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2020年1月13日 (月)

私の本棚 番外 呉書 裴松之にしかられた陳寿 續

               2016/09/20 2019/02/25  2020/01/13
〇ブログ更新の弁
 呉書の誤記に基づく誤解が蔓延っているようなので事態是正を図ります。

 以下、太字斜体部は、「正史三国志」Ⅲ 呉書 呉主傳 第二(孫権伝) 筑摩書房刊 による

(赤烏)二年三月,
 遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡之遼東。擊魏守將遼東、髙慮等,虜得男女。
 赤烏二年(二三九)の春三月、使者の羊衙と鄭胄、将軍の孫怡とを派遺して遼東におもむかせ、魏の守備の将の張持・高虛らを撃って、その配下の男女を捕虜とした。[二]

*史料批判
 曹魏景初三年相当の記事ですが、前年九月に遼東公孫氏は関係者悉く亡ぼされ、遼東には曹魏占領軍しかいないという状況は、東呉も承知です。つまり、景初三年春に、東呉が、当てもなく、後の祭りの使者や援軍を派遣するはずがないのです。
 それだけで、この記事を疑うべきですが、三国志呉志編纂時、陳寿の手元の史料である東呉呉書に、その通り書かれていたので、史官としてはそう書くしかなかったのでしょう。

*裴注の指摘
 裴注は、「文士伝」により重要人物と思えない使者鄭胄を紹介しています。紀年に首を傾げた裴松之は、陳寿の不備とも言い切れなかったものでしょう。これを陳寿を叱った注と見たのは、性急な判断だったようですが、当方としても、少し視聴者の目を引く必要があったのです。

文士傳曰:
 胄字敬先,沛國人。後拜宣信校尉,往救公孫淵,已爲魏所破,還遷執金吾。
[二]『文士伝』にいう。鄭胄は字を敬先といい、沛国の人です。(中略) のちに宜信校尉に任ぜられ、公孫淵の救援に向かったが、結局、魏に敗れ帰還したあと執金吾の任にうつった。

 筑摩書房版の訳文は、「已爲魏所破」の解釈に苦慮したようですが、単純に解すると、既に公孫氏は魏に破れていて甲斐なく帰投したのですが、それは景初三年と見た「文士伝」筆者の解釈であり、魏志とつじつまが合わなくても陳寿を非難できません。

 以上から考えて、東呉の援軍派遣は、二三八(景初二年)と見るべきでしょう。明帝が景初三年元日に逝去したため皇帝の命日を元日とすることは、魏朝の体面が傷つくということで、景初三年一月を景初二年「後の十二月」として、これを正当化するために、景初暦を新しい暦法に改訂するという大騒動があり、行き違いもあってのことか、東呉と曹魏の暦が一年ずれているようで、陳寿も裴松之も、事情を確認できなかったのでその点に触れず、後世人は、真相を知るすべがないのです。

 景初二年三月のこととしても、既に遼東半島には、遼東郡治の包囲攻撃に向けて曹魏軍が布陣していたので、遼東半島に上陸して司馬懿軍の背後に迫っても、包囲陣を破って公孫氏陣営に近づくことは到底できないものと見て、支援部隊を背後から攻めて、戦果として示すために数名を捕獲したのではないでしょうか。それにしても、魏軍の女性捕虜を得たとは理解に困ります。女性は、軍兵として従軍しないのです。

 東呉の援兵が魏軍の包囲を破って公孫氏に参陣していたら、遼東軍もろとも全滅していたでしょうが、その記録はないのです。早々に密かに退散したのでしょう。

*曹魏の迎撃態勢
 因みに、曹魏は、東呉海船の来貢を予測して山東半島沖に海船の警戒網を引き、時に拿捕したのです。また、遼東半島と山東半島の海峡は狭隘で、遼東戦闘中は輸送船の往来も多く、景初二年三月時点には侵入は困難だったのです。

*景初二年、三年論争の火消し
 して見ると、これは、ほぼ確実に景初二年三月の記録のようです。世上に、史料批判なしに追従して、誤解したまま評論する人がいるので、敢えて再掲したものです。いや、景初三年の派遣とみても、大局的に影響はないのですが、半年前に滅亡した公孫氏軍への使者と援軍とは、あまりにぼけているので、そうは見たくないのです。

 公孫討伐最高司令の司馬懿は、敗亡した遼東の残敵掃蕩は任務外と割り切って、主力部隊を率いてさっさと帰国し、景初三年元旦には皇帝曹叡の臨終に立ち会っています。因みに、明帝の構想では、司馬懿が公孫氏討伐に成功した後は、西方の関中方面に転進させるものだったと見えます。つまり、司馬懿を遼東都督に任ずる構想はなく、司馬懿も遼東を経営する気は無かったので、公孫氏の麾下の官僚を全滅させるような武断の策をとったと見えます。もし、自分が遼東経営するのであれば、実務官僚は、公孫氏に連座させず、温存したはずです。
 一方、東夷経営を構想していた明帝は、楽浪・帯方両郡を無血回収して、それぞれの管轄下の東夷を服属させる構想を展開したのです。そうした別働隊が、両郡を皇帝直轄に引き入れられたのは、まだ、遼東で戦闘が続いている段階だったのですが、両郡は、山東半島東莱から速攻で進出できたので、明帝の勅諚を掲げて服従を命ずれば、争うことなく帰服させられたのです。
 両郡回収が景初元年後半と見て、明帝の厳命を受けた新太守の率いる帯方郡が、小白山地の積雪、凍結以前に急使を発し、北九州の倭が即応したとすれば、往復百日と見ても、翌二年六月に参上することは十分可能だったと見えます。

以上

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コメント

拝啓 ネット検索の途中でお見かけし、いくつかを読ませていただきました。ただただ感服するばかりです。いずれより深く探訪させていただきたいと思います。

本日は取り急ぎご挨拶のみにて失礼いたします。

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