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2020年1月

2020年1月30日 (木)

新・私の本棚 井上よしふみ 季刊邪馬台国137号 1/1

【総力特集】邪馬台国論争最前線 「卑弥呼の墓は朝倉の山田にあった」
*私の見立て ☆☆☆☆☆ 不得要領意味不明のジャンク   2020/01/30

〇駆け抜け書評
 筆者は、幻覚境で意識が穴だらけ、躓き石だらけなのか、栄えある記念号の誌面を汚しています。言い方がきついのは、自著の提灯持ちの商用文と見られるからです。合わせて、このようなお粗末な「エッセイ」(論文)を審査せずに生のまま掲載している編集部に、警鐘を鳴らしたいからです。

〇粗雑な用語管理 論外不作の態
 大事な冒頭部分、枕で、著者の粗雑さが露呈しています。「初見」、つまり、「国内史料初出」とぶちかまして、いきなり書紀「斉明天皇条」(斉明紀?)で誤記奮発です。朝倉山・朝倉社と書きつつ、直後、朝倉に朝倉山と朝倉「神」社が「ない」と断言です。朝倉社が、神社かどうか証されていないのに無頓着なのでしょう。
 そもそも、「朝倉に」なる朝倉はどこなのでしょうか。
 また、何かが「ない」とは、何を根拠に言うのでしょうか。どんな資料を引いたのでしょうか。捜索範囲の記録にないと言っても、実際になかったと言うには、随分証拠不十分なのです。また、初見の「草書殺字」は、井上氏の「理論」に初対面の読者には、殺生です。
 これで当エッセイはゴミ箱入りです。

*意味不明、独りよがりの地名談義
 と言うことで、読者をほったらかしの地名談義は、全然無視です。

*混迷の魏志倭人伝「撰述」談義
 何がそうさせたのか、倭人伝談義は支離滅裂です。「本文」と、わざわざ言う意味が不審です。「固有名詞」に出所不明の発音を当てはめた「借字」と言うものの、初見の「借字」は趣旨不明であり、倭人伝冒頭の「帯方」と「韓国」は、どこから来た借字なのか、なぜ、公式と思える著名地名に対して誤字山積というのか、理解困難(不能)です。

 なぜ、倭人伝が「最初から正史と思われがち」と談じたか不可解ですが、誰も、一片の「倭人条」が「正史」とは思わないでしょう。皇帝が上覧後に「座右」に置いたかどうか知るすべはありません。また、では、どの時点から、倭人伝二千余字が正史とされたかの解明もありません。

 因みに、陳寿生家は蜀地で、帝都付近にありません。随分杜撰な校正です。

*一日にして成らず
 「楷書が隋、唐で正式書体になった」のご託宣は聞き置くとして、隋初から唐末まで四世紀あまりあるので、どの時点か明記してほしいものです。

 また、何をもって楷書「未確立」と決め付けるのかよくわかりませんが、公的に確立されていないだけで、紙上筆書が普及すると共に、楷書前身書体が実用に供されたかと愚考します。なお、公式史書は実用書などではないのです。

*陳寿遭難
 三国志編纂四年間は勘違いでしょう。魏志、呉志、蜀志、それぞれ、構想~編纂完了は別々であり、陳寿が全ての書記を行ったとは思えないのです。特に、大半が呉史官の手になる呉書の編纂期間は、知るすべがないのです。

 陳寿が草書で草稿を綴ったとすれば、誤字解消に十分対策を講じたでしょう。また、行間に意を込めた自筆稿を自身で誤読するとは思えないのです。史官を、そんなに見くびるものではありません。

 邪馬台国談義で、許慎「説文解字」の引用に当時存在しないアルファベット表記は重大な錯誤でしょう。まして、カタカナ表記は愚の骨頂です。

*卑弥呼の墓 掃き溜めの鶴か
 最後、唐突に「卑弥呼の墓」比定ですが、こんな雑駁なエッセイで発表するような半端な事項ではないはずです。数万、数十万の関係者が頼りにしている筈の畿内説纏向王宮説の大楼閣が、根底から覆る主張です。まるで、中東古代の英雄サムソンの神殿崩しの荒技です。

 しかし、折角タイトルに提示したものの、延々と導入部で与太話を流し続けたので、読者の意識はそっぽを向いていて、この場で何を主張しても、またもや夢想かと解釈され、お話として多少面白くても、とても信用できないどころか、まともに耳を傾ける気にならないのです。其の意味では、自滅エッセイでしょう。

〇結語
 やはり、本エッセイは、選外佳作どころか立派な論外不作であり、読者が本誌の該当ページを不良品として送りつけたら、版元は、品質保証として、その分返金すべきものでしょう。いや、ただの冗談ですが。

 念のため言うと、本号の各記事は、ここまで徹底的に無残な出来ではありません。私見では★四個なので、安心して購入してください。


                                以上

今日の躓き石 毎日新聞の深奥たる石炭火力推進方針批判に及んだ低俗、野蛮な「リベンジ」汚染

                            2020/01/30

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊12版オピニオン面「記者の目」コラムに、大々的に掲載された科学環境部記者の論説である。

 ことは、温暖化防止国際会議で、日本が、石炭火力推進方針の撤回を明言できなかったことに対する非難のようであるが、記者は、ことを、スポーツ記事のように、対立勢力間の報復合戦と捉えて、冷笑していると見える。このような低俗な野次馬論議は「両陣営」の有意義な議論に血潮を浴びせて、冷静な討議に熱水を差すものと見える。

 「脱石炭」を諦めていない環境相が、「リベンジ」に動いたと言うが、一国の環境製作の主管大臣を、個人的な復讐心に駆られて行動していると見くびって非難するのは、記者自身の矮小な政局勝敗観を投げつけているようなもので、投げつけているのは用語として最低の「汚物」語だから、これは一種の自滅行為であろう。

 熱血を煽るスポーツ界には、やられたらやり返す、血祭りだ、天誅だという「リベンジ」汚染が、若者世界に広がっていて、大変嘆かわしい状態にあるのだが、責任ある地位の全国紙記者が、国家としての環境政策を論じるべき高度な論議の場で公人を血に飢えた「復讐鬼」扱いするのはどんなものか。まさしく、数字稼ぎの悪乗りに見えて、さもしいのである。

 本記事が英訳されれば、記者の大臣罵倒は一段と明確だが、冷静な読者は、記者に「言葉のテロリスト」像を見るのではないか。筆誅も、言葉を選ぶべきだと思うのである。

 と言うことで、あまりに低級の失言なので、こらえ性無く書き立ててしまったが、全国紙の幹部記者に求められるのは、高度な言語感覚ではないだろうか。

 非難対象の政治家は、「セクシー」(sexy)など、うろ覚えのカタカナ言葉を口走ったとして手厳しく批判されているが、原語ではcoolと大差ない口語表現と思われ、一級の政治家が公の場所で口に出すべき言葉ではないと思うが、どちらかといえば悪影響の少ない些細な勘違いであり、かたや、ここに炸裂した「リベンジ」世界観は、記者の発言であるから「物議」を醸さないかも知れないが、血塗られた紙面がたちの悪い言葉の蔓延に手を貸し、未来を担う若者に悪例を示すということで、実に重大な、罪深い失言である。どうか、口を慎んでもらいたいものである。

以上

2020年1月29日 (水)

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 3/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍

*武人甘英の面目 別視点による考証
 西域都護が重大な使命(君命)を託した副官に重大な抗命があれば、都護は皇帝に奏上し副官を誅殺したはずですが、同代史書に、かくなる無面目記事は無いのです。ことは、後世人范曄の使命誤認であり、本来の使命は大成功でないので明記されていませんが、両国との友好関係を確認したので成功の筈です。

 不名誉な武人挿話と夢物語は、ある意味、鮮やかな創作虚構であり、思うに、笵曄は武人に冷笑的です。史官の素養を棄て、武人に転じた班超への筆誅でしょうか。因みに、班超は漢書編纂者班固の実弟です。

〇范曄総評 適確な評価の試み
 私見ですが、文筆家たる范曄には、取り立てて非難すべき点はないのです。

 繰り返しますが、范曄後漢書倭伝は、行文明解でも不正確で、史書としての不備が多いので、史論に於いて無批判な踏襲は避けるべきだというだけです。主部の本紀、列伝は、先行書があって、創作はほぼ不可能だったのです。
 むしろ、先例豊富な後漢書を、あえて編纂した事情を察すべきと思います。

 南遷後、中原回復を焦った北伐、軍閥興隆で自滅した西晋を継いだ劉宋武帝劉裕麾下にあり、文帝代に皇弟重臣から閑職に左遷されたこともあって、二世紀以上前の後漢書独創の大事業に没入したと思われます。

 多分、笵曄は、「オリジナリティー」なる深刻な悪癖に陥る誘惑に勝てず、遂に、史官たり得なかったものと思うのです。他人事ではないのです。

〇「沈没」余談
 些細なことですが、古い中国語で「沈」「沈没」は、水に浸かって泳ぐ様を言うのであり、「潜」と書いても、潜水とは限らないのです。

□太平御覽 地部二十三水上は、「爾雅」により水にまつわる言葉を説く。
《爾雅》曰:水行曰涉,逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流。
    絕流而渡曰亂。以衣涉水曰厲,由膝以下為揭,由膝以上為涉。
    渡水處曰津濟。潛行水下為泳。
 「水行」は、水(河川)を渉(わた)ることを言う。流れを遡ることを「溯洄」と言い、流れに従うことを「溯游」という。概して、流れに沿うという。水深次第で、涸れた川を渡るのは「亂」、衣類そのままの浅瀬渡りは「厲」、膝下は裾を掲げて「揭」、膝を越えると「涉」と言う。「水」の渡しは「津濟」と言う。身を沈め潜るのは「潜」、泳ぐと言う。

 世の中には、ちょっとした川なら泳いででも渡る豪胆な人がいるようですが、中原人はほとんど金槌だったようです。所詮、泳げたらの話しです。余談御免。

 中島氏が説くように、中原人の教養の範囲で、水は、ほぼ川に決まっていますが、中原の川は、大抵、泥水、濁水なので、向こう岸で清水で身を清める必要があります。まさか着衣で泳ぎ渡る無謀な人はいないでしょうから、着替えの用意が必要です。倭地の川は清水であり、中原とは大違いです。

 そうそう、金槌の身には、見通しにくい川底の深みが怖いので、命が惜しくなり、精々「揭」止まりなのです。もちろん、腰のあたりまで水が来たら、水の抵抗が大変で、川底を歩くのは大事業です。余談御免。
 因みに、河川上流、下流を、中国語で「上游」、「下游」といいます。またも余談御免。

〇最後に
 私見では、中島氏は、紙数を費やして、立論の根拠、経緯を明示しているので、後学のものは、氏の著作から着実な論考のすすめ方を含めて、大いに学べるのです。望むらくは、読者諸兄は、分厚い刷り込みや行きがかりを棄て、虚心に受け止めていただきたいものです。別に、無批判に追従しろというのではなく、私見では、それは、中島氏が、大いに嫌うはずです。

 最後に私見ですが、倭人伝用語には、正統派の中原語だけでなく「うみ」(Sea)に親しんだ帯方/韓/倭人の言葉/用字が、かなり入っていると感じていますので、訳文の海、水解釈に対する細(ささ)やかな異論としておきます。

 私見では、陳寿は、このあたりに気づかなかったのか、気づいて干渉しなかった(述べて作らず)のか何れか不明です。史書の編纂は、新手のロマンを捻り出すものではないのであり、既に書かれた先人の知的な遺産を、小賢しい後知恵を排して、適確に史書として構築することにあるのです。

〇評に代えて
 西戎伝末尾の魚豢「評」に習えば、人はそれぞれの井戸に生涯閉じ込められた蛙なのです。この一文を読んで、多年魚豢に抱いていた不信の念は夢散したのです。現代人が、やや蛙の境地と違うとすれば、しばしば長年の時すら超えて、先人ならぬ先蛙の知恵を知り得ることです。

                                以上

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 2/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍

〇范曄批判 其の貳  後漢書西域伝の誤謬
 ここからしばらく話しは、大変長くなりますが、論議を飛躍させたくなかったので、経過する階梯を逐一辿ることにしました。気が向いたら読んでください。
 曹魏の史官と思われる魚豢は、魏略西戎伝編纂時、西域実情を知るすべがなかったものの、原記録に訂正を加えず、考察追記にとどめたのです。

*甘英抗命談 范曄創作の背景 (条支、大秦比定は、独創の新説)
 端的に言うと、後漢書「西域伝」は、笵曄の誤謬に基づく創作なのです。

 魏略「西戎伝」によると、西域都護副官の甘英が、漢代西限であった安息国に入り、目前の大海「カスピ海」対岸の条支(海西 アルメニア王国)と南岸の大秦(安息国メディア公国)の情報を持ち帰って大功を立てたのです。

 西戎伝では、甘英は、カスビ海東岸の「大国」、実は、地方公国である安息で情報収集した地理記事を適確に記録したのです。西戎伝は、三千字を越えて、そのうち、漢書に無い「新界」記事は千五百字近い大部の記録です。

*混乱の起源 「安息」帝国と「小安息」公国の混同
 しかし、洛陽の書庫の漢書には、安息が西方数千里の彼方に国都がある巨大な大国とあり、洛陽史官が、不整合情報を書き足したので混乱したのです。かくして難解な地理記事となり、誤釈で、本来の使命であった条支、大秦に関する記事のかなりの部分が所在不明になりました。念のため言うと、これは、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。そう、後漢書西域伝安息条には、中国の「典客」に相当すると思われる応接者が、「小安息」と自称していたことが書き留められているのです。あるいは、メソポタミア世界を睥睨している西の国都領域と対比して、「東安」、ないしは、「東安息」と称していたかもわかりませんが、甘英が受け取った国書には、中国語の安息に相当する国号、Partiaが明記されていたので、そのような実態は、報告書に大書されなかったのでしょう。少なくとも、洛陽史官には、全く意想外だったと見えます。

 因みに、西戎伝に採用された後漢朝記録は、実態が不明な「其国」主語や、そもそも、漢文に多い主語省略の影響で、風俗、産物記事の主体が不明になっていて、あるいは、簡牘の革紐が切れた散乱による乱丁があったのか、どこの事情なのか、解釈困難で、ほとんど不可能な文書になっていますが、これもまた、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。

*范曄「大秦神話」創作の由来
 解釈困難(不可能)な史料に辟易したか、博識の文章家を自負する范曄は、全知全能を傾けた苦慮の結果、西戎伝の新界情報を棄却して、甘英抗命記事の後に、行き損ねて探索できなかったはずの大秦国の風俗満載の戯画記事をでっち上げたのです。かくて、甘英、洛陽史官、魚豢、范曄と、数世紀の時と万里の距離が離れるていくままに、本来、実務本位で書かれた明快、簡潔な資料の中で誤解がはるばると成長したのです。
 後漢書では、甘英は、数千里西行の果て、シリアとされる地中海沿岸でローマ行を放棄し、虚しく遠路を引き返した戯画まで描かれているのです。

*甘英雪辱、再評価 重大な使命の正体
 甘英は、不世出の西域都護班超が副官に登用した赫々たる武人です。史官の家で史官の訓練を受けながら武人に転じた班超が異郷探査任務を課した甘英が、命を惜しんで抗命する訳はないのです。そもそも、班超が存在を知らなかった新天地大秦の冒険探査を指示するわけはないのであり、漢書が記録した西域の西の果ての「蕃客」安息、条支の国情を探査し、西域都護幕の西界同盟軍として締盟を図るのが使命の筈です。

*范曄渾身の場違いな創作
和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度,而安息西界船人谓英曰:「海水広大,往來者逢善風三月乃得度,若遇迟風,亦有二歲者,故入海人皆赍三歲粮。海中善使人思土恋慕,數有死亡者。」英聞之乃止。

 これは後漢書安息国記事では場違いで無様です。「安息西界」は安息西境メソポタミアであり、当時、東地中海は、全てローマ領であったことから、不合理です。
 また、西域伝で、条支は、既知の烏弋山離の西傍であり、都城は明らかに西岸です。なお、現地の大海はカスピ海であり、数日で渡れる「大海」です。

 但し、そのような批判は、現地事情に即した記録解釈から得られるものであり、笵曄自身は、生涯行き着けない憧憬の西界に茫々たる「西海」を想定していたのであり、「大秦」の所在は明言していないのです。

 後漢書西域伝「大秦条」は、「大秦國,一名犁鞬」と書き出していて、漢書でアラル海付近にあったとされている遊牧民の小国の名を持っていたものであり、条支、安息の東北方近隣の小勢力だったと示しているのです。西戎伝では、この後に「在安息」と付記して、文脈からカスピ海南岸と示していますが、句点付けの謬りにより、甘英にとっては未知の条支西方に位置づけられてしまったのです。

 ただし、その後段に、この書き出しを裏付ける明確な記事は無いため、大秦が、実世界のイタリア半島、さらには、大西洋のような遙か西方に投影されたのは、後世人の憶測であり、漢書記事の西域最新事情すら知る術のなかった笵曄には責任はないのです。

 魚豢の手になる魏略西戎伝は、現地探査した西戎地理原情報をもとに、適確な「新界像」を描いていますが、笵曄は、後漢史官が誤解して付け足した補注を重視して、「新界像」を風聞として斥け、続いて描く大秦記事に地理情報が無い言い訳として『「船人曰」に恐れを成した甘英抗命』を創作したものと思われます。

*笵曄に「史料破壊」の過失
 どんな信念を形成していたにしろ、どんな動機があったにしろ、史書編纂において原資料を棄却して創作で埋めるのは、史官の使命、道義に反することであり、范曄が史官でないことを物語っているのです。

 また、西域傳編纂の際に、西戎伝前半の大変貴重な諸国情報を大量廃棄した手口も支持できないのです。裴松之が、魏志に補追したために、魏志本文と同様の高精度の写本継承で、今日までほぼ忠実に承継された魏略西戎伝がなければ、後世人は、西域から追い出されても不屈の意気で西域都護を復活させた後漢の偉業を知ることはできなかったのです。(後漢書には、むしろ散漫な写本継承の兆候が見えるのです)

 史実を探るには、范曄後漢書をそのまま信じてはならないのです。

                                未完

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 1/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23

〇総評 一部再掲
 中島信文氏は、多年工学・技術分野の実業に従事され一代を画した方であり、引退後は、当分野の古代史に関して、広く関連文献を精読し、新鮮な視野から俗説の弊を正していることに、賞賛を惜しまないものです。

 当方も、独自に考察を重ね、独自の意見を発言しています。

〇本書に対する感慨
 さて、中島氏の陳寿観、范曄観は、我が意を得たもので、このような順当な観点が今まで消し去られていたのは、嘆かわしいものがあります。国内史学界は、虚構に邪魔な「倭人伝」への偏見が堆積し論議が埋没しています。
 出回っている史料読み替えは、現代人創作の偽書です。

 原因は、当分野の一般向け解説書が、崇范曄、罵陳寿を刷り込むため、真に受けた論客が、無批判追従するところにあると見受けます。

 そうした感慨はさておき、中島氏の論考は、中国古典史料から出発して大変貴重なものです。そう言うと、反射的に中国史料絶対視批判が出るでしょうが、氏の論考は慎重な史料批判を経た上のものであり、安直な先人追従べったりの俗説による魏志否定とは異なるものです。「まず筆者の真意を読み取るべし」との文書解釈では大原則を知らない俗人が徘徊しているため、くどくど前置きせざるを得ないのです。

 案ずるに、学界関係者は、先賢の言説を否定すると、学界での将来が閉ざされ生業を失うため、頑として先賢に従っていると見てとれます。これでは、本書といえども、滴水の一滴かと噛みしめるしかないのです。いくら強力に発信しても、受信機の電源が切れていたら何も伝わらないのです。

 本書を一読いただくのが始まりで、直ちに回心されることは無いとしても、世の中には、かくも本格的な主張があることを意識にとどめてほしいものです。

 ということで、ここに微力ながら中島氏への支持を表明します。

*不同意点
 取り急ぎの口上を述べた上で、私見を確認すると、行程道里の解釈で、地域の政治経済の中心と思われる伊都国から、王都『邪馬台国』の間が、当時、文書交信がほぼできない状態と交通事情とを考慮すると、両国間で密接な連携のできない遠隔に想定されているのには同意できません。精々、一日、二日の道のりだったのでは無いでしょうか。

 意見の相違は避けられない以上、論議を挑むものではないのです。ご不審なら、過去記事を確認いただきたいものです。

*当記事における范曄批判について
 本件について初見の方は、以下の議論が唐突に見えると思いますので、若干捕捉します。

 倭人伝史料批判で先人の意見に困惑するのは、はなから、倭人伝編者の陳寿への反感が展開され、対照的に後漢書倭伝編者の范曄への好感が示されていて、そうした判断の論拠が示されないまま、一種の決定事項として論議が進んでいる例が多々見られることです。しかし、課題となっているのは、「倭人伝」の解釈であって、後漢書倭伝は、いわば、通りすがりの野次馬なのです。従って、この野次馬が、単なる野次馬なのか、陳寿の見解を克服するに足る信頼を託せるかどうか、審査を重ねる必要があると考えたものです。

 私見では、中島氏は、倭伝と倭人伝の対照から、倭伝が、史書としての信頼性を有しないとしていますが、当方は、別の見地から、笵曄の文筆家としての「曲筆」、華麗な修飾偏愛を、実例を根拠として、厳正に指摘しているものです。

 ご不満の方は、提示した史書を確認頂いた上で、ご自身の反論を提示いただきたいものです。くれぐれも、ご自身の思い入れ、情感を振り回した「そんな馬鹿な」的な印象批評はご勘弁ください。

*范曄批判 其の壹 「倭国大乱」の「大罪」
 私見では「倭国大乱」に文筆家たるの笵曄の大誤謬が明示されています。

 「大乱」は、単に規模の大きい[乱]でなく全く別の事象です。

 良く言う「天下大乱」が由来であり、これは、中原天下の帝国が瓦解し、新たに覇権を求めた群雄が天命を争う状態を示す、大変特別な言葉です。例えば、秦末期、咸陽に二世皇帝がいても各地の武装蜂起で、天下は覇者を見失い、最後、劉邦と項羽の両雄が争った「中原逐鹿」事態に至ります。

 従って、史官たる陳寿は、東夷王権不安定状態を単に乱れたとしているのです。笵曄の「大」は、水の沸点のような「臨界」の通過を示します。

〇文筆家、ロマンチスト 范曄
 笵曄は史官ではなく、畢生の文筆家として、「美しい」(美文)史談を書いたのであり、重大な用語へのけじめを持たず、無造作に「倭國大亂更相攻伐歴年無主」と四字句を揃えたのです。蛮夷「倭」の記事で、風聞をもとに「大乱」と書くのは天子に不敬であり史官ならもってのほかなのです。

 范曄が史官でないのはこの点に表れています。華麗な文体にこだわって正確さは二の次であることから、後漢書倭伝に信を置いてはならないのです。

                                未完


2020年1月27日 (月)

新・私の本棚 番外 邪馬台国の会 第384回 邪馬台国の会 講演録

 『朝倉からの最新情報』(卑弥呼の墓は朝倉にあった!?)
 安本理論を前提とした各論の試み
私の見立て ★★☆☆☆ 論考として未整備                                       2020/01/27

1.『朝倉からの最新情報』(卑弥呼の墓は朝倉にあった!?) 井上悦文
 井上氏の論説には、根拠の無い憶測が堂々と論拠として運用されている。

『倭人伝』編纂時、草書が多かったとは、三世紀の晋都洛陽の風潮だろうが、実証なき断定は学術的に虚言に近い。古写本断簡は草書でなく、倭地での証拠は皆無である。氏の示す草書は、史論に無関係な現代書家の手遊びで、七~八世紀国内文書に略字趣味はない。全て、証拠提示がない空論である。

 夢想断言的論説は、安本理論支持どころか、足を引っ張っていると思える。

2.安本理論を前提とした各論の試み 河村哲夫
【テーマⅠ】里程論について  (批判の範囲を限定して失礼する)
 「安本理論」依拠と言うが、いつどこで提言した、どんな理論なのか、根拠不明である。
 因みに、安本氏は、学問の徒であるから、憶測、推定は、それなりに開示するだけで、根拠なしに断定はしない。
 以下の論考は、無理が、不用意に山積、露呈している。

*無謀な想定、無理な推定
 「水行十日陸行一月」を水行なら十日、陸行なら一月として、水行十日の旅程を一月かけて陸行は不法であるし、水行で陸行の三倍速は、到底不可能である。その程度の初歩的な分別は、講演に際して、表明されてしかるべきではないか。

*陸行一月 郡狗(帯方郡~狗邪韓国)の陸行解釈は妥当
 郡狗七千里とあるが、後述の大迂回水行と同じ道里の筈はない。但し、当経路は、山越えの難儀はあっても、駅逓の整った官道で保証された日程であり、一日三百里は普通(官制)規準と見える。先例を隈無く見渡しても、こちらが、本道ではないかと思われる。
 但し、勢いに任せて三度の渡海を、断りなしに読み飛ばすのは不可解であり、暗黙の[陸行]と皇帝が見てとって、怒声を浴びせても驚くものではない。史官斬首である。

*一目無理な水行
 「水行十日」の内訳として、郡狗が、水行七日、七千里とあるが一日一千里、陸行の三倍の根拠が見えない。
 水行は、断り無く沿岸航行と読み替える無理を通すとしても、天候、風向、潮流で遅延が絶えないのに、漕ぎ船で一日百㌖近く移動するのを当然と断言する根拠が示されていない。また、かくなる無謀な官道行程は、空前である。

 三度の渡海を各一日、計三日と見切るのも、水行遅延を無視して不合理である。ここは、確実に達成可能な日数を書く筈である。つまり、倭人文書使が郡~末羅間を十日は到底不可能で、遅延が常態化し、郡太守が譴責懲罰されること必至の無法な日数だから、郡から皇帝に報告されるはずがない。

 陸行と明記された、倭地内道里が無視されているのは不可解である。

*見過ごされた批判
 「水行十日陸行一月」をいち早く郡倭日数とした古田武彦氏の(*及び*)解読に上田正昭氏は、そのような書法は、およそ先例が無いとにべもない。

 さらに、投馬国の水行二十日の郡起点は更に先例から遠い。倭人伝読者は、巻物の竹簡を見透かす人間業とは思えない能力の持ち主だったのだろうか。

*根拠不明の強弁 便乗疑惑
 河村氏は、安本氏の諸論のどの部分を根拠としたのか不明で、所在地論を利用しただけで、後は、自説強弁しているのではないかと懸念される。

 これでは、安本氏の引き倒しと見られても、仕方の無いところである。

 ついでながら、講演資料に多用した図表は、講演者自作か、引用・転用か不明である。著作権の常識から、引用出典と加筆修正点を明記すべきである。万全とは行かないだろうが、多少は、遵法精神を、模範として示されたらいかがだろうか。

*過剰な資料 豊穣に食傷
 講演会の席上資料が粗雑で良いはずは無い。大量資料のその場での読解を前提とする、飛躍の多い厖大な主張は講演に相応しいとは思えない。まずは、足元を固めて、次に拡張するものではないか。


                               以上

2020年1月25日 (土)

今日の躓き石 毎日新聞に蔓延する「リベンジ」感染 選抜出場校に汚名

                             2020/01/25

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面のセンバツ出場校紹介の記事である。

 校名掲示した上で、[次はリベンジ]とは、何とも、寂しいものである。「リベンジ」は、テロに見られる「血の報復」だから、昨年のセンバツで決勝敗退でもした屈辱に対する恨みかと思ったら、何のことはない、昨年夏の選手権大会の二回戦で負けた恨みらしいから場違いである。選抜に選ばれただけで図に乗ったか、大胆な宣言である。

 いや、最近蔓延している再挑戦の意味の誤用かとも思ったが、既に、出場の機会を獲得しているのだから、もはや、次なる[リベンジ]などはないのである。
 いまや、全国で三十二校に選ばれた栄誉が訪れたのだから、薄っぺらな欲は棄て、ひたすらベストを尽くして健闘するだけの筈である。記事のつたなさを言うと、成すべきは[次に]なって始めて何かを見据えるのではなく、まず、初戦をどう戦うかが各校の課題ではないか。

 それにしても、担当記者の貧弱な書きぶりに悲しくなる。この代表校には、他に書くことが無かったようだが、ほんの僅かな記事になってしまっているのは、取材力不足が丸見えである。何とも不出来と見えるが、担当記者の署名はない。

 いうまでもないが、今回掲載された三十二校のうち、三十一校は敗退するのである。各校が、負ける度に恨みに思うとしたら、地方大会までの敗退や選外校も勘定すると、高校野球界には厖大な復讐が蔓延することになるのである。そんな風潮は、高校教育に相応しくないし、スポーツマンのフェアプレー精神にも反する汚点である。言葉の使い間違いだけが問題では無いが、ここで[リベンジ]蔓延に手を貸すと、このような場では、[リベンジ]を口走るのが正しいと見られてしまうのである。

 毎日新聞ほどの全国紙が、そんな悪しき風潮に悪乗りしてどうするのだろうか、記者の良心が疑われるのである。少なくとも、他の三十一校は、そんなつまらないことに、表立って闘争心をかき立ててはいないのである。
 確かに、中には、[フィジカル強化]などと、数字が全てのような意味不明の呪文を唱えて、心技体の充実をを兼ね備えた境地を放棄している情けない例はあるが、少なくとも、わざわざ、きたない言葉は唱えていないのである。
 なぜ、ここだけが、全国紙の紙面で後世に残る無様な失言で恥をかかされるのかと気の毒になる。

 そして、このように「稚拙」に書かれた、血に汚された記事が、堂々と朝刊の紙面に出るということは、毎日新聞社には、校閲の叡知も無ければ、編集部の自制もないのかと思うのである。

 何とも、薄ら寒い冬の朝である。

以上

2020年1月23日 (木)

新・私の本棚 中島 信文 「古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」3/3

 本の研究社 2019年12月初版 アマゾンオンデマンド書籍

*「海」談義
 中島氏の語法で感心しないは、海談義の「シーとオーシャン」のカタカナ語です。漢字の字義動揺を懸念したのでしょうが、カタカナ語は、学校の英語の時間では習わないので、正しく原語で「Sea、Ocean」でないと、英語の語義が継承されず無意味です。シーはSheと聞こえて厄介です。

 なお、「海」の世界観は、安本氏著書書評の「大海談義」を自己引用で再録します。文脈が違うので多少不整合ですがご容赦ください。

*大海談義 隔世の世界観 ~引用開始(改訂あり)
 以下、先学諸兄には、常識のことばかりでしょうが、当ブログの読者には未知の領域の方もあると思うので、ご容赦ください。

 (先だって言った)隔世の世界観というのは、三世紀の中原人、倭人、後世奈良人は、世界の認識が異なるから、同じ言葉を書いても表現した意義は、随分異なるというものです。現代日本人の「常識」で字面を判読したのでは誤解も避けられないでしょう。

 例えば、同時代の夷蕃伝「魏略西戎伝」では西域万里の「大海」はカスビ海であり、総じて「海」は英語でPond, Lakeつまり内陸水面とわかります。後世西域伝では、カスピ海を単に「西海」と称している例が見られます。これは、中原概念であり、これに対して、大海は、現地、つまり、安息概念と思われます。

 いや、現代の英米人は、両国間の大洋AtlantisをPond水たまりと呼びます。「古池」をジェット機で飛び越す感覚なのでしょう。それ以前、英語では、伝統的にブリテン島の周囲の海をSeaと呼ぶものの、米国東部人は、米語では、目前の海を、まずはOceanと呼んだのです。後に西海岸の向こうの大洋を知ってAtlantis, Pacificと呼び分けたのです。

 ざっと走り読みしただけでも、随分「海」の意義が異なるのです。

*認識の限界 地平線/水平線効果
 もちろん、倭人伝の「海」、「大海」の認識は不明ですが、例えば、帯方人や倭人が南方太平洋、南シナ海を認識していた証拠はないと思われます。

 倭人伝の「大海」は、当時の中原人世界観に従うと、精々黄海でしょう。

 倭人まで普通里萬二千里の解釈が出回っていますが、東夷が、広大な世界観を持っていた証拠は無いのです。後世人が、色々推定しますが、何も書いていないのです。世界観、地理認識が異なれば、言葉の意味は異なるのです。

 いや、奈良人が、内海から隔絶した地平線/水平線のない奈良盆地で「大海」をどう認識したか、知ることはできません。「まほろば」は、住民の先祖が流亡の果てに安着した陸封安住の境地と見えるからです。

 いや、時代人の本心は、当人に訊かねば分かりません。「グローバル」な視野に囚われた後世人が、倭人の世界観に同化するには、精緻広範な地球儀(グローブ Globe)を棄て同じ井戸に入ることです。

 古代奈良平野は湖水を有し、『対岸は見通せても「海」』との見立て海洋観が存在した「かも知れない」。そうした時代地理環境も影響するのです。

*魚豢の慨嘆
 倭人伝最後に付注された魏略西戎伝には「議」が記され、魚豢は、自分を含め万人は自身の井戸の時空に囚われた蛙との趣旨で慨嘆しています。西域万里を実見できず前世の他人の見聞録に頼るもどかしさを感じたのでしょう。
~引用終了

*まとめ
 ということで、中島氏の基本姿勢には全面的に同意していますが、満点になってないのは、人に完璧はないし、氏に追従は必要ないと思うからです。

                                 完

新・私の本棚 中島 信文 「古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」2/3

 本の研究社 2019年12月初版 アマゾンオンデマンド書籍

*半島内「水行」への異論 (承前)      2020/01/25 中島氏指摘に従い一部削除。記事補充。

 両江の水路運行は、あくまで一部分で、特にも南漢江最上流部は、蛇行激しい流露を遙か離れているはずであり、つまり、延々と難路の陸上移動であり、加えて千㍍越えの白山山地の竹嶺越えもあって、多くの人馬を労するので、所要経費は全面陸上移動と等しく、古来公布されていて、後世唐六典に掲示された「水行」の規定運賃で収まらないのです。水行が半ばを占めていても、残る行程の伝馬体制に替馬、宿泊の駅逓が必要で、大変高くつくのです。

 現地を実見していない素人目にも、グーグルマップ3Dで望見する竹嶺越えに到る難路の運びは、人馬を大いに、大いに労するものと思うのです。

*半島に「水」なし
 官制の「水行」、河水、江水、余水(その他河川)ですが、郡管内の「漢江」、「洛東江」は、江であって水でなく、「水行」しようがないのです。

*沿岸航行は「浮海」
 ついでながら、半島沿岸を迂回船舶航行する官道は不法で、公式用語で言うなら「浮海」であり、史書でこのような行程を「水行」と呼ぶことはあり得ないのです。

*水行、陸行の付け足し
 整理すると、半島内行程は「無論、自明」の「陸行」なので、何も書いてないのです。寸鉄表現とともに、無駄な字は書かないのは史官の責務です。
 これに対して、末羅国以降の道里は、渡海の「水行」を終えたので、「陸行」と明記しています。さらに言うと、投馬国道里は「従郡至倭」でない道草なので、道里は書かれてなく「水行」所要日数が書かれていますが、これは、全体所要日数の「水行」の集計範囲外なのです。

*循海岸水行の意義
 少し戻って、「循海岸水行」とは何かとの当然の疑問ですが、それは、倭人伝の冒頭に還って欲しいのです。
 「倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑」と布石しています。つまり、倭人に行くには大海を渡らなければならないのです。
 但し、類推できる洛陽付近の河水(黄河)の様相ですが、いくら幅広い流路であっても、渡河は、千里どころか、百里もなく、渡河中に中州はあっても、途上で一泊して渡ることはなく、従って、ことさら渡河に行程、道里をつけた前例はないのです。そこで、史官としては、海峡渡海の行程、道里に所要日数が書けるように、臨時に渡海を「水行」と定義したのです。自動的に、残る部分の行程は「陸行」となります。
 全道里一万二千里が、水行(渡海)三千里、陸行九千里(半島内七千里、倭地内二千里)に二分されるわけです。

*従海岸でなく循海岸
 ということで、いよいよ「循」の字義が俎上に上るのです。
 当方は、倭人伝末尾に追補された「魏略西戎伝」の用例から、これは、海岸線を「盾」に見立てた直角方向と解します。当方の意見の根拠なので尊重いただきたいものです。
 かくして、ようやく、長々しい説明が一段落するのです。ヤジ一つないご静聴に感謝します。

*明解、エレガントな解
 そのように、記事冒頭を、『ここに限り、「水行」は、各千里の渡海のことであり、つまり、総じて水行三千里である』との明解な地域用語宣言とみると、記事全体が整然、明解になり、同時代読者は、この正解を見通すと、滑らかに理解できるのです。

 ここで、水行一日三百里として「水行十日」、道里の残り九千里を一日三百里と見ると、「陸行三十日」(一ヵ月)が出て来ます。明解そのものです。

 中島氏は、行程、道里論を折角、構築したから、一私人の異義で動揺することはないでしょうが、意見は一つの意見として読み解いていただければ幸いです。あるいは、従来にない図抜けた「最悪」評を被るのでしょうか。

 中島氏自身は、人には人それぞれの意見があるとの度量を示されているので、一応、耳を貸していただけるものと思います。

*倭字の解釈について
 先般安本美典氏の著書で「倭」を「矮」と混同した俗説に辟易したのですが、結局、「セカンドオピニオンとして、白川静氏の著書、辞書も参照頂きたい」との苦言になったのです。氏の著書は従来にない倭人語解読の提言なので、この際、安本氏には、参考書を一新いただきたいとしたものです。

 俗説をごり押しすると、素人目には、委が悪字なら委と鬼の魏はどう見るのかと感じるのです。通説に散見される安直な決め込みに、諸兄が影響されていると思うのですが、かたや、本書に見る中島氏の意見は、そのような俗説を一蹴していて、大変心強いものがあります。

                                未完

新・私の本棚 中島 信文 「古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」1/3

 本の研究社 2019年12月初版 アマゾンオンデマンド書籍

私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読                   2020/01/23

〇総評
 中島信文氏は、多年工学・技術分野の実業に従事され一代を画した方であり、引退後は、当分野の古代史に関して、広く関連文献を精読し、新鮮な視野から俗説の弊を正していることに、賞賛を惜しまないものです。

 但し、当方も、独自に同様の考察を重ね、異なった視点から異なった意見を発言しているので、同意できない事項は率直に不同意とします。

*批判口調のおことわり
 過去の「批判」に対し野次馬から非難がありますが、それは了見違いです。時に、浅慮とか早合点と言いますが、氏ほどの見識の持ち主でも勘違いはあり、「浅慮」として「再考」を求めるのは本質的な謬りでないからです。

 浅慮でなければ氏の真髄への攻撃になります。騒々しい野次馬は、分別がない、単なる無教養ですが、中島氏には、迷惑なご贔屓筋でしょうか。

*史料観への共鳴
 国内古代史学界は、数世紀に亘る巨大な虚構に満足していて、虚構に邪魔な「倭人伝」への執拗な偏見が堆積し、倭人伝支持論者、例えば、古田武彦氏への執拗な攻撃は惨憺たるものがあります。論争上の批判、意義は当然なのですが、人格攻撃が散乱して、肝心の論議が埋没しているのです。

 いや、そうした感慨はさておき、中島氏の論考は、中国古典史料から出発して、大変貴重なものです。そう言うと、中国史料絶対視との定番批判が出ますが、氏の諸論考は、慎重な史料批判を経た上のものであり、安直な先人追従べったりの俗説、魏志否定とは、大いに異なるものです。

*偽書「倭人伝」の時代
 資料を改竄したものは、もはや史料でなく、現代人の創作した偽書です。

 ということで、ようやく本論です。文書解釈では、「まず、筆者の真意を読み取る」の大原則を知らない朴念仁が徘徊し、前置きせざるを得ないのです。

□循海岸と言うこと
 一番大きな異論を最初に載せておきます。

 氏は、倭人伝道里、行程記事冒頭の「従郡至倭循海岸水行」で、海岸沿いに船で行くとの俗説を棄却しています。但し、「循海岸水行」は、内陸を行くのに漢江から洛東江を「主として」水行する、半島内水行の解釈を採っています。

 当方は、半島内陸行が無論の当然であり、俗説は稚拙な誤解として論破、棄却していますが、半島内行程を、主として「水行」と見ることには同意できません。

*半島内水行への異論
 端的に言うと、唐六典に収録されている「水行」は、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)他を水流と帆走を利して人馬を労することなく物資搬送する事に決まっていて、運賃旅程が公示されています。つまり、単なる河川利用を言わないのです。倭人伝の行程は、地方拠点帯方郡から倭人の治までの所要日数であり、あわせて、何里を経過するか付記しているのです。

 無論、急務を要する郡官道を、漢江から洛東江を水行する、主として半島内水行とすることはあり得ないのです。


                                未完

2020年1月20日 (月)

今日の躓き石 中学生駅伝選手の暴言「リベンジ」報道に見る毎日新聞の堕落

                                2020/01/20

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版「スポーツ」面の都道府県対抗男子駅伝報道である。

 談話の選手は、タイムが区間賞に及ばなかったことで、将来の「リベンジ」を貪欲に語っているが、駅伝競技で、だれかに記録をとられたのを恨みに思って、そのうじうじした恨みを晴らすためにグズグズと努力を続けるというのは、何とも後ろ向きで感心しないし、それを「リベンジ」などと血なまぐさい言葉で語るのは、一段と感心しない。
 しかし、責任は、このような不出来な談話を、「ありのままに」報道した記者にある。

 これでは、こうしたときに「リベンジ」と言うものだと、全国紙の大記者がお手本を示したことになり、極めつけの悪い言葉が、疫病のように蔓延るのを助けているのである。当方は、全国紙の記者は、言葉の護り人、守護天使と思っているので、今回の記事に天使の堕落を見て、裏切られたと感じるのである。

 多分、記者にも、選手にも、特別の悪意はないのだろうが、これほど悪い言葉を無頓着に使うと、悪い意味が先に立つので、言っていない筈のことが広く伝わってしまうのである。
 そうしたことを、若者に伝えるのも、新聞記者の大事な使命だと思うのである。

 年寄りとしては、他に何もできなくても、後世に汚れた言葉を伝えないようにしたいと思うのである。

以上

 

 

2020年1月15日 (水)

私の本棚 季刊「邪馬台国」 131号 田口 裕之 『金印は「ヤマト」と読む』 総括

 私の見立て ☆☆☆☆☆                 2017/02/28  2020/01/15

 さて、これに先立つ16回の連載で、とことんダメ出ししたはずであったが、誰でも気づくような子供じみた欠点を列記しただけで、一番大事なダメが出せていなかった。反省と自戒を込めて、総括記事として追加する。

 (なお、16回分の記事は、公開する意義は無くなったものと思うので、非公開とした。何の反応も無かったので、徒労であったということである)

 それは、当論文のタイトルに書かれている新説が、既に、言い古されたものであったにも拘わらず、先行する文献が適切に参照されていなかったということである。

 既に、100年を大きく超える古代史論議の中で、本当に多くの新説が提言されているから、現代人が思いついた新説の先行論文を全て検出するのは無理かも知れないが、もっと謙虚になって、徹底的に調査すべきではないかと思うのである。

 また、投稿された論文が新説であるか、旧説の踏襲であるかは、論文審査の不可欠な手順と思うので、編集部の手落ちは罪深いと思うのである。論文筆者は、このような不名誉な形で名をとどめたくない筈である。

 参照資料は、次の一点であるが、そこで引用されている明治時代、ないしは、それ以前の資料は、必読書とも思われるので、知らなかったでは済まないと思うのである。

史話 日本の古代 二 謎に包まれた邪馬台国 倭人の戦い
             直木孝次郎 編   作品社 2003年刊
 「邪馬台国の政治構造」 平野邦雄
    初出 平野邦雄編 「古代を考える 邪馬台国」 吉川弘文館 1998年刊

 さて、妥当な推論かどうかは別として、書き留められている先行論文と論旨を書き出すとする。

 後漢書に見られる「倭国王帥升」記事が通典に引用された際の「倭面土」国が「ヤマト」国と読まれるべきだという説は、明治四十四年(1911年)に内藤湖南氏によって提唱されたもの
である。(明治四十四年六月「藝文」第二年第六號〕

 文語体、旧漢字で読み取りにくいだろうが、「倭面土とは果して何國を指せる。余は之を邪馬臺の舊稱として、ヤマトと讀まんとするなり。」と明言されていて、その後に、詩経などの用例から、太古、「倭」を「や」に近い発音で読んでいたと推定している。

 ついでだから、原点である内藤湖南「倭面土国」をPDF化した個人資料を添付する。
 
原資料に関する著作権は消滅しているが、PDF化資料に関しては、プロテクトしていないとはいえ、無断利用はご遠慮いただきたい。(まえもって連絡して欲しいとの意図である)「k_naito_yamato1911.pdf」をダウンロード

 「倭面土」国と併せて、「倭奴」国も「委奴」国も、「ヤマト」国と読むべきとする説も、明治四十四年(1911年)に稲葉岩吉(君山)氏によって提唱されたものである。(明治四十四八月考古學雜誌第一卷第十二號)

 湖南氏は、後続として同様論旨の論文を準備していたが、稻葉氏の論文を見て発表を断念し、原論文を「讀史叢録」に「倭面土国」として収録する際に、付記として、『「稲葉君山君」が翌々月号に「「漢委奴國王印考」といへる 一篇を發表され、委奴、倭奴ともに、倭面土と同一にして、單に聲の緩急の差あるのみと斷ぜられたり」』と要旨を紹介しているものである。

 いや、そもそも、そのような概念は、「釈日本紀」にすでに示されているという。影印を見る限り、そのような趣旨で書かれているように見える。

 つまり、「古代史書で多数見られる倭国名の漢字表記と思われるものが、全て、ヤマトと呼ばれるべきだ」とする論旨は、数多くの先例があると言える。

 してみると、本論文の大要は、所詮、先人の説くところを踏襲していて、特に格別の考察を加えているとは見えないので、新説として独創性を頌えることはできないと思う。

 むしろ、先例を伏せで独創性を訴えたと見られる論調は、先人の功績を踏みにじるとのそしりを招きかねない。

 以上、今後の活動の際の戒めとしていただければ幸いである。

 それにしても、懸賞論文としての審査に於いて、選外佳作、公開不適、と判断したのに、欠点の是正指導もせずに、商用雑誌の多数のページを浪費して掲載した編集部の不手際は、かなり深刻だと思うのである。

 「浪費」の一端は、行間ツメなどの当然の努力を怠って、それでなくても希薄な論文を、さらに希薄に引き延ばして、雑誌刊行のコストを引き上げ「邪馬台国」誌の財政を悪化させた点にも表れている。雑誌編集部は、文字内容だけ吟味していればいいのではない。雑誌の紙数を勘案し、投稿者に、全指数の制限を与え、必要であれば、部分を割愛して、雑誌の体を保つのも編集実務である。

 これだけ難点が多いと、季刊「邪馬台国誌」の看板は、たたき割られてドブに落ちているとも見えるのである。

以上

2020年1月13日 (月)

私の本棚 番外 呉書 裴松之にしかられた陳寿 續

               2016/09/20 2019/02/25  2020/01/13
〇ブログ更新の弁
 呉書の誤記に基づく誤解が蔓延っているようなので事態是正を図ります。

 以下、太字斜体部は、「正史三国志」Ⅲ 呉書 呉主傳 第二(孫権伝) 筑摩書房刊 による

(赤烏)二年三月,
 遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡之遼東。擊魏守將遼東、髙慮等,虜得男女。
 赤烏二年(二三九)の春三月、使者の羊衙と鄭胄、将軍の孫怡とを派遺して遼東におもむかせ、魏の守備の将の張持・高虛らを撃って、その配下の男女を捕虜とした。[二]

*史料批判
 曹魏景初三年相当の記事ですが、前年九月に遼東公孫氏は関係者悉く亡ぼされ、遼東には曹魏占領軍しかいないという状況は、東呉も承知です。つまり、景初三年春に、東呉が、当てもなく、後の祭りの使者や援軍を派遣するはずがないのです。
 それだけで、この記事を疑うべきですが、呉志編纂時、陳寿の手元の東呉呉書にその通り書かれていたので、史官としてはそう書くしかなかったのでしょう。

*裴注の指摘
 裴注は、「文士伝」により重要人物と思えない使者鄭胄を紹介しています。紀年に首を傾げた裴松之は、陳寿の不備とも言い切れなかったものでしょう。これを陳寿を叱った注と見たのは、性急な判断だったようですが、当方としても、少し視聴者の目を引く必要があったのです。

文士傳曰:
 胄字敬先,沛國人。後拜宣信校尉,往救公孫淵,已爲魏所破,還遷執金吾。
[二]『文士伝』にいう。鄭胄は字を敬先といい、沛国の人です。(中略) のちに宜信校尉に任ぜられ、公孫淵の救援に向かったが、結局、魏に敗れ帰還したあと執金吾の任にうつった。

 筑摩書房版の訳文は、「已爲魏所破」の解釈に苦慮したようですが、単純に解すると、既に公孫氏は魏に破れていて甲斐なく帰投したのですが、それは景初三年と見た「文士伝」筆者の解釈であり、魏志とつじつまが合わなくても陳寿を非難できません。

 以上から考えて、東呉の援軍派遣は、二三八(景初二年)と見るべきでしょう。東呉と曹魏の暦が一年ずれているようで、陳寿も裴松之も、事情を確認できなかったのでその点に触れず、後世人は、真相を知るすべがないのです。

 景初二年三月のこととしても、既に遼東半島には、遼東郡治の包囲攻撃に向けて曹魏軍が布陣していたので、半島に上陸して司馬懿軍の背後に迫っても、包囲陣を破って公孫氏陣営に近づくことは到底できないものと見て、支援部隊を背後から攻めて、戦果として示すために数名を捕獲したのではないでしょうか。それにしても、魏軍の女性捕虜を得たとは理解に困ります。女性は従軍しないのです。

 魏軍の包囲を破って公孫氏に援軍していたら、遼東軍もろとも全滅していたでしょうが、その記録はないのです。早々に密かに退散したのでしょう。

*曹魏の迎撃態勢
 因みに、曹魏は、東呉海船の来貢を予測して山東半島沖に海船の警戒網を引き、時に拿捕したのです。また、遼東半島と山東半島の海峡は狭隘で、遼東戦闘中は輸送船の往来も多く、景初二年三月時点には侵入は困難だったのです。

*景初二年、三年論争の火消し
 して見ると、これは、ほぼ確実に景初二年三月の記録のようです。世上に、史料批判なしに追従して、誤解したまま評論する人がいるので、敢えて再掲したものです。いや、景初三年の派遣とみても、大局的に影響はないのですが、半年前に滅亡した公孫氏軍への使者と援軍とは、あまりにぼけているので、そうは見たくないのです。

 公孫討伐最高司令の司馬懿は、敗亡した遼東の残敵掃蕩は任務外と割り切って、主力部隊を率いてさっさと帰国し、景初三年元旦には皇帝曹叡の臨終に立ち会っています。

以上

2020年1月12日 (日)

今日の躓き石 大変残念な大学ラグビー準優勝コメント「リベンジ」の大変残念な毎日新聞報道

                                        2020/01/12

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面のラグビー大学選手権決勝の報道である。勝負の結果は、今回の主題ではないので、敢えて書かない。
 準優勝チームの三年生「司令塔」が、「来年はリベンジを果たしたい」と失言したのを、毎日新聞記者が「リベンジ誓う」と小見出しにして、ことさら謳い上げているのである。発言の「リベンジ」は、ひょっとすると再度決勝の場に臨みたい、あるいは、次はきっと勝つ、という程度の柔らかい意味だったかも知れないが、記者は、時代物の血なまぐさい語感で煽り立てているのである。多分、言葉の本当の意味を選手に教えているのかも知れないと、興ざめするのである。
 来年、別チームの一員で決勝に臨んだとしても、所詮別のチームとの対戦であり、そこで勝って優勝しても、今年勝てなかった事実に変わりは無いのである。両者ともに、意義の無いことを言い立てているのである。

 大変残念なのは、このように報道されてしまうと、準優勝チーム主将のコメントが、今回は恥をかいたが、次はぶちのめして恥をかかしてやるという意図なのか、それとも、天に代わって仕置きするという意図なのか、いずれにしろ、まことに粗暴な感情の低次元の吐露であり、まるで、子供の口喧嘩の捨て台詞になってしまって、とても、スポーツマンとして大学ラグビー最高峰の地位に立った、広く尊敬を集める選手の発言とは思えないのである。
 私見であるが、そもそも、選手権の決勝の舞台で競い合えるということが最高の栄誉であって、その際の勝負に価値を見出すのは、大変な勘違いをしていると思うのである。いや、観客や支援者は、最後まで勝ち続けろというかも知れないが、当の選手の観点は違うと思うのである。いや、素人の勘違いも知れないので、選手に押しつけるつもりはないが、年寄りは、スポーツマンシップの真髄はそのような崇高なものだと、勝手に思うのである。

 今回も、毎日新聞スポーツ担当記者、並びに、紙面に表れる言葉に全面的に責任を持つ校閲部に文句があるのだが、なぜ、各地で展開されているテロの根源となっている、絶対神の命じる聖なる使命である「リベンジ」なる「天誅」をここで起用したかということである。

 つまり、かくの如く、血なまぐさい復讐心を、この場で語ったと、わざわざ報道するのだろうか、ということである。ものを知らない選手が、公言してはならない言葉を口走ったとしても、そのような重大な失言を報道しないのが、この際の報道陣の務めではないだろうか。当の選手は、終生消せない汚点を世界に広げられて、取り返しがつかないのである。そのような苛酷な報道は、全国紙の成すべき努めでは無いのではないか。

 また、不出来な記者が不都合な記事を書いたとしても、校閲段階で発見して言い換えて失態の拡散を止めるのが、真に知性のある校閲ではないだろうか。先般、AI校閲が導入されるとの提案を受けたと不快感をにじませている小コラムが掲載されたが、こうした実態を見ると、本職が知性を発揮できないとしたら、言葉の護り人たる毎日新聞の最後の砦として、見落としのない細心の知力を示す機械知性が必要では無いかと思うのである。

 それにしても、折角、長期に亘る高校ラグビーの報道で、高度な報道を展開したスポーツ面記者が、全国からの注目を集めている最高峰の舞台で、飛んだ粗相をするとは意外であった。試合の細部に目を配り、具体的な体と心の動きを取り上げていた、絶賛に値する見事な報道から見ると、大学選手権決勝となった途端に大違いである。実は、それまでワールドカップなどの報道で横行していた「フィジカル」「メンタル」頼りの空疎で軽率な報道でなく、 実のある報道と、日々の紙面で見ていたものである。良い折がなかったために、ここで褒めることになり。やや場違いであるが、良いところはちゃんと認めているのである。

 関係者がそう思わないのなら、関連記事をよく読みなおして欲しいものである。
 知性ある校閲に求められるのは、実態に即した、行間、紙背を読み通す羅解力ではないだろうか。伝統ある全国紙には、それを求めても良いように思うのである。

 いや、当方は、一介の定期購読者であり、ほんの一票の発言権しかないのであるが、言うべきと感じたことは、敢えてここに述べるのである。(何の権力も無い、言うだけという意味である)

以上

 

 

2020年1月 8日 (水)

今日の躓き石 NHK・BS8K番組の怪「リベンジ」(毎日新聞 ウラカタ)名番組に泥をぬる失言報道

                           2020/01/08

 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊4版「放送」面のコラム「ウラカタ」である。

 「いまよみがえる伝説の名演奏・名舞台」なるNHK・BS8K番組制作の裏話であり、山成す困難を乗り越えた偉業に賛辞は送るが、最後の締めがいただけないというか、何とも醜悪で最低である。

 そもそも、個人的な不満を、公共放送の巨費を使って解消しようということ自体、疑問である上に、それを「リベンジ」などと私怨の「復讐」で長年の無念をさらすものと捉えているのなら、潔く職を辞して自費で取り組むべきである。
 「当時くやしい思いをした人たち」というものの、せいぜい二、三千人程度であり、長年を経ても、全員が復讐の念に燃えているはずは無いはずである。
 公演キャンセルとは言え、チケット代金は払い戻しされているはずだから、恨みを誇張するにも程がある。とんでもない言い回しであり、それでもって、今回の制作費の巨費を正当化するとは、番組の顔に泥を塗りつける感じである。

 時あたかも、某国が、別の某大国の暴挙に「血の報復」で報いようとしているところであるが、某国は、信ずる神の命ずる報復を怠ってはならないとの気概に燃えているところである。まさか、毎日新聞は、復讐を賛美しているのでは無いと思うのだが、どうだろうか。 

 それにしても、毎日新聞ほどのメディアが、これほど醜悪なコメントで誌面を汚すのも困ったものである。編集部は校閲しなかったのだろうか。

 まともな書き方を工夫して、醜悪な言葉遣いが世間に広がり次代を担う子供達・若者達に継承されないようにすべきである。

 当方は、あくまでも一私人であり、一介の定期購読者に過ぎないが、言うべきと感じたことは断じて言うのである。

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