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2020年2月17日 (月)

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 2/6

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/17

●黄海渡海談義
 因みに、漢書に詳解されている武帝の朝鮮征覇は、山東半島から黄海を渡って朝鮮王都を攻撃した渡海部隊が書かれていて、当時、この経路が航行容易で、大船を造船して、大軍の輸送に動員することができたと思われます。この間は、精々二、三日の行程であり、特に難所ではないことから、大船というものの、当時市糴に採用されていた帆走船舶で対応できたと思われますので、周辺に、造船所があったはずであり、新規の設計は不要であったことから、皇帝の号令一下、短期間で造船できたとみるのです。また、市糴で便船が往来していたということは、新規造船にも、海域に通じた船員が起用できたということです。

 後漢代の航行記録が乏しいのですが、山東半島の青州東莱から帯方郡治が置かれたと思われる海陸両行程に適した漢城(ソウル)付近に到着し、後漢書にことさら示された馬韓伯済国(後、つまり、劉宋時の百済)に通じる海上交易が盛んであったと思われます。
 但し、西晋が滅び、中原が北方民族の支配下に墜ちたとき、そのような交易は低迷した可能性があります。
 なお、その際、洛陽有司が百済に亡命し、新興国家の体制構築に大いに貢献したと伝えられています。

●冒頭条解釈
 本条を、当代刊本の句読点に従い読むと、韓の東南の大海と進みそうですが、冒頭句の要件は、「倭」の所在を明らかにするので、韓の東南と読まねばなりません。独断で「倭」主語の後に四字句連続としました。

 ただし、「韓」つまり三韓全体の国主の所在が不明確なので、東南方向という起点が不明です。何とも、不用意であり、史官の筆致であれば、後漢朝を通じ存在した楽浪の東南とすべきです。

●大海談義
 魏略西戎伝に延々と収録されている後漢朝西域記事で、「大海」は西域でしばしば見られる内陸塩水湖であり、まして、長安帝都時代には、現代で言う「海」の認識は薄かったでしょう。語彙は、時代だけでなく、地域でも、大きく異なるのです。

 武帝以前、西域の入り口にあたる楼蘭付近の蒲昌海(ロブノール)が西海、大海とされていたかと思われますが、漢使安息国到達後は、裏海が西海となり、其の海西に条支があると、西方に拡張された可能性もあります。時代地理観です。

●山島談義
 続いて「海中山島」と言いますが、古代語彙では、「海中」はも必ずしも、海に浮かんだという意味でなく、従って、離島という確証はありません。編者の意図は、後世で言う朝鮮半島に連なる半島かも知れず、海中は入り江に挟まれた丘陵かも知れません。後続記事でも地理情報は不明確なままです。
 但し、笵曄は、魚豢西戎伝の地理記事、道里記事を理解できなかったようですから、本前の劉宋地理観で捉えていて、朝鮮半島の南の離島と見ていたのかも知れませんが、笵曄の地理観と後漢時代との地理観の相違が解き明かされていないので、わからないことは、いくら考えてもわかりません。

【自武】
自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。
大意:武帝が朝鮮を滅して以来、使驛の漢に通じるものは、三十国程度である。国はみな王と称し、代々継承しているという。

*時代観
 本条は、漢武帝以降、漢代の状況であり、後漢書の時代外と読めます。国みな王を称したとしますが、以降、後漢末の建安年間まで、およそ二百五十年にわたる長大な期間の何れかの時に、合わせて三十国が長安ないし洛陽に参詣した際の申告を集計して、代々国王が継承していますと申告したとしても、それは、何か意味のあることでしょうか。
 武帝は、朝鮮討伐後、四郡をおいたとしていますが、後世、帯方郡が置かれたとき、その領域は未整備の荒地だったとされています。帯方郡すらない時代、どのようにして。海峡の彼方から、使節を迎えていたのでしょうか。漢代の帝都は、遙か西方の長安なのです。

 笵曄は、魏朝に接収された帯方郡の事情を述べているのでしょうか。それにしても、それは、後漢時代ではなく魏時代なので、後漢書の圏外です。と言って、公孫氏健在の時代、東夷の貢献は遼東郡止まりだったのです。そして、公孫氏時代の記録は、司馬懿の討伐の際に廃棄されていて、不明なのです。どういう経緯で、笵曄の手にこのような情報が届いたのでしょうか。わからないことだらけです。

 そして、倭人伝の説くところでは、王統が継承されていたのは、ほんの数カ国に留まっているのです。名のみ記載の小国が、悉く王制を維持していたとする根拠は何なのでしょうか。それとも、倭人伝は、陳寿の曲筆の産物で、笵曄の記事の方が正しいのでしょうか。
 
                                未完

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