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2020年2月

2020年2月18日 (火)

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 2 概論 4/4

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/18

●「大乱」考
 悪路を克服する健児も、一日五十里二十㌔㍍強の行軍が精々で、仮に一千里四百五十㌔㍍先と想定したとしても、そのような遠征先までの道中、食糧と当座の水と武器装備一式を背負って、延々二十日行軍しなければ到達しません。
 これに対するに、せいぜい手ぐすね引いて待ち構えた休養も食事も十分の現地軍ですから、そのような相手と命がけで交戦し、激戦の果てに勝とうが負けようが、何日か先には食糧も体力も尽きて、またもや延々二十日間かける帰還の途に就くことにならざるを得ないのです。
 帰還といっても、凱旋どころでなく、今度は敵地からの出発で食料も水も覚束ない状態であり、激闘で疲れた体に鞭打って、はるばると帰還するのは、どんな兵士にとっても至難の極みです。一回の遠征でこの始末では、各国散在の天下で全土に及ぶ長年の戦続きで、数多い敵国に対して大遠征を連発する「大乱」は、どう考えても成り立たず、古式蒼然たる戯画でしょう。
 大敵に遠征先で必勝を期するには、猛将が率いた精鋭多数の出陣が必要ですが、その間、本国は無防備です。先ほどの例では、二ヵ月近く主力が遠征中不在では、留守を守る国王も不安そのものでしょう。
 それ以外にも、遠征軍が悪心を抱いて反転し、自国を攻めるという謀反への不安もあります。猛将に率いられた精鋭が敵では、絶望的な劣勢と言えます。

 いや、そのように危険満載の大遠征に成功して遠隔地を征服しても、戦利品として収穫物という重荷を抱えて遠路を還ることはできず、また、勝って敵を降伏させたとしても、多数の兵力を残すことなく、自領としての支配もできないでしょう。
 こうして見ると、往復二ヵ月かかるような地の果ての国と、本気で喧嘩して興亡を争うというのは、素晴らしい魔法の世界のように思えます。

*古代国家幻想
 余談はさて置き、倭の楽浪進貢は、片道二百四十日の長丁場で、年中行事のたびに参上はできないでしょう。それ以外、これほど主要国が遠隔では、古代「国家」が成り立たないのは明白でしょう。

 ということで、笵曄が書いた記事は、あまりにも辻褄が合わないので、(倭人伝以外の)同時代(後漢朝末期)の実際の状況を記録した史料に依拠した記事とは思えないのです。ことは、世界観のずれに起因する誤解から出発した「創作」と見えるのです。

〇先例紹介
 漢書西域伝の安息国条が史官の手本となる古典史書夷蕃伝記事でしょう。
安息國,[後漢(東漢) 班固 撰] 小題は、自作。
【王都】 [其]王治「番兜城」,    
【道里】 [其国]去長安萬一千六百里。
【服属】 [其国]不屬[西域]都護。
【四囲】 [其国]北與「康居」、東與「烏弋山離」、西與「條支」接。
【民俗】 [其]土地風氣,物類所有,民俗與「烏弋」、「罽賓」同。
【通貨】 亦以銀為錢,文獨為王面,幕為夫人面。[其]王死輒更鑄錢。
【特産】 有大馬爵。
【形勢】 其屬小大數百城,[其]地方數千里,最大國也。
【市糴】 [其国]臨媯水,商賈車船行旁國。
【文書】 [其国]書革,旁行為書記。
【遣使】 武帝始遣使至安息,[其]王令將將二萬騎迎於[其]東界。
【行過】 [其]東界去[其]王都數千里,行比至,過數十城,人民相屬。
【来観】 [其国]因發使隨漢使者來觀漢地,
【犁靬】 以大鳥卵及犁靬眩人獻於漢,天子大說[悦]。
【隣地】 安息東則大月氏。
 記事内容を論じているのではないので、当記事の大意は略します。

 史書なので自明事項は極力省略されますが、西方超大国「安息国」の(漢武帝時初見以来の交流で得られた)諸元が適確に表記されています。
 他の西域諸国記事も、その大小、漢との交流の多寡に応じて、記事の字数は大きく異なりますが、史書である以上、所定の要件、形式が守られていることが確認できます。

 後続史書は、この形式に習っているはずです。と言っても、後漢書倭伝は、伝としての要件を欠き、あとは、陳寿「魏志東夷伝」と末尾に補注の魚豢「魏略西戎伝」が、漢書を継ぐものなのです。

〇結論
*脚のないはなし 

 断言してしまうと、後漢書倭伝は、張りぼて細工で、内実のないものなのです。
 つまり、後漢初期の漠然たる二度の来貢談以外は、魚豢「魏略」東夷条、あるいは倭人条の盗用と見えるのです。いや、魏略の魏代記事を、魏代記事として参照、利用するなら、それは一つの記述方法ですが、何の断りも無く、魏略の魏代記事を後漢代記事として連ねているから「盗用」になるのです。

 范曄の編纂方針を案ずるに、倭人伝に付注されて継承されている魏略西戎伝の書きぶりが、後漢代記事に魏代記事を混在させる「漢魏一体」のものであることが、強い味方になったのでしょう。
 散逸して全文が残存してはいない魏略東夷伝も、西戎伝同様な「漢魏」一体の書きぶりであったとすると、魏略から倭の現地事情などの記述を採り入れて、換骨奪胎しても、史書の編纂過程で許される範囲と考えたものでしょうか。要は、時代考証の一見解としたのでしょう。
 いくら何でも、高名な魏国志(三国志魏志の別名)から記事を書き抜いてくるのは、さすがに許されるものではないと言うことだったのでしょう。

 范曄後漢書倭伝信奉の立場から、魚豢「魏略」盗用説の排除を図るとしたら、直面する難題は、後漢代二百餘年を通じ、かの二件以外一切倭との明確な交流記事がなかったのに、いつ、このような現地情報を得たのかということになります。
 困ったことに、倭事情は、後漢末期で遼東郡すら統御できていなかった時代の事情なのです。そして、後漢書倭伝記事の時代考証からも、後世の付注を含めた諸文献の考証からも、後漢書倭伝の依拠史料らしきものは、魏略の他に見当たらないのです。

 素人なりに最善を尽くして考察すると、「魏志倭人伝」は、魏略倭人条を有力史料とし、陳寿が入手し得た関連周辺史料とない交ぜた「創作」(オリジナル)史料だったのですから、史官としての見識をかけた著作だったのです。これに対して、范曄後漢書倭伝には、そのような史書としての創作性はないのです。

 日本の幽霊談義に絡めると、脚のある引用は許されても、脚のない引用は幽霊であり、お釈迦だという事です。

 こうして、後漢書倭伝の華麗な舞台の大半が、笵曄創作の書き割りと見ると、舞台に散在するのは、ただの残骸であり、范曄後漢書倭伝は、漢書、三国志と並ぶ史書と見てはならないとの結論です。

*范曄後漢書の再評価~真価の発掘
 ただし、笵曄後漢書は、史実を網羅した史書を目指したのでなく、史記に続く史談の名著を目指したのであり、後世の評価も、その点を最大の美点としているので、その特質を正しく捉えて、文筆家著作としての評価を行うよう見方を変えるべきと思います。

 いうまでもないことですが、以上は、あくまで浅学非才の素人考えであり、この結論に至るまでに辿った階梯が、読者に見えるように示したので、史実の取り違え等あれば、具体的に指摘いただければ幸いです。
                                以上

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 2 概論 3/4

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/18

●倭人伝流用考
 笵曄創作の倭人伝記事流用部は、魏朝明帝景初年間に、帯方郡を遼東の公孫氏専断から回収した時点とそれ以後の入手情報と見られるのです。
 例えば、帯方郡から倭王都の行程、途上各国の戸数、地勢、官人など身上調査情報は、明らかに景初以降のもので後漢朝に得られなかったのです。

 以下、国内小国名羅列も同様です。史上の交流事跡は以前から入手可能です。続く風俗記事は、博物知識の豊富なものの長期調査が必要で、景初以降と思われるが断定はできません。また、女王就職(王位就任)事情は、主として景初以降入手であり、後漢書に転用できないことは明白です。

●女王就職考
 笵曄は、まず、女王の就職を後漢霊帝期に遡らせ、続いて風俗情報も取り込み、後漢末期に倭情報が到来していたかの印象を醸し出しましたが、倭人伝を慎重に読めば、女王就職時は若年であって、景初時には、成人していたものの依然として若者であり、大して歳月を経てないとも読めるのです。

 となると、女王就職は、後漢の最後、曹操君臨の建安年間も末期かと思われます。もちろん、笵曄は、根拠となる記事は提示していないのですが、倭人伝が健在なので、粉飾は見えています。

●地理情報考
 地理情報は、朝鮮半島さらには倭地との交流が長く途絶していて、土地勘を有しない南朝劉宋の弱点が露呈しています。

 陳寿は、現地地勢を承知した上で、半島、海峡、離島と言った中原にない地勢を、それこそ、本当の「海」を見たことのない中原知識人に、漠然とでも理解させるために、倭人伝道里記事の叙述に工夫を凝らしましたが、笵曄は、なまじ、南遷後の東晋の高官として、本当の「海」を知っていたために、魏晋朝中原人の理解の仕方を解せず、誤解に誤解を重ねているのです。

●「韓の東南大海の中」考
 倭は韓の東南方、大海の中としていますが、陳寿は、倭人傳で、洛陽人に、「大海」は内陸の塩水湖、「海中」は「大海」沿岸の半島と誤解されるのを避けるために、倭人は「大海」の向こう岸の島に在り、そこ行くには、大河河水(黄河)を渡るように、狗邪韓国から渡船により、中州のように浮かぶ島を経て、三度に分けて渡海水行すると念入りに断りを入れているのです。

 笵曄は、狗邪韓国が岸辺と言っていないので、後漢史書語法で解釈され、倭は韓の南に地続きに在り、其の王都は、そこにある内陸塩水湖の半島にあるとも読めるのです。それはそれで明解な地理観ですが、倭人伝地理記事の真意を見損なった誤解なのです。

●道里考
 これに続くのは「里」の誤解です。陳寿が各国道里に用いた「里」は、帯方郡管内の街道の道里であり、狗邪韓国までの公式里程七千里を「原器」としているので、容易に(今日の七十五㍍程度と)検定できるとの魏晋朝洛陽人に自明の理に従っています。

 これに対して、建康に南遷して朝鮮半島から切り離された南朝劉宋の范曄と同時代人は、旧帯方郡の事情を知るすべがないので、倭人伝道里は、古来普遍の里、つまり、陳寿の用いた「原器」の六倍の四百五十㍍程度の「普通里」と理解したのです。

*倭都遠望
 郡から一万二千里の倭都は、五千四百㌔㍍(公里)程度の道里となり、七千里の拘邪韓国は、三千百㌔㍍(公里)程度の道里の遠隔の地となり、街道未整備と思われる倭地内は「荒地」であり、文書交信による国家体制の維持が困難な過疎状態と見えます。

                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 2 概論 2/4

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/18

*笵曄の使命感
 案ずるに、南朝劉宋高官である笵曄は、後漢天子が、むざむざと天下を喪った顛末を史書にまとめることによって、後世に垂訓しようとしたのであり、決して、後漢朝を賛美しようとしたのではありません。

 それ故、東夷伝に書かれている諸蕃は、洛陽の天子に服属せず、自己天下での天子を自負している尊大なものと描かれています。范曄には、中原文明の担い手の自負もあり、夷蛮蔑視の姿勢が窺われます。

 范曄後漢書東夷伝の解釈にあたって、編者である史官ならぬ文筆家笵曄の深意を承知しておく必要があります。

*笵曄の欠点
 以上、わかりきったことをことさら書き出したのは、後漢書笵曄の世界観の不具合が、後漢書編纂の諸処に露呈しているように見かけるからです。

 あるいは、范曄自身は、当時屈指の文化人であったから、そのような事情は弁えていたかも知れませんが、編纂記事には、そのような時代錯誤、地理錯誤を、そのまま読者に伝えないという練達の史官の手法が、適切に行使されていないと見えます。

*逐条審議
 時代錯誤と地理錯誤は、都度解明するとして、別稿の逐条審議に入ったのです。いや、史料を丁寧に読み解くのは、大変な労力を要するのです。

 その結果、倭伝は粗雑で、中でも枢要であるべき後漢朝記事は、大半が出典不明の風聞記事と見えることから、一後世人としては不審と見るのです。
 三史掉尾の後漢書の倭伝が、粗雑な著作なのは意外ですが、論議抜きに笵曄の直筆が賞揚される風潮は不適当と考え、是正の論考を測るものです。

●来貢考
 なぜか、倭伝末尾に追いやられている後漢早々の倭来貢記事は、本紀が根拠ですが、光武帝印綬下賜の倭奴王に関して、同国出自、王名、王都、漢朝服属、地理情報、戸数などの必須情報が欠け、「伝」たるべき要件を欠きます。

 安帝の時は、生口百六十人の献上を奏上と言いますが、生口が嘉納されたという記録はありません。当時の諸状況から、海峡の難所を越えた多数の生口の移動は大いに疑わしく、また、受け入れ側としても、文化未開の蛮人の大挙到来は、謝絶するものと思われるので、拒否されると思われることから、そのように勝手に敷衍された「史実」は、大いに疑わしいのです。(あり得ない虚構ということです)

 両事績ともに言えることとして、本紀に書かれている事績は実在したにしても、范曄が潤色している倭伝記事は、正確なものか大いに疑わしく、まして、更に、後世人が敷衍している解釈は、大いに疑わしいということです。

*印綬談義
 例えば、後漢朝の夷蕃に対する印綬下賜記事を点検された上で、むしろ、初回参上の際には、印綬の下賜は恒例に近いものであったとする考察があり、素人考えでは、次回参上時に持参し、街道各所の関所を通過する際に身分証明として提示する仕掛けに思われるのです。当然ながら、印材は、鉄製が主力で、精々、金、つまり、青銅製と思われるのです。

 関係者の方には嫌われるでしょうが、光武帝が漢朝再興を目指した大乱の果て、国力が底をついている時期に、一介の新参の東夷に、素材として大変貴重であるとともに、製作が至難な黄金の印を下賜したとは思えないので、率直にそのように書き記しておきます。黄金は融点が大変高温なので、青銅や鉄を溶かせる炉では、鋳型に注げるように溶かすことができないのです。

●断絶考
 夷蛮記事の欠落を思わせるように、来貢記事は二件の後途絶えていて、後漢末まで倭の来貢は明記されていなくて、また、諸般の状況から、後漢朝の見方として、楽浪郡の統御下とは言え韓国ですら治安不安定で仕切れていないのに、更に彼方の倭とは、長年にわたり交通途絶していたと見えるのです。いや、大国と言えども、後漢朝の東夷対応方針は、特に定まっていなかったので、倭のことは瑣末事として忘れられていたのでしょう。

 そのような背景から、伝を埋めるに必要な情報がないにかかわらず、粗雑な地理情報と共に、現地取材無しには書けない筈の貴重な風俗情報が、歴然と書かれているのは、根拠が不明であって、笵曄は、後漢書西域伝で、西域都護の残した現地情報すら、根拠不明の風聞と排除していると見られるので、首尾一貫せず大いに不審です。

●創作起源考
 以上重ね合わせると、范曄が確保していた後漢倭伝史料は、光武帝、安帝の本紀史料のみであり、他は、笵曄の創作で埋めたと思われるのです。
 素材無しの創作は不可能ですから、手元の資料を流用したと見えます。ただし、情報源として確実なのは、魚豢魏略倭記事、次いで、陳寿魏志倭人伝ですが、陳寿は史官の務めに従い、倭人伝編纂に際しては、大幅に唯一無二の史料魏略を引用したと思われるので、要点としては、大差ない記事であったと見て、以下の論議を進めます。

 世上、この推定が気に入らない論者は、それ以外に原史料があったに違いないと断じていますが、長きに亘って東夷との交流がなかったにも拘わらず、東夷から詳しい現地情報が得られていたとするのは、推定と言うより、根拠のない想定であり、范曄同様に創作の道をたどっているものと見えます。
                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 2 概論 1/4

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/18

〇総評
 本著は、時に「倭伝」と通称されますが、「伝」の要件を満たしていないからと言って「条」と呼ぶのも切ないので「小伝」かと愚考しますが、取り敢えず通称に従います。

*伝談義
 伝の要件として、冒頭に、その対象の由来、出自を、前世史書を引いて明記し、次いで、「国」の場合、君主、最寄りの郡、ここでは楽浪郡に対する服属の有無、服属の場合は、郡への道里、戸数、口数、城数を明記します。次いで、本紀記載の事歴が書かれ、最終的に、以後蛮夷の貢献が続いているか関係が絶えたかなどが書かれて締めくくるのです。

 先賢には、魏志倭人伝を「条」と揶揄する向きがありますが、以上要件をほぼ備えているから的外れと見ますが、後漢書倭伝は要件の大半を欠き伝と呼べないはずです。

 参考まで、末尾に漢書西域伝安息国伝を紹介しています。

〇序説
 倭伝は、五世紀劉宋范曄の畢生の労作です。西晋都洛陽陥落時、歴年の遺蔵文書喪失により、笵曄は原典を参照できなかったものの、原典を参照して書かれたと見られる諸後漢書を通じ、間接的に後漢朝記録を参照したので、本文部は大過なく編纂できたのです。

 当方は、全後漢書精読はこれまで敬遠し、今後も遠慮するので、以上は、巷間世評によります。本文記事批判の意図はないので、論じません。

*史官の務めの再確認
 まず、考えつくのが、史官は、歴史について格別の見識を有するものとの見解です。多くの場合、史官は父子相伝であり、史官となるべき少年は、幼い頃から、厖大な古典の講読を課せられ、そこに記された言葉から想起される事象を、当代の言葉に置き換えることなく、時代のまま解する訓練を受けていると見られます。つまり、生き字引の訓練です。一度、資料に向かうと、史官の思考は、時代の世界観、時代観と地理観に満たされるのです。

*素人史家の錯誤
 これに対して、史官の訓練を受けてない素人史家は、自身の育った当代の世界観、時代観と地理観のまま、資料の用語を解釈しようとします。

 その際に、公知の「辞書」を参照すれば゜大きく時代の世界観を失することはないはずですが、時代と当代の間に変動があって適確な文化継承が維持されていないと、誤解が幅をきかすことになります。そのような誤解を大別すると、時代錯誤と地理錯誤となります。

*天下のかたち
 時代錯誤の一因が、(中原)天下です。殷周秦漢と継続した天下推移で、建前上は、天下は、華夏文明の担い手として天下を維持していたのです。

 ところが、漢朝、つまり、後漢霊帝末期、天下は分裂して、大乱に到り、後漢朝の威令は形骸化したのです。魏武曹操が復元に努めたものの、遂に、天下統一はならず、大乱は大乱のままで、魏朝に移行したのです。

 魏朝重臣の司馬氏は、曹氏天下を奪い、蜀、呉は滅して、天下統一が成ったのですが、その後、忽ち天下大乱となり北方の蛮人に天下を奪われたのです。ということで、歴代南朝諸国は、天下を喪っていたと見ることができます。

                                未完

2020年2月17日 (月)

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 6/6

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/17

【侍婢】
侍婢千人,少有見者,唯有男子一人給飲食,傳辭語。居處宮室樓觀城柵,皆持兵守衛。法俗嚴峻。
大意:侍婢千人。接見は少なく、男子一名が飲食を供し言辞を伝えた。宮室に居し、楼観城柵があり、みな武器を持ち守衛した。法俗厳峻であった。

*時代観
 倭の政治機構、官僚体系に関して適確な報告がされていません。全権大使たる「大夫」の位置づけが示されていません。郡の監督不行き届きです。

 女王に奉仕する大勢の「侍婢」が不明です。「見る者少なし」では臣下奏上を裁可する国王責務が成されないので、漢朝の信頼を危うくします。倭国の堅実さ、漢への忠誠を伝える字句を集積せずに冗語連発で逆効果です。

 蛮夷の様を揶揄しているのでしょうか。

【自女】拘奴國条
自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。
大意:女王国から東渡海一千里拘奴国に至る。皆倭種なるも女王に属しない。

*時代観
 「女王国」の意味が不明です。後漢代を通じて女王が統治していたわけではないのだから「其国」とすべきでしょう。

*地理観
 忽然と渡海とありますが、中原の渡河同様、大河をさっさと渡り街道を行くのでしょうか。何しろ、一千里渡海は、一日五十里として二十日を要する前代未聞の途方もない「渡海」なのです。それでは、根拠不明のホラ話でしょう。
 「倭奴国」を南の果てとしたため、東に渡海して、別の島に移るしか女王[国]に属さない国の置き場所がなかったのでしょうか。なんとも、不可解です。

 王都から、西北界拘邪韓国まで五千里の勘定に比較すると、拘奴国は わずか一千里にある近傍国扱いです。見方によっては、極南界の倭奴国より国都に近いと見えるのです。

 倭奴国と似た国名は、同格の意味でしょうか。拘邪、拘奴と「狗」(食用犬)を避けているのは、笵曄の嗜好によるのでしょうか。

 高度に政治的な曲筆ではないでしょうが、こうして見て取れるように、筆が随分泳いでいるのは、史官としての適性を欠いているものです。

 倭伝において三十国の女王への属・不属が書かれていないのに、此の国が、特段に女王に不属という記事にどんな意義があるのか不明です。

【自女】朱儒國条
自女王國南四千餘里至朱儒國,人長三四尺。自朱儒東南行船一年,至裸國、黑齒國,使驛所傳,極於此矣。
大意:女王国から南四千里で朱儒国に至る。人長三,四尺である。朱儒から東南に船で行くと一年で裸国、黒歯国に至る。使驛所伝の限界である。

*地理観
 南の果ての「倭奴国」が、実は「矮奴国」であって、こびとの国というしゃれなのでしょうか。意義不明です。邪馬臺国から見て、北方に五千里で狗邪韓国、南方に四千里で朱儒国とは、まことに漠たる倭人世界観です。

〇まとめ
 以上の逐条審議は、後漢書の三史としての位置づけを重視したものであり、意図して、魏志の後漢朝時期の部分を流用したとの視点を避けています。その上で、倭伝記事は、正当な根拠を有しない推測、創作と断じています。

 そのように審議したのは、後世史家が、まず、後漢書によって時代認識、地理認識を形成し、その認識を前提として魏志を批判する手順を辿っていることを意識したものです。言い換えるなら、後漢書倭伝が、適切な資料批判を受けないままに、追従されている風聞風潮を批判したものです。
                                以上

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 5/6

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/17

【建武】
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。
[本紀]光武帝紀曰:建武中元二年(57)春正月,東夷倭奴國王遣使奉獻。
大意:後漢光武帝の建武中元二年、倭奴国が奉貢朝賀した。使人は大夫と自称した。倭奴国は倭国の極南界という。光武帝は印綬を下賜した。

*時代観
 本紀は、東夷「倭奴国」です。印綬下賜に渡る記事の裏付けが見られません。正月朝賀と言うから、年始の挨拶に参上したものでしょう。
 倭奴国は、邪馬臺國の更に南と見ます。光武帝は印綬下賜したものの以後交信がありません。二十年一貢を課したはずですが、再訪不明に過ぎません。
 漢代、「大夫」は、「庶民」の位置付けであり、貴人どころか下級官人ですらないので、ここは、倭人の無知を揶揄していると見えます。

【安帝】
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
[本紀]孝安帝紀曰:永初元年(107)冬十月,倭國遣使奉獻。
大意:安帝永初元年、倭国王帥升等が生口百六十人を献じ、拝謁を願った。

*時代観
 本紀は、五十年を経た遣使です。倭伝は生口百六十人の献を申請したとしますが、大集団の洛陽参上は書いていません。なぜ、書いたか不審です。
 少し考えれば分かりますが、文字を知らず、言葉の一切通じない百六十人の生口は、受け入れ不可能であり、言下に拒絶したはずです。光武帝に奴隷解放勅命があり、当貢献は違勅で、倭使の無知を揶揄していると見えます。

【桓霊】
桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。
大意:後漢桓帝、霊帝の期間、倭国は全国が内乱の攻防に包まれ、その間、国王が定まらなかったという。

*時代観
 「倭国大乱」は、夷蕃王が天子として天下を治めた前提であり、後漢朝史書として、漢朝天子に不敬です。数千里に散在しての内戦も不審です。
 桓霊間は、韓騒乱、漢朝乱脈で、交信が断絶し、献帝期は、遼東公孫氏が東夷の交通を壟断したから、当字句は根拠不明で范曄創作の可能性濃厚です。

【有一】
有一女子名曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑眾,於是共立為王。
大意:一人の女子が有った。名を卑弥呼という。年長で嫁がず、鬼神道に事えて、衆を妖惑した。ここに、共立して王とした。

*時代観
 出自不明の王の共立は、冒頭の説明で漢朝が重んじる王統の断絶です。女王が蛮習である上に、年長非婚では王位継承に不安があるから、かかる承継が遼東に報告されても、洛陽には報告されないものです。
 公孫氏が遼東郡志を書いていたとしても、曹魏明帝景初の討伐により関係者皆伐、史料絶滅と思われ、後漢代記事の根拠が不明です。
                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 4/6

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/17

●倭伝復帰
 番外の倭人伝をどけて、後漢書考証に戻ると、[今]が省略されて不用意ですが、延々二世紀に及ぶ後漢代の中でも、遼東郡太守公孫氏の支配期であり、それも帯方郡分郡以前なのでしょうか。分郡時、帯方郡領域は荒地とされ、後漢代早期に、街道整備され道里計測されていたとは思えません。

 残る五千里は、一切不明です。全体として、根拠不明です。

【其地】
其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。
大意:其の地、すなわち、倭の王都は、会稽東冶の東に中るようである。朱崖、儋耳と近いので、倭の法俗は同じ点が多いようである。

*地理観
 「其地」とは、倭の王都なのか、倭の全土なのか不明です。王都まで拘邪韓国から五千里程度であり、邪馬台国が南限としても、倭地は南北五千里に広がっていたと見えます。いくら、「大較」でも随分いい加減です。
 東冶が、朱崖、儋耳と近いと言いますが、これも随分いい加減です。

 会稽東冶の地は、後漢時代の洛陽視点から見ますと、遠隔不通、公道を設定できない難路の果てですから、後漢公文書で参照するのは無法です。笵曄は、会稽付近の出生であり、長く、建康で官人として過ごしたから、東冶を、ちょっとした田舎と感じたでしょうが、時代錯誤、地理錯誤です。

 朱崖、儋耳は、地理だけ言うと、東冶の更に南方ですが、却って、内陸交通の便がよく、風俗、地理が知られていた可能性が高いです。

 この二条の記事は、史官として不熟の劉宋文筆家の感想であって、後漢書記事として不適当です。

【土宜】
土宜禾稻、麻紵、蠶桑,知織績為縑布。出白珠、青玉。其山有丹土。氣溫鹏,冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲。其兵有矛、楯、木弓,竹矢或以骨為鏃。男子皆黥面文身,以其文左右大小別尊卑之差。其男衣皆橫幅結束相連。女人被髮屈紒,衣如單被,貫頭而著之;並以丹朱坋身,如中國之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處,唯會同男女無別。飲食以手,而用籩豆。俗皆徒跣,以蹲踞為恭敬。人性嗜酒。多壽考,至百餘歲者甚眾。國多女子,大人皆有四五妻,其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊,少爭訟。犯法者沒其妻子,重者滅其門族。其死停喪十餘日,家人哭泣,不進酒食,而等類就歌舞為樂。灼骨以卜,用決吉凶。行來度海,令一人不櫛沐,不食肉,不近婦人,名曰「持衰」。若在塗吉利,則雇以財物;如病疾遭害,以為持衰不謹,便共殺之。
大意:省略
 逐条というものの明細批判はしません。
 このように詳細な風俗記事は、博識の漢人が長期現地探査しなければ得られません。漢の使節が百人に及ぶ大所帯なのは、一つには現地事情を精確に収集するためですが、そのような後漢使節団が東夷の倭に派遣されたという記録は絶無です。

 よって、現地の物知りが書き送った、と言い逃れするしかありませんが、そもそも、鄙にまれな博物学者は、都合よくいるはずがありません。

 といって、文献を取り寄せて学習しようにも、汗牛充棟であり、到底、絶遠の地に輸送できないのです。
                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 3/6

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/17

【其大】
[今]其大倭王居邪馬臺國。
大意:今、倭の大倭王は、邪馬台国に居するという。

*時代観
 さすがに後漢代の記事と見ます。それにしても、蛮夷の王を、天子を差し置いて、「大倭王」と至高の尊称で呼ぶのは無法です。後出しの交流事跡には倭[奴]国しかありません。諸国盟主の意とするのは、意味不明です。
 漢に「邪馬臺国」国号に意味はなく、唐突な自称と見えますが、小国、つまり、倭の三十国との関係が不明では、記事として不合理です。
 魏略西戎伝によれば、遙か西方に「大秦」と呼ばれた国が存在したようですが、西方の「無法」な国号を東夷に敷衍したとしても意図が不明です。
 それとも、「今」を補ったのが勘違いで、笵曄は劉宋視点で書いたのでしょうか。つまり、劉宋時に大倭が存在したのでしょうか。誠に不可解です。

【楽浪】
樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。
大意:楽浪郡の徼は、其の国、邪馬臺国を去ること一万二千里。其の国の西北界である拘邪韓國を去ること七千里程度である。

*地理観
 其國とは、書いたばかりの邪馬臺國王の居処、居城でしょうが、楽浪郡界までの道里が一万二千里とする根拠が不明で、明らかに実測ではありません。

 冒頭記事では、倭は、韓の東南とされていて、楽浪郡との関係には触れていません。倭都は、楽浪郡治の東南に在ると見るべきなのでしょうか。

●絶遠一万二千里
 なお、この一万二千里は、当然「普通里」であり、絶遠一万二千里は、一日五十里行くとして、二百四十日、八ヵ月を要する道里であり、茫漠として地理情報になりません。郡が洛陽に紹介する際の義務が果たせていません。

 次に、初出の拘邪韓国までの道里七千里が表明されていますが、この区間だけで、百四十日、五ヵ月近くを要します。其国共々、絶遠です。

 拘邪韓国は倭の領域で郡管轄外ですが、そこに到るまでの大半の行程は、帯方郡管轄下であって、もはや荒地ではなく、街道制をしいた筈であるから、行程を明記する責任があるように見えます。(魏志韓伝には、弁辰の鉄を両郡に運んだと伝えられているが、後漢書に漏れている)

 先立つ三韓記事では、同様に「普通里」で「地合方四千餘里」としています。倭記事の全道里には「餘」がないのできっちり里数と読めます。史官なら、記法を首尾一貫させるはずです。

 正体不明の拘邪韓国は、其国の西北国境、つまり、其国と地続きと見てとれますが、正体不明の「国」までの韓地道里を七千里とする根拠は不明です。或いは、范曄は、朝鮮半島が遙か南に延伸していると見ているかも知れません。繰り返しますが、韓地内行程は不明です。

●倭人伝参照
 ここで、本考察では場外の倭人伝を、この場限りの参考例として想起すると、まず、先立つ辰韓記事で郡管轄下と明記した既知の「狗邪韓国」まで街道道里で七千余里として地域独特の「里」を確立し、全区間一万二千「里」の提起は後ほどですから、それぞれ地域独特の「里」と想定した上で妥当な位置に比定できる点が、当然とは言え用意周到で着実であるのと大いに異なります。つまり、倭人伝の狗邪韓国は、帯方郡と頻繁に文書連絡し、歳事に応じて国使が到来する程度の手近さなのです。
                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 2/6

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/17

●黄海渡海談義
 因みに、漢書に詳解されている武帝の朝鮮征覇は、山東半島から黄海を渡って朝鮮王都を攻撃した渡海部隊が書かれていて、当時、この経路が航行容易で、大船を造船して、大軍の輸送に動員することができたと思われます。この間は、精々二、三日の行程であり、特に難所ではないことから、大船というものの、当時市糴に採用されていた帆走船舶で対応できたと思われますので、周辺に、造船所があったはずであり、新規の設計は不要であったことから、皇帝の号令一下、短期間で造船できたとみるのです。また、市糴で便船が往来していたということは、新規造船にも、海域に通じた船員が起用できたということです。

 後漢代の航行記録が乏しいのですが、山東半島の青州東莱から帯方郡治が置かれたと思われる海陸両行程に適した漢城(ソウル)付近に到着し、後漢書にことさら示された馬韓伯済国(後、つまり、劉宋時の百済)に通じる海上交易が盛んであったと思われます。
 但し、西晋が滅び、中原が北方民族の支配下に墜ちたとき、そのような交易は低迷した可能性があります。
 なお、その際、洛陽有司が百済に亡命し、新興国家の体制構築に大いに貢献したと伝えられています。

●冒頭条解釈
 本条を、当代刊本の句読点に従い読むと、韓の東南の大海と進みそうですが、冒頭句の要件は、「倭」の所在を明らかにするので、韓の東南と読まねばなりません。独断で「倭」主語の後に四字句連続としました。

 ただし、「韓」つまり三韓全体の国主の所在が不明確なので、東南方向という起点が不明です。何とも、不用意であり、史官の筆致であれば、後漢朝を通じ存在した楽浪の東南とすべきです。

●大海談義
 魏略西戎伝に延々と収録されている後漢朝西域記事で、「大海」は西域でしばしば見られる内陸塩水湖であり、まして、長安帝都時代には、現代で言う「海」の認識は薄かったでしょう。語彙は、時代だけでなく、地域でも、大きく異なるのです。

 武帝以前、西域の入り口にあたる楼蘭付近の蒲昌海(ロブノール)が西海、大海とされていたかと思われますが、漢使安息国到達後は、裏海が西海となり、其の海西に条支があると、西方に拡張された可能性もあります。時代地理観です。

●山島談義
 続いて「海中山島」と言いますが、古代語彙では、「海中」はも必ずしも、海に浮かんだという意味でなく、従って、離島という確証はありません。編者の意図は、後世で言う朝鮮半島に連なる半島かも知れず、海中は入り江に挟まれた丘陵かも知れません。後続記事でも地理情報は不明確なままです。
 但し、笵曄は、魚豢西戎伝の地理記事、道里記事を理解できなかったようですから、本前の劉宋地理観で捉えていて、朝鮮半島の南の離島と見ていたのかも知れませんが、笵曄の地理観と後漢時代との地理観の相違が解き明かされていないので、わからないことは、いくら考えてもわかりません。

【自武】
自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。
大意:武帝が朝鮮を滅して以来、使驛の漢に通じるものは、三十国程度である。国はみな王と称し、代々継承しているという。

*時代観
 本条は、漢武帝以降、漢代の状況であり、後漢書の時代外と読めます。国みな王を称したとしますが、以降、後漢末の建安年間まで、およそ二百五十年にわたる長大な期間の何れかの時に、合わせて三十国が長安ないし洛陽に参詣した際の申告を集計して、代々国王が継承していますと申告したとしても、それは、何か意味のあることでしょうか。
 武帝は、朝鮮討伐後、四郡をおいたとしていますが、後世、帯方郡が置かれたとき、その領域は未整備の荒地だったとされています。帯方郡すらない時代、どのようにして。海峡の彼方から、使節を迎えていたのでしょうか。漢代の帝都は、遙か西方の長安なのです。

 笵曄は、魏朝に接収された帯方郡の事情を述べているのでしょうか。それにしても、それは、後漢時代ではなく魏時代なので、後漢書の圏外です。と言って、公孫氏健在の時代、東夷の貢献は遼東郡止まりだったのです。そして、公孫氏時代の記録は、司馬懿の討伐の際に廃棄されていて、不明なのです。どういう経緯で、笵曄の手にこのような情報が届いたのでしょうか。わからないことだらけです。

 そして、倭人伝の説くところでは、王統が継承されていたのは、ほんの数カ国に留まっているのです。名のみ記載の小国が、悉く王制を維持していたとする根拠は何なのでしょうか。それとも、倭人伝は、陳寿の曲筆の産物で、笵曄の記事の方が正しいのでしょうか。
 
                                未完

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 1/6

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/17

〇逐条審議ということ
 当記事は、後漢書倭伝記事批判において、まずは、正史の中核三史の掉尾を為す後漢書との視点から、手早く審議していくものです。

【倭在】 以下、参照の便に供するために冒頭二字を条題としています。
倭在韓東南、大海中依、山島為居,凡百餘國。
大意:倭は、韓の東南に在る。大海中に依り、山島居を為す。百国程度ある。

*時代観
 韓伝に続いて後漢朝末期の「現状」と思われます。歴史背景と地理情報で説き起こす韓伝と異なり、唐突で根拠不明です。

 漢書に至る先行史書には「倭」伝、ないし、条が登場していないから、ここが初出の詳解であり、この書き出しは史書条として唐突の感を免れません。

 朝鮮半島に韓が成立したのは、漢武の楽浪郡設置後であり、断り無く時代が前後しているのは不用意です。と言うものの韓伝には、武帝の朝鮮討伐の故事はなく、依然として説明不足です。

*地理観
●韓地地理情報
 脇道ですが、韓伝地理観は、その時点の形勢を整然明解としています。

 三韓同居の韓地は、地勢で東西二分され、西方は、馬韓が占め、北方は楽浪郡と接し、南方は倭と接します。東方は、辰韓があり北方は濊と接します。すなわち、楽浪郡は、韓地北方の西方のみであり、東方には濊が在ります。これは、半島中央部の東方寄りに山塊がある地理を反映しています。

 三韓最後の弁辰は、辰韓の南方であり、その南方で倭と接します。すなわち、倭は、韓地の南方にあって弁辰と接しています。

 以上は、笵曄の理解であり、誠に単純明快です。また、韓地は東西「海」と明解です。南の「倭」が、何者でどのような地理にあるか、韓伝に書かれていません。書かれていないことに先入観は禁物です。
 ただし、特に倭の事情を書いていない以上、この倭は、直後の「倭」であるから倭として一体で地続きと解するのが順当です。つまり、笵曄は、そのように読者が解するように書いているのです。

●漢書地理志談義
 漢書地理志の「倭」関連は燕地記事ですが、「樂浪海中有倭人,分為百餘國」とあり、「倭人」は、樂浪海、すなわち楽浪西の黄海を隔てた山東半島方面とも読めます。
 当記事は、西漢、つまり、長安帝都時の土地勘がない帝室史官が書いたため不明確になったと思えます。当記事では倭人への道は方向不明です。

 最後に、唐代顔師古の付注(641年(貞観15年))で「師古曰 今猶有倭國 魏略云 倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種」
 今、つまり、唐代に倭国はあるとした後に、魏略により「倭在帯方東南大海中..」と書いています。顔師古注は後世ですが、魏略自体は、魏志とほぼ同時代の編纂なので、笵曄の知識となっていたも思われます。「倭国」と称したのは、東晋以降のようですが、范曄が倭をどう呼んだかは不確かです。

 まずは、漢書編者の手元に「倭」の所在、素性を示す地理情報がなかったと見えます。先に書いたように、次項で武帝の朝鮮征覇が書かれていますから、時代が前後しますが、楽浪郡創設前、長安が倭人の詳細な情報を得ていたとは思えません。情報源は蛮夷の上申ですが、燕の地方官の手元に倭人情報は届いていなかったのでしょう。
                                未完

2020年2月16日 (日)

新・私の本棚 秦 政明「三国志」里程論 市民の古代第15集 2/2

「三国志」における短里・長里混在の論理性

*「受命改制」の政治思想
 ここで、秦氏は、里制は、国家制度の一部であり、「受命改制」の制詔に応じて、自動的に改変されたとしています。しかし、いずれの制詔記事を見ても、里長が(大幅に)改変された記事は見当たりません。

 里制は、拠点間の道里などの測定単位であるにとどまらず、土地所有制度で常に参照される面積単位である「畝」に連動していて、里を1/6に短縮すれば、土地台帳の全面書き換えが必要なのです。そして、台帳の1/6換算は、当時の計算手段で不可能です。いや、無理して、計算不能を脇に置いても、計算結果に小数端数が必然的に発生し、土地台帳書換は、国家として実施不能、亡国の失政ですが、そのような記録は一切ないのです。

 思うに、国家儀礼の変更は、専門家を動員し、国費を費消して実施できても、国家の基盤を成している土地制度改変は、国家制度に危殆を及ぼすこと無くしては不可能です。まして、狩りに全国の全土地の台帳記載を書き替えられたとしても、当該農地への課税は変えられないので、農民に対して、税率の説明が付かないのです。

 そして、国庫に対して、何の恩恵もないのです。

*秦制の考察
 秦始皇帝の制詔が例挙されますが、合理的な解釈では、それまで各国で異なっていた周制であったものを、秦の制度を厳格に敷衍するという宣言であり、貨幣制、度量衡も、秦制の徹底と見るべきです。秦が長年行ってきた諸制度を廃棄し、自身、「法令」を悉く書き替える難題になり不合理なのです。

 秦制を他国に敷衍したのであれば、自国内制度は維持するので、官員を割いて諸国に派遣し、厳格に徹底すれば良いのです。
 ただし、各国においては、旧来諸制度が撤廃され、官民もろとも多大な努力で秦制に適合する桎梏に喘ぎ、それ故に、二世皇帝の治下、諸国で大規模な反乱が相次いだと見られるのです。確かに、軍縮により多数の常備軍が撤廃されて、厖大な失業軍人を吸収するのに、寿稜造成という名の雇用創出政策しかなかったとしても、思うに、このような大規模な反乱は、土地制度の改変による増税に対する農民層の不満が、初因と思われるのです。

 それはさておき、全国的に土地制度改変が、大規模な反乱決起に到るということは、後代の諸統治者に知られていましたから、そのような「改制」は、なかったと見るべきです。

〇総評
 秦氏が多大な労力を投じた史料考察は、空を切っています。『「三国志」における短里・長里混在の論理性』は、早合点の誤解です。本来、地域短里は、全国里制、普通里がいかなるものか、一切主張していないのを見逃しているのです。地域短里は、魏志の特定部位で限定的に有効という意味での「地域」であり、地理的な概念を指しているのではないのです。そして、倭人伝道里の解明と言う「地域」内の議論に有効との端的な主張だけであり、これを論破することに、史学論としての意義はないのです。

〇まとめ
 以上、秦氏の論考が、古田氏の論説の短所を補強しようとしたため、大変無理なこじつけを行っていることの指摘です。
 本記事公刊以来、長い年月が経過していますが、魏晋朝短里説、と言うか、三国志統一里制説が収束していないのは誠に残念です。今や、氏は、「いまだに地域短里を一切認めない守旧派の専門家」とされているのではないかと危惧するのです。
                               以上

新・私の本棚 秦 政明「三国志」里程論 市民の古代第15集 1/2

「三国志」における短里・長里混在の論理性
 市民の古代研究会編 新泉社 1993年11月刊

 私の見立て ★★★★☆ 古田短里説の限界を示す   2020/02/16

□総評
 本論の掲載された冊子は、古田武彦氏の古代史論に啓発された諸兄が論考を寄せた好著であり、本号まで、氏の最新論説を巻頭に、適確な編集と相まって、赫々たる成果を世に送り出していたものと思います。

 本論は、古田氏提唱の魏晋朝短里説、「本説」の論証において、先行提唱されていた、安本美典氏を代表的な提唱者とされていた地域短里説の論破を図ったものであり、今日も確たる位置を占めているのです。

 結論として、当記事は、古田氏の本説に対する強い思い込みに影響され、史料解釈を外した強引な論考の「論理性」が破綻していると見られます。

〇序論展開
 氏は、本説の提唱経緯と反論論者との間で展開された論戦を復習していますが、当然ながら、用語、表現が撓んで論議の正確な理解を妨げています。

 まずは、「韓伝・倭人伝に見える短里」と仮説論証の視点を逸脱しています。また、「いまだに短里を一切認めない守旧派の専門家」を指弾、排除するのは不当と見えます。守旧派の意見は、里制は国家の制度の根幹であるから、倭人伝の里が魏制里より短く見えても、「短里」が公的に施行されていたとは言い切れないとの堅実な議論であり、氏の指摘は感情的で粗暴です。

 それはさておき、「地域的短里説」は、安本氏が支持したことから、広く知られ、また、妥当な説として、現に広く深く支持されているものです。

 本説は、古田氏が、安本氏の提言に触発され、倭人伝の道里、里程を解釈する上で必須の作業仮説と認めたことから出発しましたが、次第に、里程考察のための作業仮説の域を脱して、魏晋朝の国家体系に拘わる論議となっていて、素人目にも、本来の目的である里程論の解明という目的を踏みにじって、今日に到るも収拾困難な混沌を広げているように見えるものです。

 そして、安本氏も歎いたように、いち早く提示された明確な否定論に対して、古田氏は、いたずらに反発するだけで、遂に、冷静で客観的な理解を示すことができなかったのです。そして、その遺命により同説は保持されているのです。古田氏没後、古田氏の諸説は、不可侵な「レジェンド」と化し、後世の訂正の可能性を排除されていて、まことに勿体ないことです。

*地域的短里説への批判
 秦氏は、当然、古田氏の主張を堅持していて、古田氏の本末転倒と見える主張を裏付ける論法に本質的な批判を課することなく推し進めているのです。

 まず、「根本的批判」と称して、地域的短里施行を証する根拠が示されていないと断罪しますが、大きな勘違いを披瀝していて同意できません。

 倭人伝には、郡から狗邪まで七千里の「地域里」が明記されています。倭人伝には、郡から倭都への行程記事が収録され、それぞれ付された里数がどのような里長かとの質問に対して、地域里を予め示して整合を確保しているのです。「論理性」などと大げさに言うことではありません。

 字数からも意義からも、魏志全体に対して、倭人伝は取るに足りない瑣末と見られますから、全体里制を示すと見るのは本末転倒です。史官は、倭人伝里制と魏制の輻輳を懸念して地域里制を宣言していると見るべきです。
                                未完

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