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2019年10月27日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  3/4

                             2019/10/27
*小安息国と安息帝国
 大宛伝に従い接触したのは、この地の守りを任されていた小安息国ですが、しばしば、イラン高原全体を支配する安息帝国と混同されたのです。
 混同と言っても、地方国と全帝国の勘違いは、それほど深刻なものではありません。小安息国は、帝国の東の守りを一任されていて、それは、東方との貿易の収益管理も含まれていたのです。商業立国の安息帝国では、国の大黒柱として強力な権限を委ねられていたのです。それは、小安息国が安息帝国創業の地として特権を有していたとも言えるのです。

*臣従あるいは同盟
 と言うことで、甘英は、小安息国の玄関に長期にわたって滞在し、締盟を図りましたが、当然、安息国は後漢への臣従は謝絶し、中央アジアの交易路に対する北方匈奴の侵略を後漢朝西域都護が阻止していることに対して感謝を示した程度に終わったようです。
 甘英が求めたのは、二萬人が常駐する安息国東方守護の軍事力の提供であり、それは謝絶されたのです。安息帝国は、小安息に東境防備のための大軍を常駐させていましたが、自ら中央アジアオアシス諸国を攻撃することはなかったのです。金の卵を生み続ける鶏は殺すなということです。


*安息査察
 次に、甘英は安息国内の査察を望んだはずですが、客人扱いとは言え、他国の軍人に国内通行を許すことはありません。従って、安息国内の取材はできなかったのです。勿論、高度に機密性のある内部情報である戸数、工数などは得られず、又、服属の際には提示される地図も得られなかったのです。服属国でない大国から取材できる情報は限られているのは常識ですから、この事態は不首尾などでは無かったのです。
 安息国は、貿易立国、商業立国ですから、使節厚遇の一環として一大見本市を催したのですが、甘英は軍人なので一覧表を取り次いだだけでした。
 その中では、安息国の近隣と思われる大秦国の物産が多彩ですが、既に、武帝時代に安息国の第一回遣使で特産物を紹介されていた莉軒の別名ということだけ意識に止めたのです。

*条支内偵
 さて、次に望んだと思われるのは、西の条支との接触ですが、安息国は、遠路であるから条支代表者を呼びつけることも、安全を保証できない条支国への行程を紹介することも控えたようです。
 とは言え、甘英の報告には、「海西」の国情が詳しく書かれていて不思議です。安息国が近隣国の国情を紹介するにしては詳しいし、安息国に不利なことも書かれていますから、これは、密かに条支に取材したと思われるのです。概念図には、甘英が、帰途、条支に向かったと見て、条支往還経路を推定してあります。憶測ですが、さほどの道草にはならないのです。
 但し、友好関係を築こうとしている相手に隠密の内偵を悟られてはならないので、婉曲な紹介記事になったと見るのです。


*大秦造影の怪
 その結果、後世史家は西戎伝各国記事の進行を見損なっているのです。
 そして、甘英が大して気にとめなかった大秦が、後世史家の創作により、まぼろしの大国として注目されたのです。その端緒が、西戎伝に魚豢が注釈した数行ですが、イリュージョンに最も貢献したのは、范曄です。
 正史となったので、影響力は絶大であり、責任は重いのです。

                              未完

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