倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 8/9 改
2018/10/26 2018/12/26 修正 2020/11/08
*周里の意義
と言うことで、距離の単位としての里が周制から六倍になったという仮説と整合させる策としては、周制の里は、尺、歩から積み上げたものでなく、別の根拠を持つ、言うならば独立した単位系でなかったかということです。
*次元の違い
井と里が合同なら、里を六倍に拡大すると、下は、歩から天子領分まで倍数で定義されている全体系が連動しますから、それは不可能というものです。
絨毯を敷き詰めた部屋にテーブルを置いた会場で、絨毯の一角を別の場所に移すことなど不可能なのと同じです。
*同文同軌 周秦革命
周里が長さの単位(一次元)で、井(二次元)と無関係(異次元)であり、秦朝が、何かの理由で周を井に同期したのなら、同文同軌の里制変更で里程が影響されても、日常使用の歩、畝は変動せず、混乱はなかったのです。また、些細な改定ということで、里長の変更は記録に残らなかったのでしょう。
先ほどの例で言うと、絨毯の一角が本来別物で、縫い付けられているだけであれば、そこだけ、剥がして移動できるのです。
*結論
と言うことで、経緯は不明ですが、周里が短里としても史料に書かれている周制と矛盾しないという見方です。何しろ、秦始皇帝が周制を覆してから、陳寿の三国志編纂まで五百年、房玄齢の晋書編纂まで九百年経っていたのですから、いくら公文書類と言っても、正確な伝承には限界があったし、何事も組織的に定義するとしても、全て定義できるものでもないものです。
どんなものにも欠点はあるのです。
*現地里制の確認
原点に戻って、延々と模索した結果、古田氏の提言は見事に構築されていたものの、その展開に於いて、根拠に欠けるものであり、不適切な部分をそぎ落とした核心だけが、ほぼ論証されたものと思います。
即ち、倭人伝里制の由来は多少不確かでも、⑴現地里制を適確に示しているとする意見を覆すものでないということです。また、別系列の史料により、⑵周朝が短里を実施していたことは、ほぼ信じて良いでしょう。 この項は撤回します。
晋書地理志から判断すると、⑶以降については、成立しないものと思いますが、可能性に乏しくとも、別史料で覆る判断かも知れないのです。
以上、一介の素人の意見ですから、別に権威はないのですが、ものの理屈として、筋が通っていると思うので、ご参考まで公開したものです。
以上
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