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2019年3月

2019年3月19日 (火)

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 11/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19

◎尺と歩は別の単位系である   谷本 茂
 谷本氏の議論は、計量史上の偉業であり、精緻な議論が含まれていますが、掲題の論議は、文献上に裏付けがなく、また、尺と歩がそれぞれ別の単位系を形成していたと見ても、所詮、一歩六尺と連係されていて、それぞれの単位系内でも、上下に連係されていて、自由に動けないのです。

 なお、日常の度量衡である尺、斤、升は、公定の原器として、物差、錘、枡などを多数制作して、各地に配布し、徹底することができます。時に布令される、度量衡を正すとは、統一基準が遵守されていない乱れた状態を、新原器によって正しいものに是正、統一することを言うのであり、秦始皇帝のように、各国でまちまちであったらしい度量衡制度を、全国統一するものではないのです。

 これと異なり、土地面積単位である畝や街道の里程単位である里は、なにしろ原器を配布するわけに行かない上に、山河、つまり土地や街道が厳然と存在しているので、通達では変えようがなく、王朝興亡を超えて残存するのです。

 とはいえ、氏の計量史論は、数学的には、筋が通っているのです。

◎聖天子の時代から使いは行っていた  田島 芳郎
 当論説の意義は、遂に不明でした。

 冒頭の「東夷伝と中国内の里は同じ」のご託宣は根拠不明です。

 むしろ、多くの研究者が、東夷伝の里は中国内の里と「異なる」との認識に達しつつあるのに、あえて、正反対の論を唱えるのであれば、論証の労を求められると思いますが、それらしいのは、魏使が倭に来た以上、中国の里で、現地を計ったに違いないというにすぎません。

 しかし、倭人伝記事でわかるように、魏使は、倭人伝里が通用していた帯方郡の官吏だったので、氏の安直な論理は成り立たないのです。
 先行する山尾氏も、同様の安直な議論を組み立てていますが、これも自身の世界観で史料を塗りつぶす、先入観型の史料改竄のせいではないでしょうか。もっと、虚心に史料を見て欲しいものです。

 なお、高度な計量文化を有せず、文字を解しない東夷に、どのような方法で、中国式測量を徹底させられるのか、誠に不思議です。
 その程度の早合点で、大事な論考を書き始めるのは、粗忽と言うべきてす。

・当人だけの現実
 ご自身の世界観は、ご自身の脳内に確立されていて、あたかも、眼前に展開しているように感じているかも知れませんが、それは、ご当人だけの世界であり、実際は、現実世界のものしか読者に伝わらないのです。

 と言うことで、当記事は、氏が、自身の幻想世界に生きていることを確信させるものとなったのです。せめて、そのような幻視状態を自覚して、他人にも通じる言葉で、その世界を伝えて欲しいものです。

 どうか、使い古しの先入観を振り捨てて、新鮮な、客観的な視点から、史料という現実を見つめてほしいものです。
                                完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 10/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19

◎『三国志』も長里で理解できる 白崎 昭一郎
 氏の議論は、古田氏の魏晋朝短里説(曹魏短里)の提唱、及び、これを支える用例解釈に対する反論として、曹魏短里の瑕疵を攻撃していて、大半は、同意させられるものです。この辺りは、氏の意図に反して、むしろ限定的であり、古田氏の短里説の縁辺である「曹魏短里」の不備を示すものですから、核心である倭人伝短里説には、影響が及ばないのです。

 端的に言うと、古田氏の論議は、三国志の中でも、呉志、蜀志は対象外、魏志でも、後漢時、つまり、魏武曹操の時代も対象外、と言うものなので、三国志全体を一括して捉えた掲題は、要旨を外しているのです。

 そうした行き違いで、倭人伝里程論の核心である倭人伝短里が、十分に審議されないのは、古田氏の過失であり、ここでも「倭人伝が短里で書かれている」という点に対する有効な反論は見て取れないのです。

◎魏の侵略性を無視するわけにはいかない 奥田 尚
 題目を見て、『嫌魏』ヘイト論説かと思わせて、引いてしまいそうです。
・時代背景考察
 魏使来訪は遼東討伐の余燼ですが、景初二年末(実は景初三年正月)に逝去し明帝と諡された先帝曹叡を偲ぶ時期で、前門の狼、呉蜀は健在だったのです。たまたま、蜀が宰相の陣没に始まる内紛で逼塞していたから、短期決戦で、主力軍を公孫氏討伐に投入できただけであり、それ故、公孫氏勢力は、無残に撲滅されたのです。

 そうした状況を踏まえると、魏の「侵略性」が何を指すか意味不明ですが、急逝前の明帝も、突然玉座に担ぎ出された新帝曹芳も、突然の激変に動揺している重臣も、江南などへの侵攻によって大魏の威光を広げる意志はあっても、地の果ての蛮夷の領域を侵略することを求めていたと思えないのです。例えば、後に毋丘儉による討伐を受けたにしても、高句麗が魏の「侵略」に怯えていたとは思えません。

・遼東遠征の意義
 魏に東夷侵略の意図があれば、公孫政権を粛正したとしても、郡の軍備を温存して、烏丸、高句麗、韓国制圧の先兵としたはずですが、司馬氏の遠征は遼東制圧の一年限定であり、周辺掃討は、全く予定してなかったのです。
 史料では、凱旋後の司馬懿の処遇は、政権内昇格か、主戦場の西方蜀戦線が予定されていたと示唆されています。

・「侵略性」無き侵攻
 魏朝は、遼東公孫氏が王を名乗って自立した大逆に激高しただけです。遼東征討の大軍は、任務を果たした後、そそくさと帰還し、公孫氏が押さえつけていた諸勢力をほぼ放任したので、後の遼東、両郡の喪失は当然の帰結であり、物々しい「侵略性」など見えないのです。

・深謀遠慮
 因みに、少帝麾下の司馬懿の政権奪取構想として、危険な毋丘儉などを、いかにして蜂起させ、討滅することが課題だったと見られます。
 以上は、具体的な証拠など無く、古代史学界の好む先入見を論証無しに構成して、氏の無責任な放言と対峙させたものです。
 時代錯誤の「侵略性」など、無視してよいのです。
                              この項完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 9/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19

■補足
◎『医心方』に見られる単位   槙 佐知子
 当論説は、大変貴重な知識を与えていただけるものでしたが、いかんせん、先入観で視野、聴覚を狭める研究者には、馬の耳に念仏かも知れません。

◎尺と歩、歩と里は対応していた 山尾 幸久
 当記事が追記された意義は、今ひとつわからないのです。というのは、氏は、すでに、倭人伝の短里について、完全否定の先入観を形成していて、反論に耳を貸さないとしているので、記事を読む意義が感じられないのです。

・魏使の正体
 ここで、氏は、自説補強として、倭人伝の魏使が洛陽官人と先入観によって決め込んでいますが、倭人伝にあるように、魏使は帯方郡官吏だったので、氏の論理は成り立たないのです。これもまた、ご自身の世界観で史料を塗りつぶす先入観型史料改竄のせいではないでしょうか。

・尺歩、歩里の関係
 ご提案の尺歩、歩里関係は、正史である晋書地理志に引用の司馬法で周制に始まる関係が規定され、定義上微動も許されない堅固なものとわかります。

 いわば、鉄骨構造であり、後世人が思うほど、曖昧で融通の効く定義てはなかったことがわかります。

・憶測先入観の危惧
 この点、氏としては、各種資料の参照が不十分なため、単なる憶測でしかないと見られていたのでしょう。もったいない話です。

・論説批判 総まとめ
 スペースの関係で、山尾氏論説批判を、ここで締めくくります。

 氏は、倭人伝女王国はヤマト国、後のヤマト政権に継承されたと見て近畿説を堅持し史料を解読しますが、史料の読みが偏っているように見受けます。

 三世紀に王都ヤマト国があったら「邪馬都国」と書かれたはずです。

 すでに都は「ト」で通じていたから都を避ける理由は無かったはずです。提案の「邪馬臺国」は、ヤマダイ国でヤマトと読めず、字の違う邪馬「台」の異例の「ト」発音は、絶対不可能でないとしても出る幕がないのです。

 後世、八世紀初頭の日本国ヤマト政権に異議はなく、結果論として、四世紀以降の何れかの時点で、順当にヤマトが勃興したと見ても、倭人伝を無理矢理書き替えて、三世紀に引き上げる必要はないと見受けます。

 そうであれば、古墳時代開始を三世紀にずり上げる造山運動も、それに伴う考古学年代観の地殻変動も必要ないと見えます。古代史学界に関わりの無い素人には、邪馬台国近畿説は、そのように見えるのです。
                             この項完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 8/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◎『穆天子伝』の証明と短里10の論点 古田 武彦 [承前]
1.4 端(はした)の無視
 倭人伝里数が二千里刻みの概数と見ると、桁下の百、二百、五百、六百、八百里の「はした」は、全里程計算で無視してよいのです。

1.5 部分の合計計算
 つまり、郡末羅一万里の部分計は、郡狗七千里と狗末の三千里の加算であり、両島半周八百、六百里は、出る幕が無いのです。

1.6 最終行程里数の推定
 末羅から倭都に至る筑紫行程の最終里程は、百里単位里程の端数処理もあって不明不定であり、簡単に計算できません。
と言うものの、等式の左辺右辺は等しく、概算二千里は、五百里から三千里のどこかとなるのです。概算の常で、部分と全体が互いに輻輳する余波で、「二千里」の幅は随分大きいのです。

 念のため言うと、渡海一千里三回、三千里、筑紫行程二千里程度、郡狗七千里それぞれの不確かさとは言え、概数扱いに大差ないと見ての推定です。

1.7 総評
 「倭人伝」の里程の内、郡から倭に至る行程の部分里数を全部足すと、全体里数一万二千里に等しい、と言う定理は、適切な概算をすれば正しいのです。

2.「倭人伝」の里は、すべて、「短里」で書かれている
 郡狗行程里数は、郡に既知で、かつ、七千余里、七千里前後と明記され、これは、中国里と異なり一里七十五㍍程度の短里と思われます。

2-1 地域短里宣言
 郡狗七千里明記は、倭人伝「地域短里宣言」で、以下、改めて特記のない限り短里です。これを否定するには、宣言そのものを否定しなければなりません。

3.「倭人伝」の里は、三国志の里と同一である
 古田氏は、「倭人伝」に先立つ序文で独自里制が明言されてない以上、「倭人伝」里は三国志里と同一と断言しましたが、私見では、誤解と思います。氏の思い込みに拘わらず、三国志里が「倭人伝」短里と確認されてないのです。

*見当たらない里制変更史料
 魏朝が里制を変えたという記事は、「三国志」「魏志」に存在しないと見ます。また、後継晋朝の正史「晋書」地理志にも、その記載はないと見ます。魏朝が国家制度として里制を変えなかった以上、「三国志」「魏志」の通用里長は、暗黙の当然として秦漢以来の「普通里」であり、短里ではないと、ほぼ断定できます。

                             この項完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 7/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19 2024/04/29

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◎『穆天子伝』の証明と短里10の論点 古田 武彦
 古田氏の里程論は、出発点から論証補強の過程を経て、強固な結構を成して、10の論点として表明されています。というものの、氏が出発点で形成した「定理」は完全無欠でなく、誤解や思い込みが見られます。そうした「定理」の一部は派生論も含め一種の虚構であり、当方として反論を避けたいものも含んでいます。(「穆天子伝」論評は省略)

 以下は、勝手ながら氏の定理に対する批判と致します。
1. 「部分をすべて足すと全体になる」
 里程論文脈で書かれたものに言葉を足すと、「倭人伝里程の内、郡から倭都の行程里数を全部足すと全体里数一万二千里に等しい」と解されます。
 この提言自体は、いわば、等号の左辺と右辺は等しい、と言う算術の基本の基本であり、それ自体、反論できるものではありません。
 「倭人伝」里数に関して、本項が正しく適用されているか検証が必要です。

1.1 部分里数と全体里数
 氏は、「伊都から不弥を経て倭都に至る」と解しています。これでは、郡から狗邪の郡狗行程七千里、狗邪から末羅の狗末行程三千里、末羅から伊都五百里、伊都から不弥百里の合算は一万六百里で全体里数一万二千里に足りないので、両島半周の八百里と六百里の隠れ端数里程を追加し、不弥から倭都の最終行程は端数と無視して、一万二千里としています。
 しかし、「倭人伝」に明記されていない端数里程を加えるのは、所説に合わせた読み替えであり、そのような帳尻合わせには同意できません。むしろ、氏の史料批判の原則に反した無効な主張と感じます。

1.2 「倭人伝」の「余」
 「倭人伝」の里数戸数は、ほぼ全面的に「余」であり、氏を含め各論者は「余」は端数切り捨てと見ますが、それでは、加算を重ねると切り捨て部が累積して不安定になるのは誰の目にも明らかです。冷静な判断として、「倭人伝」の「余」を中心値と見れば、加算を重ねても端数が累積せず、端数を無視できるので、「倭人伝」に頻出する「余」は合理的表記と見えます。

1.3 「倭人伝」里数の精度
 氏を含め各論者は、「倭人伝」の里数、戸数表記は、有効数字一桁の概数と見ますが、その精度の根拠は無く、むしろ、有効数字半桁の概数と見られます。つまり、行程の千里単位の里数は、七千里と三千里(千里渡海三回)であり、全体里数は、桁の上がった一万二千里となっています。
 つまり、[一万]+[二千]の二桁の扱いでなく、千里計算で「十二」千里、つまり、千里表記で七「千」、十「千」に続く十二「千」と見るべきなのです。
 当時は、算用数字の多桁計算がなく、最上位一桁で計算したのです。

                                未完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 6/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19

◎魏の使いの実際の行路  田島 芳郎
 氏は、冒頭で冷静に、短里説に適確突っ込みを入れています。

*好い加減にする話
 一つには、「正史の里程は、聞きかじりや好い加減なことを書いたという性格のものでない」としていますが、「好い加減」の元来の語義、「適度」を見落としています。
 
いい塩梅という言葉もあり、元々、ほどほどの境地を云うわけです。聞きかじりの引き写しではなく、諸般の事情を考慮した適度の精度との見方が抜けています。史学分野での言葉遣いは、要注意です。

 史官も、現地書記官も、心意気として、精密里数を書きたいのですが、現実には、測量技術の不備、地形の起伏の難題とか、実情と折り合いをつけ、好い加減の精度、つまり、最高ならぬ最善の精度を求めているわけです。

*由来不明の短里
 続いて、氏は、谷本氏論説の「里」がどのように創唱されたか不明との点を突きます。一歩六尺、一里三百歩という(例:晋書地理志司馬法)周里制は普通里であるから短里の根拠が不明というのは短里論者には難物です。

*「歴韓国」論議
 続いて、氏は、歴史地図を参照しつつ、「歴韓国」は、半島内陸行を意味すると解しています。あわせて、氏の韓国訪問時の地形観察から、半島西岸から洛東江上中流への経路は険阻でなく、陸行容易と推定しています。

 しばしば無視される地形、高低差が反映している議論は、誠に貴重ですが、氏の「餘里」観は、千里単位では数百里の切り捨てと見ていて、当方の「前後」説から見ると、煮え切らないものです。

 ただし、「エコノミカル」と言う、時代錯誤で現代でも普及していない言い方が難としても、趣旨は、郡旅程であろうと一回限りの魏使旅程であろうと回り道や滞留を極力避けたに相違ないとの見識は至当と考えます。

*渡海考察
 続いて、狗邪~末羅の三度の渡海里数は、大変不確かであるから、古田氏が力説する両島「半周読法」は不必要との意見もまことに至当と考えます。

*倭旅程論
 以下、末羅以降の倭旅程を、現地地形などを踏まえて、こまごま考察されていますが、大局的に、倭人に中国の測量技術も作図技術もなく、推定しかなかったと思うと、里数論は徒労と思います。また、方位は、出発点の「道しるべ」の出発方位程度で、目的地を透視した方位とは思えないのです。

 以下、「周旋五千里」なる記事について考察されますが、当方に、論議の基になる意見がないので、言及しないこととします。

 以上、田島氏は、健全な良識の持ち主であり、「党議拘束」の無い自由な論者と見えます。

                              この項完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 5/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19

◎『周髀算経』『山海経』の里単位 谷本 茂
 谷本氏の提言は、すでに論評していますが、計算して導き出した短里が、古田氏の手で、魏晋朝短里説の基礎に置かれたために、かなり批判を受けたようですが、事が、数学的な手続きの結果なので、一つの定見として支持すべきものなのです。

・『周髀算経』の里単位
 当方の意見を再掲するのは、批判と云うより、補足になると思います。

 書かれているのは、周制ではなく、また、正史など史書に書かれていない孤証です。もちろん、だからと云って、信頼できないのではありません。ただ、周の国家制度でないことは否定しがたいのです。

 計算結果は、七十五㍍とほぼ特定されますが、あくまで、幾何学、天文学演習問題の解答であり、おそらく実測ではないものの、信頼できないというものではありません。と言うより、いつと知れない古代、当時の関係者に衆知の里長七十五㍍(程度)に合わせて、演算問題を作成したと思われます。誰が考えても、その成り行きであったはずです。

・『山海経』の里単位
 この部分は初見なので、丁寧に論評すると、里の確認に有用な史料として、中国の地理書である「山海経」を採り上げています。ただし、記事例は数多くても、里数と地点名が、適確に考察できない例が多く、また、長年に亘る継承の間の加筆、訂正の形跡もあり、慎重な評価が必要だという事です。

 結局、少なからぬ里数記事が、短里によるものと(強く)思われる、と言う程度に留まっています。

・日本の「里」単位の変遷
 ここでは、歴史的に、古制の短里七十五㍍程度で始まったと思われる「里」が、奈良時代に全国に導入された四百ー六百五十㍍程度とされている小里、つまり、普通里になり、十二世紀に、近年まで長く里として親しまれた約四㌖程度の大里が公布施行されたという概観が語られています。

・国家里制の浸透事例
 大事なのは、国家制度が大里になっても、各地に小里が残った事です。「里」が、地名と同様に長期に残存し、道しるべや旅案内などに残ることを示します。里は、現地地形、社会構造に結びついていて、全国制度が変わっても、更新されないことがあるが、大きな問題は無かったという事です。

 このような形勢を見ると、中国歴代政権が、里の制度を維持した背景が理解できます。
 里制変更の徹底が大変困難であるのに拘わらず、国の体面維持などの効果は無いという事から来ているのです。土地台帳に常用されている「畝」への影響は、深刻であり、労甚だ多くして、百害あって一利無しと見られるのです。
 
                             この項完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 4/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19

◎倭人伝に見られる交易と諸国統治 奥田 尚
 突然出て来る「知られているとできる」なる基本動機が、何のことかわからず、かなり苦心したことを述べておきます。

 多分、口頭であれば抑揚などで意味が浮かんでくるのでしょうが、紙上では、何のことやらわからず、当記事全体を読んで解決するしかなかったのです。まるで、倭人伝語法みたいな話しです。やはり、公開の場での講演では、ありがたいお題目と言わず、一度は噛み砕いて欲しいものです。

・学会衆知という正義
 と言うことで、当方の理解で「広く知られていると見ることができる」、学界で衆知の事項を基に、史料を解釈するものであり、言い訳として、「史料に書かれていても、限られた字数で書かれていることだけでは無用に限定されるので、業界の共有知識を基に行間を読み解く」との趣旨のようです。

・学会の保守性
 古田氏は、史料の意義は、資料自体から読み取るべきだとしていますが、古代史学界には、この考えの対極に立つ方が多いようです。

 そのため、当方のような外部の者から、「先入観が先行して、それに合わせて史料を読み替えるのは、非科学的な邪道ではないか」の批判を浴びるのですが、関係者にしてみると、そういう環境で育ったので、それが当然、それに反するものは邪道ということで、交わらない平行線です。

 まあ、このように明言いただいただけ、勉強になったのです。

・醸される風説
 この辺りで不安になったのですが、結局、倭人伝当時の世相を説かれているだけで、なんで、それが、「われわれ歴史研究者」なる業界人の常識なのか、意義のほどが一向に伝わってこないのです。

 後半に、後世風説が説かれ、「一見商人、相手の防衛が整ってなければ海賊になって掠奪し、整っていたら商人として交易する「倭寇」」というような風説を書き飛ばしますが、三世紀世相がそうだったという憶測は、どう授かったか神がかりか、不明です。学説にも何にもなっていません。

・癒やしがたい史料不信
 氏は、倭人伝用語で飴細工をこね上げますが、倭人伝にはそのような創作の素材となる記事はありません。つまり、史料のつまみ食いで自分の世界観を言い立てる行き方のようです。

 最後に付け足しのように、「当時往来活発だから、里程を知ることができたはずなのに、不完全な記事なのは、帯方郡あたりで造作したわけで、そんな里程記事を検討しても無意味だ」という趣旨の断定で終わっています。

 ここまで書いたように、当方は、このような姿勢に断然反対であり、盛大にブーイングを送るわけです。さすがに、生玉子を投げつけはしませんが。
                             この項完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 3/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19

◎中国古典の中の里・歩・尺   白崎 昭一郎
 冒頭で、白崎氏は、倭人伝に、筑紫の甕棺が書かれてないと指摘しています。また、近畿地方で大量出土する銅鐸が書かれてない点は、三世紀の倭人伝当時、近畿は、すでに古墳時代で、銅鐸は廃却されていたものとしています。
 この時代判断は、卑弥呼の墓が古墳であったことで裏付けられるとしています。どうやら、氏は、確信した近畿説のようです。

・考古学の時代劣化
 それはそれとして、「古墳時代は四世紀開始が考古学の大勢であるが、近頃三世紀に上がると考えている考古学者がかなりある」と述べていますが、これは、世上見られる、考古学の「学」としての秩序崩壊を示していて、先ずは、学問の見解は数で決めるものではないという原則や、そうであるなら、その大勢が同意しないうちに、異論が台頭して新原則を形成した形勢も、学問として異様なものを感じさせます。必ずしも数で決めるべきものでないとしても、広く衆議して方向付けするべきではないでしょうか。

 白崎氏は、万事、論証を歴て論説する方ですが、以上の見解は、何か、政治的なものを感じさせ、不穏です。

・短里肯定
 さて、本論の里程論ですが、氏は、古田氏の魏晋朝短里説に反論を加えていて、氏の持論を述べています。

 まず、古田氏の所説で、倭人伝の里程部分が短里で書かれていることについて、氏を含めた多くの研究者が同意していると認めています。もっとも、前項の山尾氏は頑として反対しているので、全会一致でも無いようです。

・中国内短里の否定
 その前提として、(三国志)中国国内記事で短里として理解できるものがないとしています。また、古田氏が根拠とした韓伝里は倭人伝里で、中国記事でなく意味が無いとします。また、古田氏の短里周制起源説にも、同意できないとしています。正史記事に基づく発言であり、有力なものと考えます。

 以下、史記、漢書の用例について考察し、いずれも短里と認められないとしています。まことに論理的であり、首肯せざるを得ないものです。

 思うに、倭人伝は、倭人伝里で書かれているとした上で、三国志全体や史記、漢書は短里でないとする考察なので、まことに妥当なものと思います。

・古田説~「魏晋朝短里説」の否定
 この論点では、古田氏に全く分がなく、古田氏の「倭人伝と魏書の里は同一」とする強弁は、倭人伝が倭人伝独自の短里で書かれたとする短里説の核心部を道連れに、一括して否定される事態を招く不合理なものと考えます。
                              この項完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 2/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19

◎行程・里程記事の構成と近畿説 山尾 幸久 [承前]
・勝手読みに起因した誇張説
 と言うことで、氏の里程論は、畿内説という先入観に基づいて、早々に「一解釈」を選択していて、それなりにまとまりがありますが、逆に言うと、韓国内は短里と見ていて、選択した倭人里程と異なり不首尾と思われます。

・不思議な不首尾
 こうした見方は、いわゆる粗雑な誇張説にも見られる不首尾です。つまり、実態の明らかな韓国里程を六倍程度の誇張と見ながら、実態の不明な倭人里程を普通里と見るのは何とも首尾一貫せず、端的に言うと、誤解、ないしは、勘違いの押しつけと見ざるを得ないのです。

 それでもこの里程説に固執するなら、倭人伝里程は、一貫した基準のないでっち上げという主張となります。氏は、安直な「妄言説」でない筈なので、苦言を呈する次第です。

・九州説里程の全否定
 皮肉なことに、氏は、「九州説の方(かた)」が、「水行十日、陸行一ヵ月」が誇張、虚構と、言いたい放題になっていると批判しますが、「九州説の方」の論説の引用無しなので、不出来な印象批評に陥っています。諸論ある中で、できの悪いものをやり玉に挙げたかと危惧します。

・神がかりの「地図」
 末尾に、氏は、倭人伝の断片的記述を基に、壮大な「政治宗教地図」を創作し、その図式は、九州説の「政治権力論」や「国家形成史」から導き出せないので、近畿説を選んだという追記をしていますが、どうみても里程論に関係無く、具体的に引用がないので、どうにも、論評の仕様がないのです。

 当方は、三世紀当時の交通、文書通信事情(文字がないので文書通信不可能)から見て政治宗教地図は存在せず、後生創作もないと見て、議論にならないのです。追加論説の場所を間違えたのでしょうか。いや、編集部が、追記を認めているので、当方が、物知らずなだけなのでしょうか。

・まとめ
 氏は、六世紀以降の近畿政権の姿を三世紀にずり上げて当てはめている「結果論」史観であり、後世史には確固たる解釈ができているので、ある意味「結果論」不敗の強さはあっても、倭人伝に無理な先入観を押しつけている感は免れません。ある種の時代錯誤がにじみ出ているのが、どうにも残念です。

 余談ながら、氏が、魏使が洛陽から来たとしているのは奇妙な感じです。伝統的に、蛮夷対応、つまり、漢蕃関係は出先、帯方郡の責任であり、魏使は帯方郡人士です。洛陽の鴻臚館担当官が郡まで来たり、海船と船員は洛陽から青州に指示したりしても、以降の土地勘はなく、交替が妥当なのです。
                             この項完

新・私の本棚 「邪馬台国」徹底論争第1巻言語、行程・里程編 1/11

 新泉社 1992年6月刊 東方史学会/古田武彦編     2019/03/19
 私の見立て ★★★★★ 必読

*始めに
 ここでは、第1巻の行程・里程編の各論に批判を加えさせていただきます。

 百花斉放と行かないまでも、厖大な努力を費やして広く意見を求め、論じたシンポジュームですが、健全な論議は見られたものの、以後の推移を見ると、論争収束にさほど貢献できなかったように見えるのは残念なことです。

□第2部 行程・里程
◎行程・里程記事の構成と近畿説 山尾 幸久
 山尾氏は、率直に持論を展開して、しかも趣旨明快で、あえて論争から逃げない美点を持っていることに賛辞を贈ります。また、自説の根源が近畿、「畿内説」で、倭人伝「里程」は、そのように解釈すると明言した上での主張ですから、丁寧に確認させていただきました。

 まず、氏は、後世(八世紀冒頭)大和と呼ばれた中央政権が確立されたことから、三世紀に遡って、近畿にヤマト国が存在し、それは、倭人伝の「邪馬台国」と、断定しています。その前提により、現刊本は北宋期刊刻の際の誤刻と真っ直ぐに断定します。つまり、三世紀後半に書かれた倭人伝に、当然、近畿のヤマト国が書かれている、と言うのが氏の確固たる持論なのです。

・近畿説による解釈
 ここでは、近畿説を支えるために、行程・里程の解釈が形成されています。

 つまり、郡から狗邪への韓国里程七千里、その後の渡海里程三千里を一緒くたにして、実測値との関連のない創作と見ています。

 ただし、当方の考えでも、渡海里程は確定値を実測しようがないので、「創作」と判断されても無理は無いと思います。

・韓国里の話
 韓国里程は、少なくとも帯方郡設立以後、郡の公道であり、十分測量可能であったし、誇張しても露見するので、根拠のある里程と考えます。郡の公道は、公文書交信のため維持したもので、所要日数は厳守事項で、そのために宿駅が設置維持され駅間距離は測量されていたはずです。つまり、韓国里程は、韓国里で実測された帯方郡/韓国の公式里だったのです。

 また、渡海里程も、公道と見なして日数をもとに里数に換算したもので、確たる方針構想に基づく「創作」であり、嘘とかホラとは異なるのです。

 こうして、それぞれ根拠のある七千里と三千里であることから、渡海後の倭人里も同じ基準の「創作」と見るべきです。韓国里が七十五㍍なら、倭人里も同程度であり、六倍の普通里四百五十㍍のはずがないのです。

 氏は、放射行程説によって、伊都-倭都の里程が、所要日数「水行十日、陸行一ヵ月(三十日)」計四十日とした上で、これは、一千五百里と解釈します。一日四十里で、普通里として無理なく解釈できるとしています。普通里を四百五十㍍と見て、六百七十五㌔㍍で、畿内に到達する仕掛けです。

                                未完

2019年3月13日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞社会面見出しの「リベンジ」汚染拡散

                            2019/03/13
 今回の題材は、毎日新聞大阪13版の社会面「復興五輪の実像」と題したコラムの見出しである。『石原氏 「64年のリベンジ」』とあり、となりに人物肖像が掲載されている。
 
 「実像」とあるから、教科書に出て来る光学的な「倒立実像」かとも思うが、少なくとも、載っているのは、高名な石原慎太郎氏らしいし、倒立ではなく、正立しているので、多分「正立虚像」の言い間違いかとも思える。
 
 いや、国全体の課題であるべき「復興五輪」が、一個人の復讐劇として描かれるのは、隠された実態を読者に紹介するものとして適当なのかどうかである。少なくとも、一個人の復讐劇は、個人が知人相手に語るのは良いとして、半ば公人として全国紙が報道して良いのかどうか、大いに疑問である。
 そんな記事は、見たくないので、即「ゴミ箱入り」かも知れない。全国紙が、精一杯につけた見出しだから、そこにゴミが書かれていたら、中身もゴミと決めて良いはずである。
 これが、言いたい放題のスポーツ面なら別として、社会面に適確なのかどうか、大変、疑問である。
 
 いや、百歩譲って、そのような発言があったと報道しているのだとしても、リベンジというカタカナ語に、大別して二つの意味があって、そのおもての意味が、テロリストの大義であることは、配慮すべきである。
 石原氏が、誰に対して正義の刃を振りかざしているのか知らないが、全国紙が、うじうじした恨み言に荷担しているのは、忌まわしいものに思える。
 
 毎日新聞には、報道人としての良心も、言葉の護り人という使命感もないのだろうか。
 
以上

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