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2019年11月

2019年11月20日 (水)

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 弥生ミュージアム 倭人伝 6/6

                          2019/11/15

 未知の形状、意匠の大型銅鏡をあらたに設計し大量製作するには、試行錯誤の期間を含めて、数年で足りないほどの多大な準備期間と熟練工の献身を要し、更に、一日一枚でも百日を要するという多大な製作期間を足すと、とても、一,二年で完了するとは思えないのです。夢物語でしょう。
 又、非常時の窮乏財政で、そのような大量の銅素材を、敵国呉から如何にして購入したのかも不審です。
 無理の上に無理の上塗りです。
 因みに、世にある「不可能ではない」とする議論は、まことに不合理です。空前の難業をこなしてまで、一介の東夷の機嫌を取るためだけに大量の銅鏡を新作し、あろうことか無償供与し、多額の国費を費やして、現地まで届けることなど、全くあり得ない、と言うのが、最大の否定論です。

正始元年(*58)、帯方太守弓遵は、建中校尉梯儁らをつかわし、この詔書と印綬をもって倭国に行かせた。使者は、魏の(小)帝の使者という立場で、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金帛・錦 ・刀・鏡・采物を贈った。倭王はこれに対し、使者に託して魏の皇帝に上表文をおくり、魏帝の詔と賜物に答礼の謝辞をのべた。
(*58)魏の(小)帝の年号(二四〇)。
 「正始」は、景初三年元旦に逝去した先代明帝の後継皇帝の年号です。ひょっとして、先帝の謬りを正す新代の始まりという趣旨でしょうか。
 明帝存命なら、この年は景初四年ですが、既に一年前から景初に四年はないと公布されていました。

同四年
(中略)掖邪狗らは、率善中郎将の印綬を授けられた。同六年、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた(*61)。 (中略)
同八年(中略)太守は塞曹掾史張政(*63)をつかわし(中略)た。その後、卑弥呼が死んだ。大いに(多いに冢を作りその径は百余歩(*64)、(中略)卑弥呼の宗女である年十三の壹与(*65)を立てて王とし、国中がようやく治まった。(中略)
(*64)卑弥呼のとき、すでに古墳時代に入っていたかどうかが大問題。(中略)一〇〇余歩とあるから一五〇メートル前後の封土をもっていたことになる。ただし最近では、古墳の成立を三世紀半ばまで遡らせる学説がある。
 倭人伝記事によれば、「冢」は「封土」、つまり単なる盛り土であり、既定敷地の没後造成であり、さまざまな要因から未曾有の規模になることはあり得ないのです。後世の墳丘墓は、まず間違いなく、長期間の計画的造成(用地選定、構造設計、担当部門の設定、費用、字y印の振り分けなどに始まる、巨大な事業となる)の可能な「寿陵」です。
 当然、未検証学説は、世に山成す「学説」にまた一つ加わった「単なる作業仮説」(ゴミ)に過ぎないので、「大問題」などと、ことさらに誹謗してまで取り上げるのは、学問の世界として不適切です。現に、山ほどある他の作業仮説は、悉く無視しているではないですか。不公平です。

(*65)『北史』には「正始中(二四〇~四八)卑弥呼死す」とある。『梁書』『北史』『翰苑』などでは、壹与ではなく臺与とあって、イヨでなくトヨだとも考えられる。これは邪馬壹国と邪馬臺国の問題とも共通する。
 現存史料と、不確かな佚文に依存し編纂経緯も不安定な後世史書とを同列に対比するのは不合理である点で、見事に「共通」です。不確かな情報を積んでも、単に、「シャンク」「フェイク」の山では、提示した方の見識を疑われるだけです。
 古代史学が、学問として認められたければ、決定的な判断ができないときは、現存史料を維持すべきではないでしょうか。

現代語訳 平野邦雄

*まとめ
 ご覧のように、本文と注釈の双方に注文を付けているのですが、どこまでが平野氏の訳文か不明なのです。又、氏の訳文と見られる中の誤字などは、誰のせいなのかわからない物です。又、資料写真は、誰の著作物、責任か不明です。また、宮内庁の著作権表記の錯誤は、誰の責任か不明です。
 当たり前のことを言うのは僭越ですが、サイト記事の著作権等を主張するのであれば、第三者著作の範囲と権利者を明確にすべきと思います。

                                以上

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 弥生ミュージアム 倭人伝 5/6

                          2019/11/15

(*43)魏の明帝の年号。景初三年(二三九)の誤り。『日本書紀』神功三九条にひく『三国志』や、『梁書』倭国伝には、景初三年のこととしている。魏は、景初二年(二三八)、兵を送り、遼東太守公孫渕をほろぼし、楽浪・帯方を接収した。その翌年(二〇九)(二三九)、直ち卑弥呼は魏の帯方郡に使者を送ったとみねばならない。
 現存史料の記事より誤伝、誤写の可能性の圧倒的に高い国内史料の、形式を失した佚文を論拠に採用するのは一種の錯誤です。ちゃんとした古代史学者は、ちゃんと史料批判をしてから、史料の信頼性を論じてください。
 又、遙か後世で、誤伝、誤写の可能性の格段に高い梁書を、論拠史料に採用するのも、同様の錯誤です。違いますか。
 三国志では、楽浪・帯方の「接収」(太守更迭)が遼東攻略に先んじたと解すべき記事があり、その記事を収録する三国志記事を、現代日本人の見識で否定することは、不合理であると見るのが順当ではないですか。
 いずれにしろ、当時の帯方郡は山東半島経由で交信、交通していたので、遼東戦乱は、倭使の帯方郡を経た洛陽往還に全く無関係です。
 要するに、不確かな憶測で、景初三年の誤りと強弁するのは、不合理です。
 因みに、景初三年元旦に皇帝が逝去したので、「景初三年」は、明帝の年号ではなく皇帝のない年号です。つまり、論拠としている国内史料にある「明帝景初三年」は、「魏志」に存在しないので、引用記事ではなく利用した佚文の誤記に惑わされたか、そうでなければ、引用詐称、ないしは捏造です。
 ついでながら、単に景初三年なら、皇帝は新帝曹芳です。とは言え、在位中、少帝と呼ばれなかったのは明らかです。

(*48)(*49)倭の使者に与えられたこの爵号はともに比二〇〇〇石、官秩は郡守に比せられる高い地位である。(中略)魏がはじめて外臣の倭と韓の首長を中郎将に任じた。ことに倭に対しては、大夫難升米のほか、大夫掖邪狗ら八人にも、おなじ称号を与えたのは、大夫という比較的低い地位の使者に、高い爵号をあたえ、倭を重んじたとする説もある。(中略)
 先に述べたように、「大夫」は周制の高官を自称したものであり、決して秦漢制の庶民を名乗ったのではありません。庶民は国王代理となれず、魏朝に侮られ、あるいは、接見拒否されます。大夫も、見くびられたものですね。
 ここは、倭大夫は帯方太守と略同格という趣旨でしょうが、当然、魏の高官である郡太守と外臣に過ぎない蕃王の陪臣が同格の筈がないのです。中国文化に浴していない蛮王が、郡太守と同格、さらには、上位となることもあり得ません。考え違いしていないでしょうか。
 一般読者に予備知識が無いと想定される「比二千石(せき)」には、丁寧な解説が必要です。普通、江戸時代の禄高二千石(ごく)、つまり、一万石に及ばないので城主大名になれない小身の軽い存在と解するはずです。

(中略)
(*56)この銅鏡はセットとして、倭女王に贈られたもので、魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡であり、(中略)、大和説に属する。(中略)
 「セット」は時代錯誤で単数複数不明、意味不明です。こなれていないカタカナ語で、ため口を叩くのはやめましょう。「魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡」は意味不明です。このような根拠の無い定説は、ぼちぼち「ゲームセット」にしたいものです。
 景初年間の魏は、戦時体制下、宮殿大規模造成中の非常時で、銅素材が窮乏しているので魏鏡百枚新作すら途方もないのです。明帝は何を根拠にそのような無謀な製作を、人材、資材払底の尚方工房に課したのでしょうか。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 弥生ミュージアム 倭人伝 4/6

                          2019/11/15

帯方郡からの道里を計算すると、倭は会稽郡や東冶縣(*33)の東にあることになろう。 (中略)
(*33) 現在の福建省福州の近くの県名
 南宋刊行の倭人伝には「会稽東治」と書かれていて、郡、県とは書いていないので、この議論は確定しません。いずれにしろ、広大、かつ、高名な郡と郡の僻南にある区分地域である県を、陳寿ほどの史官が「や」で同列に置くはずは無いのです。こじつけではないでしょうか。

死ぬと棺に納めるが、槨(*35)は作らず、土を盛り上げて冢をつくる。(中略)
倭人が海を渡って中国に来るには、つねに一人は頭をくしけずらず、しらみも取らせず、衣服は汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせて、これを持衰(*36)と名づける。もし、航海が無事にゆければ、かれに生口・財物を与え、もし船内に病人が出たり、暴風雨に会ったりすれば、これを殺そうとする。つまり持衰が禁忌を怠ったからだというのである。(中略)
(*38)倭人中の大人。この部分を「便ち大倭のこれを監するに、女王国より以北に一大率を置き・・」と続けて読み、大倭を邪馬台国の上位にある大和朝廷であり、一大率も朝廷がおいたとする説があるが、これは無理。(中略)『後漢書』では「大倭王は邪馬台国に居る」と記している。(中略)
 如何に「無理な」暴論相手でも、『後漢書』に依拠して、否定して良いものでしょうか。倭人伝には、何も書いていないということですか。

その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので(*41)、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼(*42)という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見たものは少なく(中略)
 「諸国が」共立したという記事は、倭人伝になく、単なる推測でしょう。、
 「神がかりとなり、おそるべき霊力を現した」とは書いていません。無理そのもののこじつけに思えます。
 「すでに年をとってからも」の「すでに」が趣旨不明です。「すでに年長けたが」位が妥当では無いですか。又、末尾の「も」も、余計です。単に、「ついに配偶者を持たなかった」位が穏当では無いですか。
 「見たもの」と言うのは、「見」の趣旨を失していて、国王に「接見したもの」とする方が良いのでは無いですか。何か、支離滅裂に見えます。
 あることないことというのはありまずが、訳文と称して、原史料に無いことの連発は、古代史学の取るべきみちではないでしょう。

これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。
 この部分は、既説の狗邪韓国以来の倭地を巡訪する道里記事を、切り口を変えて言っただけです。字句をそのまま読めば、狗邪から海中の二島を渡海(計三千里)で歴て陸地に達し、以下陸地を倭都まで通算五千里と単純明解ですが、勿体ぶった訳文が、かえって意味不明にしています。陳寿は、明解に書いたはずでしょう。

景初二年六月(*43)、倭の女王は大夫難升米を帯方郡に遣わし、魏の天子に遣わし、魏の天子(使)に朝献したいと請求した。帯方太守(*44)劉夏は、役人を遣わし(中略)洛陽に至らしめた。その年の十二月、魏の明帝は詔して、倭の女王に次のように述べた。「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方郡大守劉夏が使を遣わし、汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝(中略)今、汝を親魏倭王(*46)に任じ、金印・紫綬(*47)を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした。(中略)」と。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 弥生ミュージアム 倭人伝 3/6

                          2019/11/15

また南、投馬国(*20)に至るのに水行二十日。(中略)。五万余戸ばかりがある。
また南、邪馬台国(*23)に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところ(中略)七万余戸ばかりがある(*26)。
(*23)現在にのこる版本でもっとも古い南宋の紹興年間(一一三一~六二)の「紹興本」、紹煕本年間{一一九〇~九四}の「紹煕本」には、邪馬臺国ではなく、邪馬壹国となっているから、ヤマタイでなく、ヤマイであるとの説もあるが、そうとは断定できない。(中略)邪馬台国問題は、このようなアプローチからでは決まらない。(中略)
 どちらに分があるかは、この部分の書きぶりで自明なので、別に「そうとは断定」しなくても良いのです。つまり、普通に考えれば、現存史料「倭人伝」の記事を排除して「台国」と断定する理由は全く見られないということが言いたいのでしょうが、明解に書けないのでしょうか。どうも、後の冗談も含めて、敗戦宣言しているように感じます。
 ついでながら、古代紙論考で、「アプローチ」は、何とも不適切です。ゴルフ用語なら「ショット」と明記しないと意味が通じません。それとも、異性を口説くのですか。大事な記事を書き飛ばしたわけではないはずですから、不用意ですね。と言うような、益体もない冗談を言わさないでほしいものです。カタカナ語撲滅です。
 ついでながら、「問題」が「決まらない」と言うのは、独特の言い回しで、勿体ない失態です。「問題」が、教科書の課題であれば、「解けない」のであり、「問題」が、難点、欠点であれば、「解消しない」とか「解決しない」とか言うもので。読者は、そうした文脈で、無造作に書かれた「問題」の意味を解釈しているのです。著者各位は、自分の語彙で滔々と書き立てるのではなくて、読者に誤解の無い言い回しを工夫すべきでしょう。特に「問題」は、数種取り混ぜて乱用されているように見受けるので、わざわざここに書くのです。

(*26)これまでの狗邪韓国~伊都国と奴国~邪馬台国の二つのグループでは、方位と里程(日程)の書き方が違う。前者は何国からどの方位で何里行けば何国に到着すると実際の旅程に従った累積的な書き方をしている。後者は何国から何国にいたるにはどの方位で何里としていて、これは伊都国を中心に放射線状に読み取ったものである。つまり、魏使は原則として伊都国より先は行かなかったし、投馬国より邪馬台国の方が北に位置することになり、九州圏内にあるとする、榎一雄氏の説がある。
 「後者は」は、「魏使は原則として伊都国より先は行かなかった」までを言うつもりでしょうが、そこまで一つながりで断定する根拠は無いと見えます。
 また、「原則として」と言いっぱなしで原則と例外が示されていません、ここまでの議論で「投馬国より邪馬台国の方が北に位置する」ことは示されていません。榎氏の説を誤解しているのでは無いでしょうか。

このように、女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない。(中略)奴国で、ここまでで女王国の境界はつきる(*27)。
帯方国より女王国までを総計とすると一万二千余里となる。
倭では、男子は成人も子供もみな顔や体に入墨をしている。昔から倭の使が中国に来るとき、みな大夫(*30)と称する。(中略)今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え、体に入墨して大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。倭の諸国の体の入墨は、国々によって左右や大小などにちがいがあり、身分の尊卑によっても異なる。
 文身を顔と身体の入墨と決めつけますが、そうとは限らないでしょう。
(*30)中国では一般に卿・大夫・士の順に記し、国内の諸王・諸侯の大臣の身分。ただ漢でいえば、二〇等爵のうち、第五級の「大夫」から、第九級の「五大夫」までがこれにあたり、幅がある。(中略)
 これは、秦代以来の階級制度であり、下から唱えるから、第五級の「大夫」は庶民階級です。当然、魏でも同様です。貴人などではありません。漢代以降、魏晋あたりまでの公式史書で、「昔」とは、「周」のことではありませんか。守成の大夫を名乗り続けているのも、その主旨でしょう。つまり、普通に考えると、周朝に貢献して、「大夫」の高官に叙されたとみるべきでしょう。
 少々繰り返しになりますが、卿・大夫・士は、周制であり、大夫は王に連なる高官であったし、周の制度を一時的に復活した王莽の「新」も同様でした。場当たりのつぎはぎ解釈は、感心しません。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 弥生ミュージアム 倭人伝 2/6

                          2019/11/15
(中略)
(*5)三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の中の諸国をいうが、ここではコースからみて、馬韓の国々をさしている。
 「コース」とは程度の低い時代錯誤です。半島西海岸に沿って進めたとして、西海岸が終わったらどうするのか。東方への転換が書かれてない限り「コース」は南海に進むだけです。「まずは南に後に東に」と意訳するのですか。

そこから、はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国(*7)に到着する。(中略)千余戸があり、良田はなく、住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。(中略)
 提示の紹凞本倭人伝は「對海国」と書いていて、対馬国は誤訳となります。
 因みに、掲載写真には「宮内庁書陵部©」と著作権宣言されていますが、政府機関である宮内庁が所蔵、つまり、公有の古代資料の写真に著作権を主張するなど論外です。良く良く確認の上、©を外すべきです。

(中略)それからまた南に一海を渡ること千余里で一支国(*9)に到着する。この海は瀚海と名づけられる。(中略)三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。(中略)
 提示の紹凞本倭人伝には、「一大国」と書いています。ここも、誤訳となります。
 また、水田とは書いていないので、またもや軽率な誤訳です。

また一海を渡ること千余里で、末盧国(*10)に到着する。四千余戸があり、山裾や海浜にそうて住んでいる。(中略)人々は魚や鰒を捕まえるのが得意で、海中に深浅となり潜り、これらを取って業としている。(中略)
 「山裾や海浜にそうて住んで」いるのでは、全世帯が浜住まいで、漁に専念していたことになり、四千余戸は、国から扶持された良田を耕作しなかったのでしょうか。扶持か私田かは別として耕作地は、収穫の貢納を厳命されていたはずです。一家揃って海辺に住んでは農耕できません。「業としている」とは、普通は、交易に供して対価を得て生業を立てているという意味ですが、どうなっているのでしょうか。国としてでしょうか。

そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国(*11)に到着する。(中略)千余戸(*14)がある。代々王がいたが(*15)、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。(中略)
(*14)『魏略』では「戸万余」とあり、千は万の誤りか。
 無造作に『魏略』と書くのではなく、『翰苑』の断簡写本に見られる『魏略』断片(佚文)に従うとすれば、と丁寧に書くべきではないですか。いずれにしろ、字数の限られている記事に、ことさら書く価値は無いでしょう。

(*15)『後漢書』では三〇国のすべてについて「国皆王を称し、世々統を伝う」とし、これに対し「大倭王は邪馬台国に居る」としている。
 これは、倭人伝の記事と異なるものである、とでも書き足すべきです。そうしなければ、「後漢書」を起用する意義がありません。また、なぜ、後漢書を尊重するのか、意図不明です。
 ここでは、後漢代の大倭王なる君主が、当時「邪馬台国」と称していた「国」を居所としていたと言うことでしかありません。范曄は、後漢朝代のことしか書いていないのですから、文帝曹丕、明帝曹叡の二代のことは書いていないのです。
 これに対して、倭人伝は、三国鼎立期の魏朝の記事であり、魏武曹操の時代のことも含めていますが、陳寿は、范曄が唱えた「大倭王」、「邪馬台国」の記事を書いていない、つまり、これらは、陳寿の排除した伝聞に類するものと見るのが普通でしょう、と意見されたことはありませんか。また、丁寧に補注した裴松之も、この点に関して陳寿の割愛を回復してはいないのです。范曄が、「倭」記事の根拠とした後漢代の「倭」史料は、范曄と裴松之が活動した南朝劉宋期に、存在しなかったのではないでしょうか。つまり、ことは、范曄の創作記事のように思えるのですが、反証はあるでしょうか。
 つまり、陳寿の残した記事を覆すに足るだけの、後漢書に対する史料批判は、十分にされたのでしょうか。

これから先は、東南、奴国(*16)にいたるのに百里。(中略)、二万余戸がある。(中略)
 「これから先は」とあるが、文としてどう続くのか趣旨不明です。

おなじく東、不弥国(*18)に至るのに百里。(中略)
 「おなじく」と無造作に書き足していますが、何がどう同じなのかわかりません。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 弥生ミュージアム 倭人伝 1/6

弥生ミュージアム 倭人伝
                          2019/11/15
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/index.html

私の見立て ★★★★☆ 大変有力

*前置き/おことわり
 ここに紹介し、批判しているのは、掲題サイトの一般向け解説記事ですが、当ブログ筆者は、課題となっている疑問点に対して、一方的な解釈が、十分な説明無しに採用されているので、あえて僭越を顧みず、異論を唱え、広く、諸賢の批判を仰ぐものです。

□はじめに
 近来、当ブログ筆者は、諸方に展開される倭人伝解釈の初歩的な間違いに嘆きを深め、ために泥沼状態が解消の方向に向かわないのにたまりかね、せめて、柄杓一杯の清水で、其の一角の汚れを洗おうとしているものです。
 以下に述べる指摘は、その汚れと見たものであり、ご不快ではありましょうが、もう一度見直していただきたいものです。
 それにしても、こうした一流公式サイトの一級記事に、明らかな誤字があるのは感心しません。公開以前の校正は当然として、公開以後、誰も探検していないのは、組織全体の信用をなくす物で、ここに苦言を呈します。誤解されると困るのですが、ここに批判したのは、サイト運営の皆様が理性的な見方ができると考えたものであり、そのために労を厭わなかったのです。
 今回は、倭人伝解釈論議ですが、本体部分に平野邦雄氏の現代語訳を起用しているとは言え、当記事の最終責任は、氏の訳文を記事として掲載した当サイトにあると思うので、ここでは、サイト記事批判としています。

                              

倭人は、帯方郡(*1)の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり(*2)、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である(*3)。(中略)
(*3)この一〇〇余国ののちに、三〇国が、魏と外交関係をもつとのべたもので、前段の狗邪韓国と、対馬国から邪馬台国までを加えると九国、それに後段の斯馬国から奴国までの二一国で、あわせて三〇国となる。(中略)
 「魏と外交関係をもつ」とは、時代錯誤の用語です。東夷の「国」は、魏から国家として認められたものではないので、単に通交と言うべきです。魏の本国と接触できたのは、ごく一部の文字交信のできる「国」が、諸小国の代表と認められ、洛陽まで移動することが許されたのです。
 それにしても、本文と表記が不統一で感心しません。百余国、三十国と正しい書式で書くべきです。 三世紀当時どころか、遙か後世まで「ゼロ」は無かったのです。三世紀当時無かった概念は、丁寧に排除すべきではないでしょうか。
 因みに、景初献使の直前まで、帯方郡は、長年遼東公孫氏の管理下にあったので、その間倭人の洛陽行きはなかったのです。

帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行(*4)し、韓の国々(*5)を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国(*6)に到着する。これまでが七千余里である。
(*4)「水行」は陸岸に沿って、海や川を航行すること。「渡海」と区別される。
 原文には、「朝鮮半島の西海岸に沿って水行」とは書かれていません。陳寿は、「海岸に循いて行くことを水行という」と水行の意味を定義した後、特に説明無く「韓国を歴る」と書いているので、これは、全体として東南の方向に内陸の官道を行くというのが、書かれている字をそのまま普通に解釈するものではないですか。
 地図を参照するまでもなく、半島の西海岸に沿って航行しても狗邪韓国には到達できません。つまり、後に登場する、渡海と明記されている水行とは異なり、沿岸水行は書かれていないということではないですか。
 因みに、このような際、沿岸航行を形容するには、史官は、海岸を撓めると表記するものです。また、方向転換する際は、その地点を明記し、進路変換を「転」じてと書くものです。そうしないと、いつ方向転換するのかわからないのです。ご不審の方は、精密な地図を見て、とても海岸線に沿って進むことなど゜できないとわかっていただけるでしょう。
 訳者は、そうした事情を、十分ご承知の上でのこととは思いますが、事情に通じていない読者のためにちゃんと説明すべきではないでしょうか
                                未完

2019年11月14日 (木)

今日の躓き石 消費者を欺くフェイクニュース ”レンジファインダースタイル”

                           2019/11/14
 今回の題材は、久しぶりに、デジカメWatchサイトの一記事である。
 デジカメ Watch->カメラ->ミラーレスカメラ->富士フイルム

 FUJIFILM X-Pro3(外観・機能編)

 どうも、根強いはったり癖が、デジカメ業界に巣くっているようである。多分、富士フイルムさんが、ご自分で言っているのではないだろうが、こうやって、有力メディアに提灯持ちされて文句を言わないと言うことは、同罪ではないか。恥ずかしいものだと思う。新製品レビューで、たっぷり泥を塗られて、どうお考えなのだろうか。

 当記事では、今回が初めてではないが、”レンジファインダースタイル”などといい加減なことを言っている。しかし、どう見ても、同カメラには、レンジファインダー(光学距離計)は装備されていない。ないものをあるように言うのは、「だまし」である。

 あえて言うならば、レンジファインダーカメラ(専門サイトなら、一回は、ちゃんと全部言うものではないか)「もどき」というか、「まがい」というか、要は、せいぜい、”レンジファインダー”でしかない。「風」なら、食品関係で、本物でないと知れ渡っているが、カメラの世界ではどうだろうか。
 当世はやり言葉で言うと、「フェイクレンジファインダーカメラ」として世に出したのだろうか。設計者の意見を聞きたいものである。
 レンジファインダーカメラがなんなのか知らない、現代の一般読者を瞞しているのではないか、と思うものである。
 そして、大事な商品は、似せ者でなく、本物として、もう少し丁寧な売り方はできないのかと思う次第である。

以上

2019年11月 5日 (火)

新・私の本棚 牧 健二 「魏志倭人伝正解の条件」        3/3

                            2019/11/05 *追記 2019/11/09
*「陸行」・非陸行
 逆に、末羅から伊都は、厳密に「陸行」と明記されていて、他の傍線国経路には明記されていないので、自明の陸行と解釈しないといけないのですが、道里の計算外なので仮に船で移動する行程が混じっても「問題ない」のです。
 どの道、万里の道に、百里単位、一日単位の細々とした移動は、端数として無視できるので、少なくとも、中原史官である陳寿は意に介していなかったのです。

*道里記事の完結
 と言うことで、最後に全道里が、水行十日、陸行三十日、一万二千里と明記されて、道里記事が完結するのです。切りが良いので、簡単に、一日、三百里となります。陸行、水行が同程度と見なすと、水行十日で三千里、陸行三十日で九百里で見事に計算が合います。最初に一日三百里と決め渡海を一千里三回と切り良くしたので、うまく着地できたのですが。

 道里記事は、帯方郡から狗邪韓国まで七千里となるような里で、全体が一万二千里として書かれているのですが、各部の切りの良い数字を一律に定数で割って、普通里に近い「里」として切りの良い数字に換算するのは、今日の高度な数学計算でも、不可能だとお気づきでしょうか。(高度の数学というのは、当時の数学としての言い分であり、多桁計算、とくに小数点入り、分数計算、按分計算、割り切れない割り算などを言います。念のため)(説明がくどくなって申し訳ない)

*もつれた難題に対する簡明(エレガント)な解
 他にも、道里記事のもつれたとも見える難題に解を与えるご名算は、沢山あるでしょうが、ここに書いた解は、中でも、最も(数学問題で言う)エレガントな解であり、倭人伝全体の理解の糸口となるものと思います。もちろん、長年の課題(正解のある、回答者の知性を問う設問)であった「ゴルディアスの結び目」を解きほぐせず、刀でたたき切ったアレキサンドロス大王ばりの快刀乱麻は、勘定に入れないとしてですが。(説明がくどくなって申し訳ない)

*「囚われ」人の渾身の業績
 ここまでの講釈で、陳寿が、(まぼろしの春秋筆法やら司馬氏の権力やら先行史書の用語例などに加えて、史官としての倫理観も背負っていた)がんじがらめに「囚われていた」史官としての道里記事作法が理解いただけたでしょうか。別に、当時史官をしていたわけではないので、懸命に推定しましたが、当然、外していないと思います。(説明がくどくなって申し訳ない)

 くれぐれも、現代人の語感や地理観に囚われて、常識だとか論理だとかの「最終兵器」を持ち出してはいけないのです。互いに囚われているのですから、古代の囚われ人に対して、もっと謙虚に対応すべきです。(最終兵器は、議論が行き詰まったときの自爆発言、「ちゃぶ台返し」などの逃避策を言うのです)(説明がくどくなって申し訳ない)

*陳寿の海
 中原の教養人にして厳格な史官陳寿の脳裏には、現代の半島地図はないので、海は一つながりで島国を取り巻いていて海を自由に進めるという感覚はもとより無いのです。現代日本人との感覚の違いを掘り下げると、当時、海は塩辛い水を湛えた沼沢です。いや、中原に淡水湖はありふれていますが、西域で、塩っぱい西海や青海があることは知られていたのです。

 倭人に身近な東方では、海は、中原人には、対岸に渡る水たまりであって、船を進めることのできる「水」(大河)と認識されてなかったのです。つまり、渤海が南に狗邪韓国まで続く「大洋」との認識は全く無かったのです。(そのような記事は見当たりません)

 行程で狗邪の南は一つの海、對海の向こうは別の海、そして、一大の向こうはまた一つの海、総じて三つの海が並ぶ感覚です。そんなこと、わかっているとおっしゃる方には何も言い足すことはありませんが、よくわかっていない人のために何度めかの念押しです。

 当時の帯方郡官人や倭人に中原人の感覚は無く、眼前の海を認識して無造作に漕ぎ渡っていたでしょうが、中原史官陳寿は「大洋」を知らない中原教養人を第一の読者としているため、帯方郡官人や倭人の視点から書かれている記事を、何とかして、大切な読者に、抵抗なく理解されるように書かねばならなかったのです。

□提言感謝
 と言うことで、冒頭に引用した牧氏の提言に回帰するのです。(引用しなかった本論部分は、当記事では参照していないのです)(説明がくどくなって申し訳ない)

 私見では、牧氏の提言は、他の先賢の卓見とともに、政争めいた俗説の泥沼に埋もれてしまったようですが、先生の提言の精神は、大いに学ぶべきと考え、ここに後生の愚考を示したのです。(かねてから実践しているのは、当記事でも明白でしょう)(説明がくどくなって申し訳ない)

余言:わざわざまるごと引用したのは、この提言の意義を理解するには、読者自身が自分の眼で見て、読んで、理解したとき初めて、その意義が伝わる可能性があるという事から来ているのですが、どうも、こうした提言は、はなから無視する読者がいて、大いに歎くのです。さほど時代が異なっているわけでもないのに、先人の文意が理解できず、食わず嫌いで自分の偏見を醸したりするのは、つけるクスリが無いのかなと思わされるのです。いや、年寄りのらちもないグチです。

                     以上

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新・私の本棚 牧, 健二 「魏志倭人伝正解の条件」        2/3

                            2019/11/05

*「海の街道」の成立・不成立
 中国の制度で、官道が海を行くことはあり得なかったのです。官道は、人馬の移動を支援する宿駅(郵亭)が常備され、其の宿駅を支援する兵站が完備していたのです。従って、宿駅の位置と管轄担当の地域主体(国王、県主)が明記された規定が必要なのです。其の規定があれば、陳寿も現地を確認することなく道里記事が書けるのです。しかし、当時、半島沿岸に「海の街道」が存在したとの記録は無いようです。後世史書にもありません。記録がないということは、陳寿にとって、そのような経路は存在しないのです。

*「実態」論は、道里論議に無用
 それは、そのような移動方法が、実際は困難とか容易とか論じているのではありません。まして。魏志が通ったかどうか実態を言っているのではありません。公的な制度として存在しないから考慮されないのです。さらに念押しすると、ここで論じているのは、そのような経路で人が往き来してなかった、物が運ばれていなかったと言うものではありません。
 国の制度として、そのような移動方法はなかったと言っているのです。国の制度上、そのような経路は選択肢として存在せず、つまり、陸上移動に決まっているから陸を行くとは書いていないのです。
 それにしても、魏使だろうが、魏の旗を担った帯方郡使だろうが、規則違反の「海のみち」を行くはずがないのです。郡太守も、そのような無法を指示するはずがないのです。
 因みに、太古以来細々と通っていた、弁辰から帯方郡へ重量のある鉄材を送る「銕の路」は、半世紀以上前にしっかりした官道になっていたのですから、魏使が真っ過ぐ東南に通じている街道を通らない理由はないのです。

*渡りに舟
 さて、そこで、疑問が出て来るのですが、陸上移動できないときはどうするのかということです。簡単です。渡し舟という移動方法が常識です。現代と違って、官道と言えども、架橋されていない時代です。陸上移動の補完手段として、渡船は古来ありふれているから、各官道は当然渡し舟を利用するのですが、如何に中国の大河といえども、数日を要する大河はないから、道里を記す際には、距離も日数もはしたを無視して、特記しないで良いのです。

*倭人伝独特の「水行」~渡海 地域概念
 ところが、狗邪韓国から先、大河ならぬ大海を渡るのは、移動距離も長いし、日数もかかるので、はしたとして無視できないのです。そこで、陳寿が、考え出したのが、倭人伝独特の地域水行概念の宣言と地域利用なのです。
 大陸では、水行とは、大河上の輸送手段であり、荷物を大量に運ぶ際に、人畜を特に労しないから、人畜の食糧や宿舎を考慮しないでよく、日数はかかったとしても格段に低廉なのです。又、文書通信など急を要するときは、陸上の街道と渡し舟を駆使して、疾駆して陸行するのです。

 これに対して、当行程の渡海は、日程優先であり、荷物輸送でもないのです。但し、街道移動とは明らかに内容が違うので、大陸の水行とは別の水行を定義した上で、宣言し、適用したのです。つまり、「海岸を後ろ盾にして海を渡るのを水行という」(循海水行)と宣言したのです。そのため、渡海と明記の水行を三度重ねた後、上陸後の最初の行程を「陸行」と解除宣言したのです。

*傍線、除外行程の理由
 倭人伝の道里記事解釈で、投馬行程を傍線であって、主流の道里記事の里数計算外としたのは、水行二十日と無造作に書いた点にも表れています。
 厳密に解釈すると、この行程は海を渡るはずですから、少なくとも、どこからどこまでと明記する必要があるのですが、現実の記事は曖昧です。
 これは、投馬が行程外で、道里対象外だからです。ついでに言うと、大国なのに、戸数が不確かでも済んでいるのも、同様の理由でしょう。

                                未完

新・私の本棚 牧 健二 「魏志倭人伝正解の条件」        1/3

史林五三巻五号 1970年9月 (京都大学学術レポジトリー)
「魏志倭人伝正解の条件」

*私の見立て ★★★★☆ 大変重大な資料           2019/11/05

□はじめに
 当史料の評判らしいものは聞いていましたが、論考の実見は初めてです。文献解釈の王道を説き、着実に実行し、学ぶべき展開です。論考の前提となる基本的記事解釈などには、多々異論がありますが、何よりも大事なのは、考察の基本方針の厳正さです。(本論部分論評は、ここでは割愛します)

□抄録引用
 魏志倭人伝の解釈について、私は先に『日本の原始国家』を公にし、倭人伝は前漢書の書例に従うて書かれたものであって、「自㆓女王国㆒以北」は対馬国から不弥国までの六国の地方で、その南に女王国即ち倭国連邦があり、倭国の「女王之所㆑都」が邪馬台国であることを説いた。また右の書例に基づいて邪馬台国は筑後の山門郡を、投馬国は日向の妻を、故地とすることを説いた。なお従来の邪馬台国と女王国とを同視する定説が後漢書倭伝に由来する謬見であることを論じた。然るに今日この定説は依然として行なわれ、且考古学者の間では大和説がなお有力であり、また伊都国から邪馬台国までを陸行一月とする倭人伝の記載が依然曲解又は虚妄視され、更に邪馬台国は誤で邪馬壱国が正しいという説が現われたりしているので、ここに其後の知識と省察とによって管見を補強しこの倭人伝正解の条件を書いた。

□不朽の提言
 発表時点の最新見解であり、榎一雄氏のいわゆる「放射状道里解釈」及び古田武彦氏の「邪馬壹国」提言を承知した上で、以下の提言を進めているのです。

 「ここにいたってわれわれは倭人伝の原文を正確に読む方法について、これまでの読み方に間違ったところがないかどうかを考える必要に迫られるのである」と冷静に問い掛けた後、以下提言されています。「倭人伝を書いた当人である陳寿は、もちろんそれほどむずかしい文を書いたとは思っていなかったのに相違ありません。彼は彼として無理のない自然な表現法で倭人伝を書いたのに相違ないのですから、倭人伝を正しく読むがためには、まず筆者陳寿がいかなる表現法を用いて倭人伝を書いているかを知らなければなりません。その表現方法をわれわれはまだ知らない」(以下略)同感です。

□提言の適用例
 ある意味、広がる倭人伝への偏見との観点の相違は根深いので、ここで翻意していただくのは無理な相談ですが、無駄を承知で言っておきます。

*陳寿の常識確認
 陳寿が道里記事を書くとき、帯方郡から狗邪韓国に続く街道、官道があることは承知していましたが、海に出て海岸沿いに南下する、そして、東に転じる経路は、全く認識に無かったのです。(史官として認識していないことを書くことは、一切ないのです)(説明がくどくなって申し訳ない)

 そもそも、世人には、公式史書に魏使の行程報告をそのまま載せているという感覚自体「的外れ」との意識(自覚)が無いから、いくら当方が官道の理念を元に諄諄と説いても、理解されないかも知れません。

 倭人伝は、厳正な公式史書たる魏志の東夷伝で、初出の蛮夷の国を紹介しているから、帯方郡からの官道道里を明記しなければならないのです。 (史官は、史官の責務を、何としても、時には、身命を賭して果たすものです)(説明がくどくなって申し訳ない)

 これは、同伝に続いて追補の魚豢「魏略西戎伝」の編纂方針でもあります。

                                未完

2019年11月 2日 (土)

新・私の本棚 番外のおまけ 投馬国道里問題について

                          2019/11/02
*問題(Question) はみ出しコメントの弁
 倭人伝道里記事全体に拘わり簡単に話が付かないので独立記事にします。
 ここだけに議論を絞るとして、最大の難点は、投馬国まで、水行二十日、五千里~一万里程度と思われる倭人伝通りでも最大の水行は諸国巡訪記事に収まらないのです。
 (陰の声:なぜ、三度の渡海・水行のように、行程明細がないんでしょうか。またもや、うっかりして聞き忘れたのでしょうか。)

*無法な帯方―投馬直行道里
 事のついでに貴兄が持ち出した感じの投馬国道里帯方起点説については、どこかで聞いた気がしますが、場違いであり行程中に書く意味がない点で却下されます。そういう変則的な書き方は読者が混乱するだけです。
 投馬国道里は、倭人にとって何か意義があって書かれたとしても、あくまで本筋を外れた傍線であり、従って、郡からの里数に計上されなかったと見るものです。郡は正体不明の投馬国まで二十日と知っても意味が無いのです。

*解読失敗の歴史と現状
 先人は、道里記事を直線的にたどって、目的地を南洋海上に投げ出しましたが、今日、太古の遺物のベタベタの道里解釈に追従している論者は、(ほとんど)いないはずです。いるとすれば、何か魂胆があって道里記事を混乱させようとしているだけです。(陰の声:全国邪馬台国運動の陰謀でしょうか)

*簡単明解の別解
 度々言うように、陳寿の方針として、道里記事を明解にまとめるのを重視するのであれば、投馬国に至る六千(?)里とでも書けば良かったのです。皇帝周辺で、誰も倭人領域の隅っこについて実里数を言うことはないわけですから。
 但し、一万二千里の中に傍線とすべき六千(?)里は、入らないと見るものです。

*帯方起点の意義
 創唱者の古田氏以来、多くの論者が<水行十日陸行一月、計四十日行程を帯方郡起点と読むのは、思うに、全所要日数は、帯方郡にとって最も重要な道里情報だったから、足し算で出せるというだけでなく明記が必要だったという見方です。新参蛮夷国の身元、国都の位置、郡からの道里(所要日数)、戸数、城数は、必須情報なのです。(皇帝命令です)そして、明解だからです。
 これに対する反論で筋の通っているのはただ一つ、上田正昭氏の疑問であり、過去、そんな道里日数の書き方をした史書はないのではないかと言うものです。この反論は、いまだ克服されていないようです。(古代史学界では、前例がないと言うだけで否定されるのです)

*単純明快、そして整然
 倭都への水行陸行は、道里記事の末尾であり、そこで全日数道里を総括したという見方をしても、道里記事の構成は乱れないのです。
 その議論を借りると、順次書き進めている道里記事の途中で、起点からの所要日数を挟み込んで、肝心の里数を省いた例はあるのか、と言うことです。(ないよ、と言うことです)
 編集方針に帰ると、道里記事を里数表示で書き進め、最後にそれを崩して、日数しかない記事をポツンと書くとは思えないのです。これでは、そこまでの里数証明を累計していくことができないので、折角、キリの良い数字にまとめ上げた最初の狗邪韓国記事や途中の渡海記事の意味が無くなるのです。陳寿は、当時最高の史官ですから、知恵者の補佐役もいて、当時、天下一の最強軍団だったのです。

*締めとそれから
 と言うことで、本件の締めは、倭人伝が帯方人報告を元としても、現代の素人の常識と論理でなく洛陽官人の常識と論理で書かれていると思うのです。多数の先覚者が述べている基本原理です。傾聴すべきでしょう。
 後出ですが、倭人伝には、狗邪韓国から順次倭地の行程をたどると倭都まで五千里という念押しもあり、明解本位の陳寿の執筆姿勢が確認できます。同文言には、別解読も出回っているようですが、例によって、最も単純明解、エレガントな解読と見ています。
 当方も、倭人伝記事に極力とどまり、傍線諸国には口を挟まないのです。とにかく、個人の道草には限界があるのです。

                                以上

2019年11月 1日 (金)

新・私の本棚 番外 白石太一郎 考古学からみた邪馬台国と狗奴国 1/1

                                                                      2019/11/01
 吉野ヶ里歴史公園 特別企画展記念フォーラム「よみがえる邪馬台国『狗奴国の謎』」講演記録 2012年10月13日

*私の見立て ★★★★☆ 重大な資料

□総評
 ここに指摘するのは、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長[2004~2018]現名誉館長)の席上講演の冒頭部分ですが、現代の考古学者が、文献史学に対して抱いている先入観と考古学の「研究成果」が、どのような背景から生み出されているかを物語るものとして、ここに、深甚な敬意を込めて、あえて失礼を顧みず、率直な批判を加えたものです。
 素人目には、我田引水としか見えませんが、この「方向性」の元、古墳研究の成果が粉飾され三世紀中頃に「近畿の大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合」広域政権連合を創造したことに危惧を抱きます。端的に言うと、「邪馬台国」「畿内説」は、このような研究成果に整合するように創造された人工的なものであり、文献史学の(さまざまの)問題が、この結論を妨げないように、これまた人工的に巻き起こされたのは痛々しいものがあります。
 是非、偉大な業績に相応しく、このような不合理な混沌を是正し、晩節を正していただきたいものです。

*講演引用と批判
 『魏志』倭人伝にみられる邪馬台国や狗奴国をめぐるさまざまな問題は、基本的には文献史学上の問題である。ただ『魏志』倭人伝の記載には大きな限界があり、邪馬台国の所在地問題一つを取り上げても、長年の多くの研究者の努力にもかかわらず解決に至っていないことはよく知られる通りである。
 専門外の文献史学に対するご指摘の様相は、現代の文献史学界が各人の言いたい放題に見えているだけであり、二千年近い過去の書「倭人伝」に現代人を惑わす「限界」などない。泥沼化した「研究者」の責任である。

 一方最近では考古学、特に古墳の研究が著しく進み、定型化した大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡ると考えられるようになった。その結果、3世紀中葉頃には近畿の大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合が形成されていることは疑い難くなってきた。したがって今日では、こうした考古学的な状況証拠の積み重ねから、邪馬台国の所在地は近畿の大和にほかならないと考える研究者が多くなってきている。
 学術的な議論の動向は信奉者の頭数で決めるものではない。また、軽薄な状況証拠、つまり、物証なき憶測の積み重ねに重みはない。ここで言う研究者は、白石御大の声の届く、見通し範囲ということのようだから、ご自身の弟子だろうか。犬が西向きゃ、で、まことに素人くさい我田引水である。
 泰斗がご自身の存在価値を実証しようというのであれば、そうしたお手盛り世論調査でなく、全国で「解散総選挙」した実数を報告すべきである。いや、それにしても、パワーハラスメント、党議拘束の懸念が濃厚であり、重みに欠けるのであるが、せめて匿名回答が必要である。
 そうでなければ、ただのどんぶり勘定であり、学問上の意見とは思えない。

 ここではそうした最近の考古学的な研究の成果にもとづき、邪馬台国と狗奴国の問題を考えてみることにしよう。
 そのような目算、手前勝手などんぶり勘定を、「研究の成果」と呼ぶようでは、白石氏の唱える「考古学」は、まことにうさん臭いとしか言わざるをえない。

                                以上

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