倭人伝随想 13 范曄後漢書「倭条の解けない謎」1/1
2019/01/27 2024/10/26
*後漢書「倭条」考
弾劾のつもりはないのですが、范曄が書いた後漢書「東夷列傳」の「倭条」は、歌舞伎役者の隈取りのように潤色されています。笵曄は、文章に趣向を凝らす文筆家であって、史官の素朴な言葉遣いを風格に富んだ言い回しに美化したのです。これは、文筆家としての栄誉を求める当然の行いです。
後漢書「倭条」は、「倭人伝」記事の相当部分の三文字語を四文字語に加筆するような潤色の例が、いくつか見られます。
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆 以上三国志魏志「倭人伝」引用
桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王 以上後漢書「倭条」引用
容易に見て取れるように、「倭国乱」は「倭国大乱」と一字を足して、又、さらに(それとは別に)、「歴年無主」を足し、又、さらに(それとは別に)卑弥呼の「事鬼道」には「事鬼神道」とし、又、さらに(それとは別に)「能惑衆」には「能以妖惑衆」と二字足して潤色しています。
念ため言うと、又、さらに(それとは別に)と書いたのは、世間には、「又」(さらに)で続いている事項は、時間経過に随って、順次、と画一的に解する方があるので、誤解を解こうとしているのです。
また、「年長不嫁」とした上に語順を変え、年長女王の共立としています。「倭人伝」が「年已長大」「無夫婿」、つまり、生涯不婚の若き「一女子」が女王に立ち、後年成人した、配偶者はない、と説いた流れを改変したのです。
世上、以上に述べたような「潤色」に気づかずに、整理して明解にしたと誤解している方が多いようなので、何とか、(年代ものの)誤謬を是正したいものだと、書き足したのです。
*後漢書「邪馬臺国」考
以下、完全に夢想ですが、笵曄の参照資料は、先行諸漢書稿類に加えて、献帝建安年間に重点を置いて、曹魏創業者曹操が支配していた後漢末期をも詳述した陳寿「三国志」であり、魏志巻末の倭人伝を後漢年代に取り込んだ倭伝を構想した時の追加史料が魏略です。
范曄が、「倭条」に書き足した「桓霊間」、つまり桓帝霊帝時代の「倭国大乱」が女王共立で太平に復したとしたので、霊帝没後の宦官と外戚の闘争に董卓が介入した大混乱が、女王時代の幕開けと同時期であったと、ほぼ断定した感を与えています。
二百年近く続いた夷蛮管理は崩壊し、東夷風聞は地方勢力たる公孫氏に遮られたのです。孤立した楽浪郡は三韓の混乱を招き諸記録を喪失したはずです。後漢朝自体、董卓の暴政と長安遷都の「大乱」で国が瓦解したのです。帝都の史官が、冷静に日々の記録を書き留められたとは思えないのです。
*潤色補填の姿
と言うことで、後漢書東夷伝というも、桓帝・霊帝紀、建安以前の献帝紀の東夷傳記事は空白と思われます。そのため、笵曄は、三国志と魏略の記事を流用して空白を埋めたのです。後漢書倭伝記事は、同時代記録でなく、主として景初遣使及び答礼関連記事を、ずるりとずり上げたのです。
具体的に言うと、後漢書「倭条」の倭国風土風俗記事は、景初以前の倭人不通時に得られない内容で、陳寿「魏志」「倭人伝」、魚漢「魏略」の東夷記事からの流用であり、潤色、曲筆などで収まらず、部分的に「偽書」になっています。
「倭条」にはも「倭人伝」と異なり、壹與も壹拝もないので、あえて「邪馬壹国」とする理由はないので、史料が「臺」一辺倒だったのか、関係者の見識の校勘、つまり何か根拠があっての誤記訂正なのか、「倭人伝」にさらりと「邪馬壹国」と語られているのに対して、なぜか、御当人にしか分からない確信を持って、冒頭で声高に「邪馬臺国」とした可能性が否定しがたいのです。
*始末
現時点で、范曄「後漢書」倭条記事に関する個人的な思索の結果、到達した意見は、以上の通りです。
素人目にも、なぜ、後漢代公式史料を参照できていない、つまり、なぜ史料として信頼性に欠ける「倭条」が、正史の蛮夷伝として堂堂と書かれている「倭人伝」を乗りこえて、一種「聖典」として祭り上げられているのか不可解です。「倭条の解けない謎」として論じられることがないのが不思議です。
完