますが、里数に二千餘里が登場しないので上限は確かではありません。先の概念図は、一定間隔で刻んでいますが、不確かさは比率問題なので、一千辺りは狭い範囲になるのです。

*実世界、実感を刻む対数
 その辺りは、ちょっと難しい「対数」の世界です。実生活は、実は、比率で評価される対数の世界なのですが、わかりやすく図示するのが難しいので、あえて直線的に描いたものです。数字に強い倭人伝筆者と魏志編者の丁寧な筆法が、現代人に理解されず、数多くの誤解が生じているように見えます。

*松本清張氏の慧眼と限界
 松本清張氏は倭人伝の数字に、三,五,七の陰陽五行説に登場する奇数が多いのに着目し、実数に関係無くこれらの数を使用しているから、倭人伝数字(里数、戸数など)は信用してはならない、と断じています。これは、里数で言えば、千里を越える里数は、二千里間隔の概数であった結果、ことの必然として奇数が多発したという背景に気づかなかったための早計と思われます。

 倭人伝に奇数が多い、とは、白鳥庫吉氏の所説に触発されたとは言え、まことに慧眼です。奇数は、本来「奇」、つまり高貴な数ですが、倭人伝では縁起担ぎの数字ではなかったのです。氏の身辺に、先賢の著書を含め、理数系の大局的な見地から助言する声がなかったのが残念です。

*まとめ
 倭人伝の里数や戸数は、不確かな数字を適切に概数処理したものであり、概数として理解すれば、筋の通ったものなのです。
 なお、以上の推定に援用した数学知識は、遅くとも、大学教養課程で指導される程度の基本的なものであり、特に高度な概念は採り入れていないものと思います。
                                以上

倭人伝随想 10 里数の底流 餘の世界 1/2

                           2018/12/26



*餘の世界
 さて、当ブログでここまで提言している概数里程論で理解しにくいのは、仮に数百、数千「餘里」の里数が前後の範囲を含んでいるとしても、千里単位であれば前後五百里の範囲内ではないかという疑問と思います。その辺り、何度か触れていますが、上の概念図を参考に、もう一度考えて頂きたいところです。

*曖昧な世界
 算用数字縦書きは実数を配置していますが、下段で漢数字の大まかな枠に落ち着くのです。現代感覚では、四捨五入する桁を指定すれば、百里でも千里でも「きっちり」概数が出せるのですが、きっちりできるのは、正確な実数を丸める場合であり、倭人伝里数のように、元々おおざっぱな数を寄せ集めるときに、その理屈は通用しないのです。

 あるいは、ある程度正確に知られている数字とおおざっぱな数字を交えて計算するときという方が、事態に適しているかも知れません。

 要するに、全里数の計算は、行程全体を見渡して、もっとも不確かな里数に合わせなければならないのです。

*知られている里程
 帯方郡から狗邪韓国まで長年、官道として通行していて、全長に亘って何れかの国が管理しているので、区間毎に縄張り測量し一里塚を据えていたと思いますから、少なくとも、一里単位の里数を知ることはできたはずです。

*推定しかできない里程
 しかし、渡海行程は、海上に道がないので、里数の測りようがなく、所要日数から類推するしかないのです。また、狗邪韓国から見ての向こう岸は、道はあっても、縄張り測量してなければ、里数の報告があっても、どの程度信頼できるか不明です。

*不確かさの度合い

 例えば、元々が一千里程度で九百五十里から一千五十里の範囲かどうか疑わしいのです。九百里から一千百里の程度どころか、五百里から一千五百里の間という大まかさかも知れないのです。海の向こうで実情はわからないのです。里数は測っていないが、普通に歩いて三、四日なので、一日三百里として一千里程度、と言う計算かも知れないのです。

                                未完

今日の躓き石 「フォーシーム」SUにルビーの栄冠

                                2018/12/26
 今日の題材は、公共放送でも全国紙でもなく、コミック誌の劇画である。
 
 小学館ビッグコミック誌連載の「フォーシーム」は、MLB(メジャーリーク)に飛び込んだ「無頼派」投手の力戦記であり、ことの始まりも、MLBで48連続セーブという展開も、とてもあり得ないほら話ながら、丹念な取材を書き込んでいて、ついついのめり込むのである。
 
 今回の題材、つまり、2019年第一号(2019/01/10)に掲載された連載第140話「ほくそ笑み」(さだやす圭)は、とても目立たない所で、ひっそりと燦めいているので、ここで取り上げないと、誰も気づかないだろう、と言うことで、賑々しく述べる。
 ふりがなをいう「ルビ」は、宝石ルビーに因んでいる。宝石は、とてもとても小さいが、見る人か見れば、このページどころか、140回の連載全体を燦然と照らしているようである。
 ゲーム終盤に登場する、クローザーの締めをお膳立てする役目を、SU(セットアップ)と書いているのは、作者の周到な取材と見識の齎す宝石と感じる。大拍手である。
 
 日本のスポーツジャーナリズムは、とにかくズボラで、「セットアッパー」などと、言葉づかいを壊して喚いていて、当方に叩かれているのだが、本作は、きっちりしているのである。
 
 と言うことで、当カテゴリーで滅多にない賞賛記事であるが、これが二度目なのである。多分、国内ジャーナリズムの用語とぶつかるので、あまり言いたくない、書きたくない言葉かと思うのである。
 
 以上、単なる素人の、閑散ブログでの発言なので、いくら言い立てても埋もれるだろうが、微力を尽くすのが身上なので、ここに記事を公開するものである。
 
以上

 

2018年12月24日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞駅伝報道の「リベンジ」汚染

                      2018/12/24
 本日の題材は、の毎日新聞大阪13版スポーツ面の高校駅伝報道である。高校男子の結果を一ページで報道する一面のど真ん中の記事であるから、大見出しではないものの、大会を主催する新聞社としての力の入った報道だと思うのである。
 
 駅伝は、競争であるから、互いに勝ったり負けたりして恨みを募らせるものではない。いや、元々、スポーツに復讐だの怨念は無いはずであるが、なぜか、全国紙たる主催紙が、復讐譚を書き立てて、生臭い話に仕立ててしまうのである。
 
 堂々と書いているのは、昨年追い越された場所で、逆に追い越して優勝した、ざまを見ろ、昨年はやられたが、血祭りに上げてやった、ということになる。チームが、「リベンジ」を果たしたということは、監督以下、全員がそう思っていたという報道であり、それが優勝の原動力となると、これからも、復讐の連鎖で血塗られた世界が続くことになる。
 伝統ある全国紙ともあろうものが、そうした前時代的な蕃風に加担しているのは、何とももったいない話である。
 
 どうか、後世の若者に、この負の遺産を押しつけずに、スポーツマンらしい競争心が高まるよう、せめて、リベンジは、「絶対禁句」にしてほしいものである。
 
 もし、高校駅伝の指導者が、復讐心をかき立てでも、勝てばいい、結果が全てだと思っているとしたら、それは、考え直してほしいものである。
 毎日新聞社には、主催紙として、そのような助言は欠かせないと思うのである。
 
以上

2018年12月11日 (火)

新・私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 1/1

 掲載誌「図書」2012年2月号 (岩波書店)

 私の見立て ★★★★★ 必読         2018/07/01  2018/12/11

*緒言
 当研究論文は、昨今大分知れ渡った『百済人祢軍墓誌の「日本」』に関して、碑文を逐一吟味するという地味な議論で先駆けし、隅々まで論拠を明らかにし、後続論者が一歩一歩追随できたのは見事と思います。

 毎号格調高い記事がひしめく当誌の巻頭記事に相応しい堂々たる論文と受け止めます。

*経緯
 本件経緯は、先ず、中国吉林大学王連龍氏の研究論文をもとにした朝日新聞記事で日本国号の新史料の発見が報じられました(2011年10月23日)

 東野氏が戒めても、碑文資料から「目に付く」、つまり、安直な結論に飛びつき、着実な資料批判がなおざりになる「軽率」は、(日本)古代史学の通例/通弊ですが、当論文の堅実さは、大変貴重な少数派の美点です。

*論証
 東野氏は、本件の初出論文である、王氏の研究論文を熟読し、碑文に「日本」を認めた王氏の判断を尊重した上で、
 碑文を国号「日本」の使用例と見るのは早計です。文脈から見て、「日本」は詩的字句で、現実の国名とは考えられません。 
 『「日本」は、漢魏代の遼東、楽浪、帯方の三郡領域、後の、高句麗、百済、新羅の三国領域では、東方、日之出の場所として用いられていて、必ずしも、後世の「日本」と同義ではありません。碑文の「日本」云々は、むしろ、百済遺民の逃亡と見られます。
と、細かく押さえていて、それぞれ、妥当と思われます。

 とかく、国粋的視点からのみ判断して、丹念な論証が無視され、以上の論証が等閑にされていますが、科学的な見方で、全て妥当な論証と見られます。

*ささやかな批判
 当論文で同意できないのは、国名抜きの日本列島として、「倭国」と表記していることです。(碑文とは関係無い東野氏の地の文です)

 同時代正史舊唐書も、本紀などで、体裁上二字名とせざるを得ない時を除いて「倭」と呼んでいて、三国志、後漢書を継承しています。また、「日本国」とも書いていないのは、百済国、新羅国と書かないのと同様です。

 「倭」の実態については、ここでは論じません。

*ささやかな異論
 東野氏は「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに妥当な構文解析と思います。

 一方、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるし、それぞれ、三字句+三字句で揃っているのではないか、と見解が異なります。本碑文は、「于時日 本余噍、拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ詩的字句にしろ「日本」と書いてないとするのが異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのです。

 ちなみに、「本余噍」は、「本藩」すなわち「百済」の余噍、つまり、「百済」残党です。従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのです。これは、東野氏の説くところに整合していると思います。

 但し、この異論を認めると、墓碑碑文発表以来の「日本」論議が空騒ぎになってしまうので、中々認められることはないものと思っています。

                               以上

新・私の本棚 直木孝次郎 「古代を語る 5」 大和王権と河内王権 2/2

           吉川弘文館 2009年刊

 私の見立て★★★★☆ 必読          2016/12/11  2018/12/11

*具体的手段
 旗竿のようなものを利用し、藤原京から、逐次北上して参照地点をつないでいけば、最終的にそこそこの精度で目的地に到達できると思うのです。

 例えば、原点に立てた旗竿の真北に、二本目の旗竿を立てるのです。藤原京ほどの地点であれば、太陽観測によって、南北方向を得ていたはずです。区間幅を、旗竿の振り方で意思疎通できる程度にしておけば、特に通信機器がなくても、二本目の旗竿を一本目の旗竿の真北に位置決定できるのです。

 三本目以下の旗竿の位置は、先行二本の旗竿が真南の一直線上に見える地点に決定できますが、誤差が積み重なって方位がずれるのであれば、何本目かに一回、候補地での南北を太陽観測で決定し位置を確定すればよいのです。

 三本の旗竿が一直線上に並んだところで、最初の一本を北上させて行くという手法を順次採用すれば、目的地までに日数を要するものの、五十五㌖程度の距離であれば、そこそこの精度で真北に進むことができるのです。

 著者が気にしている途中の山の問題ですが、平地同様、随時見通す感じで北進していけば、特に困難なしに順次旗竿をたてて、真北に進めるはずです。

 経路上に登攀困難な高峰や対岸の見通せない大河や湖水があれば、そのような進行は不可能ですが、見る限り、克服可能な経路と思います。

 と言うことで、古代、先進光学機器も衛星写真もなくても、小数計算を含む十進数計算の思想がなくても、時分秒の時間計測概念がなくても、つまり、SI国際単位系に規定されたメートル法の単位系がなくても、この程度の距離と地面の起伏であれば、「一直線」に北進できると判断します。(愚考の一案です)

*謝辞・賛辞
 復習すると、藤田氏の叡知は、二万五千分の一地形図で見ると両地点が南北「一直線」上に見える、という発見に触発され、当時利用可能な手段で、藤原京のほぼ真北に山科陵を位置決定できたのではないかとの提言であり、こうすれば実現可能と読者側から手をさしのべられる真摯なものです。

 これをご自身の見識に照らして考証し、適切な理解と紹介を行われた著者は絶賛に値するものと信じるのです。

*失敗事例
 これまで、毎日新聞連載「歴史の鍵穴」論説を当ブログが批判し続けているのは、提示区間が途方もない長距離であり、時に、海上を延々と通過するから絶対不可能というのであり、論拠として掲載されている方位や距離の多桁数字が、現代の技術で測定された地形データを根拠無しに古代に適用し、無理で意味のない高精度計算を行う、と不法に不法を重ねているからです。

 要は、ここまで「地図妄想」と批判してきたのは、学術的に意味のない、本末転倒した主張を続けているためです。

*感慨
 豊富な知見と学識を有する先人が、ここに例示されたような合理的で、的確で、隙のない思考を行って見せてくれているのですから、虚心に見習うべきではなかったかと、歎くものです。

                               完

新・私の本棚 直木孝次郎 「古代を語る 5」 大和王権と河内王権 1/2

           吉川弘文館 2009年刊

 私の見立て★★★★☆ 必読        2016/12/11  2018/12/11 2019/01/29

*北進の道
 今回の著者直木孝次郎氏は、史学先賢の中でも「巨匠」と呼ぶべき大家ですが、ここでは単に「著者」と書かせていただきます。

 題名が示すように、本書は、日本古代史に関する著書であり、当プログ筆者の守備範囲外ですが、訳あって末尾の部分を題材にさせて頂きます。

 もちろん、書籍全体を読ませていただいたのですが、史書の追究はともかく、多数の遺跡、遺物の現地、現物を身をもって体験された結果の貴重な論考であり、謹んで敬意を表させていただきたいと思っています。

 さて、今回取り上げるのは、末尾も末尾、最後に示されたご意見です。

*地図の思想
 ここでは、天智天皇山科陵が藤原京の真北に存在しているように見えることから、これは、山科陵設営当時、意図してその位置に造営したのではないかという仮説を紹介し、現地踏査の結果、具体的な位置設定手段は確認できないが、この仮説は否定しがたいとの意見を述べているものと思います。

 もとになる仮説を提示したのは、藤堂かほる氏(「天智陵の営造と律令国家の先帝意識―山科陵の位置と文武三年の修陵をめぐって―」(『日本歴史』六〇二号1998年)」)であって、このように発表誌も明記されているから、第三者が原文を確認して、追試検証できるものです。

 また、発表誌を確認するまでもなく、著者の簡にして要を得た紹介があり、藤堂氏論拠である両地点を記載している国土地理院発行の二万五千分の一地形図二面をつきあわせた際の両者の位置関係が明記されています。

*実施(可能と思われる)方法

 さて、著者が藤田氏の提言を元に現場確認された際の意見を拝聴すると、両地点は、ほぼ五十五㌖を隔てていて、丘陵というか、山が介在して直視できありませんが、何らかの手段で山を越えて位置確認できたから、山科陵は現在の地点に設置されたのではないかと感じたと述解されています。

 ブログ筆者は、理工学の徒ですから、以下、推定を試みています。実地確認したものではないので、実行困難とのご批判はお受けします。

 筆者は、自身の良心のもとに、古代の世界に自分を仮想して、このような任務の実行任務を与えられたら、十分に実現可能であると判断するものです。

 基本的な認識として、いかなる光学機器も、単体では、見通しの利かない二地点間の方位を測定することはできないのです。いや、見通し可能であっても、五十五㌖先が視認できると思えないのです。

 そのような無理でなく、古代人であっても利用可能な道具類を使用し、数人の技術者とその何倍にも当たる人夫をある程度の期間動員して、全区間を細分化した区間を順次踏破すれば良いのです。

                           未完

2018年12月10日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞「この一年」[文化財]の怪記事は捏造か

                          2018/12/10
 本日の題材は、毎日新聞夕刊文化面の「この一年」[文化財]の回顧記事である。
 
 麗々しく文化財というものの、冒頭記事は、「文化」の「文」がどこにも見つからない発掘遺物である遺跡の桃の種の年代鑑定の与太話であり、毎日新聞の品位を疑わせるものである。
 
 どうして与太話かというと、「分析結果が出たことが、5月に明らかになった」と風評として書いているからである。分析の主体、担当機関が書かれていない上に、どのようにして毎日新聞に対して「明らかになった」のか、書かれていないというのは、本来、ニュースとして取り上げるべきでない風評、与太話を書いているように見えるのである。そして、大事なことは、結果として注目を集めたと言うだけで、学術的な評価がなされていないということである。
 
 因みに、次段の古墳調査は、「宮内庁と堺市」が共同で発掘調査し、「11月下旬に報道陣と研究者に公開した」と明記されていて、容易に検証可能である。俗に「裏を取る」ことによって、一般人である読者も報道の真否を検証できることになる。
 
 これに引き換え、纏向桃の種事件報道は、ニュースソースが秘匿されていて、まさか、虚報、捏造や不正情報ではないだろうが、不審そのものである。同一人が、同一コラムに書いたとは思えない派手な食い違いである。
 
 また、引用された鑑定結果が、135-230年という範囲を明記しているらしいのを受けて、⑴これが卑弥呼の活動時期と重なる、と断定して、従って、⑵当時の女王国は、桃の種の出土したとされる纏向にあった、と強弁しているのだが、それぞれ、憶測であり、それを強弁するのはうさん臭いのである。
 
 ⑴ 鑑定結果に幅があるのは、要は、科学的に、範囲を持たせざるを得ないことを示しているのであるから、書かれている95年の範囲には、同等の重みがあるのであり、遺跡が、三世紀前半か、四世紀以降となるかの議論のいずれにも組みしないと見るべきである。陰の声が言う、科学的に「何の意味もない」とする至言は、その主旨と思う。ずばり、科学的に的を射ていると思う。 
  それを担当記者が勝手に読み替えて、三世紀前半説が裏付けされたとする報道は、まことにうさん臭いのである。(偏向、曲筆と言いたくなるほど、曲がっている.)
 
 ⑵纏向遺跡の遺構が三世紀前半に存在したとしても、その遺跡の主催者が、当時の日本列島(西部)を統一支配としていたとする根拠はない。時代感覚をしゃにむに曲げてでも、この点を結びつけようとする書きぶりはまことにうさん臭いのである。
 
 お手盛りの「古代史最大の謎」が、単に「邪馬台国の所在地」だけであり、毎日新聞がその「謎」に関して、独自の秘密取材で独自のニュース、つまり特ダネを得た、世間の注目を集めたと狂喜乱舞するのは、新聞社の社是として、前前世紀の骨董品であり、報道の本質を離れた過去の遺物ではないか。
 
 折角の自画自賛であるが、素人目にも、曲がった記事なので、指摘させて頂くのである。毎日新聞には、学会のガラス窓に投石する以外の端正な対応が望ましいのである。
 
以上

2018年12月 9日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞は「リベンジし勝つ」の暴報道 サントリーラグビーの怪

                         2018/12/09
 
 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊スポーツ面ラグビートップリーグ準決勝のあと、勝ったサントリーの主将談話である。
 
 実際にどんな趣旨だったのかわからないが、毎日新聞の報道では、「次はリベンジし勝って終わりたい」と暴言したと報道されている。事実だとしたら、国内トップクラスのラグビー選手の談話としては、とてつもなく不穏で、相手チームに爆弾を投げつけて、血祭りに上げでも勝ってみせるという趣旨にされている。毎日新聞は、サントリーに恨みでもあるのだろうか。不穏である。
 
 おそらく、スポーツ界には、試合に負けたら、必ず相手をぶち殺してでも勝つという気迫があふれているのだろうが、それを口に出したらおしまいである。スボーツに暴力はつきものなどの暴言は、ご免である。それを、全国紙の紙面で堂々と報道する新聞記者も、同罪である。いつまでも絶えない暴力嗜好である。
 
 因みに、当世風のリベンジは、再挑戦である。つまり、決勝戦で対戦相手に出くわすだけで、リベンジできているのである。その辺りのダブルスタンダードを知らない新聞記者も、ド素人なみのドジである。
 
 いや、毎日新聞のスポーツ報道は、スポーツ界の復讐嗜好、暴力嗜好のヘドロの海の底に沈んでいて、一向に浮上してこないのである。付ける薬がないのだろうか。
 
以上

2018年12月 7日 (金)

倭人伝随想 8 「倭人世界」図の試み 1/1

                            2018/12/07
*倭人世界図
 魏使経路、里程、旅程の概念図です。
 上図は、諸兄が参照されているような精密な地図ではなく、当時の一地方人が頭の中で描いたかも知れない概念図の真似事をこころみたものです。
 
 手順としては、表計算ソフト(マイクロソフト エクセル)の罫線機能やセル塗りつぶし機能だけで描き、「図」として貼り付けたものです。作図機能は全く使っていないもので、意識して、地図資料は参照せずうろ覚えで描いたので、誤解、誇張、見落としなどはご勘弁ください。また、盛り込まれている当方の随想の当否は、ここでは論議しないでください。

 そういう由来の戯画なので、見たとおり、大小関係、角度(方位)などおおざっぱそのものですが、帯方郡官人の地理感覚は、現代人が利用できる地図から見てとれるものとほど遠く、むしろ、このような素朴な図に近かったのではないかとの仮説を視覚化する意図で概念図としています。これでも、図の周辺部が、くっきり見えすぎているのではないかと思います。(丁寧に説明すると、曲線、斜線、矢印などは使えず、説明を書く場所は、セルを狭くしたり、低くしたりできないため、この形に収まったのです。「正確」でないのは、承知の上です)
 
 ということで、現代の地理感覚も、算用数字を駆使した多桁四則計算も、分数計算も忘れて頂いて、こうしたおおざっぱな感覚を感じて、史料批判を進めて欲しいと思った次第です。

 もちろん、当時であっても、洛陽の高級官僚は、精緻な地理感覚、高度な算術を駆使していたでしょうが、中国全土どこでも、官人なら誰でもというわけではないはずです。
                              以上

 

 

 

 

2018年12月 5日 (水)

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 3/3

                      2018/12/04  補追 2019/01/09
*後世の海路
 遙か後世、大型帆船で無寄港航行できるようになって、始めて、西海岸のはるか沖を通過する航海が実現したのですが、それでも、荒天による遭難は避けられず、この海域で沈没船が発見されたとの報道があったのです。

 因みに、夜間航行する無寄港航海は、訓練された乗員や軍人は停泊休憩無しの航行にも耐えても、便乗する外交官や民間人には耐えがたいので、頻繁に寄港したはずです。そう、船酔いの問題もあるでしょうし。

*対馬海峡渡海
 以上の談義は、対馬海峡の渡海には、全く適用されません。

 この区間は、単に三度に分かれた渡海であり、途中の海は、海流こそ激しいものの、難破させられる見えない岩礁などなく、かつ、目的地が見通せる区間であって、それぞれ区間は一日の航海で到着するのです。
 
 この航路は、代替経路がない幹線で通行量が多くて定期便が普及している「街道」であり、それぞれの港には、ゆっくり休養できる宿があり、替え船はないとしても、その区間の渡し舟を利用できるので、わざわざ専用船を仕立てて一気に漕ぎ渡る必要もなかった
のです。

 街道往来の便船の漕ぎ手なら、それこそ旬(十日)に一回往復すればよいとか、無理ない日程管理ができたでしょう。

*水行十日三千里
 倭人伝も、この三回の渡海を総合して、休養日、天候待ちも入れて、水行十日で渡れますから、三千里相当と書いといてくださいとしている
のです。

 水行を海とする読みは、別項に書評したように中島信文氏が提唱し当方も確認した解釈とは一致しませんが、倭人伝は、中原語法と異なる地域語法で書かれているのです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。

*南岸難関
 西岸踏破では、途中必ず何があるから、日程を決められないのですが、南岸踏破は、さらに難関と見られます。端的に言えば、この多島海を短区間の寄港を続けて乗り切ることができるのかどうか不明なのです。

*見えない後日談
 後世、帆船航行の初期は、なんとか西岸沖合を南下し、済州島付近から、一気に大渡海に入ったのでしょうが、だからといって、無事に未踏の航路を開拓し、乗りきれたかどうか不明です。もっとも、初唐期唐使高表仁は、数か月を費やした浮海で航路を発見し、百済を歴ずして倭に到着したようです。

 郡倭航海はこなせても、倭郡航海は、帆船といえども、海流に逆らう大渡海で至難であり、いっそ、佐世保辺りから北西帆走したかと思われます。

 そして、郡から倭に向かう航海は何とかこなせても、倭から郡に向かうときは、帆船といえども、末羅港から海流に逆らう大渡海は至難であり、いっそ、佐世保辺りから、西に向かって帆走するのではないかと思われます。

 この辺り、古田武彦氏は、初唐期、有明海に帆船母港を置いて、そこから発進したのではないかと想像をたくましくしています。

*まとめ
 これぐらい丁寧に説明したら、「西岸南岸一貫水行」説は、影を潜めないものかと願っています。
 

                            この項完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 2/3

                            2018/12/04
*難所の海
 半島南岸はとてつもなく難所続きですが、まずは、乗りこなせそうに見うる西岸から考えてみましょう。俗説では、帯方郡が仕立てた海船、おそらく漕ぎ船が南下して、この海域を踏破したことになりますが、そんなことはできたでしょうか。また、ここが通れなければ、南岸も通れないのです。

 現在の地図に見える多島海を漕ぎ通ることは大変難しかったでしょう。どんな船でも、海底の岩礁で船底に穴があいて浸水すると沈没します。岩礁が見えたら避けようとするのですが、見えないでは対処できません。地元の海人、漁師達は、そうした危険な場所を知っていて、陸上に目印を作り、いちはやく避けることができます。いわば、漁師の土地勘というものですが、海底が見えず土地勘もない船は、そんな海域に立ち入れないのです。

 まして、一人乗りの漁船より遙かに大きく、重い二十人漕ぎの荷船は、喫水が深く、船底が深くまで伸びて、漁船が通れる海域でも、難破するのです。

*帆船のなやみ
 もし、さらに大規模な帆船であれば、格段に幅が広く、喫水が深いので、もはや、漁船の土地勘は通用しないのです。安全に通行するには、海域全体で、水深を測って、浅瀬になりそうな場所に目印を置くことになります。

 さらに、帆船通行が難しいのは、帆船の舵取りの困難さにあります。わかりやすく言うと、帆船は舵の効きが遅い上に、低速航行では舵が一段ときかないので小回りがきかず、しかも、舵の効きが、帆にかかる風の力や海流に左右されるので、進路を制御するのが難しいのです。

 ということで、帆船を含めた大型海船は、沿岸航行では基本的に直進するのです。進路を変えるには帆を下ろした帆船を手漕ぎの曳き船で押して方向転換させます。今日、大型船入出港は、タグボートと水先案内が活躍します

 この制約を克服するには、帆船に数十人の漕ぎ手を乗せ、入出港の際は、手漕ぎで進めることになります。ますます船体が重くなり、載せられる荷物の量が減ります。ちなみに、古来、漕ぎ手は非戦闘員扱いです。

*不可能な使命

 それはさておき、半島西岸の沿岸一貫航行は、浮揚するホバークラフトでも使わない限り、実現不可能という事がわかります。

 いや、可能性は無限なので、絶対失敗する訳ではないのですが、官道としての便船であっても荷船であっても、途中の難破が度々あっては、使い物にならないのです。

 いや、難破と言わなくても、途中十箇所なり二十箇所なりの寄港地が一箇所でも停泊不能となると、土地不案内な漕ぎ船はそこで立ち往生し、官道が途絶するのです。

 いや、そんなことは、帯方郡には自明だったので、そのような海上航行は採用されないどころか一顧だにされなかったのです。

                             未完

倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 1/3

                            2018/12/04
*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。

 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

*無謀な一貫航行
 結論を先に言うと、三世紀の日本列島で長距離一貫航海は無謀です。

 まずは、そうした長期航海に耐える船体はありません。船体には、漕ぎ手を入れても良いでしょう。二十人程度の漕ぎ手は中々揃わず、長期にこぎ続ける体力は無いし、派遣元も、長期間出っぱなしとは行かないでしょう。

 沿岸航行を続けるなら、一日漕いでは一休みし、疲労回復して再度漕ぐのでしょうが、そのような航行で遠距離漕ぎ続けるには、多くの寄港地が必要で、ただで滞在もできないしということになります。

 無難なのは、港、港で便船を乗り継ぐ行き方です。地元の船人が慣れた海域を、慣れた船で行くので、危険の少ない行き方です。

 問題は、全航路を乗り継ぎでつなげることが、その時点で可能かどうかと言う事です。いや、可能にならなければ、航路はできないのです。

*無理な半島巡り
 それにしても、韓国西南部の海岸巡りは、無謀です。提唱以来久しいのですが、そのような航行があったとの報告がありません。

 もちろん、例えば一人乗りの漁船で沖に出て漁労に勤しむことはできたでしょうが、それは、岩礁の位置を知り、潮の干満を知った漁師のみが出来るだけであり、今課題とされている二十人漕ぎ程度の喫水の深い船は、水先案内があっても、とても、無事航行することはできないと思われます。いや、命がけですから、とても、航行出来ないという方が正しいでしょう。

*手軽な渡し舟

 とかく誤解が出回っているのですが、倭人伝に書かれている海の旅は、今日言う航海などではなく、手軽な渡し舟なのです。

 海に疎い中国でも、北の河水、黄河、南の江水、長江などの中下流の滔々たる流れは、架橋などできなかったので、渡し舟で往き来していたのです。

 渡し舟は、川の流れの向こうがわかっているので、羅針盤も、海図も要らないのです。川に魔物がいるはずもなく、渡し場が決まっていれば、往来する客に不自由はなく、生活のために、時には、日に何度でも渡るものです。

 ということで、以下、少し丁寧に批判します。

*渡海船談義
 渡海船で言えば、例えば、半島南岸の狗邪韓国から目前の対馬に渡る船は、海流のこなし方さえできれば、さほど重装備にしなくても、手軽に渡れるのです。一日の航行で好天を狙うので、甲板は要らず、軽装備で、漕ぎ手は一日限りの奮闘です。

 対馬と壱岐の間は激流で、多分漕ぎ手を増やした渡し舟だったでしょうが、それにしても、日々運用出来る程度の難所だったのです。

                               未完

2018年12月 1日 (土)

今日の躓き石 「バリアフリー」反対論への疑問 毎日新聞の不思議

                    2018/12/01
 本日の題材は、昨日の毎日新聞朝刊特集面の「毎日ユニバーサル委員会 第4回座談会」記事であるが、最後に出席者の一人である東洋大教授川内美彦氏が提言している内容に頑固に反対するものである。
 つまり、「バリアフリー」に関する言葉いじりが、感心しないことおびただしいと言いたいのである。

*カタカナ言葉幻想
 川内氏の提言は、桜井氏が世界標準と豪語した「アクセシビリティー」を丸受けしたせいか、大きな勘違いで始まっている。
 「バリアフリー」は、カタカナ六文字の日本語であり、日本語であるから、海外の用語、用法と違うのは当然なのである。
 日本には、「バリア」(バリアー?)なる言葉はなかったし、「フリー」と言う付け足しも希であったから、この六文字カタカナ語は、古くさい概念のつきまとわない新語であり、つまり、新鮮で、好感度が高かったと思うのである。要するに、日本語としての「バリア」「フリー」は、英語の語源、語義とほとんど繋がっていないのであるから、バリアの意義は日本独特である。
 ちなみに、桜井氏の言葉として、「ハードル」が見えているが、この言葉など、完全な誤解にもとづく誤用の典型的な事例であるが、いまや、日本語となっているので、止められないのである。

*When in Japan
 今回川内氏から聞かされた評判は、欧米、おそらく、イングランド風土のお高くとまった貴人の意見であろうが、ローマではローマ人に習うべきであるように、日本では日本文化について学んだ上で、日本語で批判すべきである。勝手に、英語文化の物差しで、悪口を叩かないでいただきたい。それにしても、川内氏が端的に断言するように、世界こぞって英語圏の指導に従って、「正しい」英語を使用しているのだろうか。

*A13Yの愚
 そして、川内氏が代替語として提案されている「アクセシビリティー」(提言のアクセシブルは、形容詞であって、扱いにくいのである)は、語源らしい英語を推定すると、意味の多い語幹を元にすえた、大変できの悪い二段仕掛けの派生語であり、漸く通用するようになった、耳に親しみやすい単語を、何故、こんなわかりにくい、官僚や技術者の作文を連想させる独善的な単語に置き換えるのか、しみじみ理解できない。
 いや、どんな英語を使うか英語圏の勝手、日本人の知ったことではないと言うなら言うが良い。その趣旨の反論は、すでに上に、日本人視点で書いている。お互い様ということである。
 この言葉の語源と思われる英語は、Accessibilityなる13文字の綴りが長すぎて、A13yと略されそうである。まことに人工的でわかりにくい言葉だから、それ故に、日常使われず、それ故に妙な既成概念、言葉に付いた手垢がないから、誤解が無いと言いたいのだろうが、日本人には、無縁のこじつけである。
 
*「メデイア」幻想
 川内氏は、最後に「メディア」の指導力について講釈して、毎日新聞の権威に期待しているようだが、引き合いに出されるような「メディア」は、とうに権威を喪失しているのである。昔、新聞界では、毎日新聞を代表とする全国紙、放送界では、公共放送であるNHKが、言葉の護り人としての権威を感じさせていたが、すでに、国民の過半には、そのような旧メディアから押しつけられる言葉でなく、自分たちの間で、適当に言葉をでっち上げる文化が増進していて、「メディア」は、感情的な反発による離反を怖れて、若者言葉、当世言葉に迎合しているようにすら見えるのである。いや、「メディア」の構成員自体、すでに、「メディア」の聖なる役割を忘れているようにも見えるのである。(毎日新聞にはコメントしがたいと思うので、一読者が勝手に言う)
 当方の考えすぎであれば、幸いである。

*日本文化の試み
 当方は、古典的日本語の信奉者であるので、英語に範を得たと思われるカタカナ語に、英語視点から難癖を付けられるのは好まない。別に、文句タレの子でもないし、孫でもない。日本語に関しては、大の大人である。
 川内氏も、「やさしい日本語」と語っているので、上に紹介した提言は、それに反しているように思うのである。生煮えのカタカナ語は、日本人すら、よほどの説明がないと理解できないのであり、更に、どこかの土中から掘り出したばかりの泥まみれのカタカナ語を導入する意図には、共感できない。この辺りの「理屈」が、身についていないのではないかと危惧する。
 川内氏が、どうしても「バリアフリー」を廃語としたくて代替語を求めるなら、受け売りのカタカナ言葉でなくて、伝統ある外国文化である漢字言葉を造語して、「平坦化」としたら良いと思うのである。
 平坦は、比喩である。でこぼこ、段差、躓き石、落とし穴のない世界にしようというものである。平坦化するものは、物理的、フィジカルなものに限らず、心理的、メンタルなものも含まれる、と言う程度の含蓄は込めてある。かなり「やさしい」「日本語」と思うものである。
 最初から、地域固有の言葉に翻訳していたら、英語常識の欠如を責められることは無かったのである。反対論だけでは済まないので、提案を添えた。 

以上

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