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2019年7月13日 (土)

新・私の本棚 榎一雄著作集 第八巻 邪馬台国 御覧所収魏志  1/5

        汲古書院    1992/5
私の見立て ★★★★★ 不朽の金字塔 必読     2019/07/13 記

 本考察は、『「魏志」「倭人伝」とその周辺~テキストを検討する~』と題して、季刊「邪馬台国」第十五号~第四十一号(1983/3~1990/3)の二十二回にわたって連載され、当方も、最初、同誌バックナンバーの誌面で出会いましたが、結局、本書を古書購入したものです。

□太平御覧所収の魏志について
 今回検討したのは最終部分ですが、里程論の基礎として踏みしめました。

 同誌は、安本美典氏の編集のもと、学術誌としての編集方針が脈々と流れていて古代史に関する思案の基礎とできる記事が多く見られました。

 本稿では、氏の倭人伝テキストに関する考察の中から、掲題のごとく、太平御覧所収の魏志に関する考察を糧に、当方の考察を試みたものです。当方の浅慮によって、氏の高見を誤っていないことを望むものです。

*先行類書談義
 従来、太平御覧、「御覧」が北宋期(977-983)に新規制作された類書、百科全書的書籍と見て所収記事を批判しましたが、氏の幅広い調査によれば、実は、北朝の斉、北斉『修文殿御覧』三百六十巻(572)、唐『芸文類聚』百巻(622-624)、『文思博要』千二百巻(641)の三大先行資料を基本に編纂当時の諸資料を取り入れ、一千巻に及ぶ大部として完成させたとされています。

 つまり、御覧所収といっても、十世紀時点で、並行着手されていた刊本事業目的で集成された魏志の高級、帝室原本に近い魏志写本を直々参照したのではなく、三、四世紀先行する各類書が、手元の通用写本から引用した記事を孫引きしたのです。古ければ、信頼性が高い魏志を参照したと見がちですが、実際は、東寺参照した写本の信頼度と参照・引用の姿勢が不確かです。

 以下、各国展開は、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。

*北斉代 『修文殿御覧』の背景
 本類書編纂時(572)は、南北朝対立時代(439~589)も末期でした。

 南朝側は、梁(502-557)を創業し半世紀統治した武帝䔥衍が、北朝夷将侯景の亡命、帰順を不用意に帝国内部に取り込み、反乱勃発(548)して帝都建康は包囲陥落し、南朝代々の蔵書が焼失したと言われています。反乱は鎮圧されたものの帝国は形骸化して北朝に対して非勢で、最後の南朝、陳(557-589)は、長江の中上流を失い、大きく版図を減らしたのでした。

*北朝形勢 個人的余談
 『修文殿御覧』を編纂した斉、北斉(550-577)は、魏の旧都鄴を帝都として魏、東魏(534-550)を継いで中原東部を支配していましたが、土地柄から、後漢、西晋に至る旧都洛陽域の比較的豊富な史料と人材を起用できたようです。

 北朝の全容を見ると、南朝衰退に対して、北朝も百五十年続いた大国魏、北魏(386-534)の東西分裂によって、陣営内部の対立が激しかったのです。

 西方では、魏、西魏(535-556)を継いで、前漢以来の帝都長安から中原西部と旧蜀漢地域を支配した周、北周(557-581)は、周礼を尊重したとは言え、鮮卑制度も復活させ、皇帝を廃して天主をいただきましたが、国力としては、当時最大の大国でした。

                               未完

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