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2019年10月27日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇  7/11

                             2019/10/27
*文から武へ
 その後、班超は思うところあってか、筆を剣に持ち替えて、武人として天下に尽くす道を選んだのです。

 と言うものの、文筆家の家に生まれて教養人として育てられましたから、、手に筆のある人であったのです。当然、軍人として西域都護に続く職に就く以上、史記、そして、編纂中の漢書稿の西域記事は諳んじていたものと見られるのです。少なくとも、座右の書としていたはずです。

 つまり、班超が育てた甘英は、軍人として異例の教養を備え、西方探査に就く以前から史書西域記事が念頭にあったと見るべきです。また、自身筆を執って日々の記録を書き付けていたと見てもいいと思うのです。軍人には、文書を書けずに、報告書の上申に載しては、書記役が指示を聞き取り上書したものも珍しくなかったのです。

*水練不詳
 もちろん、当時は、武技に劣る指揮官はあり得ないのですが、水練が必須であったかどうかは、不明です。つまり、甘英が中原人として海を実体験していたかとか、水練を受けて泳げたのか、金槌だったかは、記録にないのでわかりませんが、世間並みとすると、大海を知らない金槌だった可能性が高いと思われます。後に多少関係します。

*西域都護の使者
 甘英は、国書持参の国使でなく、班超の都護の地位は、領国の王、郡太守に匹敵する地位ですから、いわば国王待遇であり、相手方が、大安息帝国の東域都護の有司、小安息国国王の代理であることは、想定内であったと思われるのです。ただし、国王との接見はできたはずです。

 つまり、この際の交渉は、対等の二国の同等の地位にある者同士でしたが、対等の二国は小安息国と西域都護の二者であったということです。

 この点は、後漢朝当時は自明で、殊更書き立てていないものであり、それ故、事情を知らない後世人は、大安息国と大漢国の交渉と見たようです。

*二種の道里
 参考として、漢書も西戎伝も、外国の位置表示には、大漢帝都規準と西域都護治所規準の二種の里数が書かれているのを見ても、漢側の意識が現れています。蛮夷には、自国から漢都洛陽までの道里は想像も付きませんから、漢側で書くのです。都護治所基準の里数は、蛮夷の方から、何日あれば到着できるかという申告でもあるので、蛮夷が申告するのです。

 各国の帰順は、都護への服属で判断され、ごく一部の有力国だけが、漢帝国への帰属が認められ、帝都への遣使を許されいる図式が見えるのです。これは、古来の官制で決まっていることであり、班超も甘英も承知のことです。

 と言うことで、中国政権は、既に帝国と使節交換した大国内の小国が、帝国と直接交渉することは一切認めませんから、其の意味でも、小安息国は西域都護と交渉し、大安息国と大漢は、背後にとどまっているのです。

 既に、史記大宛伝に於いて、漢武帝使節の「安息」到着の際に、安息国は数千里に及ぶ大国であると明言され、王都から王の代理人が到着して、大安息と大漢の対峙となりましたが、当時応対したのは、安息国東域の軍事、外交を一任されている小安息国であったことが語られていますから、班超も甘英も、そのような統治形態は承知していたのです。

                              未完

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