新・私の本棚 中島 信文 「古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」2/3
本の研究社 2019年12月初版 アマゾンオンデマンド書籍
*半島内「水行」への異論 (承前) 2020/01/25 中島氏指摘に従い一部削除。記事補充。
両江の水路運行は、あくまで一部分で、特にも南漢江最上流部は、蛇行激しい流露を遙か離れているはずであり、つまり、延々と難路の陸上移動であり、加えて千㍍越えの白山山地の竹嶺越えもあって、多くの人馬を労するので、所要経費は全面陸上移動と等しく、古来公布されていて、後世唐六典に掲示された「水行」の規定運賃で収まらないのです。水行が半ばを占めていても、残る行程の伝馬体制に替馬、宿泊の駅逓が必要で、大変高くつくのです。
現地を実見していない素人目にも、グーグルマップ3Dで望見する竹嶺越えに到る難路の運びは、人馬を大いに、大いに労するものと思うのです。
*半島に「水」なし
官制の「水行」、河水、江水、余水(その他河川)ですが、郡管内の「漢江」、「洛東江」は、江であって水でなく、「水行」しようがないのです。
*沿岸航行は「浮海」
ついでながら、半島沿岸を迂回船舶航行する官道は不法で、公式用語で言うなら「浮海」であり、史書でこのような行程を「水行」と呼ぶことはあり得ないのです。
*水行、陸行の付け足し
整理すると、半島内行程は「無論、自明」の「陸行」なので、何も書いてないのです。寸鉄表現とともに、無駄な字は書かないのは史官の責務です。
これに対して、末羅国以降の道里は、渡海の「水行」を終えたので、「陸行」と明記しています。さらに言うと、投馬国道里は「従郡至倭」でない道草なので、道里は書かれてなく「水行」所要日数が書かれていますが、これは、全体所要日数の「水行」の集計範囲外なのです。
*循海岸水行の意義
少し戻って、「循海岸水行」とは何かとの当然の疑問ですが、それは、倭人伝の冒頭に還って欲しいのです。
「倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑」と布石しています。つまり、倭人に行くには大海を渡らなければならないのです。
但し、類推できる洛陽付近の河水(黄河)の様相ですが、いくら幅広い流路であっても、渡河は、千里どころか、百里もなく、渡河中に中州はあっても、途上で一泊して渡ることはなく、従って、ことさら渡河に行程、道里をつけた前例はないのです。そこで、史官としては、海峡渡海の行程、道里に所要日数が書けるように、臨時に渡海を「水行」と定義したのです。自動的に、残る部分の行程は「陸行」となります。
全道里一万二千里が、水行(渡海)三千里、陸行九千里(半島内七千里、倭地内二千里)に二分されるわけです。
*従海岸でなく循海岸
ということで、いよいよ「循」の字義が俎上に上るのです。
当方は、倭人伝末尾に追補された「魏略西戎伝」の用例から、これは、海岸線を「盾」に見立てた直角方向と解します。当方の意見の根拠なので尊重いただきたいものです。
かくして、ようやく、長々しい説明が一段落するのです。ヤジ一つないご静聴に感謝します。
*明解、エレガントな解
そのように、記事冒頭を、『ここに限り、「水行」は、各千里の渡海のことであり、つまり、総じて水行三千里である』との明解な地域用語宣言とみると、記事全体が整然、明解になり、同時代読者は、この正解を見通すと、滑らかに理解できるのです。
ここで、水行一日三百里として「水行十日」、道里の残り九千里を一日三百里と見ると、「陸行三十日」(一ヵ月)が出て来ます。明解そのものです。
中島氏は、行程、道里論を折角、構築したから、一私人の異義で動揺することはないでしょうが、意見は一つの意見として読み解いていただければ幸いです。あるいは、従来にない図抜けた「最悪」評を被るのでしょうか。
中島氏自身は、人には人それぞれの意見があるとの度量を示されているので、一応、耳を貸していただけるものと思います。
*倭字の解釈について
先般安本美典氏の著書で「倭」を「矮」と混同した俗説に辟易したのですが、結局、「セカンドオピニオンとして、白川静氏の著書、辞書も参照頂きたい」との苦言になったのです。氏の著書は従来にない倭人語解読の提言なので、この際、安本氏には、参考書を一新いただきたいとしたものです。
俗説をごり押しすると、素人目には、委が悪字なら委と鬼の魏はどう見るのかと感じるのです。通説に散見される安直な決め込みに、諸兄が影響されていると思うのですが、かたや、本書に見る中島氏の意見は、そのような俗説を一蹴していて、大変心強いものがあります。
未完
« 新・私の本棚 中島 信文 「古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」1/3 | トップページ | 新・私の本棚 中島 信文 「古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」3/3 »
「倭人伝随想」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 番外 ブラタモリ 「日本の構造線スペシャル 〜“構造線”が日本にもたらしたものとは?〜」(2022.04.06)
- 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 7/7 改頁 唐書地理志談義(2022.03.22)
- 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 6/7 改頁 唐書地理志談義(2022.03.22)
- 倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 5/7 改頁 唐書地理志談義(2022.03.22)
「新・私の本棚」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 古田史学論集 25 正木裕 「邪馬台国」が行方不明になった理由(2022.04.24)
- 新・私の本棚 古田史学論集 25 谷本茂 「鴻廬寺掌客・裴世清=隋煬帝の遣使」説の妥当性について(2022.04.20)
- 新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 2/2(2022.04.11)
- 新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 1/2(2022.04.11)
コメント
« 新・私の本棚 中島 信文 「古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」1/3 | トップページ | 新・私の本棚 中島 信文 「古代中国漢字が解く日本古代史の虚偽と真実」3/3 »
N.Nさん
ご案内ありがとうございます。
さて、ご指摘の点ですが、貴兄の見識に照らして根拠不明と理解し、確かに、ここに言い立てるのは不適当と言うことで、取り急ぎ撤回いたしました。なお、この点は、当記事の論旨展開上不可欠なものでもないので、他の点に補足して、記事としてのバランスを取るだけに留めました。
なお、洛東江、漢江の河川名が、後代のものではないか、と言うご指摘自体は克服できませんが、かといって、(西漢)漢代以来魏晋代に至る楽浪・帯方郡の河川交通統制が洛東江に及んでいたかどうか不明であり、洛東江が「水」で呼ばれいたかどうかも含めて、当方の努力の及ぶ範囲では確認できないという意味で「根拠不明」としたことは、ご理解いただきたくお願いします。ともあれ、論考で論拠として取り上げて良い客観的な根拠でないことは確かなので、撤回した次第です。
以上
>
>この度は、拙書をお読みくださり批評をいただきありがとうございます。二日ほど前に、シリーズ二、「陳寿『三国史」が語る知られざる驚愕の古代日本」が出版されました。アマゾンのオンデマンドで、アマゾンからしか購入できませんが、よろしければ一読をください。
>
> 一つ疑問ですので、述べておきますが、
>半島に「水」なしで 官制の「水行」、河水、江水、余水(その他河川)ですが、郡管内の「漢江」、「洛東江」は、江であって水でなく、「水行」しようがないのです。
>
> とありますが、誤解だと思いますが、「漢江」、「洛東江」という名称は後代のもので、二、三世紀ころの古代朝鮮半島の河川については『漢書』地理志などでも理解できるように列水などと古代中国資料では記述されております。基本で基礎ですが、あくまでも『三国志』は古代中国の史料ですので、この点はあなた様も述べており、留意されての論評になされたらよいと思いました。
投稿: ToYourDay | 2020年1月25日 (土) 13時06分
この度は、拙書をお読みくださり批評をいただきありがとうございます。二日ほど前に、シリーズ二、「陳寿『三国史」が語る知られざる驚愕の古代日本」が出版されました。アマゾンのオンデマンドで、アマゾンからしか購入できませんが、よろしければ一読をください。
一つ疑問ですので、述べておきますが、
半島に「水」なしで 官制の「水行」、河水、江水、余水(その他河川)ですが、郡管内の「漢江」、「洛東江」は、江であって水でなく、「水行」しようがないのです。
とありますが、誤解だと思いますが、「漢江」、「洛東江」という名称は後代のもので、二、三世紀ころの古代朝鮮半島の河川については『漢書』地理志などでも理解できるように列水などと古代中国資料では記述されております。基本で基礎ですが、あくまでも『三国志』は古代中国の史料ですので、この点はあなた様も述べており、留意されての論評になされたらよいと思いました。
投稿: N.N | 2020年1月24日 (金) 20時28分