新・私の本棚 関尾史郎 三国志の考古学 「出土資料から見た..」 4/4
東方書店 2019年6月初版 2019/09/20記
□蔡公紙考
*紙の夜明け
更に言うと、紙帳簿の普及が遅れた点ですが、要は、竹簡帳簿で十分間に合っていたということと中国流製紙工程の面倒さにあったと思われます。
多くの日本人は、白く、薄く、強靱な和紙に馴染んでいるものと思いますが、これは、亜熱帯山地に多数自生する楮、三叉などの植物繊維を流水で曝した、純白で、真っ直ぐ伸びる繊維(パルプ)を、白く薄く、定寸で、均一厚さの書写好適用紙に漉き上げる和紙製法に由来した優れた特産物なのです。
実は、製紙本家の中国では、このような優れた書写用紙は、当時、中々得られなかったのです。それは、紙漉き原料の違いであり、中国紙は、衣類などの繊維屑を集めて漉き上げていたため、白く薄く定寸という特質が実現困難だったのです。これは、後世、中国製紙法を習得した中東、欧州も同様のようです。
後の唐時代、遣唐使の一員が所持している筆写用紙(メモ帳)が、まるで高貴な帛書のように滑らかで美しいと頌えた例が見られます。大唐で常用されていた「紙」がどのようであり、高貴な紙は入手しがたかったと物語るようです。
七世紀当時、それまで文字を知らない蛮夷と蔑まれていた東夷は、文字媒体たる紙の分野では、大唐を越えて最先端だったのです。
*洛陽紙価
巷説によれば、後漢朝末期には、洛陽市中に書写用紙販売が見られたようですが、後漢末期の動乱で洛陽周辺が荒廃化したために、そのような高度な製紙産業は、一旦壊滅したように見えるのです。恐らく、皇帝直轄の工房、尚方の独占だったでしょうから、帝都の機構が瓦解したら、各技術者は、命からがら離散するしかなかったのでしょうが、当時、製紙事業を受けて立つ地方軍閥はなかったでしょう。
曹操は、後漢建安年間に、後漢皇帝を自領内に迎えて、洛陽復興を図ったでしょうが、未だ、華北統一すらその途上であり、製紙工房の復活までには至らなかったと思われます。、
かくして、三国時代になっても、後漢時代に実用化された蔡公紙の製造工房は、尚方内工房にとどまり、冊子製本の前提である「単葉紙」の生産供給が可能となるまで、復興、発展はしていなかったようです。
ために、字数の多い三国志などの史書、経書は、紙素材の時代になっても、なかなか紙冊子とならなかったはずです。但し、これは、帝室原本、高貴写本の話で、民間写本がどうだったか、知るすべはありません。敦煌などの辺境で富裕商人に愛蔵されていたのは、恐らく、持ち運びやすい、薄手の紙写本巻物と思いますが証拠が稀少です。
本書で見る限り、東呉孫権政権は、製紙技術を入手していなくて、蔡公紙については、魏から購入していたのではないでしょうか。
そして、長江流域に製紙技術が移管されたのは、西晋帝都洛陽が北の異民族に攻め落とされた政変時、尚方まるごと逃避したためだと思われます。混乱の時勢で、尚方の製紙の秘技が、外部に知られることになったとも思われます。
竹簡三国志写本は、恐らく、その後の南朝宋、劉宋時代の裴松之付注の際に、各地諸侯や蔵書家の書庫から集成され、校勘、付注の蔡に参照されたものの、裴注付き三国志公開後は、潤沢になった紙を使用した紙巻物になったかと思われます。これにより、続く南朝諸朝は、竹簡三国志を紙巻物に置き換え、時代遅れの旧本は、早晩廃棄されたものと推定されます。
その後が、隋唐の統一時代です。因みに、南朝最後の陳王朝の最後の皇帝は、多額の国費を投じて、書斎文物、つまり、紙筆墨硯の精華を実現し、隋煬帝の妬みを買ったとされていますから、製紙技術、特に上質な用紙の製法は、その際に大いに発展したのでしょう。
そして、遙か後世、北宋期の刊刻、つまり、木版印刷時に、巻物形式では印刷できないので袋とじ形式の冊子となったと思われます。全国政権の英断で、天下の三国志巻物は、刊本から写本した冊子に置き換えられたと思われます。
全国政権は、巷間流布する誤記満載の「野良写本」を駆逐・淘汰する正本統一を望んだはずですから、一目瞭然の様式統一を絶好機と見たと思うのです。
以上、むしろ仮説と言うより暴論に近いものと自覚していますが、このように断言すれば、権威者から建設的な反論があると期待しているのです。
*蛇足
因みに、東呉ならぬ畿内奈良の多数の文書遺産が保管されている正倉院にも、紙文書普及以前の竹簡公文書や帛書公文書は保管されていなく、いきなり、紙文書文化が開花したように見えます。飛鳥などで、先行する世紀の木簡文書の発見はありますが、ここでは、簡得巻物形式の公文書類が正倉院に保管されていないという瑣末事に躓いたのです。
古来、三世紀の倭人伝記事時代以後の数世紀に亘り公用文書類が古代広域国家の支柱であり、その結果、壮大な文書行政国家が形成されたのなら、発展過程で各地に大量の廃棄文書が発生したはずであり、政府内の公用文書、記録類も継承されたはずですが、今のところ、そのような遺物が露呈した話は見かけません。
関係諸賢は、三世紀の文化未開時代、つまり、文書資料皆無の時代の国家中枢が畿内にあったことを実証する使命に特化した発掘に総力をあげて取り組むより、四~七世紀の長期に亘る文書国家形成期の文字遺産を発掘して、その発展過程を明らかにする活動に注力すべきてはないかと愚考を述べて、幕引きといたします。
以上
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