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2019年10月

2019年10月27日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 参 史料篇   5/5

                             2019/10/27
【屬大秦】 承前 列記されたのは、大秦属国であり、安息近隣でもある。
 且蘭王屬大秦。從思陶國直南渡河,乃直西行之且蘭三千里。道出河南,乃西行,從且蘭復直西行之汜復國六百里。

 且蘭王は、大秦に属す。思陶国から真南に河を渡り、乃ち直西に三千里行くと且蘭である。道を河南に出て乃ち西に行き、且蘭からまた真西に六百里行くと汜復国である。


 南道會汜復,乃西南之賢督國。

 南道は汜復に会い、乃ち西南して賢督国である。

 且蘭、汜復直南,乃有積石,積石南乃有大海,出珊瑚,真珠。

 旦蘭、汜復の南に乃ち積石が有る。積石の南に乃ち大海があり、珊瑚と真珠を出す。

 且蘭、汜復、斯賓、阿蠻,北有一山,東西行。大秦、海西,東各有一山,皆南北行。

 且蘭、汜復、斯賓、阿蛮は、北に一山があって東西に行く。大秦、海西は、それぞれ東に一山があって、皆南北に行く。

 賢督王屬大秦,其治東北去汜復六百里。

 賢督王は大秦に属する。其治は汜復を東北に去る六百里である。

 汜復王屬大秦,其治東北去于羅三百四十里渡海也。

 汜復王は大秦に属する。其治は于羅を東北に去る三百四十里で渡海する。

 于羅屬大秦,其治在汜復、東北渡河,從于羅東北又渡河,斯羅東北又渡河。

 于羅は大秦に属する。其治は汜復に在る。東北に渡河し。于羅から東北し又渡河し、斯羅から又東北し渡河する。

 斯羅國屬安息,與大秦接也。

 斯羅国は安息に属し大秦と接している。
 注 方向付き「去」の方向は、目的国から逆算のようである。でないと、
   方角が錯綜する。ここでも、大秦は安息に接している。

【大秦西】 とってつけたような西の果て記事で中道記事の結尾である。
 大秦西有海水,海水西有河水,河水西南北行有大山,西有赤水,赤水西有白王山,
 白玉山有西王母,西王母西有脩流沙,流沙西有大夏國、堅沙國、屬繇國、月氏國、四國西有黑水,所傳聞西之極矣。

 大秦の西に海水が有り、海水の西に河水が有る。河水の西に南北に行く大山が有る。西に赤水が有り、赤水の西に白王山が有る。(白玉山ではない)
 白玉山には西王母が有る。西王母の西は流沙が有る。流沙の西に、大夏国、竪沙国、属繇国、月氏国が有る。四国の西に黒水が有る。所伝は(世界の)西の果てと聞く。(別記事の衍文か) 以下略

 注 白玉山、西王母、流沙、大夏国、竪沙国、属繇国、月氏国、黒水は、
   白王山から白玉山の連想で中国世界の「西の果て」を大秦幻影の西に
   投影したのであり、甘英の証言ではない。因みに、赤水は紅海か。
総じて、各国記事が入り乱れているようだが、ここでは追求しない。

 以下、北新道、つまり、匈奴に近い北道諸国記事が続き、魚豢短評で終わる。残念ながら、冒頭部の記事共々今回の記事の主題を外れるので割愛した。
 日本文作成に際して筑摩書房刊「三国志」魏書巻三十の訳文を参考にした。
 当方の所感としては、このように比類無き記事を後世に伝えてくれた班超、甘英、魚豢、裴松之、そして、范曄の諸先哲に深く感謝する次第である。

                             史料篇 完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 参 史料篇   4/5

                             2019/10/27
【大秦多金】 独立国でないので、前置きは略式である。
 「大秦國一號犁靬,在安息」、大秦多金、銀、銅、鐵、鉛、錫、神龜、白馬、硃髦、駭雞犀、玳瑁、玄熊、赤螭、辟毒鼠、大貝、車渠、瑪瑙、南金、翠爵、羽翮、象牙、符采玉、明月珠、夜光珠、真白珠、虎珀、珊瑚、赤白黑綠黃青紺縹紅紫十種流離、璆琳、琅玕、水精、玫瑰、雄黃、雌黃、碧、五色玉、黃白黑綠紫紅絳紺金黃縹留黃十種氍毹、五色毾㲪、五色九色首下毾㲪、金縷繡、雜色綾、金塗布、緋持布、發陸布、緋持渠布、火浣布、阿羅得布、巴則布、度代布、溫宿布、五色桃布、絳地金織帳、五色鬥帳、一微木、二蘇合、狄提、迷迷、兜納、白附子、薰陸、郁金、芸膠、薰草木十二種香。

 {大秦国は一名犁靬であり、安息に在る}金、銀、銅、鉄、鉛、錫、神亀、白馬、赤髦、駭雞犀、髭髧、玳瑁、玄熊、赤螭、辟毒鼠、大貝、車渠、瑪瑙、南金、翠爵、羽翮、象牙、符采玉、明月珠、夜光珠、真白珠、虎珀、珊瑚、赤・白・黒・緑・黄・青・紺・縹・紅・紫の十種流離、璆淋、瑯玕、水精、玫瑰、雄黄、雌黄、碧、五色玉、黄・白・黒・緑・紫・紅・絳・紺・金・黄・縹留黃の十種氍毹、五色毾㲪、五色九色首下毾㲪、金縷繍,雑色綾、金塗布、緋持布、発陸布、緋持渠布、火浣布、阿羅得布、巴則布、度代布、温宿布、五色桃布、絡地金織帳、五色鬥帳、一微木、二蘇合、狄提、迷迷、兜納、白附子、薰陸、郁金、芸膠、薫草木十二種香を多く産する。

【大秦道】 陸道と水道
 大秦道既從海北陸通,又循海而南,與交趾七郡外夷比,又有水道通益州、永昌、故永昌出異物。前世但論有水道,不知有陸道,今其略如此,其民人戶數不能備詳也。

 大秦道は、既に海北から陸通しているが、海に循して南(に陸通)すると、交趾七郡の外夷と比し、また、水の道は、益州永昌に通じ、それゆえ永昌から異物が出る。前世は(益州へ)水の道が有るとだけ論じて、陸の道は知らなかった。今其の略は此の如くである。其の民の人戸数は詳らかでない。

 注 益州、永昌へは、インド北部に通商路が通じていたとされている。
   交趾へは永昌経由と思われる。物資の量は少なく、移動速度は低いが、
   交易路の鎖は存在していたということである。

 自蔥領西,此國最大,置諸小王甚多,故錄其屬大者矣。
 葱嶺の西では此国が最大であり、諸小王を甚だ多く置いている。よって、其属の大なる者を録する。

【屬大秦】 大秦属国であるが、安息近隣国でもある。
 澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,[水行半歲,風疾時一月到],最與安息安穀城相近,西南詣大秦都不知里數。
 沢散王は大秦に属す。その治は海(大海ではない)の中央にある。北して驢分に至る{水行半年である。風疾ければ一カ月で到る}。安息安穀城が最も近い。西南大秦都に詣でる里数はわからない。
 注 []内は衍文。半年航行は法外である。西南に大秦都があると云うが、
   道里がわからないほど疎遠なのに、属しているというのも不可解。
 驢分王屬大秦,其治去大秦都二千里。從驢分城西之大秦渡海,飛橋長二百三十里,渡海道西南行,繞海直西行。
 驢分王は、大秦に属す。その治は大秦都を去る二千里にある。驢分城から西して大秦に海を渡るかけ橋が二百三十里長ある。海道を渡り西南に行き、海を撓めて真西に行く。(大秦に行くというのか)
 注 架橋は、ローマの得意技である。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 参 史料篇   3/5

                             2019/10/27
【置三十六將】 上院(元老院)の理想化した姿かも知れないが、趣旨不明。
 置三十六將,每議事,一將不至則不議也。
 三十六将を置き事を議するに、一将が至らない時は議しない。
 王出行,常使從人持一韋囊自隨,有白言者受其辭投囊中,還宮乃省爲決理。
 王の外出時、常に一韋囊を持った従者を伴い、白言の者があれば、その辞を受けて囊中に投じ、宮に還って省に理を決させる。
 以水晶作宮柱及器物。作弓矢。
 水晶で宮柱や器物を作り。弓の矢を作る。(装飾はガラス細工ではないか)
 其別枝封小國,曰澤散王,曰驢分王,曰且蘭王,曰賢督王,曰汜復王,曰于羅王,其餘小王國甚多,不能一一詳之也。
 其別枝を小国に封ずる。曰く沢散王、曰く驢分王、曰く且蘭王、曰く賢督王、曰く汜復王、曰く于羅王。其以外の小王国は甚だ多く一一書けない。

【國出細絺】 羊毛絨毯、壁掛け(タペストリー)などが特産である。
 國出細絺。作金銀錢金錢一當銀錢十。有織成細布,言用水羊毳名曰海西布。
 (其)国は目の細かい絺(くずぬの)を出する。金銀銭を作り、金銭一枚が銀銭十枚に當る。細かい布(きれ)を織成し、「水羊毳」(羊和毛)を用いると言う。海西布と名付けている。
 中国と異なり、金貨、銀貨が普及しているのは、交易世界だからであろう。
 此國六畜皆出。水羊毳,或云非獨用羊毛也,亦用木皮或野繭絲作,織成氍毹、毾㲪、罽帳之屬皆好,其色又鮮于海東諸國所作也。(二字脱字)
 此国は六畜みな産する。一説には、水羊毳は、羊毛だけではなく木皮や野繭糸を用いると云う。氍毹(毛氈)も毾㲪(毛織敷物)や罽帳(毛織几帳)の属を織成し皆好ましい。其色も海東諸国の作るものより鮮やかである。
 注 古来、当地方は、毛織カーペットが大の特産であったと思われる。
   「此國六畜皆出水或云」は、二字脱字と思われるので補充した。
 又常利得中國絲,解以爲胡綾,故數與安息諸國交市於海中。海水苦不可食,故往來者希到其國中。
 また、手に入った中国の絹を解して胡綾にして利を得ている。故にしばしば安息の諸国と海上交市する。海水は苦く飲めないため、往来者は其国中に到ることを希む。
 注 (交市が波打ち際で飲料水が無いとの意と思われる。
   海は、塩水湖である。大海のことかどうか不詳。
   甘英は、地中海沿岸のローマ領に着いていない。因みに、アルメニア
   は有力国であるのに中国名が無く、條支には現地名がない。

【山出次玉石】 西域名産和田玉や青金石(ラピスラズリ 瑠璃)はどうか。
 山出九色次玉石,一曰青,二曰赤,三曰黃,四曰白,五曰黑,六曰綠,七曰紫,八曰紅,九曰紺。今伊吾山中有九色石,即其類。
 山から九色の「次玉石」を出する。一は青、二は赤、三は黄色、四は白、五は黒、六は緑、七は紫、八は紅、九は紺である。今伊吾山中に九色石が有るが其類である。(本物の玉石は出ない、ということのようである)

【陽嘉三年】 条支記事の末尾である。
 陽嘉三年時,疏勒王臣槃獻海西青石、金帶各一。又今西域舊圖云罽賓、條支諸國出琦石,即次玉石也。
 陽嘉三年(一三四)、疏勒王臣槃が海西青石と金帯各一を献上した。今『西域旧図』では罽賓條支の諸国は琦玉を産すると云うが、次玉石のことである。
 注 「西域旧図」は、必需品の西域諸国地図かも知れない。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 参 史料篇   2/5

                             2019/10/27
【國有小城邑】 国情が描かれているが、條支にしては大きすぎる。
 國有小城邑合四百餘,東西南北數千里。其王治濱側河海,以石爲城郭。

 国には小さな城邑が四百ある。東西南北数千里に及ぶ。其王は河海のそばの浜で治し、石を城郭としている。

【其土地有松】 ローマで駱駝には乗らない。養蚕もない。
 其土地有松、柏、槐、梓、竹、葦、楊柳、梧桐、百草。民俗,田種五穀,畜乘有馬、騾、驢、駱駝。桑蠶。俗多奇幻,口中出火,自縛自解,跳十二丸巧妙。

 其土地には、松、柏、槐、梓、竹、葦、楊柳、梧桐の百草が生える。民俗は、耕作地に五穀を植え、馬、騾馬、驢馬、駱駝に乗る。桑を植え、養蚕する。俗に奇術や幻術が多く、火を吐いたり、自縛縄目をぬけ出したり、十二のお手玉を巧みに操る。

 其國無常主,國中有災異,輒更立賢人以爲王,而生放其故王,王亦不敢怨。

 其国主は常職でなく、国の中で災害や異変がおこると、すぐ有徳の賢人を王に立て、其旧王は放逐されるがそれを怨んだりはしない。

 其俗人長大平正,似中國人而胡服。
 其人々は背が高くて整っている。中国人に似るが胡服する。

【自云本中國】
 自云本中國一別也,常欲通使於中國,而安息圖其利,不能得過。

 中国の一別と自ら云い、かねて中国と通使したいと望んでいたが、安息圖其利を図り、過ぎることができなかった。

 其俗能胡書。其制度,公私宮室爲重屋,旌旗擊鼓,白蓋小車,郵驛亭置如中國。

 其俗は能く胡書する。其制は公私とも宮室は二階である。白蓋小車で旌旗撃鼓する。中国同様に街道に郵驛亭が整備されている。

【從安息到其國】 其の国は安息近傍であり、勿論、安息自身では無い。
 從安息繞海北到其國,人民相屬,十里一亭,三十里一置,終無盜賊。但有猛虎、獅子爲害,行道不群則不得過。

 安息から海を撓めて北して其国に至る。人民相属し、十里一亭三十里一置(駅)。盗賊は一切ない。但し、猛虎獅子の害で群れないで道を行けない。

 注 イタリア半島には、虎もライオンもいない、

【其國置小王】 ローマは都市国家連合であり、封建制ではない。
 其國置小王數十,其王所治城周回百餘里,有官曹文書。王有五宮,一宮間相去十里,其王平旦之一宮聽事,至日暮一宿,明日復至一宮,五日一周。

 其国は小王数十を置いている。其王の治城する所は周回百余里、官曹文書が有る。王に五宮が有り、宮は互いに十里をへだてる。其王は、平日朝一宮で政事を聴いて日暮れて一宿し、翌日また一宮に至り五日で一周する。
 注 週七日で五日執務か。ローマは二院議会があり巡回執政は到底不可能である。ローマで皇帝個人への直訴は可能であったが、それが天子かどうか。

謝辞 記事構成の関係でここに書いたが、三篇全体を通じ、筑摩書房三国志魏志の訳文が大変参考になったのは言うまでもない。又、塩野七生氏の「ローマ人の物語」のパルティア関係記事、及び、ローマの「インフラ」に関する大作第十巻に多大な啓示を受けた。なお、中国哲学書電子化計劃及びWikiの情報は大いに参考になった。陳舜臣氏「中国の歴史」の歴史記事は、時代の展望を与える読み物として大変参考になった。大いに感謝するものである。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 参 史料篇   1/5

                             2019/10/27
《西戎伝 中道西行》 魏志巻末裴松之注による  冒頭部省略
 中道西行尉梨國、危須國、山王國皆並屬焉耆。姑墨國、溫宿國、尉頭國皆並屬龜茲也。楨中國、莎車國、竭石國、渠沙國、西夜國、依耐國、滿犁國、億若國、榆令國、損毒國、休脩國、琴國皆並屬疏勒。

 中道を西行し、尉梨国、危須国、山王国は焉耆に属する。姑墨国、温宿国、尉頭国は亀茲に属する。禎中国、莎車国、竭石国、渠沙国、西夜国、依耐国、満犂国、億若国、輸令国、捐毒国、休脩国、琴国は疏勒に属する。

自是以西,大宛、安息、條支、烏弋。烏弋一名排特,此四國次在西,本國也,無增損。 (ここまで既知の西域圏である)

 是の以西に、大宛、安息、条支、烏弋がある。烏弋は一名排特。此四国は次いで西に在り、本の国であり増減はない。(新参国はない)

【前世謬】 魚豢の「後世」世界観に難があり大秦比定が整合しない。
 前世謬以爲條支在大秦西,今其實在東。世又謬以爲強於安息,今更役屬之,號爲安息西界。前世又謬以爲弱水在條支西,今弱水在大秦西。前世又謬以爲從條支西行二百餘日,近日所入,今從大秦西近日所入。

 前世、謬って條支は大秦の西に在るとしたが、今実は東である。また謬って安息に強いとしたが、今安息に役属し安息の西界と号する。また謬って弱水は條支の西としたが今弱水は大秦の西に在る。また謬って條支から西に二百余日行くと日入る所近しとしたが、今大秦から西して日入る所近しと言う。
 注 弱水は、中国神話で崑崙山下とされるが、西域実在の大河とも言う。

 大秦國一號犁靬,在安息、

 大秦国は犂靬と一号し、安息に在る。 

 注 莉軒は、前世、大宛付近の小国、それとも、安息帝国内か。
   ここで正しく区切れば、大秦は安息に在りと明解である。甘英には、
   大秦は「安息」だが、後世の誤解でローマとされたためか、辻褄の合
   わない追記がある。いずれにしろ、大秦記事ではない。

【條支】 カスピ海西岸の大国アルメニア王国との提言である。
 條支(在)西大海之西,從安息界安穀城乘船,直截海西,[風利二月到,風遲或一歲,無風或三歲]。其國在海西,故俗謂之海西。有河出其國,西又有大海。海西有遲散城,從國下直北至烏丹城,西南又渡一河,乘船一日乃過。西南又渡一河,一日乃過。凡有大都三,卻從安穀城陸道直北行之海北,復直西行之海西,復直南行經之烏丹城,渡一河,乘船一日乃過。周回繞海至遲散城。凡當渡大海六日乃到其國。

 條支は、西の大海(カスピ海)の西に在り、安息界安穀城から乗船直截海を西する、[風の利が遇えば二カ月で到る。風が遅ければ一年かかることもあり、無風には三年かかることもある]其国は海の西に在り。俗に海西と呼ぶ。其国は河を出し西に又大海が有る。海西に遲散城が有る。国から真北に下り烏丹城に至る。西南に行き又一河を渡る。乗船一日乃ち過ぎる。西南に又一河を渡り一日乃ち過ぎる。凡そ三つの大都がある。もどりて安穀城から陸道を真北に海北に行く。復真西海西に行く。復真南に行き烏丹城を経て一河を渡り乗船一日乃ち過ぎる。海を撓め周回し遲散城に至る。凡そ大海を渡るに當り六日で其国に乃ち至る。 (脱字補正 []内は衍文)

注 後世人が、大秦をローマと謬って法外な航行期間を書き込んだが、冷静
  に読み解けば、全体文脈と整合しない。また、甘英は班超の信頼厚い
  勇猛な軍人であり、任務を中途放棄することは無い。
  心ある読者は、後世捏造の誤解記事を削除して解すべきである。

                               未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇 11/11

                             2019/10/27
【大秦國】大秦國一名犁鞬,以在海西,亦云海西國。地方數千里,有四百餘城。小國役屬者數十。以石為城郭。列置郵亭,皆堊塈之。
有松柏諸木百草。人俗力田作,多種樹蠶桑。

皆髡頭而衣文繡,乘輜軿白蓋小車,出入擊鼓,建旌旗幡幟。所居城邑,周圜百餘里。城中有五宮,相去各十里。宮室皆以水精為柱,食器亦然。其王日游一宮,聽事五日而後遍。常使一人持囊隨王車,人有言事者,即以書投囊中,王至宮發省,理其枉直。各有官曹文書。
置三十六將,皆會議國事。其王無有常人,皆簡立賢者。國中災異及風雨不時,輒廢而更立,受放者甘黜不怨。其人民皆長大平正,有類中國,故謂之大秦。

土多金銀奇寶,有夜光璧、明月珠、駭雞犀、珊瑚、虎魄、琉璃、琅玕、朱丹、青碧。刺金縷繡,織成金縷罽、雜色綾。作黃金塗、火浣布。又有細布,或言水羊毳,野蠶繭所作也。合會諸香,煎其汁以為蘇合。凡外國諸珍異皆出焉。
以金銀為錢,銀錢十當金錢一。

與安息、天竺交巿於海中,利有十倍。其人質直,巿無二價。穀食常賤,國用富饒。鄰國使到其界首者,乘驛詣王都,至則給以金錢。
其王常欲通使於漢,而安息欲以漢繒綵與之交市,故遮閡不得自達。

至桓帝延熹九年,大秦王安敦遣使自日南徼外獻象牙、犀角、玳瑁,始乃一通焉。其所表貢,並無珍異,疑傳者過焉。
或云其國西有弱水、流沙,近西王母所居處,幾於日所入也。

漢書云「從條支西行二百餘日,近日所入」,則與今書異矣。前世漢使皆自烏弋以還,莫有至條支者也。
又云「從安息陸道繞海北行出海西至大秦,人庶連屬,十里一亭,三十里一置,終無盜賊寇警。而道多猛虎、師子,遮害行旅,不百餘人,齎兵器,輒為所食」。
又言「有飛橋數百里可度海北」。諸國所生奇異玉石諸物譎怪多不經故不記云。

後漢書西域伝個人評
 范曄後漢書は、西戎伝の後世史書であり、母体とも思えるので、蛇足ながら、西戎伝同様の批判を加えることとした。一部重複はご容赦いただきたい。

 後漢書西域伝は、出典不明の記事が多く、道里記事の整合性がないのも不可解である。例えば、安息国は方数千里であり「自安息西行三千四百里、西行三千六百里、南行度河,又西南九百六十里,安息西界極矣。」と書くが、東界の小安息国起点でも、西界に八千里は不可解である。

 手掛かりとして范曄言う「今書」がある。順当には、後漢書西域伝底本と思われるが、それにしては、後漢書記事は縮約が錯綜していて不可解である。

 范曄は、漢書は、條支に行った者がいないのに、條支から西二百艅日と書くのは不当と言うが、取材内容を伝聞と明記していて言いがかりである。後続の「又」二項は、漢書に該当記事が見いだせず、「今書」と解するには無理がある。甘英は「猛獣に食われる」など書かないのである。不可解である。

 最前は、大秦国人の中国行を安息が阻止したといっておいて、遙か日南から遣使は不可解だが、范曄は、だから安息阻止説が誤伝だという。日南に至る経路は、西戎伝に言及のインダス上流から、ヒマラヤの南麓斜面を行く、ネパール、ミャンマーの裏回廊経由と思われる。

 范曄が、伝聞徹底排除の書風であれば、西戎伝に示唆もない甘英非難に固執する意味がわからない。何かに激昂して、筆誅を加えたのか。史料を離れて、記事を創作するのは、史家の本分ではないように思うものである、
 
                             随想篇 完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇 10/11

                             2019/10/27
漢書西域伝に曰 承前
安息國,王治番兜城,去長安萬一千六百里。不屬都護。
北與康居、東與烏弋山離、西與條支接。土地風氣,物類所有,民俗與烏弋、罽賓同。亦以銀為錢,文獨為王面,幕為夫人面。王死輒更鑄錢。有大馬爵。其屬小大數百城,地方數千里,最大國也。
臨媯水,商賈車船行旁國。書草,旁行為書記。
武帝(前141 - 前87)始遣使至安息,王令將將二萬騎迎於東界。東界去王都數千里,行比至,過數十城,人民相屬。因發使隨漢使者來觀漢地,以大鳥卵及犁靬眩人獻於漢,天子大悅。安息東則大月氏。

<前漢紀曰> 参考
安息國王治潘兜城。去長安萬二千六百里。地方數千里。城郭數百。有車船商賈。書革旁行為書。記其俗與罽賓國同。亦以銀為錢。文為王面。曼為夫人面。一王死輒改其錢。出犬馬大雀。

魏略西戎伝に曰
大秦國一號犁靬,在安息、
條支(在)西大海之西,從安息界安穀城乘船,直截海西,遇風利二月到,風遲或一歲,無風或三歲。其國在海西,故俗謂之海西。有河出其國,西又有大海。海西有遲散城,從國下直北至烏丹城,西南又渡一河,乘船一日乃過。西南又渡一河,一日乃過。凡有大都三,卻從安穀城陸道直北行之海北,復直西行之海西,復直南行經之烏遲散城,渡一河,乘船一日乃過。周回繞海,凡當渡大海六日乃到其國。


後漢書西域伝に曰
自皮山西南經烏秅,涉懸度,歷罽賓,六十餘日行至烏弋山離國,
地方數千里,時改名排持。復西南馬行百餘日至條支。
 烏弋から西南馬行百日で條支とは不可解である。條支は烏弋の西南となる。

【條支國】條支國城在山上周回四十餘里。臨西海、海水曲環其南及東北,三面路絕,唯西北隅通陸道。土地暑溼,出師子、犀牛、封牛、孔雀、大雀。大雀其卵如甕。轉北而東,復馬行六十餘日至安息。後役屬條支,為置大將,監領諸小城焉。
 安息は、條支の東北にあるというが、烏弋に着いてしまうのではないか。

【安息國】安息國居和櫝城,去洛陽二萬五千里。北與康居接,南與烏弋山離接。地方數千里小城數百,戶口勝兵最為殷盛。其東界木鹿城號為小安息,去洛陽二萬里。
章帝章和元年(87年),遣使獻師子、符拔。符拔形似麟而無角。
和帝永元九年(97年),都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度,而安息西界船人謂英曰:「海水廣大往來者逢善風三月乃得度,若遇遲風亦有二歲者,故入海人皆齎三歲糧。海中善使人思土戀慕數有死亡者。」英聞之乃止。
十三年(101年),安息王滿屈復獻師子及條支大鳥,時謂之安息雀。
自安息西行三千四百里至阿蠻國。從阿蠻西行三千六百里至斯賓國。從斯賓南行度河,又西南至于羅國九百六十里,安息西界極矣。
自此南乘海,乃通大秦。其土多海西珍奇異物焉。

                               未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  9/11

                             2019/10/27
*整然、流麗たる錯乱 Miscarriage of Justice
 後漢書西域伝の條支、安息、大秦三国記事は、其の順序で立てられていて、各国記事は、国名に始まり、国都位置など要項から始まる体で、整然としているのです。書かれている文章は流麗で、史書として空前の美文と言えます。しかし、肝心の内容は、筋が通らず混乱していると言わざるを得ません。
 笵曄は、西域伝の結部で前世記事を非難しています。
 第一事例では、「漢書が条支西方に弱水が在ると言うが、条支から帰還したものがないから風聞に過ぎない」つまり、そのような虚報記事は書くな、と論難しますが、伝聞と断って書き出しているので早とちりの誤報です。
 続く二項目は、漢書に該当記事がなくお門違いの言いがかりと見えます。推測になりますが、范曄が引き合いに出しているのは、班固漢書ではなく、西戎伝の原点となる後漢史書かも知れないのです。引き合いに出しているのは、西戎伝記事に大変似ているのでそう見えるのです。いずれにしても、間違った史料を間違って非難しているようです。范曄の西域観の錯誤です。

*弁論の終わり The Court of Last Resort
 と言うことで、当記事の甘英弁護の結末は歯切れが悪いのですが、言い甲斐のある孤説だと、から元気を出しているのです。当方は、史上の冤罪犠牲者の最後の法廷のつもりであり、其の視点で評価いただきたいものです。

■ミニ史料篇 最後に、関連記事を抜粋します。
史記大宛伝に曰
安息在大月氏西可數千里。其俗土著,耕田,田稻麥,蒲陶酒。城邑如大宛。其屬小大數百城,地方數千里,最為大國。臨媯水,有市,民商賈用車及船,行旁國或數千里。以銀為錢,錢如其王面,王死輒更錢,效王面焉。畫革旁行以為書記。
其西則條枝,北有奄蔡、黎軒。
條枝在安息西數千里,臨西海。暑溼。耕田,田稻。有大鳥,卵如甕。人眾甚多,往往有小君長,而安息役屬之,以為外國。國善眩。
安息長老傳聞條枝有弱水、西王母,而未嘗見。

漢書西域伝に曰
烏弋山離國,王去長安萬二千二百里。不屬都護。戶口勝兵,大國也。東北至都護治所六十日行,東與罽賓、北與撲挑、
西與犁靬、條支接。
行可百餘日,乃至條支。國臨西海,暑濕,田稻。有大鳥,卵如甕。人眾甚多,往往有小君長,安息役屬之,以為外國。善眩。
安息長老傳聞條支有弱水、西王母,亦未嘗見也。自條支乘水西行,可百餘日,近日所入云。
烏戈地暑熱莽平,其草木、畜產、五穀、果菜、食飲、宮室、市列、錢貨、兵器、金珠之屬皆與罽賓同,而有桃拔、師子、犀子。俗重妄殺。其錢獨文為人頭,幕為騎馬。以金銀飾杖。
絕遠,漢使希至。自玉門陽關出南道,歷鄯善而南行,至烏弋山離,南道極矣。
轉北而東得安息。

                               未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  8/11

                             2019/10/27
*甘英の大秦関心/無関心
 随分長くなりましたが、甘英は、対峙したのが小安息であることは承知していたということを言いたいだけです。西域伝の多くは、班超が手がけたものであり、副官たる甘英の筆が縦横に走っていますので、どのような筆になったか確認いただくために念を押したのです。

 つまり、甘英は、大秦を小安息あたりの小国と見ていて、聞いたこともない、夢にも知らない西方大海の果てとは解していませんでしたし、まして、重要な大国と見ていなかったので、たいした関心を置いていなかったのです。

 西方の地理を略記したのは世界の西の果ての定形記事であり、ここで白玉山、西王母以下を書き残しましたが、地名連想だけであり、風聞ですらありません。これを、大秦の地理情報としたのは後世の誤解と思われます。

 そのような誤解を助長する行程談義が二カ所に書かれていますが、記事の文脈と整合しない、根拠のない風聞が混入したものであり、魏略の原史料である後漢朝史料に対する無用な追記ですから、削除して読解すべきです。

*重い使命 Mission of Gravity
 後漢書の甘英誹謗は無法ですが、丁寧に応対すると以下の通りです。

 魏略記事の順当な解釈を度外視して、西域都護の副官甘英が、西方渡海を企図したとすれば、それは、都護の命令となります。現に実施中で達成期限を課されていた西方探査の大幅遅延とそれに伴う多額の追加費用に対して、事前に西域都護に書面で上申して返信書面で班超の裁可を得ぬ上の班超指令に基づく探査行です。甘英は、漢帝国の軍人であり、班超の命令は、身命を賭して達成しなければならないのです。いや、甘英が、そのように謹直、且つ勇猛な軍人ですから、班超は、この副官を長途西方に派遣したのです。

□後漢書の虚報 The Great Fake News
 范曄は後漢書に、甘英が安息海人の言を聞いて断念したと明記していますが、このような大命を帯びた軍人が、一介の船人の余言で怯えた使命放棄はあり得ないし、班超が、このような無様な報告を奏上するはずがないのです。魏略に反映された後漢文書に甘英の使命放棄は書かれていなかったから、後漢書記事は、史料に根拠のない笵曄の創作と感じるのです。

*范曄誤釈 Just Fakin' it
 范曄は、なぜそこまで工作して、先行史料にない、甘英大秦行きを労作したのでしょうか。西戎伝を誤解して、西戎伝の正確な地図を無視して我流地図を描いたのでしょうか。それにしては、各国位置と行程道里の錯誤に語彙混乱が重畳しています。現代に到るも諸国比定が落ち着かないのは、范曄が提供したのが、混沌たる「西域地図」であるせいかと思えるのです。

 先行史料には、条支は、安息西の大海の岸であり、大秦は、安息にほど近い内陸小国として描かれています。大安息の西に条支があり其海岸から西に船出する構図は書かれていません。笵曄は、なぜか、大秦を西方彼方の楽園と決め込んだようですが、そこに到る道里は無いし行程も書かれていません。

 そして、甘英が折角地中海岸に辿り着いたのに、無教養な武人が海路に挫けて楽園に行かずに意気地無く引き返したと見て、筆誅を加えたかと思われます。何の証拠もない独断と偏見ですが、それ以外、范曄がこのようなでっち上げを書く動機がないのです。事ほどさように、ここに示された後漢書の粉飾捏造と混乱は、度を過ごしているのです。

                               未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  7/11

                             2019/10/27
*文から武へ
 その後、班超は思うところあってか、筆を剣に持ち替えて、武人として天下に尽くす道を選んだのです。

 と言うものの、文筆家の家に生まれて教養人として育てられましたから、、手に筆のある人であったのです。当然、軍人として西域都護に続く職に就く以上、史記、そして、編纂中の漢書稿の西域記事は諳んじていたものと見られるのです。少なくとも、座右の書としていたはずです。

 つまり、班超が育てた甘英は、軍人として異例の教養を備え、西方探査に就く以前から史書西域記事が念頭にあったと見るべきです。また、自身筆を執って日々の記録を書き付けていたと見てもいいと思うのです。軍人には、文書を書けずに、報告書の上申に載しては、書記役が指示を聞き取り上書したものも珍しくなかったのです。

*水練不詳
 もちろん、当時は、武技に劣る指揮官はあり得ないのですが、水練が必須であったかどうかは、不明です。つまり、甘英が中原人として海を実体験していたかとか、水練を受けて泳げたのか、金槌だったかは、記録にないのでわかりませんが、世間並みとすると、大海を知らない金槌だった可能性が高いと思われます。後に多少関係します。

*西域都護の使者
 甘英は、国書持参の国使でなく、班超の都護の地位は、領国の王、郡太守に匹敵する地位ですから、いわば国王待遇であり、相手方が、大安息帝国の東域都護の有司、小安息国国王の代理であることは、想定内であったと思われるのです。ただし、国王との接見はできたはずです。

 つまり、この際の交渉は、対等の二国の同等の地位にある者同士でしたが、対等の二国は小安息国と西域都護の二者であったということです。

 この点は、後漢朝当時は自明で、殊更書き立てていないものであり、それ故、事情を知らない後世人は、大安息国と大漢国の交渉と見たようです。

*二種の道里
 参考として、漢書も西戎伝も、外国の位置表示には、大漢帝都規準と西域都護治所規準の二種の里数が書かれているのを見ても、漢側の意識が現れています。蛮夷には、自国から漢都洛陽までの道里は想像も付きませんから、漢側で書くのです。都護治所基準の里数は、蛮夷の方から、何日あれば到着できるかという申告でもあるので、蛮夷が申告するのです。

 各国の帰順は、都護への服属で判断され、ごく一部の有力国だけが、漢帝国への帰属が認められ、帝都への遣使を許されいる図式が見えるのです。これは、古来の官制で決まっていることであり、班超も甘英も承知のことです。

 と言うことで、中国政権は、既に帝国と使節交換した大国内の小国が、帝国と直接交渉することは一切認めませんから、其の意味でも、小安息国は西域都護と交渉し、大安息国と大漢は、背後にとどまっているのです。

 既に、史記大宛伝に於いて、漢武帝使節の「安息」到着の際に、安息国は数千里に及ぶ大国であると明言され、王都から王の代理人が到着して、大安息と大漢の対峙となりましたが、当時応対したのは、安息国東域の軍事、外交を一任されている小安息国であったことが語られていますから、班超も甘英も、そのような統治形態は承知していたのです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  6/11

                             2019/10/27
*魚豢の前世批判 Sour Criticism
 続いて、魚豢は、前世の記録に批判の筆を加え、安息国を大安息と見て、それが史記、漢書の視点と異なると感じ取れます。安息国は、西のメソポタミア地域まで領分なので、その西は地中海です。条支はその西では海中です。この難題を機敏に解決する動きが、今日も全世界で続いているのです。どこかで聞いた気がするかも知れませんが、それは耳鳴りの空耳ですので、気にとめないでください。「まぼろしの大秦国」も同様です。

*大秦談義 A Surprise Attack
 誤釈の端緒は、唐突に「大秦」は、と書いた文にあります。「新規国はない」と宣言した口の下から、新顔の大秦記事を書き出すのは、不意打ち、つまり、予告違反です。

 甘英が新参の「大秦」の記事を書くとしたら、前世記事との重複を避けつつ、まず安息、続いて条支を書き、そのあと、段落を改めて「大秦」は、と書くものです。

 各史書の各国伝は、文書構成として妥当ですから、後漢書西域伝の母体となるべき西戎伝も、本来そう構想されて書き出されたはずです。

□大秦国所在地論 The Disenchanted City at World's End
 大秦別名の莉軒(黎軒、犁靬、犁鞬)は、史記記事の安息国貢献特産物の産地であり、特産として提示したから、莉軒は、国内ないしは近傍地名なのです。つまり、大秦は小安息の国内、ないしは、ごく近隣なのです。
 いや、史記大宛伝では、武帝の西域遣使の初期段階で、奄蔡、莉軒と並記した上で、小安息の北、恐らくアラル海付近の行国、つまり、季節的な移動も含め、移住を前提としていた小国として紹介され、漢との交流が示唆されているので、漢は大安息の内部への移住を把握していたものと思われます。
 西域諸国の変遷に通じていた白鳥庫吉氏は、行国の国ぐるみの移住は、著名な月氏の例以外にもあり、別に珍しくないと明言しているので、後漢甘英の西域探査時は、移住が完了していたのでしょう。

 と言う事で、当記事は、魏略西戎伝の大秦、往年の犁靬は、大安息の一地方という意見です。西戎伝には大秦の多彩な産物が列挙されていますが、乳香のようなアラビア半島南方の産物を除けば西方産物は少なく、その所在地は、安息、條支両国の近傍、安息帝国の中央部でカスビ海南方のメディア国と思われます。

*憶測の「中国」「メディア」論 The Country in between, Media
 道草の大秦由来談義で、以下の成り行きを組み立ててみました。

 元々の「莉軒」等は、現地名の当て字ですが、国名を二字佳名で西域都護に登記する時に、推定所在地域が「メディア」(小国名)、意味として「中国」、つまり、大帝国の東西の中程にある国と云う所から模索したようです。

 と言うものの、そのまま「中国」では僭越・不遜なので、古来西域で中国の代名詞とされていた「秦」の派生で「大秦」の二字国名を名乗ったのかと思われるのです。西方ローマは漢字の「秦」を知るはずがないのです。

■甘英弁護の試み A Lone Defender
 さて、本論である甘英弁護となれば、当人の素性を明らかにしないといけないのですが、資料がないので班超を語るしかありません。

 甘英は、班超の副官で、安息条支の探査という重大な任務を命じられましたから、班超のお眼鏡にかなった人材であり、それまで、班超の指導を受けて育成され昇任した人物ですから、班超を知れば、甘英を知るのです。

*班超小伝
 班超は、文筆家として育ったようです。兄班固は、父が史記に続く史書を私撰していたのを継いで正史漢書をものにした大家ですが、最初から史官として官撰史書として取り組んだのではありません。史記を包含する漢代史を本山すべきだという使命感から私撰に着手し、禁制に触れたとして投獄されたのです。

 後漢当時、私撰史書を編纂するのは重罪だったので、班固は命を落とすところでしたが、班超が皇帝に命がけで弁明して、班固の私撰は公認され、官撰史書、つまり漢書の編纂に取り組んだとされています。

                               未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  5/11

                             2019/10/27
*六日間「大海」一周 Around the Sea in Six Days
 かくして、誤記を訂正した行程では、大海(カスピ海 The great sea or The major sea)は六日周回程度の広がりの塩湖(Salt lake)です。甘英が、目前の大海を書かず向こうの地中海を書くはずが無いのです。又、安息西界、つまり、小安息と條支の国境地帯から地中海に行くのは、陸上行程が数千里にのぼり、直ちに乗り付けるわけにはいかないのです。

 言い漏らしたようですが、ここで言う「大海」は、カスピ海全体を言うのでなく、安息-條支の往来が頻繁であった「海南」つまり、南部を指すのであり、これは、当時の現地人の世界観と整合するので、筋が通って見えるのです。

*条支国記事開幕
 以下は、未交際で注目の条支記事であり、定説で、其国は通称海西と書き出されているのは、誤改行のせいです。主語と誤解されていた「其国」は、是正された記事では「条支」が書き出し主語となります。これは、諸国伝書法の常道であり、凡そ、すべからく、そのように書いたものです。

 誤釈を振りほどくと、条支は、安息の西のカスビ海西岸にあり、著名なアルメニア王国です。其国は、東西大国の狭間の緩衝地であり、両属であったため、安息国に従属的な姿勢を保っていたのです。今日まで、地域大国のアルメニア王国の中国名は不明でしたが、条支と解すれば整然とするのです。

 なお、安息西界安徽城の実体は、条支安徽城であり、安息に対して、「貴国の西方国境の守り」と称したのです。そう理解すると、西戎伝の冒頭は条支の風俗、地理、産物について書いているのが、理解しやすくなります。

 あるいは、甘英は、帰国の途次、烏丹城、遅散城に脚を伸ばしたのかも知れません。裏海は一周六日で、班超の裁可なしで当人裁量で出かけられたはずです。何しろ使命の一貫ですから、行かねばならないのです。

*禁制の内部告発
 条支国は、かねて、(絹原産地)中国と直接交流したいと願っていたが安息から厳禁されているとか、安息は、仕入れに十倍の値を付けて巨利を博しているとか、安息が耳にすれば関係者が粛正される内部情報を語っていますが、これは、帰国途上、条支に立ち寄り取材したと見れば筋が通るのです。

 漢帝国は、商売に無関心で読み過ごしたようですが、自国絹織物が西域諸国で十倍、安息国で十倍とするとローマの支払いの九十九%が、途中で仲介者に取られて、漢には一% (以下)しか届かないのです。膨大なローマ金貨が、絹の代金として東方に流出しても、中国でとんと見かけないのはそのためです。

*西戎伝の記述
 さて、ということで、少し前に戻ります。

 西域中道を踏破して安息国を前にして、新たな領域である西戎地域をどのように叙するかというと、まずは、史記、漢書の書いた、安息、条支の記事を踏まえて、両国の詳細事情を語るという手順になったはずです。流れで、既報の内容が出てきますが、ご了解いただきたいです。

*西域四国宣言 Just Four Countries, No More, No Less
 実際は、まず、前世、西域中道の極まる地域に四ヵ国があると書いたとしていて、西戎伝では国数に増減はないと明言されていますから、新規に特筆すべき大国はなかったということです。しかし、現代解釈では、そこに大秦国なる五国目の紹介記事が長々とが書かれていると読み取っているのです。

 すると、魚豢は国を数え損なったのでしょうか。それとも、五とある字を四と書き替えたとか、写本時に誤記したということでしょうか。以下、読み進めばわかるはずです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  4/11

                             2019/10/27
*中休み
 ここまでは、西戎伝編纂の背景を確認したのであり、当方の意見では、史料解釈の基本の基本と思うものです。長々しかったと思いますが、建物の基礎が傾いたり不安定では、建物を正立できないのと同じです。

*大海を知らず Salt Lake, not Ocean
 ここで、時代による語彙のずれについて確認します。

 歴史的な「大海」の意味について、日本人を含め、後代人全般に誤解があります。とかく、この言葉を、アメリカ人風に大洋(Ocean)と理解していますが、実は、でかい塩水だまり(Significant salt lake)なのです。大海とは、現地人が見た姿であり、よその地中海などと比較したものではないのです。

 少くとも、二,三世紀までの中国人、中原の住民は、四海と言いつつ、東海すら地平の彼方で大洋の概念はなかったのです。つまり、倭人伝の大海は、広大な太平洋ではなく、日本海ですらなく、大河のように向こう岸がわかっていて、一日やそこらで渡れる、ちょっとした水たまりに過ぎないのです。

 と言うことで、ここでは、すぐそこにある大海の第一候補は、カスピ海であり、第二位以下は、無いに等しいのです。

*大海談義 The Graet Sea at a Glance
 大海が大安息帝国の西であれば、地中海しか当てはまらないのですが、その時は、海西はどこなのか。西洋の研究者は、長年、この読みを掘り下げてインド洋まで視野を広げているようですが、西戎伝は小安息人の規準で近隣地理を描いたのであって、大海はカスピ海、海西、海北、海東は、その周辺と見るものです。この食い違いがとんでもない誤解を生んできたのです。

*カスビ海周行記 Neighborhood Travelogue
 見聞記の始点で、国の西北に大海があり、早速、安息西界安徽城基点で、「大海」西岸に在る「海西」への行程が二通り書かれています。

 一つは、南岸沿いに西北に遲散城に至る行程であり、もう一つは、始点の安徽城起点で逆回転の反時計回りで、海東を北上して海北に至り、海岸に従って西に移動した後転じて南下し、烏丹城を経て遲散城に至り、六日間の大海周回が描かれています。甘英は、大海がカスビ海であることを念入りに明記したのですが、場違いな衍文で、折角の細心の記事がぶち壊しです。

 いつどんな事情で書き足されたかわかりませんが、原文を改竄するわけでもなく一目で場違いとわかる所を見ると、不本意ながら書き込んだかも知れないと思えるのです。或いは、竹簡の段階で綴じ紐が外れて散乱したのを、収拾する時に、衍入したかとも思えるのです。

*誤記が生む誤釈の長い影
 西戎伝に「烏遲散城」が見えますが、記事文脈から判断して単なる誤記と思われます。おそらく、南に進み川を渡る無味乾燥な行文の繰り返しで写本工の意識が錯綜したのでしょうが、海西には三都が予告されているから、安徽城、烏丹城、遲散城で満員で、四都目の烏遲散城は余計なのです。英文資料は、アレキサンドリア(Alexandria)と見ていますが、こじつけです。

 又、中国の文化・教養では、夷蕃地名の命名は原則二文字であり、三文字地名は不首尾です。甘英も魚豢も教養人ですから、そのような不手際は後世に残さなかったのです。つまり、これは転なる誤写と見るべきです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  3/11

                             2019/10/27
*西戎伝の視点
 西戎伝に至る史記以後の安息以西の記事は、この小安息の地に立った視点で描かれていると見るべきなのです。もし、漢使、つまり、中国政権の公式使節が、更に西に進出して、現地君主と国書を交換すれば、其の地点の視点に更新されますが、それまでは、視点を動かすべきではありません。

*小安息論
 ここで重要なのは、漢使の窓口は、小安息国なる小国であり、返礼の安息国使が漢に貢献したのは、条支と莉軒、つまり、小安息国に属していた地域の特産物です。メソポタミア特産の青い瑠璃ではなかったのです。

*偉大な小国
 つまり、当時、パルティア帝国は、漢との交渉を完全に小安息国に委ねていたのです。以後も、特に断りがない限り、古代資料の安息は、漢と使節交換した小安息です。但し、小安息は軽視できません。小安息は、安息帝国の発祥地であり歴代王墓の地旧都ニーサを首都としていました。と言っても、長く、小安息と大安息、小パルティアと大パルティアは、混同されたのです。
*パルティア由来記
 ここは、欧州視点です。武帝当時、パルティア帝国は旧都ニーサから遙か西方の帝都クテシフォンに移動したばかりで、アッシリア以来のメソポタミア勢力制圧と西方から侵入するローマ勢力との対抗に忙殺されていました。
 いわば、小安息は、軍事的、政治的、経済的権限を持つ東都として、オアシス国家と東北匈奴勢力進攻の対応を一任されていたのですが、東西交易の物流の要で富裕であったため、北方の遊牧民系部族、オアシス国家、東の天竺と略奪を狙った「敵」が多くて、安穏では無かったのです。

*一万人の俘虜 Ten Thousand POWs in Mary
 一世紀に起こったローマとの対決で大軍を壊滅させた帝国は、一万人の戦時捕虜を東方の小安息に委ねて、東方最前線のマーブ要塞守備にあてたのです。訓練されたローマ兵士捕虜を移動し、砦の尖兵とするには、同数以上の自国兵と兵站が必要であり、同要塞の規模と管理能力を想像できるのです。

*甘英の見た安息
 と言うことで、後漢時代、甘英は、史記の安息を見たのであり、西方に連なる大帝国を見たのではないのです。帝都クテシフォンは、整備された街道と文書通信網のおかげで、小安息から一ヵ月以内でしたが、甘英自身がこの旅程を踏破したとは思えないのです。また、安息帝国王に接見したとか、国書を承けたとの記録もありません。安息帝国に対して後漢との交通を求めなかったのです。安息帝国内部に関する記録がないのはそのためです。
 なお、後にも出る話題ですが、甘英が班超から安息帝国国王との国書交換を使命として与えられていたのなら、何としてもクテシフォンと折衝したはずであり、使命不達成で終わったのであれば譴責されたはずですが、そのような記事はありません。小安息との交流で、特記事項は無かったのです。

*小安息国の漢帝国観
 小安息国の視点を確認すると、漢帝国たる後漢が、オアシス諸国から匈奴を駆逐して、交易の安全を確保した西域管理を支持し、漢の武力を抑止力として高揚する外交努力は惜しまなかったのです。安息国は、商業国家であり、交易を疎外する武力紛争は、本意では無かったのです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  2/11

                             2019/10/27 2020/05/06
*句点の是正 Rectified Punctuation
 句読点のない原文に戻ると、魏略は「大秦國一號犁靬在安息」、つまり新来の大秦は前世の犁靬(莉軒)であり、今は安息に在る、つまり、大国の内部地域となっていると言いきっているのです。

 そして、文を改めて「條支(在)西大海之西」、つまり條支は、西の方の大海の西、海西(に在る)と読めば、まことにすんなりと意味が通るのです。以下、魚豢は、しばしば、後漢当時の現地視点に即して、時に、是正するのです。

 先立つ漢書西域伝で、安息東方の烏弋山離の地理説明で、烏弋は西で、條支、莉軒と接していると書いていますから、漢代莉軒は條支の南北何れかにあったのです。ただし、それ以前、莉軒は、康居の付近、つまり、北のアラル海付近にいたとの記事があるので、その間に移動、移住したもののようです。

 白鳥庫吉氏によれば、匈奴に代表される草原の民族は、農作に従事していないので、土地に縛られることが少なく、時に、住民ごと遠距離に移動するから、国名、種族名だけで、居住地を決定できないことがあると書いています。また、城塞と言っても、石造でなく木柵や土盛りであったため、大軍が殺到した時には籠城することができず、逃亡したという事です。併せて、財宝は、小粒で高価な金銀、玉石であり、全財産を身につけることができたので、さっさと別天地に移動できたようです。

*是正した原典の解釈 Rectified Document
 と言うことで、当ブログの自己紹介にも書いた信条に従い、原典に復して丁寧に記事文面を読み、冒頭に掲示した模式図(picture)を得たのです。世上の大秦ローマ論に比べて、随分ちんまりした世界図ですが、堅実な世界観に基づくエレガントな解答例であり、ご一考に値すると思うのです。

 又、本記事の真骨頂は、原文解読の分水嶺である句点打ち直しですが、別に神がかりでなく、資料全体の読解を経て到達した解法ですので、句点が異例とか、漢文知らずの日本人の考え違いとか論難されても、それは、真剣な論争で当記事論考を全面的否定する力を持たないと考えるのです。

 一応、抗弁すると、西戎伝は、保存状態が上質であった後漢史料に基づく編纂と見えますが、後漢史料が、甘英などの上程した報告書を編纂したものであり、全体として優れた考証が施されているように見えますが、木簡、竹簡などの簡牘の校閲にあたって、手違いがあったと見られる点もあり、丁寧に読み解いていく努力が不可欠であるのは、言うまでもありません。
 魚豢が魏略を編纂した時点は、後漢末期の西域撤退から長年を経ていて、往年の西域都護の組織は廃止されていたことから、後漢西域史量の考証は、洛陽に保管されていた諸史料に頼らざるを得なかったのです。かくして、史官としての魚豢は、史記大宛伝、漢書西域伝で発生した「安息国」を東西数千里の広大な領土を有するとの見解を踏襲し、これが、笵曄を、錯綜した伝聞記事との判定に導き、後漢書西域伝に於いて、「快刀乱麻」の武断を呼んでしまったのです。ただし、魚豢は、史官として、原史料を温存しつつ、自身の考証を書き足す編纂方針をとったため、後世人は、原史料の全貌を推察することができるのです。

*海西大秦エジプト論批判 (Weilue 魏略 by Yu Huan 魚豢)
"Chinese Accounts of Rome, Byzantium and the Middle East, c. 91 B.C.E.-1643 C.E.
Halsall, Paul (July 1998).  B.C.E. Before Christian Era. C.E. Christian Era BC AD

 西洋事情を知るためにネットで読み募った英文資料です。確かに中国史書の把握に抜けはありません。当記事同様、史記、前漢紀、魏略、後漢書の該当部分を適確に取りだして論じています。但し、順当とは言え、魏志句点本を採用し、魏略の航行期間論も尊重して、筑摩本と同様、西戎伝の「安条大伝」(安息条支大秦伝)は、海西論で開始していると解釈しています。

 又、原文の「大海」は、Ocean(大洋)とみて、インド洋から紅海に連なる海洋と翻訳しています。
 つまり、大秦国は、紅海西岸のエジプトという議論です。エジプトは、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)と(帝政ローマの始皇帝)アウグストゥスの父子二代以来ローマ属州であり、東地中海岸とローマ本国を結ぶ海洋航路の要地であり、東方人士は、ここをローマとみたとの意見です。あわせて、条支も、西方に押しやられています。

□異議提示 Objection!
 これに対する当方の異議は明確です。当時、パルティアとローマは、一世紀近い和平が維持されていても、一世紀の二度のローマの遠征と大敗を承けて、潜在的に戦争状態にありました。

 当時シリア(レバノン)は、ローマ属州であって、四万の大軍が常駐し、いわば、パルティアにとって差し迫った脅威ですから、遠来の客人に、敵国ローマの走狗、シリアを親しく紹介するわけはないのです。

 パルティア仲介の東西交易は、和戦に拘わらず活発で、交易が遮断されることはなかったのですが、東方異国の軍人のパルティア領からローマ領への移動は許されなかったはずです。

 いや、そもそも、大秦国がローマ帝国との比定には、信ずるに足る根拠がないのです。

*史記確認
 史記の記事では、武帝が西域から匈奴勢力を一掃して東西通交が確立された後として、武帝が安息に漢使を派遣した際の報告が収録されています。それによると、安息は大国の一地方ですが、東北辺境といえども「小安息」の敬称で語られ、要塞に二万の大軍が常駐し、帝国の東方管理の大任を担っていたと示しています。張騫の密偵探査記録でなく、漢使の見解ですから、大いに尊重されるべきであり、漢の西方を極めた記事です。

 史記、漢書の安息記事と条支記事は、安息長老(小安息国王)から提供された情報集を利用したものと推定されるのです。つまり、漢使は、安息から西には進まず引き返したのです。ちなみに、「長老」は、老人という意味ではなく、最高級の高官という意味です。後世、江戸幕府で、幕閣の要職は「老中」であり、最高級として「大老」職が設けられたのも、同様の趣旨です。甘英は折衝した相手の役職を(小)安息王と書くと洛陽の史官を混乱させるので、「長老」と書いたものと思われます。 

 漢使の本文を確認すると、その使命は、安息国への使節ですから、使命外の土地へのまわりみちは許されないのです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  1/11

                             2019/10/27
█随想の弁
 ここに書きまとめたのは、従来、魏志東夷伝末尾に裴松之によって追加された魚豢魏略西戎伝(以下、西戎伝という)の解釈を余り見かけないので、自称「倭人伝」専攻論者が、信条に従い賢明に丁寧に読み解いたものです。
 所記の目的は、倭人伝道里記事の用語、用字の同時代用例を確認するものであり、追加として「ローマとパルティア」の記録を求めたものです。

*資料篇紹介
 西戎伝の関連部分を翻訳した資料篇を別記事としているので、詳しくはそちらを参照頂きたい。(筑摩書房三国志Ⅱの該当部分を参考にしました)

□魚豢編纂「魏略西戎伝」(西戎伝)とは (再掲)
 魏略は、三国志とほぼ同時代に編纂された史書であり、三国を並記した三国志と異なり、魏朝一代史であり、四百年にわたる漢を継いだ正統政権、呉、蜀を、反逆者としているのです。魏略は、暫時帝室書庫の所蔵書籍として、厳格な写本継承が行われていましたが、魏朝の正統性への評価が低下するにつれ、書庫外に押しやられ、次第に散逸したようです。
 因みに、西戎伝とあえて銘打ったのは、漢書西域伝で、漢との交流、西域都護への帰属が表明されている西域諸国の「伝」は、既に記録にとどめられているのに対して、ここでは、それより西、漢の威光の及んでいない蛮夷「西戎」諸国の国情を初めて天子に報告するとの意であり、それら新来諸国が、魏の威光に服すれば西域は西方に延びるという主旨と思われます。

*西戎伝の信頼性
 一般論として、魏略佚文には信を置けないとの定評ですが、こと、西戎伝の評価は大変高いのです。裴松之が三国志に付注した劉宋時代、厳重に写本管理された魏略善本を定本とし、写本引用は、裴松之が責任を持って管理した適正な引用であり、三国志原本編纂と遜色のない資料管理が高い信頼性との評価をもたらすからです。誤写や誤記は、数カ所の明白な誤記と後年加筆らしい数行の不審記事にとどまり、正確な史料と見られるのです。
 因みに、二十世紀初頭にかけて中央アジア広域を探検したスウェン・ヘディン(スウェーデン)は、西戎伝を信頼すべき座右の書としたそうです。

*西戎伝の原点
 さて、魏略の言う西戎、つまり、西域中道の果てる所から先の世界に進み、前世の西域伝の所記に加えた新参諸国談義は、本来、史記、漢書に明記されていなかった条支、安息から開始するはずです。ところが、ぱっと見、正体不明の「海西」の記事で開始するようで、前世の記録の確認と是正を旨としている魚豢魏略にして見ると不用意と思えるのです。

□誤釈の始まり Mistaken for Granted
 海西とはどんな国か問い直すと、句点本が、誤解の始点と見えてきます。
 大秦國一號犁靬在安息條支西大海之西
 句点なしで原文をたどると、大秦国は「安息條支の西大海の西」となりますが、安息条支とは、安息と条支のまとめでしょうか。初出の大秦国の所在を明確にするという意味では、安息と条支を並べて起用するのは不適当です。

*出直した読解
 当方は、一介の素人ですので、ここで読解に躓き椅子に座り直して、一から出直して読みなおしたのです。いえ、何度も出直したのです。
 自由な素人の強みと自慢したいところです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  4/4

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□誤釈の起源 Origin of Speculation
 魚豢は、安息国が小国という意識を維持できず、数千里にわたる超大国と誤解したため、安息国西界、つまり、西の果ては、はるか数千里の果てと見て、その西界から行くから条支国は安息帝国の西方と誤解したようです。
 そして、「大秦は、既知の莉軒であって大安息内部、小安息近傍」との端的な行文を誤解釈し、余計な何ヵ月という海上所要日数を書き足したのです。
 そのため、条支、安息並記と読んで「大海」地中海の西の「海西」と見て文を閉じ、直後に開始の海西記事が大秦記事と誤解され、さらに沢山の誤解を誘発したのです。何のことはない、条支は、大海、実はカスピ海のすぐ向こう岸であり、条支の向こうは(直に見えない)黒海だったのです。

*本当の条支探査
 本来の条支行きは、当然、船での移動でしょう。いくら軍人でも、虎や獅子は避け、難なく便船で渡海したはずです。因みに、条支は、海西にあって、大海カスピ越しに手に入れた小安息国物資を、主として、黒海越えで陸路流通し巨利を得ていたようです。ローマ同盟国の特権です。

*使命の達成報告 Mission Complete
 それはさておき、条支国の国情を見定め、今後の交情を約したことにより、甘英は、所記の使命を達成し班超西域都護に向かって東に帰ったのです。
 当然、甘英は、堂々たる文書をもって班超に復命し、班超は、それを嘉納すると共に、洛陽の皇帝に報告文書を届けたので、文書は皇帝のもとに届いたのです。不首尾の報告まであれば、班超は譴責を承けたでしょうが、そのような記録は残っていないのです。いや、記録はなくても、班超は顕彰され西域都護の任にとどまったから、甘英の使命達成は確実なのです。

□総括
 甘英の帰任後、老いた班超は、多年の西域の激務から退任して後漢の西域経営は活力を失い、皇帝の代替わりもあって急速に退潮し、西域は匈奴の意のままになったのです。但し、匈奴は、長年の漢との衝突の多大な被害により単于独裁が崩れ、西域諸国への圧政は一時緩和されたようです。
 と言うことで、甘英は、断じて使命放棄などしていないのです。
 冤罪を報じた報いとして、范曄は史家としての不名誉を承けるべきです。
 ここは、導入篇、序論ですから、要点だけにとどまるのです。

□西戎伝道里記事の語法について
 随分手間取りましたが、魚豢が認めた用字は以下のように集約されるのです。同時代の同趣旨記事ですから、特段の重みのある用例です。
 「従」は、書かれている地点からという意味です。
 「循」は、海岸線と直交する方向を言います。
 「去」は、続く地点から逆戻りすることを言います。(方角が逆転します)
 「復」は、道里の直前起点に戻ることを言います。
 「真」は、特に厳密な四分方位を言います。
 「転」は、概して直角に進路を変えることを言います。
 「歴」は、当該国の治所に公式に立ち寄ることを言います。
 「撓」は、地形に従い円弧状に撓んだ経路を行くことを言います。
 「陸道」「陸行」は、人畜を労して、陸上を行くことを言います。
 「水道」「水行」は、人畜を労せずして、水面を行くことを言います。
 「乗船」は、便船に乗ることを言います。
 「大海」は、必ずしも大洋でなく、塩水を湛えた水面を言います。                          
                             導入篇 完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  3/4

                             2019/10/27
*小安息国と安息帝国
 大宛伝に従い接触したのは、この地の守りを任されていた小安息国ですが、しばしば、イラン高原全体を支配する安息帝国と混同されたのです。
 混同と言っても、地方国と全帝国の勘違いは、それほど深刻なものではありません。小安息国は、帝国の東の守りを一任されていて、それは、東方との貿易の収益管理も含まれていたのです。商業立国の安息帝国では、国の大黒柱として強力な権限を委ねられていたのです。それは、小安息国が安息帝国創業の地として特権を有していたとも言えるのです。

*臣従あるいは同盟
 と言うことで、甘英は、小安息国の玄関に長期にわたって滞在し、締盟を図りましたが、当然、安息国は後漢への臣従は謝絶し、中央アジアの交易路に対する北方匈奴の侵略を後漢朝西域都護が阻止していることに対して感謝を示した程度に終わったようです。
 甘英が求めたのは、二萬人が常駐する安息国東方守護の軍事力の提供であり、それは謝絶されたのです。安息帝国は、小安息に東境防備のための大軍を常駐させていましたが、自ら中央アジアオアシス諸国を攻撃することはなかったのです。金の卵を生み続ける鶏は殺すなということです。


*安息査察
 次に、甘英は安息国内の査察を望んだはずですが、客人扱いとは言え、他国の軍人に国内通行を許すことはありません。従って、安息国内の取材はできなかったのです。勿論、高度に機密性のある内部情報である戸数、工数などは得られず、又、服属の際には提示される地図も得られなかったのです。服属国でない大国から取材できる情報は限られているのは常識ですから、この事態は不首尾などでは無かったのです。
 安息国は、貿易立国、商業立国ですから、使節厚遇の一環として一大見本市を催したのですが、甘英は軍人なので一覧表を取り次いだだけでした。
 その中では、安息国の近隣と思われる大秦国の物産が多彩ですが、既に、武帝時代に安息国の第一回遣使で特産物を紹介されていた莉軒の別名ということだけ意識に止めたのです。

*条支内偵
 さて、次に望んだと思われるのは、西の条支との接触ですが、安息国は、遠路であるから条支代表者を呼びつけることも、安全を保証できない条支国への行程を紹介することも控えたようです。
 とは言え、甘英の報告には、「海西」の国情が詳しく書かれていて不思議です。安息国が近隣国の国情を紹介するにしては詳しいし、安息国に不利なことも書かれていますから、これは、密かに条支に取材したと思われるのです。概念図には、甘英が、帰途、条支に向かったと見て、条支往還経路を推定してあります。憶測ですが、さほどの道草にはならないのです。
 但し、友好関係を築こうとしている相手に隠密の内偵を悟られてはならないので、婉曲な紹介記事になったと見るのです。


*大秦造影の怪
 その結果、後世史家は西戎伝各国記事の進行を見損なっているのです。
 そして、甘英が大して気にとめなかった大秦が、後世史家の創作により、まぼろしの大国として注目されたのです。その端緒が、西戎伝に魚豢が注釈した数行ですが、イリュージョンに最も貢献したのは、范曄です。
 正史となったので、影響力は絶大であり、責任は重いのです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇   2/4

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□魚豢編纂「魏略西戎伝」(西戎伝)とは
 魏略は、三国志とほぼ同時代に編纂された史書であり、三国をほぼ並記した三国志と異なり、魏朝一代史であり、四百年にわたる漢を継いだ正統政権として、呉、蜀を、反逆者としているのです。魏略は、暫時帝室書庫の所蔵書籍として、厳格な写本継承が行われていましたが、魏朝の正統性への評価が低下するにつれ、書庫外に押しやられ、次第に散逸したようです。
 因みに、西戎伝とあえて銘打ったのは、漢書西域伝で、漢との交流、西域都護への帰属が表明されている西域諸国の「伝」は、既に記録にとどめられているのに対して、ここでは、それより西、漢の威光の及んでいない蛮夷「西戎」諸国の国情を初めて天子に報告するとの意であり、それら新来諸国が、魏の威光に服すれば西域は西方に延びるという主旨と思われます。

*西戎伝の信頼性
 一般論として、魏略佚文には信を置けないとの定評ですが、こと、西戎伝の評価は大変高いのです。裴松之が三国志に付注した劉宋時代、厳重に写本管理された魏略善本を定本とし、写本引用は、裴松之が責任を持って管理した適正な引用であり、三国志原本編纂と遜色のない資料管理が高い信頼性との評価をもたらすからです。誤写や誤記は、数カ所の明白な誤記と後年加筆らしい数行の不審記事にとどまり、正確な史料と見られるのです。
 因みに、二十世紀初頭にかけて中央アジア広域を探検したスウェン・ヘディン(スウェーデン)は、西戎伝を信頼すべき座右の書としたそうです。

*後漢書の虚報
 范曄後漢書西域伝は、西戎伝、ないしは、その原史料に基づく紀伝ですが、原史料の正確な要約でなく笵曄の常識と論理に基づく再構成が行われていて、特に、大秦関係記事は誤伝となっています。特に、甘英の渡航断念事情は、根本的に虚偽記事でありまことに不出来です。西戎伝が残存していなければ、笵曄の是正ができなかったことを思えば、正史といえども、厳重な史料批判が必要という基本的な訓戒がわかるのです。

*大局的使命
 甘英の承けた大局的な使命は、史記、漢書以来の西域探査であり、安息、条支が西の極限ですから、それより西の世界は問題外だったのです。
 あくまで仮定の話ですが、甘英が、安息、条支に至って、さらに西方の土地を耳にしたとしても、それは本来の使命外ですから、仮に使命の延長線上の、いわば、拡張使命になり得ると考えても、その情報の信憑性を確認した上で、以後の対応については西域都護の指示を仰ぐ必要があったのです。
 班超が、仮にそのような上申を受けたとしても、甘英が更なる遠隔地に赴けば帰任が大幅に遅れ、使命報告が大幅に遅れることを大いに危惧したはずです。班超の使命は、西域の安寧確保ですから、成すべき事はその使命の成果を持ち帰り本来の西域都護の任に就くことなのです。

*漢朝偉業の継承
 そもそも、班超が甘英に与えた使命は、西域にひろがる匈奴を駆逐する戦いを西方から支援する同盟者の発見と確立にあったのです。
 それは、かつて武帝が張騫に与えた使命でもあり、当時と西域状勢は何ら変わっていないのです。西域の覇権は、漢か匈奴かです。従って、甘英は、中央アジア暑熱地帯を抜け、史記大宛伝で初めて紹介された安息を訪ね、武帝時代以後途絶えていた交流を再構築したはずです。
 それが、甘英の西域探査の端緒です。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  1/4

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                             2019/10/27 2019/11/08画像更新

■おことわり
 ここに掲示したのは、当記事全体の考察を反映した概念図です。
 ことさら言うまでないと思いますが、ここに掲げたのは、魏略西戎伝(以下、西戎伝)に書かれた道里をまとめた「概念図」であり、方位も縮尺も大体で、あえて地図にはしていないのです。
 それなりに論理的に書いた労作なので、どうか「イメージ」などと軽蔑しないでいただきたいものです。作図に制約のあるマイクロソフトエクセルで書いたものです。
 
*古代人の認識 Retrospective Microcosmos
 衛星写真もグーグルマップなどの情報サービスもなく、地図もコンパスもない時代、頼りは、人々の見識であり、それは、各人の行動範囲に限定された確かな土地勘と行動範囲外の伝聞なので、甘英が知恵を絞っても、せいぜいこの程度の認識しか得られなかったと思うのです。と言うことで、当時の現地での認識で書かれた西戎伝元データは、どの程度現地事情を反映していたか、当て推量にならざるを得ないと考えた次第です。
 苫に重要なのは、甘英が取材した際に耳にした「安息」は、ここに書いた「小安息」、つまり、安息創業の地である当地域を所領としていて、東北部の交易と防衛を担っていた所要安息の視点で描いた世界像であり、大帝国の「グローバルな」目で描いたものではないのです。
 この二重構造は、甘英以後、後漢史官にも、魚豢にも理解されず、後漢書を編纂した范曄に至っては、不確かな情報であり書くに堪えないと棄てられ、そのような不確かな情報をもたらした諸悪の根源として、甘英は臆病な卑怯者扱いされたのです。
 当記事は、そうした冤罪を、魏略西戎伝の適切な解釈で払拭するものです。

 と言うものの、要点では、前世、つまり、史記、漢書以来の先行資料も参考にして重要地点の比定に勉めたのが、計三篇に上る考察です。
 ここでは、端的に、当方、つまり、当ブログ記事筆者の当面の結論、と言うか到達点を書き残すものです。読者に読んでいただけるか、肯定していただけるか、各読者の考え次第です。

■概要
 本稿では、西戎伝の解釈に対して従来当然とされていた句点解釈に異を唱え、条支、大秦国の所在地の再確認を願うものです。定説で決まりなどと言わずに、一度見直していただければ幸いです。
 端的に言うと、史書の条支国は、当時地域大国であるアルメニア王国です。条支が接する大海はカスビ海であり、海西、海北、海東は、カスピ海周辺にとどまり、甘英探査はせいぜい条支であり、地中海岸に一切近づいてないので、海を怖れたとは、後世課せられた濡れ衣、つまり冤罪です。
 西戎伝を読む限り、大秦は「安息に在り」とだけあって遂に位置不詳であり、諸記事の「莉軒」から、大安息内、それも、小安息付近と見られるのです。当方なりの憶測は、図の通りであり、説明は後のお楽しみです。

                                未完

2019年10月18日 (金)

今日の躓き石 それにつけても、根深いNHKの「リベンジ」汚染

                              2019/10/18

 今回の題材は、特別な番組でなく、午後7時前のNHKBSニュースのオリンピック聖火リレーに関するニュースである。

 1964年の聖火リレーで応募したが走れなかったメンバーが、2020年の聖火リレーで「リベンジ」しようという心意気が、罰当たりな言葉の字幕入り談話で報道されているのであった、かと思う。付ける薬はないのだろうか。

 皆さん、当然ながらお年寄りなのだが、誰にうつされたのか、当時なかったはずの罰当たりな「リベンジ」を罰当たりなまま語っていて、罰当たりなNHKが、字幕入りで報道するという、何とも、やりきれない話である。

 くれぐれも、この罰当たりな言葉を1964~2020年の部の文化遺産として、後世に伝えないで欲しいと願うものである。

 それにしても、各報道機関が、この外来汚染言葉を徹底駆除しないから、罰当たりな言葉が臆面も無く生き残るのである。

 何とか、絶滅させて欲しいのであるが、せめて報道機関は、何も知らないで口走っている気の毒な被害者の談話を無批判に報道するのでなく、問題発言を訂正して、正しい言葉遣いで報道して欲しいものである。

以上

 

 

2019年10月15日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞報道 「人生に終止符」に異議あり

                        2019/10/15

 本日の題材は、毎日新聞大阪夕刊3版スポーツ面である。躓いて倒れ込んだのは、大学野球のチーム勝利の後の主将談話で、「人生に終止符を打つ」と言ったとする大変な「サプライズ」、心に突き刺さる衝撃である。引用符はないが、天下の毎日新聞が談話を捏造して、フェイクニュースを流したとは思えないので、このままの言葉遣いであったと判断して苦言を述べる。

 良く見ると、それは、当世流行りの若者言葉の戯れ言で「野球人生に終止符」と言うことらしいが、天下一の最高学府である京大学生から、こんなとんでもない言葉が出るようでは、正しかるべき都の地で、日本語の伝統は、既に崩れ落ちているのかも知れないが、毎日新聞の良心に期待して苦言を述べる。

 誰もが生きている「人生」は一つしか無い。命が一つしか無いのと同じである。「野球人生」は間違った言い方である。人生に終止符を打つのは、自ら死を選ぶことである。人前で、しかも、全国紙記者の前で、かるがるしく口にすべき言葉ではない。絶対に。

 また、少し言い換えて「選手生活」を言うとしても、「終止符」を打つのは、とてつもない愚行である。正しい日本語で言って「衝撃的」である。この後、大学野球の選手としての生き方は続けないとしても、これまで続けてきた野球というスポーツは、捨てられないと思うのである。生きている限り、心の中に生きていて、機会があれば、草野球やキャッチボールだってできると思うのである。それこそ、ほんまもの人生の一部ではないのだろうか。

 どうか、「野球最優先の生活に一旦休止符を打つ」としても、この後は、ゆっくりと人生を生きていただいて、また野球の世界に還って欲しいものである。切ったスイッチは入れ直せるはずである。

 以上、年寄りの苦言である。耳を貸そうが貸すまいが、それは、本人の好き好きである。

 それにしても、毎日新聞の記者には、このような絶望的な発言をそのまま報道して、子供達をやるせない気持ちにすることが、報道人の使命なのだろうか。今回は、当方の筆の切れ味が悪いが、やりきれないのである。

以上 

2019年10月11日 (金)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面の「リベンジ」病 いよいよ深し

                             2019/10/11

 今日の題材は、毎日新聞大阪朝刊14新版のスポーツ面、パリーグCS戦評の右肩、大変目立つところの大失態で、紙面全体に泥を塗っている。

 6失点(全8失点の大半を独り占め)とあるから、当の投手の失態以外の何物でも無いはずなのだが、担当記者は、「一年前のリベンジ」と始める。まるで、食べ残しの去年の秋のスイーツでも言うようだが、どうも、一年前の敗戦の仕返し、と言うつもりで書いたらしい。まず、読者が読んで理解できないような、すさんな「言いはしょり」は戒めるべきである。
 当段落の最後の行は「た。」で終わって行末まで空白が続いているから、あと7,8文字書けたのである。何を焦って字数を削ったのか。記者の意図が正しく伝わらなければ、記事全体がゴミ、フェイクニュースになる。

 そして、肝心の「リベンジ」であるが、去年負けたから、今年は相手チームに仕返しするというのは、相手が多すぎて、ぶつけるのか、蹴飛ばすのか、とても間に合わないだろう。報道が正確で、選手自身の本意としてそんな野蛮な闘志を掻き立てないとマウンドに立てないのだったら、さっさと引退すべきである。記者は、投手に対して、そのような烙印を押しているのだろうか。全国紙の報道として、大変疑問である。なぜ、編集関係者の誰も、こんな書き方で、そうでなくても負けの責任を一人で背負い込んでうつむいている敗戦投手を居丈高に叩くのをやめさせないのだろうか。これでは、次は、今度こそ死ぬ気でリベンジしろ、とせき立てているようである。大した報道である。

 因みに、本日の社会面では、反社会勢力のリベンジ合戦が語られている。死者が死者を呼ぶ血の連鎖の報復(リベンジ)合戦である。スポーツ面記者は、この流れにあやかりたいと思っているのだろうか。

 漢字で書こうとカタカナで書こうと、血の復讐は、血の復讐である。英訳すれば、どちらも「revenge」である。海外に伝えられない、子供達に真似させたくない粗暴な言葉遣いは、固く戒めて欲しいものである。

以上

 素人の余談であるが、投手が言うように捕手の指示通りのコースにきっちり投げられなかったから、18打者に3四死球、7安打となったとすると、「荒れ球」、つまり、指示したところから外れると最初からわかっている投手に、微妙なコースに投げるように指示した捕手の方針間違いが、打たれた原因ではないか。全て投手の責任とするのは、早計ではないか、と思うのである。
 記者が投手の将来を思うなら、いい加減な罰当たりなカタカナ言葉も、安っぽい感傷も捨てて、ちゃんと、冷静に全体を見て書くべきである。毎日新聞スポーツ面記者は、そのような高邁な視点の持ち主と思ったのだが、どうだろうか。

 

2019年10月 9日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞の虚報 「リベンジ」誓う名選手

                                 2019/10/09

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14新版スポーツ面のプロ野球面である。一発退場ものの躓き石で、このような挑戦的な(と見えてしまう)メッセージに対しては、当方としても、何としても応答せざるを得ないのである。

 「山川 リベンジ誓う」と紙面中央にでかでかとあるが、抜群の好選手に、ここまでして悪臭紛々たる「泥」を塗りたくる理由がわからない。いや、紙面は匂いを伝えていないが、言葉の綾である。

 「リベンジ」は、世界に蔓延るテロを想起させるし、日本の球界に漂う「やられたらやり返す」という蕃習としても、日本一を目指す試合に大変不似合いな「誓い」である。大新聞が、堂々と囃し立てる言葉ではないと信じて、ここに非難している。
 山川選手は、
そんなつまらないことに誓いを立てないと意欲を保てないとこの場で非難しているのだろうか。
 復讐の相手は、誰なのだろうか。そんなにポロカスに言われるほど言われるほど卑劣な真似をしたのだろうか。名前を見たくないと感じる。
 球団広報は、大事な選手の顔に泥を塗るようなたちの悪い記事を公開されて、何とも思わないのだろうか。選手を「失言」/「誤報」被害から守るのが、とても大事な仕事ではないのだろうか。
 沢山の疑問が湧いてきて、なんとなく、不快と言うか不機嫌になったので、記事本体には目が行かないのである。大見出しとはそう言う強い影響力を持つものである。もっと、読者の反発を不用意に招かないように、丁寧に最高の言葉を選ぶものではないだろうか。

 毎日新聞は、スポーツ面では報道倫理を適用しないのだろうか。それなら、スポーツ面を別刷りにすべきである。
 あるいは、新聞社としての方針で、スポーツ面などでは、客観報道は二の次なのだろうか。大変困ったことである。

 当方は、一介の定期購読者であるが、全国紙は、子供達の世代に正しい言葉、正しい文化を伝えるもっとも信頼できるものだと信じている。だから、こうして、時間と努力をつぎ込んで、きつく批判しているのである。もっと紙面を大事にして欲しいのである。

以上

2019年10月 8日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞の「タトゥー」偏向報道の欠落した公平視点

                         2019/10/08

 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊3版の一面トップ記事である。

 題して曰く、「ラグビーW杯機に考えよう タトゥーお断りなぜ」と一見柔らかな言い方だが、大多数の日本人が入れ墨に反感を感じているらに対して、たまたまラグビーなる球技の世界大会が開催され、タトゥーを好む各国選手とファンが、どっと各地にやってくるから、これを記者持論の高揚の奇跡的好機として、大多数の国民の考え方を革めさせてみせる、と昂然と息巻いているのである。
 これほどの大問題を、天下随一のの全国紙の権威で単なる国民的勘違い問題にして、善良な国民を総懺悔させようとしているが、それほどの大問題、いわば、宗教改革に取り組んでいるにしては、随分、随分お粗末な展開である。
 例えば、「海外では文化」と言うのも、無茶な言い切りである。乱暴に言いきらずに、「海外では文化の不可分の一部になっていて、タトゥーの否定、蔑視は、文化全体の否定、蔑視になるからもてなし精神に反するのではないか」程度が妥当ではないか。「若者 抵抗薄く」とおっしゃるが。伝統を知らない者の意見が、伝統を担い続けているものを支配する世界なのだろうか。若者でないものの、全体ではないにしても、かなりの人には大変な苦痛なのだが、それは記者の意見に合わないから無視するのだろうか。誠に困った割り切りである。

 まず、入れ墨忌避の根源が、単なる思い込みだと言おうとしているが、これは、古代以来「日本人」の心に刷り込まれて、いわば宗教倫理であって、単なる思いつきではないのを、記者は、狡猾にもごまかしている。
 都留教授の著作なるものが、記者によって勝手に短絡されて「日本では時代や地域によって価値観が変化してきた」とごまかされているが、実際は、日本という国では、発祥以来ほぼ一貫して、入れ墨は罪人の識別のための烙印であり蔑まれていて、江戸時代後期になって入れ墨が色彩豊富な皮膚装飾になったものの、依然として、善悪で言うと悪とされていたものである。つまり、歴史的に、国民的に、ちゃんと、厳然たる理由があるのではないか。ないというのであれば、もっと、もっと丁寧にも確実に論証していただきたいものである。

 「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」の句は、日本人にとって、聖書のモーゼ十戒に匹敵する重さを持っていると理解するが、そのように説明する人は、記者の取材範囲にはいなかったのだろうか。聞く相手を間違えたか、聞く相手を厳選したか。

 当方の不満は、この点をちゃんと説明した上で、それでも日本人は、自身の信念を棄てなければいけないと言っている記事には見えないのである。
 日本文化になじみのない、例えば、根っからのクリスチャンであっても、異教徒の日本人の信念には一定の敬意を示すはずである。彼らは、人前では靴を脱がないから、かっては靴下に穴が空いていても平気だったが、いまはそのような無様なまねは見せない。誰だって、異郷で野蛮人と思われたくはないのである。少なくとも、知性と教養のある人たちは、異文化を尊敬し、その深奥を知ろうとするのである。そう見ないで、単に、異国人に同調しようとするのは、相手を馬鹿にしていることになると思うのである。

 だから、無知傲慢で度しがたいのは、「ブラック校則」なるお手盛りの比喩を持ち出して、日本人の入れ墨観を嘲笑し、「明確な根拠に乏しく不条理」と一方的に断裁する告発者の意見だけを高々とかき立てる、偏向した毎日新聞の編集方針なのである。弁護のない告発、裁断は、偏向裁判である。毎日新聞は、不明を恥じるべきであると思う。

 最後の捨て台詞は、「タトゥーを不快に思う人がいることを否定しません」などと、勝手に偉ぶっているが、「固定された負のイメージ」の重さをあざ笑って、そんなもの棄てちまえ、と言うのは、一種の暴力である。

 見出しの設問に対する回答はすんだ。どう説得すれば、国民の持つ信念を棄てさせられるか、もう一度考えた方が良いのではないか。また、断られた異国人に、丁寧に背景事情を説明して、それでも納得されなかったと言う例を示して欲しいのである。異教徒が宗教的な禁忌を犯せば、排斥されるのである。

 以上、こうした偏向報道は、全国紙に冠たる毎日新聞の報道姿勢に大きな疑問を投げかけるので、是非、もう一度、じっくり、イベントにとらわれずに、百年スケールの大問題として、本気で取り組んで欲しいと思うのである。そして、担当記者は、宗教的偏見にとらわれていない人に代えていただくか、それが無理なら、各世代、各論陣営から公平に選び、複数視点で、告発、弁護を重ねて欲しいものである。

以上 

 

今日の躓き石 また一つの虚報「レンジファインダースタイル」

                    2019/10/08

 本日の題材は、「デジカメWATCH」の10月9日付報道である。

 富士フイルム、X-A7を10月25日に発売
レンジファインダースタイルの軽量ミラーレス

 ばっと見、富士フイルムが、長年のカメラ界の伝統的用語を無視して、「レンジファインダー」スタイルなどと、ぼけた表現をとったのかと思った。レンジファインダーカメラは、正面から見ると、右上に、大きくビューファインダーの窓が目立ち、その左に、やや小さいレンジファインダー(距離計)の窓が見え、合わせて二つの窓が見える「顔」をしているのである。ものである。今回の新型カメラは、そんな顔をしていない。まがい物である。いや、まがい物に見せようとする努力さえしていない。

 だが、富士フイルムのニュースレリースには、そんなたわごとは書いていないように見える。して見ると、これは、同サイトの担当者のたわごとらしい。早合点と言いたいが、見えないものを見てしまったのではないか。

 折角、設計者に始まる大勢の関係者の思いを込めた新線品のニュースレリースを書き上げて、心を込めて各報道機関に提供しているのに、このように、本意に反した報道を公開されては、関係者一同、泣くにも泣けない思いだと思うのである。

 専門サイトが、折角の新製品の門出に向けて、このような馬鹿げた見出しを付けた罪は重いのである。

 以上が、当ニュースに関する当方の意見の全てである。

以上

 

2019年10月 2日 (水)

今日の躓き石 NHKBSの暴言マタタビ いや イクタビ 「いたちごっこと叫ぶメジャーリーガー」放送事故

                                2019/10/01

 本日の題材は、NHKBS1の「ワースポMLB」での乱痴気騒ぎである。

 MLBきってのホームランバッターであり、冷静な技術解説の聞けるヤンキース アーロン・ジャッジ選手の談話が、勝手な翻訳で流されて当人が「イタチごっこ」と喋ったような字幕と吹き替えで放送され、当人の生の発言が聞けないまま、何を勘違いしたのか、スタジオの面々が、「ジャッジがいたちごっこと言った」ともてはやしていたのは、何とも不都合であった。英語で言う「サブライズ」(surprise)であり、前に、happyがついていないから、意地悪なドッキリなのである。

 言うまでもないが、「いたちごっこ」は、ちょっと古めかしい日本語であって、本来、普通の言葉で、視聴者全体に伝わるように補足するものと思うが、それはそれとして、「ジャッジ選手が、日本語で喋るわけはない」ので、何か英語の慣用表現で言ったのを、NHKの関係者が、勝手に当人に断りなしに談話を修正して日本語に言い換えて報道したことになるのである。ある意味、笑いものとしてさらされたようにも見える。

 いや、今回の手口は、公共放送の報道のあり方として、大問題だと思うのである。一種のフェイクニュースである。ちょっと軽率ではないだろうか。

 この大問題の前には、今回のシャンパンファイト的番組で、NHKとして避けるべき「ノーヒッター」なるインチキカタカナ語がのさばったのも霞んでしまうのである。いや、この言葉は、MLBサイドの英語管理では許容されているのかも知れないが、普通の感覚では「ノーヒッター」は、ヒットを一本も打てないへぼ打者のことである。とんまな言い方としか聞こえない。NHKほどの品格が求められる場では、「セットアッパー」と並んで、避けるべきとんま表現ではないだろうか。

 いや、当方は、一視聴者であって、会長に苦言を呈する立場ではないから、どうということはないかも知れないが、「一寸の虫にも五分の魂」である。

以上

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