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2019年2月 7日 (木)

倭人伝随想 14 太平御覽 「魏志に云う」 の怪 1/2

                          2019/02/08
*倭人伝談義
 当方は、一介の私人であり、一千巻にのぼる大冊の太平御覽(以下、御覽)全般について史料批判するなど論外です。
 語りたいのは、御覽の「」記事の魏志引用で「邪馬臺国」(耶馬臺国)と明記されているという点に絞った議論です。(卷七百八十二 四夷部三 東夷三 俀)

 結論を言うと、御覽編者が「魏志に云う」と宣言しても、正確な引用でなく編者が改編した結果が書かれているということです。

 これは、先賢諸兄がとうに精査済みの筈なので、おそらく、何れかで論議されていると思いますが、当方の見聞では今ひとつ明解で無いので、ここに私見を示すのです。

 太平御覽は、「中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰であり、977年から983年(太平興国二ー八年)頃に成立した」(Wikipedia)とされ、西暦十世紀後半、北宋期のものです。以下、御覽引用の魏志を「御覽魏志」といいます。

*先行資料の優越性
 現行魏志は、御覽編纂より後年、西暦十二世紀の南宋刊本に準拠することから、先行した御覽魏志の方が三国志原本に近いとされます。して見ると、御覽魏志が参照した魏志に「耶馬臺国」と書かれていたものが、南宋刊本は、以後の誤写で「邪馬壹国」となったものに違いない、とはよく見かける論調です。

 しかし、大局的に御覽記事を見ると、まず、後漢書記事が引用され、倭の女王が「邪馬臺国」に都していると明記されています歴代史書で、史記、漢書に続く後漢書が、「三史」の掉尾として参照されたものです。そのように、後漢書によって国名を確定した後に、続く魏志の当用写本を参照し「邪馬壹国」は「耶馬臺国」の誤記として改編したと見れば、後漢書「邪馬臺国」が三国志「邪馬壹国」に優越したのは、別に不可解ではないと思われます。

*史料批判の試み

 しかし、後世人たる当方は、どの時点であろうと、原文を改編したと思われる引用文は、そのまま承認することはできないのです。

 と言うものの、御覽編者を弁護すると、その手元に届いた魏志第30巻の東夷伝は、既に、何れかの時点で、後漢書をもとに訂正されていた可能性があり、編者は、採用資料に従っただけかも知れないのです。

 そのような懸念を排除できないのは、これほど権威を与えられた編者が、あえて原文を改編して「云う」としたのは、時代の史料解釈定説に従ったと見られるからです。云うならば、編者が手元史料として利用した当用写本が、既に「耶(邪)馬臺国」と改訂されていた可能性を見るのです。

*原本不可侵
 とは言え、いくら同時代解釈が有力でも、さすがに、帝室所蔵の原本の改竄はできなかったはずであり、南宋刊本への信頼は維持されているのです。

                               未完

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