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2020年1月29日 (水)

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 2/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍

〇范曄批判 其の貳  後漢書西域伝の誤謬
 ここからしばらく話しは、大変長くなりますが、論議を飛躍させたくなかったので、経過する階梯を逐一辿ることにしました。気が向いたら読んでください。
 曹魏の史官と思われる魚豢は、魏略西戎伝編纂時、西域実情を知るすべがなかったものの、原記録に訂正を加えず、考察追記にとどめたのです。

*甘英抗命談 范曄創作の背景 (条支、大秦比定は、独創の新説)
 端的に言うと、後漢書「西域伝」は、笵曄の誤謬に基づく創作なのです。

 魏略「西戎伝」によると、西域都護副官の甘英が、漢代西限であった安息国に入り、目前の大海「カスピ海」対岸の条支(海西 アルメニア王国)と南岸の大秦(安息国メディア公国)の情報を持ち帰って大功を立てたのです。

 西戎伝では、甘英は、カスビ海東岸の「大国」、実は、地方公国である安息で情報収集した地理記事を適確に記録したのです。西戎伝は、三千字を越えて、そのうち、漢書に無い「新界」記事は千五百字近い大部の記録です。

*混乱の起源 「安息」帝国と「小安息」公国の混同
 しかし、洛陽の書庫の漢書には、安息が西方数千里の彼方に国都がある巨大な大国とあり、洛陽史官が、不整合情報を書き足したので混乱したのです。かくして難解な地理記事となり、誤釈で、本来の使命であった条支、大秦に関する記事のかなりの部分が所在不明になりました。念のため言うと、これは、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。そう、後漢書西域伝安息条には、中国の「典客」に相当すると思われる応接者が、「小安息」と自称していたことが書き留められているのです。あるいは、メソポタミア世界を睥睨している西の国都領域と対比して、「東安」、ないしは、「東安息」と称していたかもわかりませんが、甘英が受け取った国書には、中国語の安息に相当する国号、Partiaが明記されていたので、そのような実態は、報告書に大書されなかったのでしょう。少なくとも、洛陽史官には、全く意想外だったと見えます。

 因みに、西戎伝に採用された後漢朝記録は、実態が不明な「其国」主語や、そもそも、漢文に多い主語省略の影響で、風俗、産物記事の主体が不明になっていて、あるいは、簡牘の革紐が切れた散乱による乱丁があったのか、どこの事情なのか、解釈困難で、ほとんど不可能な文書になっていますが、これもまた、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。

*范曄「大秦神話」創作の由来
 解釈困難(不可能)な史料に辟易したか、博識の文章家を自負する范曄は、全知全能を傾けた苦慮の結果、西戎伝の新界情報を棄却して、甘英抗命記事の後に、行き損ねて探索できなかったはずの大秦国の風俗満載の戯画記事をでっち上げたのです。かくて、甘英、洛陽史官、魚豢、范曄と、数世紀の時と万里の距離が離れるていくままに、本来、実務本位で書かれた明快、簡潔な資料の中で誤解がはるばると成長したのです。
 後漢書では、甘英は、数千里西行の果て、シリアとされる地中海沿岸でローマ行を放棄し、虚しく遠路を引き返した戯画まで描かれているのです。

*甘英雪辱、再評価 重大な使命の正体
 甘英は、不世出の西域都護班超が副官に登用した赫々たる武人です。史官の家で史官の訓練を受けながら武人に転じた班超が異郷探査任務を課した甘英が、命を惜しんで抗命する訳はないのです。そもそも、班超が存在を知らなかった新天地大秦の冒険探査を指示するわけはないのであり、漢書が記録した西域の西の果ての「蕃客」安息、条支の国情を探査し、西域都護幕の西界同盟軍として締盟を図るのが使命の筈です。

*范曄渾身の場違いな創作
和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度,而安息西界船人谓英曰:「海水広大,往來者逢善風三月乃得度,若遇迟風,亦有二歲者,故入海人皆赍三歲粮。海中善使人思土恋慕,數有死亡者。」英聞之乃止。

 これは後漢書安息国記事では場違いで無様です。「安息西界」は安息西境メソポタミアであり、当時、東地中海は、全てローマ領であったことから、不合理です。
 また、西域伝で、条支は、既知の烏弋山離の西傍であり、都城は明らかに西岸です。なお、現地の大海はカスピ海であり、数日で渡れる「大海」です。

 但し、そのような批判は、現地事情に即した記録解釈から得られるものであり、笵曄自身は、生涯行き着けない憧憬の西界に茫々たる「西海」を想定していたのであり、「大秦」の所在は明言していないのです。

 後漢書西域伝「大秦条」は、「大秦國,一名犁鞬」と書き出していて、漢書でアラル海付近にあったとされている遊牧民の小国の名を持っていたものであり、条支、安息の東北方近隣の小勢力だったと示しているのです。西戎伝では、この後に「在安息」と付記して、文脈からカスピ海南岸と示していますが、句点付けの謬りにより、甘英にとっては未知の条支西方に位置づけられてしまったのです。

 ただし、その後段に、この書き出しを裏付ける明確な記事は無いため、大秦が、実世界のイタリア半島、さらには、大西洋のような遙か西方に投影されたのは、後世人の憶測であり、漢書記事の西域最新事情すら知る術のなかった笵曄には責任はないのです。

 魚豢の手になる魏略西戎伝は、現地探査した西戎地理原情報をもとに、適確な「新界像」を描いていますが、笵曄は、後漢史官が誤解して付け足した補注を重視して、「新界像」を風聞として斥け、続いて描く大秦記事に地理情報が無い言い訳として『「船人曰」に恐れを成した甘英抗命』を創作したものと思われます。

*笵曄に「史料破壊」の過失
 どんな信念を形成していたにしろ、どんな動機があったにしろ、史書編纂において原資料を棄却して創作で埋めるのは、史官の使命、道義に反することであり、范曄が史官でないことを物語っているのです。

 また、西域傳編纂の際に、西戎伝前半の大変貴重な諸国情報を大量廃棄した手口も支持できないのです。裴松之が、魏志に補追したために、魏志本文と同様の高精度の写本継承で、今日までほぼ忠実に承継された魏略西戎伝がなければ、後世人は、西域から追い出されても不屈の意気で西域都護を復活させた後漢の偉業を知ることはできなかったのです。(後漢書には、むしろ散漫な写本継承の兆候が見えるのです)

 史実を探るには、范曄後漢書をそのまま信じてはならないのです。

                                未完

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