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2020年2月18日 (火)

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 2 概論 4/4

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/18

●「大乱」考
 悪路を克服する健児も、一日五十里二十㌔㍍強の行軍が精々で、仮に一千里四百五十㌔㍍先と想定したとしても、そのような遠征先までの道中、食糧と当座の水と武器装備一式を背負って、延々二十日行軍しなければ到達しません。
 これに対するに、せいぜい手ぐすね引いて待ち構えた休養も食事も十分の現地軍ですから、そのような相手と命がけで交戦し、激戦の果てに勝とうが負けようが、何日か先には食糧も体力も尽きて、またもや延々二十日間かける帰還の途に就くことにならざるを得ないのです。
 帰還といっても、凱旋どころでなく、今度は敵地からの出発で食料も水も覚束ない状態であり、激闘で疲れた体に鞭打って、はるばると帰還するのは、どんな兵士にとっても至難の極みです。一回の遠征でこの始末では、各国散在の天下で全土に及ぶ長年の戦続きで、数多い敵国に対して大遠征を連発する「大乱」は、どう考えても成り立たず、古式蒼然たる戯画でしょう。
 大敵に遠征先で必勝を期するには、猛将が率いた精鋭多数の出陣が必要ですが、その間、本国は無防備です。先ほどの例では、二ヵ月近く主力が遠征中不在では、留守を守る国王も不安そのものでしょう。
 それ以外にも、遠征軍が悪心を抱いて反転し、自国を攻めるという謀反への不安もあります。猛将に率いられた精鋭が敵では、絶望的な劣勢と言えます。

 いや、そのように危険満載の大遠征に成功して遠隔地を征服しても、戦利品として収穫物という重荷を抱えて遠路を還ることはできず、また、勝って敵を降伏させたとしても、多数の兵力を残すことなく、自領としての支配もできないでしょう。
 こうして見ると、往復二ヵ月かかるような地の果ての国と、本気で喧嘩して興亡を争うというのは、素晴らしい魔法の世界のように思えます。

*古代国家幻想
 余談はさて置き、倭の楽浪進貢は、片道二百四十日の長丁場で、年中行事のたびに参上はできないでしょう。それ以外、これほど主要国が遠隔では、古代「国家」が成り立たないのは明白でしょう。

 ということで、笵曄が書いた記事は、あまりにも辻褄が合わないので、(倭人伝以外の)同時代(後漢朝末期)の実際の状況を記録した史料に依拠した記事とは思えないのです。ことは、世界観のずれに起因する誤解から出発した「創作」と見えるのです。

〇先例紹介
 漢書西域伝の安息国条が史官の手本となる古典史書夷蕃伝記事でしょう。
安息國,[後漢(東漢) 班固 撰] 小題は、自作。
【王都】 [其]王治「番兜城」,    
【道里】 [其国]去長安萬一千六百里。
【服属】 [其国]不屬[西域]都護。
【四囲】 [其国]北與「康居」、東與「烏弋山離」、西與「條支」接。
【民俗】 [其]土地風氣,物類所有,民俗與「烏弋」、「罽賓」同。
【通貨】 亦以銀為錢,文獨為王面,幕為夫人面。[其]王死輒更鑄錢。
【特産】 有大馬爵。
【形勢】 其屬小大數百城,[其]地方數千里,最大國也。
【市糴】 [其国]臨媯水,商賈車船行旁國。
【文書】 [其国]書革,旁行為書記。
【遣使】 武帝始遣使至安息,[其]王令將將二萬騎迎於[其]東界。
【行過】 [其]東界去[其]王都數千里,行比至,過數十城,人民相屬。
【来観】 [其国]因發使隨漢使者來觀漢地,
【犁靬】 以大鳥卵及犁靬眩人獻於漢,天子大說[悦]。
【隣地】 安息東則大月氏。
 記事内容を論じているのではないので、当記事の大意は略します。

 史書なので自明事項は極力省略されますが、西方超大国「安息国」の(漢武帝時初見以来の交流で得られた)諸元が適確に表記されています。
 他の西域諸国記事も、その大小、漢との交流の多寡に応じて、記事の字数は大きく異なりますが、史書である以上、所定の要件、形式が守られていることが確認できます。

 後続史書は、この形式に習っているはずです。と言っても、後漢書倭伝は、伝としての要件を欠き、あとは、陳寿「魏志東夷伝」と末尾に補注の魚豢「魏略西戎伝」が、漢書を継ぐものなのです。

〇結論
*脚のないはなし 

 断言してしまうと、後漢書倭伝は、張りぼて細工で、内実のないものなのです。
 つまり、後漢初期の漠然たる二度の来貢談以外は、魚豢「魏略」東夷条、あるいは倭人条の盗用と見えるのです。いや、魏略の魏代記事を、魏代記事として参照、利用するなら、それは一つの記述方法ですが、何の断りも無く、魏略の魏代記事を後漢代記事として連ねているから「盗用」になるのです。

 范曄の編纂方針を案ずるに、倭人伝に付注されて継承されている魏略西戎伝の書きぶりが、後漢代記事に魏代記事を混在させる「漢魏一体」のものであることが、強い味方になったのでしょう。
 散逸して全文が残存してはいない魏略東夷伝も、西戎伝同様な「漢魏」一体の書きぶりであったとすると、魏略から倭の現地事情などの記述を採り入れて、換骨奪胎しても、史書の編纂過程で許される範囲と考えたものでしょうか。要は、時代考証の一見解としたのでしょう。
 いくら何でも、高名な魏国志(三国志魏志の別名)から記事を書き抜いてくるのは、さすがに許されるものではないと言うことだったのでしょう。

 范曄後漢書倭伝信奉の立場から、魚豢「魏略」盗用説の排除を図るとしたら、直面する難題は、後漢代二百餘年を通じ、かの二件以外一切倭との明確な交流記事がなかったのに、いつ、このような現地情報を得たのかということになります。
 困ったことに、倭事情は、後漢末期で遼東郡すら統御できていなかった時代の事情なのです。そして、後漢書倭伝記事の時代考証からも、後世の付注を含めた諸文献の考証からも、後漢書倭伝の依拠史料らしきものは、魏略の他に見当たらないのです。

 素人なりに最善を尽くして考察すると、「魏志倭人伝」は、魏略倭人条を有力史料とし、陳寿が入手し得た関連周辺史料とない交ぜた「創作」(オリジナル)史料だったのですから、史官としての見識をかけた著作だったのです。これに対して、范曄後漢書倭伝には、そのような史書としての創作性はないのです。

 日本の幽霊談義に絡めると、脚のある引用は許されても、脚のない引用は幽霊であり、お釈迦だという事です。

 こうして、後漢書倭伝の華麗な舞台の大半が、笵曄創作の書き割りと見ると、舞台に散在するのは、ただの残骸であり、范曄後漢書倭伝は、漢書、三国志と並ぶ史書と見てはならないとの結論です。

*范曄後漢書の再評価~真価の発掘
 ただし、笵曄後漢書は、史実を網羅した史書を目指したのでなく、史記に続く史談の名著を目指したのであり、後世の評価も、その点を最大の美点としているので、その特質を正しく捉えて、文筆家著作としての評価を行うよう見方を変えるべきと思います。

 いうまでもないことですが、以上は、あくまで浅学非才の素人考えであり、この結論に至るまでに辿った階梯が、読者に見えるように示したので、史実の取り違え等あれば、具体的に指摘いただければ幸いです。
                                以上

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