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2019年9月

2019年9月23日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞に「ナイター」継承疑惑 日本ラグビー協会の方針か

               2019/09/23

 今回の題材は、とうに忘れていた「ナイター」問題をことさら書き立てた毎日新聞大阪朝刊14新版スポーツ面、ラグビーワールドカップ関連記事である。

 「桜の羅針盤」と題したコラムであるが、こともあろうに「ナイター対応」と見出ししていて、記事内でも、何度か「ナイター」と述べているが、これは、記者個人の勘違いであって欲しい愚行である。問題用語の言い換えどころか、世界中どこにもないインチキ言葉であるから、廃語にしても、何も問題ないはずである。

 表立って論じられることは少ないが、このインチキカタカナ語は、野球関係者が発明したものであり、一般世界に大いに拡散したものだから、広く国民に対して害毒を流し、取り返しのつかない迷惑をかけたと感じたであろう野球関係者が、先人の悪行をそしることはできないまま、それでも、全力を尽くして、表の世界から懸命に消そうとしているものである。(と信ずる)

 この言葉は、「リベンジ」のように血塗られた、罰当たりな言葉でなく、「レジェンド」「サプライズ」のように、誤解誤用の類いのものでもない、単なる低レベルのインチキ造語であるが、これだけ長年蔓延すると、汚染現象が文化の一部と化していて取り除きがたく思われていて、NHKをはじめとする良心的なメディア関係者が、後世に、このインチキ言葉の蔓延が引き継がれないように、日々「自然消滅」に勉めている、曰く付きのダメ言葉なのである。
 もちろん、良心的でない関係者が無神経に使うこともあるようだが、それは、世のならいで絶滅危惧種として笑って済ませるとして、心ある関係者は、そのような極めつきの悪例を先例としないで欲しいものである。

 もし、ラグビー関係者が、この問題用語に対する悪名を引きつぐと言う趣旨であれば、堂々と、野球界が捨てた「ナイター」を自分たちが受け継ぐという擁護論を堂々と打ち上げて責任の所在を明らかにすべきである。

 それにしても、毎日新聞運動部は、問題用語を好んで使う風土があるのだろうか。心配になるのである。子供達に正しい日本語を残すという課題は、大変な影響力を持つ毎日新聞記者にあるように思うのは、当方だけであろうか。

 ついでながら、当記事に示された専門記者の意見に対して素人考えを述べると、次のようになる。
1.自国開催であるのに、会場の照明が明るすぎるとか、今になって泣きを入れるのは、どういう意味だろうか。
2.両チーム同条件で戦っていて、自国チームが不利を被ったという意味だろうか。
3.今から、夜間試合に対して対応を変えるというような、場当たりなことを要求するのは、どういう意味だろうか。
 代表チームが、子供みたいな泣き言をうじうじ言っているとは思えないが、有力全国紙が紙面で、大々的に報じて問題視するのは、どういう趣旨だろうか。
 既に大会が開始しているのに、えらそうに訓示を垂れるのはどういうものか。もはや、選手達に任せるしかないのではないかと思うのである。

 本当は、こっちの方が、代表チームに関する報道に不審を感じる重大な疑問なのだが、当方は、運動部部長でもなければ、毎日新聞社の社長でもないので、毎日新聞の本件報道の方針について異論を唱えることはしないはずだったのである。

以上

2019年9月20日 (金)

新・私の本棚 関尾史郎 三国志の考古学 「出土資料から見た..」 4/4

 東方書店 2019年6月初版        2019/09/20記

□蔡公紙考
*紙の夜明け
 更に言うと、紙帳簿の普及が遅れた点ですが、要は、竹簡帳簿で十分間に合っていたということと中国流製紙工程の面倒さにあったと思われます。
 多くの日本人は、白く、薄く、強靱な和紙に馴染んでいるものと思いますが、これは、亜熱帯山地に多数自生する楮、三叉などの植物繊維を流水で曝した、純白で、真っ直ぐ伸びる繊維(パルプ)を、白く薄く、定寸で、均一厚さの書写好適用紙に漉き上げる和紙製法に由来した優れた特産物なのです。

 実は、製紙本家の中国では、このような優れた書写用紙は、当時、中々得られなかったのです。それは、紙漉き原料の違いであり、中国紙は、衣類などの繊維屑を集めて漉き上げていたため、白く薄く定寸という特質が実現困難だったのです。これは、後世、中国製紙法を習得した中東、欧州も同様のようです。

 後の唐時代、遣唐使の一員が所持している筆写用紙(メモ帳)が、まるで高貴な帛書のように滑らかで美しいと頌えた例が見られます。大唐で常用されていた「紙」がどのようであり、高貴な紙は入手しがたかったと物語るようです。
 七世紀当時、それまで文字を知らない蛮夷と蔑まれていた東夷は、文字媒体たる紙の分野では、大唐を越えて最先端だったのです。

*洛陽紙価
 巷説によれば、後漢朝末期には、洛陽市中に書写用紙販売が見られたようですが、後漢末期の動乱で洛陽周辺が荒廃化したために、そのような高度な製紙産業は、一旦壊滅したように見えるのです。恐らく、皇帝直轄の工房、尚方の独占だったでしょうから、帝都の機構が瓦解したら、各技術者は、命からがら離散するしかなかったのでしょうが、当時、製紙事業を受けて立つ地方軍閥はなかったでしょう。
 曹操は、後漢建安年間に、後漢皇帝を自領内に迎えて、洛陽復興を図ったでしょうが、未だ、華北統一すらその途上であり、製紙工房の復活までには至らなかったと思われます。、 
 かくして、三国時代になっても、後漢時代に実用化された蔡公紙の製造工房は、尚方内工房にとどまり、冊子製本の前提である「単葉紙」の生産供給が可能となるまで、復興、発展はしていなかったようです。
 ために、字数の多い三国志などの史書、経書は、紙素材の時代になっても、なかなか紙冊子とならなかったはずです。但し、これは、帝室原本、高貴写本の話で、民間写本がどうだったか、知るすべはありません。敦煌などの辺境で富裕商人に愛蔵されていたのは、恐らく、持ち運びやすい、薄手の紙写本巻物と思いますが証拠が稀少です。
 本書で見る限り、東呉孫権政権は、製紙技術を入手していなくて、蔡公紙については、魏から購入していたのではないでしょうか。
 そして、長江流域に製紙技術が移管されたのは、西晋帝都洛陽が北の異民族に攻め落とされた政変時、尚方まるごと逃避したためだと思われます。混乱の時勢で、尚方の製紙の秘技が、外部に知られることになったとも思われます。

 竹簡三国志写本は、恐らく、その後の南朝宋、劉宋時代の裴松之付注の際に、各地諸侯や蔵書家の書庫から集成され、校勘、付注の蔡に参照されたものの、裴注付き三国志公開後は、潤沢になった紙を使用した紙巻物になったかと思われます。これにより、続く南朝諸朝は、竹簡三国志を紙巻物に置き換え、時代遅れの旧本は、早晩廃棄されたものと推定されます。
 その後が、隋唐の統一時代です。因みに、南朝最後の陳王朝の最後の皇帝は、多額の国費を投じて、書斎文物、つまり、紙筆墨硯の精華を実現し、隋煬帝の妬みを買ったとされていますから、製紙技術、特に上質な用紙の製法は、その際に大いに発展したのでしょう。

 そして、遙か後世、北宋期の刊刻、つまり、木版印刷時に、巻物形式では印刷できないので袋とじ形式の冊子となったと思われます。全国政権の英断で、天下の三国志巻物は、刊本から写本した冊子に置き換えられたと思われます。
 全国政権は、巷間流布する誤記満載の「野良写本」を駆逐・淘汰する正本統一を望んだはずですから、一目瞭然の様式統一を絶好機と見たと思うのです。

 以上、むしろ仮説と言うより暴論に近いものと自覚していますが、このように断言すれば、権威者から建設的な反論があると期待しているのです。

*蛇足
 因みに、東呉ならぬ畿内奈良の多数の文書遺産が保管されている正倉院にも、紙文書普及以前の竹簡公文書や帛書公文書は保管されていなく、いきなり、紙文書文化が開花したように見えます。飛鳥などで、先行する世紀の木簡文書の発見はありますが、ここでは、簡得巻物形式の公文書類が正倉院に保管されていないという瑣末事に躓いたのです。

 古来、三世紀の倭人伝記事時代以後の数世紀に亘り公用文書類が古代広域国家の支柱であり、その結果、壮大な文書行政国家が形成されたのなら、発展過程で各地に大量の廃棄文書が発生したはずであり、政府内の公用文書、記録類も継承されたはずですが、今のところ、そのような遺物が露呈した話は見かけません。
 関係諸賢は、三世紀の文化未開時代、つまり、文書資料皆無の時代の国家中枢が畿内にあったことを実証する使命に特化した発掘に総力をあげて取り組むより、四~七世紀の長期に亘る文書国家形成期の文字遺産を発掘して、その発展過程を明らかにする活動に注力すべきてはないかと愚考を述べて、幕引きといたします。

以上

新・私の本棚 関尾史郎 三国志の考古学 「出土資料から見た..」 3/4

 東方書店 2019年6月初版        2019/09/20記

□木簡考
*木の世界
 これに対して、木簡は、山中で伐採した木材を、薄板に加工する必要があります。後世のように、鋸がない時代、丸木から薄板を作り出すのは難業です。
 森林伐採して得られた丸太から角柱を切り出すような製材工程は、鐇(ちょうな)のように木材表面をそぎ取る大物の鋼製工具であれば、さほどの難業ではありませんでしたし、実際に、社寺や邸閣などは、そのような製材工程で得られた角材を使用したのでしょう。ただし、これは木簡への序の口です。
 柱材のような木材を、木簡の木片のような薄板まで分割していくのは、極めて専門的な作業であり、数が取りにくかったはずです。薪割りのようにして、割り板とするにしても、竹を割るように手軽ではなく、また、一本一本木目の入り具合が違う木を、望む薄板状に割っていくのは、銕工具をもってしても、手間がかかる上に、技術的に難しかったのです。
 いや、屋根葺き用や羽目板用に板を仕上げる必要があったから、板作り大工仕事の技は発達していたと思われますが、ノコギリもカンナもないのですから、事務用木簡を大量生産するのは、大変な難事業だったのです。
 また、個々の木片の厚さ、幅、平坦さなど、寸法諸元の規制は困難だったはずです。結局手仕事で、枠などに当てはめて削りあげたのでしょう。
 大事なことですが、木材が柱などの構造材として使用されるなら、加工の手間は格段に少ない上に、高価な物とされるので大変割がいいのです。木間は、そのように高価に売れる材木を切り刻んで、大量の木くずと汗をまき散らして、その一部が木簡になるのですから、大変な歩留まりの悪さです。
 ということで、木簡は、竹簡と比して、取れ高が少量で、仕事としての分が悪かったのです。恐らく、木簡でなければならない用途があって、限定的に使用され、余った時に、可能な範囲で竹簡に併用されたのでしょう。
 ついでながらに言うと、木簡は、薄ければ割れやすく、厚手にせざるを得なかったと思われます。つまり、荷札や名誌のように、大振りで厚手の物にこそ木簡の意義があり、それこそ、どんどんけずり変えて転用できたのです。
*木簡多用の由来
 因みに、これも推定ですが、古代統一国家である秦は、周から継承した精緻な、つまり、厖大な規定類を、全国隈無く衆知、徹底するために、木簡文書を多用しましたが、おそらく、本来の秦の所領は竹林の乏しい乾燥地帯であり、鋼製工具を多用した木材加工技術は発達していましたが、竹材加工は、さほど普及してなかったものと見えます。もし、楚が統一政権の発祥地であれば、竹簡が多用されたものと思われます。

*木と竹の共存
 ということで、木簡は、幅広で、大まかなものが多く、竹簡は、細身で定寸、薄身のものが続々と見つかるのです。
 資源管理の見地で言うと、太古以来、延々と続いた森林伐採の結果、中原の山野から原初の森林が失われたようです。亜熱帯性気候の竹の群生地では、特に栽培しなくても、年々新竹が伸張し、延々と竹条生産が続けられたのです。
                             未完

新・私の本棚 関尾史郎 三国志の考古学 「出土資料から見た..」 2/4

 東方書店 2019年6月初版        2019/09/20記

□竹簡考
 いや、本書には、帳簿類に紙がほとんど用いられず、簡得も、木竹いずれも可とされていながら、竹簡が多いことへの不審が述べられていますが、それは、考古学者には不適切な、現物からかけ離れた「観念的」見方というものです。
 つまり、紙には紙、木には木、竹には竹、それぞれの「もの」としての特質があり、当時の人々には、竹が一番好ましかったから竹を使っただけです。以下の饒舌は、それぞれの特質を当時の視点で確かめようという素人考えです。

*竹の特質
 中国では、太古以来、竹籠が広く普及し日本の工芸にも継承されています。
 竹籠は、行李、定寸格納容器にもなり、「荷物」を収納し、適宜詰め物し、竹籠で蓋し、縄で括り、結び目に封泥すれば、内容物を勝手に取り出せません。
 竹籠は、木箱に比べて軽量で、適度の弾力があり、結構切り傷などに強く、適度な通気吸湿性もあるし、角張ってなくても段積みができるから、穀類を除けば、軽重とりどりの荷物の段積収蔵に好適で、荷物輸送にも適しています。

 ということで、竹籠は上下を問わず多用されたので、山野の竹を伐採して持ち帰り、細割り竹条にして、竹籠素材とし、竹籠作りに供給する「稼業」が成立したのです。何だったら、農事の合間に竹取りに行っても良いのです。
 竹の伐採は、本来、斧のような鉄器の役どころですが、石斧でも切り倒せたはずです。その後は、自宅で以下のように捌けば、むしろ容易な業です。

 まずは、節を抜き竹筒として切り割りし竹条を得るのです。俗に言うように「竹を割る」のは、竹の特性に合っているので、力はいらないで、とにかく、まっすぐに割れます。二分割を重ねれば、容易に、四、八、十六分割できます。

 以下、そのようにして得られた細片を、石塊などで組んだ隙間を通して扱(しご)くことにより、手作業で両脇や厚さ方向の余白をそぎ落として、竹簡や竹籠に適した定幅、定厚で真っ直ぐな竹条に整形できるのです。
 こうした工程は、力業でなく、必要な刃物も、仕上げ小刀程度です。小刀は武器にはならないので、農民が蓄えても反乱を怖れる必要は無いのです。

 つまり、安くて良質の竹条が潤沢に供給され気楽に使用できたので、今日風に言うと、規格製品の大量生産、廉価販売で定番化するのです。竹簡に筆記媒体として特に不具合がなければ、自然に大勢を占めたはずです。

 竹簡は、表皮に近い部分をとどめている限り容易に曲がらず、反らず、割れず、当然、撓めても屈しないので(油抜きを要するとしても)帳簿類に好適でした。製造の容易さと相俟って、多用されたとしても不思議はありません。
 竹簡の強みとして、背中が丸みを残し、巻き上げた巻物の外面がなだらかになる利点が上げられます。また、机上に展開した時も、下敷きとなる机天面との軋轢が起きにくいのです。四角四面の木簡巻物は、とかく、角が立つのです。

 そのような特性は、小規模な簿誌(帳簿)でも、既に顕著ですから、竹簡が好まれたのであり、かくして、各種帳簿は竹簡が主力だったのです。それは、「簿」、「簡」などの用字が竹かんむりであることからも見て取れるのです。

 以上で、記録媒体としての竹簡の素性の良さが理解頂けたでしょうか。物事には、それぞれ由来があるのです。

未完

新・私の本棚 関尾史郎 三国志の考古学 「出土資料から見た..」 1/4

 東方書店 2019年6月初版        2019/09/20記

私の見立て ★★★★★ 貴重な考古学資料 必読もの

□総評
 本書は、一般読者も対象として、各所で「三国志演義」との連携はないと明言していますが、当方は正史派で、ま、聞き置くことにする程度です。というものの、本書は、三国志時代の時代環境をもとに、当時の遺跡、遺物の考古学的考察を重ねているので、少なからず、関心の薄い話題もありますが、全体として、誠に堅実、かつ精緻な考古学的考察が満載で、大いに参考になります。同時代の国内考古学資料に示される定見が、国内資料の常套解釈に引きずられて、随分いびつになっているのとは別世界です。

 星が五つ満点で五つでは不足と言われるかも知れませんが、あくまで当方の勝手な見立てで、大変高く評価した記事であると、誤解なく読み取ってもらうための目安を示したものであり、外野からのご意見は無用です。(誤解されると困りますが、記事本文への批判はかまわないのですが、見立てへの批判は無礼そのものとして、固くお断りするのです)

□概要紹介の試み
 まずは、曹氏一族に関する遺跡、遺物について述べた後、魏武曹操に関する遺跡、遺物の紹介と考察です。マスコミ報道では、安直に、「遂に曹操の墓が発見された」と決めつけていますが、精査するとそうは言い切れないとする賢察が示されています。
 次いで、「呉の地方行政と地域社会」にまつわる簡得類、つまり、戸籍簿などの断簡が発見され、東呉地方社会の実相が推定できると考察を加えています。
 続いて、「諸葛亮北伐と涼州」、つまり、蜀漢宰相が、遙か西域との連携を試みたことについて考察が加えられています。
 最後に、「魏と中央アジア」関係の考古学的資料に考察が加えられています。
 いずれも、本来、素人が批評できる内容でなく、以上が的確な紹介とは思いませんが、何かの参考になれば幸いと思い書き連ねました。

□望蜀譚
 さて、以下の3ページは、著者の古代書写事情における紙、竹、木の使い分けに関する慨嘆に対する当方流の突っ込みであり、決して、著者を非難しているものではありません。言うならば、「望蜀」の連発です。
 気が向いたら、ちょろっと目を通していただいて、当方のホラ話に、感心するなりあきれるなりしていただければ幸いです。

 曰く、「東呉孫権政権下の地方官僚が戸籍簿などの大量の帳簿類の蓄積に竹素材の竹簡を比較的多用し、これに次いで、木素材の木簡を使用し、紙素材の使用が少ない」ことに関する不審の慨嘆に勝手に説明を試みるものです。

 つまり、同時代人になったつもりで、三種の書写材料ごとの諸事情を「考現」したものです。勝手に、見てきたような夢物語を述べていると見るか、推定を面白がるか、それは、読者の勝手ですが、別に賛否の総選挙を求めているのではありませんので、「馬頭星雲」はお断りと申し上げておきます。くれぐれも、学問の論議の場で、えらそうに、仲間内でしか通じない姑息なため口を叩かないようにお願いしたいのです。

 前例のない想定は、泥かぶり覚悟でないと表明できないのです。

 そして、自己記事のダメ出しは、素人の任に余るので、考古学専門家の考証にお任せします。

                             未完

2019年9月19日 (木)

YouTube著作権騒動 Kleiber and Zeffirell "Otello” sounds and furies

                                      2019/09/19
 今回の騒動は、一見新手のように見えるが、実は、根っこは共通している問題である。
 当方が公開している下記動画は、NHKで放送された動画(当然、音声入り)を引用しているものなので、正当な著作権者から問い合わせがあれば、いろいろ審査を要することは事実である。
 但し、当方は、このような部分的な引用公開は、出典を明示している限り、著作権上許容されているとほぼ確信しているので、特に不安は感じていないものである。正当な著作権者が、当方の公開に対して何らかの権利行使を望むのであれば、当方の足の伸ばせる地域の知財権法廷の判断を仰ぐ所存である。

動画の URL https://youtu.be/MaVbtvBC180
In Memoriam: Kleibers Otello Atto 1 Esultate! スカラ座来日公演 Zeffirell 1981/09/02 オテロ

 言うまでもないが、ここでは、アリゴ・ボイトが台本を書き、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した音楽著作物「オテロ」の著作権を論じているのではない。同著作物は、著作権者の没後所定の年数を歴ているので、いわゆる公有著作物となっている。ここで論じられているのは、国内著作権法で言う著作隣接権、言うならば、演奏に対する著作権である。
 同権利を、ここでは便宜上「著作権」と呼ぶが、NHKが著作権を有しているというのは、番組を放送した時点で、著作権が発生したという意味であり、スカラ座が、再放送等を制約するのは、厳密には、NHKとの間で、著作権譲渡などの契約があったものと推定するのであり、これは別に、非合法でも不合理でもないので、そうであればそのように、公共放送であるNHKは、受信料を支払っている視聴者に対して、明確に表明すべきだと考えるだけである。

*YouTubeの態度
 これに対して、YouTubeは、The Orchard Music (The Orchard Music Opera d'Oro の代理 とのみ表示。以下、同団体)なる正体不明の組織が、当方の動画が同団体の著作権を侵害している(との趣旨に読み取れる)ので、その公開に制約を加えるとの申し立てがあり、YouTubeの制度上、当方の異議を申立人が認めない限り、当方の権利を制約するとの通告である。
 因みに、諄々と理を説いた異議は、何の説明もなく拒絶されたのである。また、かねてのお約束とはいえ、YouTubeは、一切、仲裁、斡旋の労を執らないのである。過去、仕方なく、英文で理を説いた例があるが、黙って引き下がった「勝」はいくつかあるが、不明・錯誤をわびてきた例は皆無である。また、YouTubeが、子供のお使い以上の何かをしたことも皆無である。いくら、無料で利用させていただいているとは言え、これは、かさねがさねあんまりである。

*申立人の身元不明
 同団体が正体不明というのは、まずは、同団体の実態が開示されていないからである。特に重大なのは、同団体が、適法に当該著作物の著作権を有しているとの確認がされていないことである。YouTubeは、申立人の身元調査をしていないので、当方は確認のしようがない。

*申立人の権利不明 立証義務不全
 先に述べたように、NHKによって放送された番組(以下、同番組と呼ぶ)の著作権はNHKが保有している。念押しであるが、同番組で放送差つれた公演を制作したスカラ座が、NHKに対して、同番組の一回限りの放送を許諾して、以後の再放送や出版などを許諾していない可能性はある。同番組が、一切再放送等されていないのは、そのような権利関係の契約が成立しているものと思われる。
 スカラ座が、同団体に対して同番組をライセンス許諾して、特定の国/地域で適法に販売されているという可能性自体は、否定できないが、寡聞にして、いずれの国/地域であろうと、スカラ座によって同番組の販売が許諾されたとの報道は聞かない。
 それとは、別次元の話だが、NHKが視聴者の受信料で作成した著作物を、スカラ座が意のままに流通するのを制約できないとしたら、公共放送として重大な背信行為である。
 たま、ある程度事情に通じている音楽ファンとして述べると、今回の題材のようなオペラ上演については、演出家フランコ・ゼッフィレリと指揮者カルロス・クライバーに、販売可否を左右する権限が認められていて、特に、クライバーは、極度に自演の販売許可を制限していたから、同番組を販売することを許諾したとは信じられないのである。

*申立人の立証義務
 少なくとも、同団体が、当方の動画著作者としての活動に制約を加えるという、刑事告発に類する申し立てを行う以上、当方には、同団体が同番組に対して正当な権利を有していて、その権利を根拠に当方の動画公開に対して制約を加える権利を行使する、との証明を提示することを要求する権利はあるのではないか。つまり、契約締結していると堂々と宣言してくれれば良いのであり、当方は、別に契約書自体を見たいとは言わない。

*YouTubeの怠慢
 本来、YouTubeは、申立人が当該著作狗物に対して、正当な権利を有しているか確認する義務があると考えるが、YouYTubeは、そのような検証をしていないので、一私人である当方は当否の確認のしようがない。

*著作物の実態不明
 次に、著作物の実態である。本当に、同団体は、当方の公開動画と重なるような動画商品を販売しているのであろうか。過分にして、そのような商品が流通しているとは聞かない。
 当方の知る限り、同公演のFM中継録音を、不法に商品化している事例があると聞いたことがある。いわゆる海賊版であるが、今回の事例では、原版が適法に商品化されていないから、ブートレグとでも言うのだろうか。これは、大多数の国/地域で不法行為であることは言うまでもない。

*著作権の正当性不明
 いずれにしろ、正当な著作権を有しないものは、著作権を主張することはできないのは自明であるから、そのような不法行為が冒されてないのであれば、自身で疑惑を払拭すべきである。一民間人としては、営利行為を営んでいる者に対して、そのような主張をする権利はあると見なすのである。ここに述べている全体は、本来は、YouTubeの責務である。

*映像著作物に対する権利比定
 言いたいのは、同番組のように、映像と音声が、本来不可分の一体となっている著作物の音声部分のみに関して権利を有していることを根拠に、映像全体に著作権を主張することは「適法か」という疑念である。
 音声のみを販売する商品と音声を含む映像を販売する商品は、別種の著作物と見なされている以上、前者の権利で後者を制約するのは、不法行為ではないかと見るものである。また、音声を取り除いたサイレント動画は、商品加地かないのは言うまでもない。両者が、権利輻輳しないためには、両者は、別個の独立した著作物であり、相互不可侵なであることを共通の認識とする必要があり、現に、そのように法的に運用されていると見るものである。
 もちろん、同団体が、同番組に対する権利を有さず、音声部分だけのライセンスの許諾を受けた契約に於いて、同国機/地域に限ったとしても、同音声を組み込んだ映像作品の商品化を排除する排他的な特権を与えられているのなら、それは、適法であるが、スカラ座がそのような自身の事業展開に著しく不利な契約を結ぶとは、とてもとても思えないのである。また、同団体とスカラ座の音源ライセンス契約に於いて、同番組全体に関する排他的な権利について言及されていないとしても、同団体は、同番組全体のライセンス契約を締結する選択肢を否定し、映像部分に関する権利を放棄し、権利範囲を限定・減縮して安価な契約を締結したのであるから、契約締結後に、契約の抜け道として、既に放棄した権利を回収することはできないと見るべきである。

 ということで。安易な言い逃れは排除されているので、同団体は、是非、堂々と自身に投げかけられた疑惑を注いでもらいたいものである。

*独白
 ここは独り言であるが、何しろ、「敵」の論拠が不明確だから、当方も、反論に苦労するのである。当方は、公開動画および添付した説明記事に於いて、著作物の由来を明らかにしているのに、敵は何も表明しないのは、不公平極まりないと思うのである。正義(Justcioe)の基本は公平(Just)ではないのだろうか。

*YouTubeの著作権保護使命
 ということで、このたびも、大変、無駄で不愉快な時間と労力を浪費させられているのである。

 「無駄で不愉快」と言うのは、YouTube運営チームが、クラシック音楽分野の動画著作権について、責任ある判断をするのに不可欠な、職業的な法的知識を持たず、また、専門家の助言も得ず、ただひたすら「音源管理者」の勝手で、不明確な主張を丸呑みにして、公開制限などの不愉快で不法な措置を採ることである。

 特に、本質的に海賊版販売の疑惑が避けられない分野での「申し立て」に対して、十分な検証を怠っているのは、著作権保護の精神に反しているのではないかと苦言を呈したい。

 そして、更に困ったことに、毎回、諄々と法的な間違いを説いても、YouTUbe関係者は、一向に聞く耳を持たないと言うことである。例えば、音源管理者の主張は、不正確ではないかと信ずるに足る根拠をがあるから反論するとの選択肢は依然としてない。せめて、正当な反論を取り次ぐ義務はあるのではないか。 毎度の徒労とは言え、不法な、つまり、法律に違反した手続きについて、黙っていることはできないので、ここに「騒動」の新作を公開するのである。

追記:
 因みに、当動画は初出ではなく、旧作を画質改善した再公開である。前回公開に対して何の申し立てもなく、今回唐突に申し立てされる理由は不明である。
 なお、テレビ画像の音声部とFM放送された音声は時間軸不一致であり、当動画の程度の長さでも、明らかにずれが生じる。同一と認定した根拠が一段と希薄である。また、テレビ放送の音声部と当動画の音声部が一致するというのであれば、それは、音源の特定に失敗しているのである。
 最後になったが、当方は、YouTubeにおける動画公開に対して一切収益化を行っていないので、今回の措置は、当方に対して経済的に何の影響もない。著作権管理における不法行為に対して憤っているのである。

以上

2019年9月11日 (水)

今日の躓き石 NHKBSの「リベンジ」汚染の深刻さ 「放送事故」疑惑

                           2019/09/11

 今回の題材は、二日遅れになった。留守で時間がかかったのである。

 問題の番組は、9月9日の深夜の「ワースポ MLB」である。といっても、番組紹介に名を連ねている解説者とキャスターに失言があったわけではない。ヤンキースの田中将大投手が、「リベンジ」しようとしたが「リベンジ」どころか、返り討ちに遭って、負けこそ付かなかったが早々に降板したという報道になっている。ご丁寧に、画面右上に「リベンジ」がどうたら書き立てられている。飛んだ、恥っかきである。誰か当日の担当者が、悪意を込めたスクリプトを書いてコメントを入れたのだろうが、要はNHKの責任である。こんなことでいいのだろうか。

 田中投手は、プロだから、負けたら、技術面を中心に叩かれても仕方ないが、MLB屈指の好投手が、自分の感情にとらわれて、憎い相手チーム(全員?)をぶっ殺す覚悟で試合に臨んだというのは、一大スキャンダルである。国際版のNHK Worldで忠実に報道すれば、それを見たチームメイトは、田中投手が個人的な遺恨で荒れ狂っていたと知って見る目が変わるだろう。まして、ヤンキースは、紳士の集団である。球団幹部も怒り狂うだろう。

 しかし、田中投手は、そんなことは、一切言っていないのではないか。インタビューを聞く限り、至って冷静で、プロとして一流の紳士であると思う。
 大体、MLBの先発投手の柱であれば、ある程度負けることは避けられないし、打たれたくないところで打たれたいやな奴も少なからずいるだろうが、それを個人的な恨みにしてしまったら、一年中「リベンジ」ばかりになる。感情に溺れていたら、競争の厳しい世界で、やっていけないはずである。
 タフでなければ生きて行けないというのは、別に、残虐気質を言うのではない、打たれても屈しない、感情をコントロールした、不屈の闘志を言うはずである。解説者もキャスターも、至って筋の通った紹介をしていると思うので、別人のしつこい「リベンジ」発言に悪意を感じるのである。

 事態を総合すると、報道機関であり、公共放送であるNHKが、意図的に、特定の選手について悪意に満ちた報道を行ったことになる。そうでないなら、堂々と当人の発言を「報道」すべきである。

 もちろん、当方はそのような報道をせよと言っているのではない。NHKほどの見識があれば、舞台裏で不穏当な発言を指摘して、このような「放送事故」を未然に防ぎ、あたら前途ある選手の名声に血と泥を塗りつけることは、止められるはずである。そうすれば、子供達に忌まわしい言葉が広がるのを、少しでも防げたはずである。

 大阪履正社の例を挙げるまでもなく、高校球界に「リベンジ」汚染がはびこっていて、監督から選手に暴力指導ならぬ暴言指導されていることが、ほかならぬNHKの報道で暴露されている。NHKは、このような嘆かわしい事態を是正しようと思わないのだろうか。

 いろいろ、問題の根深さを感じさせられたのである。

以上

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