倭人伝随想 14 太平御覽 「魏志に云う」 の怪 2/2
2019/02/08
*御覽編者の誤解
以上は、後漢書をもとにした改編疑惑ですが、御覽魏志は、他にも、南宋刊本の字句を整形して、自身の解釈に沿うように訂正している例が見られます。原文の忠実な引用でなく、編者の解釈で改編しているのです。
*継承と改編
件の「邪馬壹国」と「耶馬臺國」の対照部は次の通りです。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戶。 南宋刊本
又南水行十日陸行一月,至耶馬臺國。戶七萬。女王之所都。其置官曰伊支馬,次曰彌馬叔,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮。 御覽魏志 (影印複写 末尾)
「邪馬壹国」「升」と「耶馬臺国」「叔」などの違いを除くと、ほぼ同一の文字が書かれていても、語順を変えたために意味が変わっています。
「水行十日陸行一月」は、行程「従至」が不明なものが、至耶馬臺国行程とされ、戸数七萬戸も耶馬臺国戸数とされ、行程は「又」で繋いで放射状行程が成り立たなくしていて、至って明快です。解釈が正しいかどうかは別であって、原文の忠実な再現でないことは明らかなので、所詮、「誤解」に類するものと見られます。
*誤解の由来
そのような改編は、写本誤写では起きず、また、別史料に依存したものでも無いので、編者の権限を持つ権威者の見識による「校訂」であり、御覽魏志の史料としての信頼性の限界を示すものと思われます。
*結論
端的に言って、御覽の「耶馬臺国」は魏志の正確な引用とは思えないのです。又、御覧の改編が御覽創始なのか、先行資料の継承かも不明です。確実なのは、三国志、後漢書以後の史料に「邪(耶)馬臺国」とあっても、その時点の魏志原本に「邪(耶)馬臺国」と書かれていた証拠にならないのです。
大冊の編纂作業に、玉石混淆の大勢で取り組んでいて、内部資料に草書を多用したために、例えば、「邪」が「耶」に化けたのでしょうか。「わからないこととはわからない」としか言いようがないのですが。
言うまでもないでしょうが、世間で通用している写本に誤記が発生しても、帝室所蔵の同時代原本には一切影響しないので、誤記は継承されないのです。これだけは、不変不朽の真理です。
*保守と創造
後世人には、頑固に三国志原本のみだれ髪を保守する原典志向の史官と同時代読者に向けて髪の解れ(ほつれ)を櫛けずる創造志向の類書編者との違いを弁えず、頑なに俗説を言い立てる方が絶えないのです。
くれぐれも、先入観に囚われて、無理な深読みをしないことです。個人的な意見ですが、真相はいつも明快なものと思うのです。
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