新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 11/11
◎尺と歩は別の単位系である 谷本 茂
谷本氏の議論は、計量史上の偉業であり、精緻な議論が含まれていますが、掲題の論議は、文献上に裏付けがなく、また、尺と歩がそれぞれ別の単位系を形成していたと見ても、所詮、一歩六尺と連係されていて、それぞれの単位系内でも、上下に連係されていて、自由に動けないのです。
なお、日常の度量衡である尺、斤、升は、公定の原器として、物差、錘、枡などを多数制作して、各地に配布し、徹底することができます。時に布令される、度量衡を正すとは、統一基準が遵守されていない乱れた状態を、新原器によって正しいものに是正、統一することを言うのであり、秦始皇帝のように、各国でまちまちであったらしい度量衡制度を、全国統一するものではないのです。
これと異なり、土地面積単位である畝や街道の里程単位である里は、なにしろ原器を配布するわけに行かない上に、山河、つまり土地や街道が厳然と存在しているので、通達では変えようがなく、王朝興亡を超えて残存するのです。
とはいえ、氏の計量史論は、数学的には、筋が通っているのです。
当論説の意義は、遂に不明でした。
冒頭の「東夷伝と中国内の里は同じ」のご託宣は根拠不明です。
むしろ、多くの研究者が、東夷伝の里は中国内の里と「異なる」との認識に達しつつあるのに、あえて、正反対の論を唱えるのであれば、論証の労を求められると思いますが、それらしいのは、魏使が倭に来た以上、中国の里で、現地を計ったに違いないというにすぎません。
しかし、倭人伝記事でわかるように、魏使は、倭人伝里が通用していた帯方郡の官吏だったので、氏の安直な論理は成り立たないのです。
先行する山尾氏も、同様の安直な議論を組み立てていますが、これも自身の世界観で史料を塗りつぶす、先入観型の史料改竄のせいではないでしょうか。もっと、虚心に史料を見て欲しいものです。
なお、高度な計量文化を有せず、文字を解しない東夷に、どのような方法で、中国式測量を徹底させられるのか、誠に不思議です。
その程度の早合点で、大事な論考を書き始めるのは、粗忽と言うべきてす。
・当人だけの現実
ご自身の世界観は、ご自身の脳内に確立されていて、あたかも、眼前に展開しているように感じているかも知れませんが、それは、ご当人だけの世界であり、実際は、現実世界のものしか読者に伝わらないのです。
と言うことで、当記事は、氏が、自身の幻想世界に生きていることを確信させるものとなったのです。せめて、そのような幻視状態を自覚して、他人にも通じる言葉で、その世界を伝えて欲しいものです。
どうか、使い古しの先入観を振り捨てて、新鮮な、客観的な視点から、史料という現実を見つめてほしいものです。