倭人伝随想 5 倭人への道はるか 海を行けない話 1/3
2018/12/04
*随想のお断り
本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。
*無謀な一貫航行
結論を先に言うと、三世紀の日本列島で長距離一貫航海は無謀です。
まずは、そうした長期航海に耐える船体はありません。船体には、漕ぎ手を入れても良いでしょう。二十人程度の漕ぎ手は中々揃わず、長期にこぎ続ける体力は無いし、派遣元も、長期間出っぱなしとは行かないでしょう。
沿岸航行を続けるなら、一日漕いでは一休みし、疲労回復して再度漕ぐのでしょうが、そのような航行で遠距離漕ぎ続けるには、多くの寄港地が必要で、ただで滞在もできないしということになります。
無難なのは、港、港で便船を乗り継ぐ行き方です。地元の船人が慣れた海域を、慣れた船で行くので、危険の少ない行き方です。
問題は、全航路を乗り継ぎでつなげることが、その時点で可能かどうかと言う事です。いや、可能にならなければ、航路はできないのです。
*無理な半島巡り
それにしても、韓国西南部の海岸巡りは、無謀です。提唱以来久しいのですが、そのような航行があったとの報告がありません。
もちろん、例えば一人乗りの漁船で沖に出て漁労に勤しむことはできたでしょうが、それは、岩礁の位置を知り、潮の干満を知った漁師のみが出来るだけであり、今課題とされている二十人漕ぎ程度の喫水の深い船は、水先案内があっても、とても、無事航行することはできないと思われます。いや、命がけですから、とても、航行出来ないという方が正しいでしょう。
*手軽な渡し舟
とかく誤解が出回っているのですが、倭人伝に書かれている海の旅は、今日言う航海などではなく、手軽な渡し舟なのです。
海に疎い中国でも、北の河水、黄河、南の江水、長江などの中下流の滔々たる流れは、架橋などできなかったので、渡し舟で往き来していたのです。
渡し舟は、川の流れの向こうがわかっているので、羅針盤も、海図も要らないのです。川に魔物がいるはずもなく、渡し場が決まっていれば、往来する客に不自由はなく、生活のために、時には、日に何度でも渡るものです。
ということで、以下、少し丁寧に批判します。
*渡海船談義
渡海船で言えば、例えば、半島南岸の狗邪韓国から目前の対馬に渡る船は、海流のこなし方さえできれば、さほど重装備にしなくても、手軽に渡れるのです。一日の航行で好天を狙うので、甲板は要らず、軽装備で、漕ぎ手は一日限りの奮闘です。
対馬と壱岐の間は激流で、多分漕ぎ手を増やした渡し舟だったでしょうが、それにしても、日々運用出来る程度の難所だったのです。
未完
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