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2019年10月27日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 貳 随想篇 10/11

                             2019/10/27
漢書西域伝に曰 承前
安息國,王治番兜城,去長安萬一千六百里。不屬都護。
北與康居、東與烏弋山離、西與條支接。土地風氣,物類所有,民俗與烏弋、罽賓同。亦以銀為錢,文獨為王面,幕為夫人面。王死輒更鑄錢。有大馬爵。其屬小大數百城,地方數千里,最大國也。
臨媯水,商賈車船行旁國。書草,旁行為書記。
武帝(前141 - 前87)始遣使至安息,王令將將二萬騎迎於東界。東界去王都數千里,行比至,過數十城,人民相屬。因發使隨漢使者來觀漢地,以大鳥卵及犁靬眩人獻於漢,天子大悅。安息東則大月氏。

<前漢紀曰> 参考
安息國王治潘兜城。去長安萬二千六百里。地方數千里。城郭數百。有車船商賈。書革旁行為書。記其俗與罽賓國同。亦以銀為錢。文為王面。曼為夫人面。一王死輒改其錢。出犬馬大雀。

魏略西戎伝に曰
大秦國一號犁靬,在安息、
條支(在)西大海之西,從安息界安穀城乘船,直截海西,遇風利二月到,風遲或一歲,無風或三歲。其國在海西,故俗謂之海西。有河出其國,西又有大海。海西有遲散城,從國下直北至烏丹城,西南又渡一河,乘船一日乃過。西南又渡一河,一日乃過。凡有大都三,卻從安穀城陸道直北行之海北,復直西行之海西,復直南行經之烏遲散城,渡一河,乘船一日乃過。周回繞海,凡當渡大海六日乃到其國。


後漢書西域伝に曰
自皮山西南經烏秅,涉懸度,歷罽賓,六十餘日行至烏弋山離國,
地方數千里,時改名排持。復西南馬行百餘日至條支。
 烏弋から西南馬行百日で條支とは不可解である。條支は烏弋の西南となる。

【條支國】條支國城在山上周回四十餘里。臨西海、海水曲環其南及東北,三面路絕,唯西北隅通陸道。土地暑溼,出師子、犀牛、封牛、孔雀、大雀。大雀其卵如甕。轉北而東,復馬行六十餘日至安息。後役屬條支,為置大將,監領諸小城焉。
 安息は、條支の東北にあるというが、烏弋に着いてしまうのではないか。

【安息國】安息國居和櫝城,去洛陽二萬五千里。北與康居接,南與烏弋山離接。地方數千里小城數百,戶口勝兵最為殷盛。其東界木鹿城號為小安息,去洛陽二萬里。
章帝章和元年(87年),遣使獻師子、符拔。符拔形似麟而無角。
和帝永元九年(97年),都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度,而安息西界船人謂英曰:「海水廣大往來者逢善風三月乃得度,若遇遲風亦有二歲者,故入海人皆齎三歲糧。海中善使人思土戀慕數有死亡者。」英聞之乃止。
十三年(101年),安息王滿屈復獻師子及條支大鳥,時謂之安息雀。
自安息西行三千四百里至阿蠻國。從阿蠻西行三千六百里至斯賓國。從斯賓南行度河,又西南至于羅國九百六十里,安息西界極矣。
自此南乘海,乃通大秦。其土多海西珍奇異物焉。

                               未完

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