倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 2/3
2018/12/04
*難所の海
半島南岸はとてつもなく難所続きですが、まずは、乗りこなせそうに見うる西岸から考えてみましょう。俗説では、帯方郡が仕立てた海船、おそらく漕ぎ船が南下して、この海域を踏破したことになりますが、そんなことはできたでしょうか。また、ここが通れなければ、南岸も通れないのです。
現在の地図に見える多島海を漕ぎ通ることは大変難しかったでしょう。どんな船でも、海底の岩礁で船底に穴があいて浸水すると沈没します。岩礁が見えたら避けようとするのですが、見えないでは対処できません。地元の海人、漁師達は、そうした危険な場所を知っていて、陸上に目印を作り、いちはやく避けることができます。いわば、漁師の土地勘というものですが、海底が見えず土地勘もない船は、そんな海域に立ち入れないのです。
まして、一人乗りの漁船より遙かに大きく、重い二十人漕ぎの荷船は、喫水が深く、船底が深くまで伸びて、漁船が通れる海域でも、難破するのです。
*帆船のなやみ
もし、さらに大規模な帆船であれば、格段に幅が広く、喫水が深いので、もはや、漁船の土地勘は通用しないのです。安全に通行するには、海域全体で、水深を測って、浅瀬になりそうな場所に目印を置くことになります。
さらに、帆船通行が難しいのは、帆船の舵取りの困難さにあります。わかりやすく言うと、帆船は舵の効きが遅い上に、低速航行では舵が一段ときかないので小回りがきかず、しかも、舵の効きが、帆にかかる風の力や海流に左右されるので、進路を制御するのが難しいのです。
ということで、帆船を含めた大型海船は、沿岸航行では基本的に直進するのです。進路を変えるには帆を下ろした帆船を手漕ぎの曳き船で押して方向転換させます。今日、大型船入出港は、タグボートと水先案内が活躍します
この制約を克服するには、帆船に数十人の漕ぎ手を乗せ、入出港の際は、手漕ぎで進めることになります。ますます船体が重くなり、載せられる荷物の量が減ります。ちなみに、古来、漕ぎ手は非戦闘員扱いです。
*不可能な使命
それはさておき、半島西岸の沿岸一貫航行は、浮揚するホバークラフトでも使わない限り、実現不可能という事がわかります。
いや、可能性は無限なので、絶対失敗する訳ではないのですが、官道としての便船であっても荷船であっても、途中の難破が度々あっては、使い物にならないのです。
いや、難破と言わなくても、途中十箇所なり二十箇所なりの寄港地が一箇所でも停泊不能となると、土地不案内な漕ぎ船はそこで立ち往生し、官道が途絶するのです。
いや、そんなことは、帯方郡には自明だったので、そのような海上航行は採用されないどころか一顧だにされなかったのです。
未完
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